初恋はいつ実る?

三矢由巳

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07 祝言

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 私達の祝言は料亭での顔合わせから一か月余り後に決まった。学校の春休み中である。
 場所は深川の料亭。
 左京様が現在住んでいるのは職場の独身者用の長屋アパートということだった。祝言後は自宅の離れに住むことになっているので、新居に置く嫁入り道具選びがすぐに始まった。
 左京様の自宅の母屋の内部は母上の好みに合わせて西洋風に改装されていたが、離れは私の家と同じような作りだった。顔合わせ一週間後に離れを案内されて少しほっとした。

「コンロがもし不便なようだったら母屋と同じIHヒーターにしますけれど」

 左京様の提案には驚いた。

「贅沢です。お風呂だって湯沸かし器があるし」
「独身寮のキッチンは火事を出さないようにとIHなんです。袖に火が着くと危ないですからね」

 お城勤めの方々は裃で当然その下は袖の広い着物だからガスの火が着いたらまずいのはわかる。

「あなたも和服の方が多いからIHにしたほうがいいかもしれない。それに子どもが生まれたらなおさら」

 子ども。私達の。想像するだけで私は何も言えなくなった。

「どうしようか。あなた次第だけど」
「はい。そうします」
「それじゃ決定。母屋の工事をした親方に頼みましょう」

 左京様はすぐに懐から携帯端末を出して電話を掛けた。





 仕事については母上が辞める必要はない、掃除洗濯等は通いのお手伝いさんがいるからと言われたし、私自身も担任をしている子どもたちが来年卒業するまでは見たかったので続けることにした。
 学校長に結婚後も仕事をしたいと相談すると驚かれた。夫になる人の許しを得ていると言うともっと驚かれた。それでも結婚妊娠を理由に辞職させるのは禁止されているので、来年度も続けられることになった。ただし、妊娠したら産休代理の教員の手配をしなければならないので早く教えて欲しいと言われた。
 そういったあれこれを夜に電話すると、左京様はそれじゃ私達の子どもは少し先延ばしになりますねと言った。申し訳ありませんと言うと謝ることはない、もしかしたら私の都合でということもあるかもしれないからと言う。

「都合?」
『長期出張がたまにあるんです』
「たまにってどのくらいの頻度ですか」
『全然ない年もあるし、一年に二回のこともある。平均すれば年一回くらいですね』

 それくらいならどうということはないと思った。私が子どもの頃、父が日光に出張に行ったけれど、その間特に困ったこともなかった。けれど私はその時、まだ出張のことをあまり深く考えてはいなかったのだと思う。





 祝言の日はよく晴れていた。天気予報では夜は雨になるということだったけれど、白無垢を着て家の門を出た私の頭上には澄んだ春の空が広がっていた。
 迎えの車に乗ろうとした時だった。

「先生、おめでとうございます」

 道路の向かい側には担任をしている組の生徒たちが並んでいた。それだけで目が潤んできた。
 四月から六年生になる少女たちは組長の由岐子ゆきこさんの合図で「花かげ」を歌い始めた。
 勤めは続けるので子どもたちと会えなくなるわけではないけれど、哀愁を帯びた歌詞に涙があふれてきた。
 生徒たちに一礼して私は車に乗り込んだ。
 料亭に着くと、大勢の人々が迎えてくれた。左京様の親族、とりわけ父方の伯父夫妻は一族を代表して父や兄夫妻を歓待した。左京様の母上は顔合わせの時とは違い、黒の留め袖を着ていた。耳には目立たないように小さなピアスをしていた。
 祝言は料亭内で一番広い座敷で行われた。最初に媒酌人の左京様の上司が婚儀の届け出の許しが下りたことを報告した。これがなければ正式な結婚にはならないのだ。これで私は左京様の妻になる。なんともいえぬ喜びが沸き上がった。
 続いて三々九度。手順を間違えぬようにと思う余りに手が震えた。ふと横を見ると左京様の顔も緊張していた。私がしっかりしなければと思い、どうにか滞りなく儀式を終えた。
 その後は親族や友人代表の短いけれど心のこもったスピーチが続いた。その後膳が運ばれた。
 顔合わせの時以上に贅を凝らした料理が並んでいた。恐らく左京様の伯父上の手配なのだろう。
 私はお色直しで座敷を出て控室に行った。そこで兄嫁が作ってくれたおにぎりを頂いた。そこへ当の兄嫁が入って来た。兄嫁は苦痛に顔を歪めて床に座り込んだ。顔には汗が浮かんでいた。
 付き添ってきた兄嫁の母の話では産気づいたようで、今救急車を呼んだということだった。予定より二週間ほど早かった。
 私は黒引き振袖を着付けながら、ハラハラしながら兄嫁を見ていたが、すぐに救急隊員がやって来て担架に乗せられて運ばれて行った。兄も付き添いで座敷を出て行った。
 座敷では皆酒が入って賑やかだった。左京様の前にも同輩の方が酒を注ぎに来ていた。その方との酒のやり取りが済むと、左京様は御義姉さんは大丈夫ですかと囁いた。私は救急車が来たので大丈夫ですと答えた。
 末席にいる父は心ここにあらずという顔だった。娘の祝言と初孫の誕生が一度に押し寄せてくれば平気でいられるわけではなかろう。
 一時間ほどして兄から今分娩室に入ったと連絡があった。





 お開きの後、出席していただいた方への挨拶を終え、控室で着替えた私は父と共に兄嫁の入院した産婦人科医院に向かった。左京様が兄夫妻のことを案じて行くようにと言ったのだった。
 医院に着くと、兄が待ち構えていた。さっき男児が生まれたと興奮した口ぶりだった。父は喜びの余り、兄を抱き締めた。父が兄に対してここまで感情を露わにするのはめったにないことだった。
 赤ん坊と兄嫁の無事な顔を見たところへ左京様が来たので、そのまま新居に向かった。
 母屋で母上に挨拶し、仏壇に手を合わせ、離れへ行こうとした時だった。左京様の携帯端末から着信音が聞こえた。
 御免と断って電話に出た左京様の顔色が少しだけ変わった。なんだか嫌な予感がした。
 通話を終えた左京様は私と母上に仏間に来て欲しいと言った。
 そこで正座をして聞かされたのは予想だにしないことだった。

「恐れ多くも上様が御不例ということで、召集がかかった」
「まさか。あんなにお元気だったのに」

 母上の言う通り、上様が病気でどうこうということは聞いたことがなかった。それにまだ六十代のはずである。昨日の夜のニュースでも参勤の諸大名に謁見なさっていた。

「今朝方、急にお倒れになったそうだ。今、城内病院の集中治療室に入っておられる」

 城内病院は上様やそのご家族だけでなく幕臣や大奥の方々、及びその家族も利用できる総合病院で、日本でも指折りの名医が揃っている。

「政務は西の丸の大納言様が代行されているが、上様に何かあれば不逞の輩が事を起こすやもしれぬ。これより幕臣は皆それぞれの職場で待機することとなった。当然のことだが、留守を預かる家族も不測の事態に備えておくようにとのこと」
「かしこまりました」

 母上はいつもの調子とは打って変わったような引き締まった顔だった。
 左京様は離れで裃に着替えるということで、私はその手伝いをした。夫婦らしいといえば夫婦らしいことであったが、少しだけ寂しかった。

「すまない」

 それだけ言って左京様は家を出た。
 しばらくして予報通り雨が降って来た。私は離れで帰りを待った。けれど戸を開ける音はなく雨の音だけしか聞こえなかった。


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