初恋はいつ実る?

三矢由巳

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10 口づけ

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 左京様が江戸に帰着されたのは六月の末、梅雨の晴れ間のことだった。
 何の予告もない帰宅だったので、母上は私にメールする暇もなかったらしい。
 離れの戸を開けた途端に目に飛び込んだすっかり日焼けした左京様の笑顔に私は泣きそうになった。

「済まない」

 左京様の差し伸べた腕の中に私は飛び込んだ。はしたないことだと思う。でも、身体が勝手に動いてしまった。

「嬉しいよ。あなたに会えて」
「……私も……」

 うまく言葉にできなかった。生徒には自分の気持ちは言葉に表現しないと伝わらないといつも言っているのに。
 顔を上げると、あの凛々しいお顔が目の前にあった。
 と、その顔が近づいた。

「ん!?」

 唇に何かが触れた。柔らかいもの。目を見開いた私のすぐそばに左京様の目が見えた。
 ということは、これは口づけ……!
 思いがけない初めての口づけだった。顔合わせの時から祝言まで、私達は手も握らずにいた。口づけなど思いもよらないことだった。
 顔に全身の血がのぼってきたようで、私は何も考えることができなかった。
 すぐに唇は離れた。

「驚かせてしまったね」
「あんまり急で」

 だからと言って、これから口づけをすると言われてからするのも変な気がした。

「でもね、私達は夫婦なのだから、これからはこうやって口づけをするのです。慣れないだろうけれど、しばらくは我慢してください」

 こんな我慢ならいくらでもできると思う。会えない時間を我慢するよりずっとましだった。

「もう出張はないのですね」
「たぶん」

 わずかに左京様の目に不安の色が見えた。

「私は大丈夫です。七月になって夏休みになったら、母上と自動車教習所に行きます。寂しくなんかありません」
「寂しくさせて、御免」

 再び、左京様の唇が私の唇に触れた。その瞬間、左京様も寂しかったのだとわかった。
 私達はまるで時間が止まったかのように互いの唇を愛おしんだ。
 時間が動き出したのは、戸を叩く音がした時だった。

「旦那様、すぐ母屋に来てください」

 お手伝いのマキさんの声で私達はさっと身体を離した。





 母屋には和室もある。来客が洋間を見て驚かないようにと配慮して残したということだった。
 お茶を持って行くと客人は祝言で婚儀のお許しが出たことを告げた上司の方だった。祝言の際はお世話になりましてと礼を申し上げ和室を出てからしばらくすると、左京様がリビングに入って来た。客人はお帰りになったようだった。
 左京様の顔はひどく不機嫌に見えた。初めて見る表情だった。

「出張です」
「え? 今何て言ったの?」

 私よりも先に母上が反応した。

「出張です。欧州に」

 母上も私もしばし沈黙した。欧州? 何用あって欧州へ?

「来年、上様と御台所様が欧州を歴訪されるので、その下準備のためです。一人欠員が出たので急遽私が代わりをすることになったのです」
「それでは洋服を仕立てなければなりませんね」

 欧米は和服では不便だと聞いたことがある。
 けれど母上は別のことを考えていた。

「どうしてあなたが行かなくてはいけないの? 大学で英語を勉強したのはあなただけではないでしょう。それに上様の傍に仕えている方が行ったほうがいいのではないの?」

 左京様も困惑しているようだった。

「わかりません。でも、決められたことですから。他にも外国奉行所の方も数名同行しますから私だけではありません」
「せめて津由子さんを連れて行けないの? 御台所様についても御仕度が必要でしょ」
「仕事ですので。それに御台所様については大奥の御中臈様が下準備をされることになっています。妻女を連れて行くわけにはいかないのです」

 母上の不満はわかるけれど、決まったからには仕方ない。私はできるだけのことをしたいと思った。

「それでいつからでしょうか」
「洋服の仕立ては間に合わないと思います。明日の午前五時羽田発の民間機で出立します。空港には午前三時に集合するようにとのこと」

 私も母上も絶句した。一体何をどう準備すればいいのか。

「とりあえずパスポートと洗面道具と二日分の着替えと寝間着と手拭が二枚ほどあればいいかと。洋服と靴は学生時代に短期留学した時に誂えた物があります。スーツケースは納戸にあるはず」

 それから私達は大車輪で納戸から出したスーツケースに必要な物を詰め込んだ。
 その間に母上は私の実家や親戚の家に電話した。
 夕食の後片付けをしていると、兄と日本橋の伯父様がやって来た。
 兄は珍しく怒っていた。

「いくらなんでもひど過ぎる。一体誰が決めたんだ」

 伯父様は留守中のことは心配しないようにと左京様に言った。親しい財界の方が経営している警備保障会社に屋敷を警護させようとも言ってくれた。

「安心しなさい。身元のしっかりした免許皆伝の警備員を頼んでおく」

 警備会社は浪人を雇っていることが多いけれど、その会社では武芸に優れた旗本や御家人の次男や三男らを採用しているとのことだった。
 出立が早朝なので、夜のうちに水杯を酌み交わした。昔に比べたら海外への旅は増えたけれど、やはり水が違う場所に行くというのは特別なことだった。
 伯父様は何かあったらと欧州の知り合いの連絡先のリストを左京様に渡した。それをちらっと見た母上はまあと驚いていた。後で聞くと、欧州の大富豪の氏名がずらりと書かれていたらしい。彼らに伯父の名を出せば、普通の人が出入りできない場所にも入れるということだった。
 結局、他にも知り合いから電話が来たり名残を惜しんだりするうちに日付が変わり、出迎えのタクシーが来たので左京様はスーツケース一つ持って家を出て行かれた。
 あまりに慌ただしい再会だった。左京様との口づけが夢ではないかと思われてきた。けれど思い出すと唇に柔らかく温かい感触がよみがえってきた。夢ではないのだ。
 離れている間にこの感触を忘れてしまうのではないか。私は不安だった。





 今回は京都行きと違ってメールが頻繁に来た。それも写真付きだった。ロンドンの議事堂、バッキンガム宮殿の衛兵、タワーブリッジ……。なぜか横断歩道を同僚と四人で裃姿で歩いている写真があった。後で訊いたらそこで写真を撮影するのが習わしになっているらしい。他にも先々で撮影した写真が添付されていた。
 私は母上とそれを見て、欧州のことをあれこれ想像したものだった。母上はパリやミラノに行きたいと言った。服飾の流行の先端をいく都市だからということだった。
 ちょうど学校では社会科の時間に海外の地理について授業をしていたので、名所旧跡の写真を使った。フランスのヴェルサイユ宮殿の写真に目を輝かせる生徒たちに王妃マリー・アントワネットの話をした。華やかな舞踏会、工夫を凝らした髪型、プチトリアノンでの暮らし、そして悲劇的な最期。
 少々指導内容からは逸脱してしまったけれど海外の歴史や地理に少しでも興味を持ってもらえたらと思った。
 ただ生徒からフランスには浅右衛門のような人がいないのかと質問されたのには驚いた。

「ギロチンができる前にはいたけれど、皆が皆浅右衛門のように上手にできなかったから、誰でも執行できるようにギロチンが作られたの」

 果たしてこの説明でわかってくれただろうか。



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