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天下激動

参 安政を越えて

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 嘉永三年(一八五〇年)十月、長岡英仙の死を境にしたかのように、歴史は大きく動き出した。
 同年十一月、近江彦根藩主を井伊直弼が継いだ。
 翌年の嘉永四年二月二日、薩摩藩では島津斉興が隠居し、島津斉彬が藩主となった。
 同年二月十日、失脚していた水野忠邦が死去する。
 嘉永五年三月、遠山景元、南町奉行を辞し隠居(安政二年二月二十九日死去)。
 あたかも江戸という舞台から過去の権力者らが退場し、幕末という新たな舞台の序章を彩る役者が登場するかのごとくであった。
 そんな中、月野家の人々も歴史の渦に巻き込まれてゆく。
 嘉永五年に佳穂は次女の鶴を生んだ。この年、下屋敷に蟄居していた分家の斉理が亡くなっている。
 その翌年六月三日、浦賀沖にペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊の黒船四隻が来航した。江戸中がその噂でもちきりとなった。
 慶温は以前にまして多忙な日々を送ることになる。
 また同じ月には十二代将軍徳川家慶が暑気あたりと思われる症状で亡くなっている。後を継いだのは病弱な家定であった。世継ぎの頃に二人の正室を相次いで亡くし子どものいない家定の後継者は定まらぬままであった。
 そんな世情の中、月野家に来客があった。
 旗本中濱万次郎である。土佐出身の漁師で、太平洋を漂流しアメリカの捕鯨船に救助され、アメリカで教育を受けたという経歴には佳穂は驚くばかりであった。
 彼を西洋風の夕餉でもてなす際には佳穂も同席した。彼の話には佳穂だけでなく慶温も驚くばかりであった。また、彼に英語の発音について教えを請うたのだった。
 また時には薩摩の殿様の使いも来ることがあった。
 西郷というその男は大柄で目がぎょろりとしていた。下級の藩士ということで、佳穂は正式に面会することはなかった。
 慶温の話によれば、使いとして藩主の書簡を持って来た際、たまたまシロの鳴き声を耳にし、こちらには賢い犬がおいでと聞き申すと言った。では連れてこようと言って中奥からシロを連れて来ると、西郷はこれはよかいんじゃとお国の言葉を口にし相好を崩した。シロも西郷が犬好きとわかったのか尾を振って喜んだと言う。
 帰りしなに、あの犬を連れて戻りたかと口にした後、慌ててこれは独り言なればと言って退出したとのことだった。
 佳穂はそれを聞き震え上がった。

「かの国では犬を食べるとか」
「それはない。狩り犬だと最初に言うておる。西郷は狩りをするのだろう」

 佳穂は後に西郷の名を聞く度に、失礼なことを言ってしまったとその時のことを思い出したものだった。





 安政二年(一八五五年)十月二日。この日江戸は午前中雨が降り、午後は曇という空模様であった。北寄りの風はさほど強くなかった。
 千代姫は十歳、松丸は八歳、吉丸は六歳、鶴姫は四つで、松丸以外は上屋敷の奥に住んでいた。世継ぎの松丸だけが中奥に父とともに起居していた。
 いつもは五つ時(午後八時頃)には子どもたちはそれぞれの部屋で休むことになっていた。が、この日は登美姫と夫である花尾播磨守と子ども二人が遊びに来ており、子どもたち同士で親たちとは別室で過ごしていた。
 吉丸と同い年の播磨守の長男がシロを見たいというので、中奥から連れて来てもらい足を拭いて座敷に上げた。
 シロは犬としては高齢になっており、大人しく子どもたちの前に座った。子どもたちもシロが高齢であることを知っていたので、撫でる手付きも穏やかだった。
 そろそろ播磨守様のお帰りということで子どもたちは両親とともに表御殿の玄関まで見送りをすることになった。シロも大人しく従った。
 花尾播磨守はシロの見送りに大いに喜び、当家にも一頭いればと口走り、後で登美姫に不用意なことを仰せになってはなりませんと叱られることになる。
 それはともかく、見送りを終えた一家はいったん表御殿から中奥に入った。
 シロを中奥の犬小屋にと係の小姓が綱を持って来た時だった。それまで一言も吠えなかったシロがけたたましく吠え、何事か訴えるかのように主の慶温を見上げた。

「いかがした」

 何か嫌なことでもあるのかと慶温は思った。が、その時だった。佳穂の打掛の裾を口に咥え引っ張った。

「シロ、ノー、ストップ!」

 佳穂の声にもシロは動じず、引きずろうとする。このままでは庭先にひきずり落とされると思い、佳穂はとっさに打掛を脱いだ。すると、シロはそれを咥えて庭へ猛然と走り出した。

「何が気に入らぬのだ」

 慶温にはわけがわからなかった。シロがこんな行動をすることなどなかった。佳穂も変だと思った。

「母上の打掛、取り戻して参ります」

 突然、松丸がシロを追いかけて庭に下りた。足袋裸足のままであった。すると千代も吉丸も鶴もそれを追った。

「これ、お行儀の悪い」

 そう言った佳穂は不意に昔兄が言っていたことを思い出した。犬は勘のいい生き物だと。何かこれは意味のあることに違いなかった。

「御前様、参りましょう」

 佳穂は慶温の手をつかんだ。

「いかがした」
「追いかけるのです」

 慶温としては妻の手を握れるのは嬉しいのだが、履物も履かずに庭先に降りるとはと少々あきれた。
 だが、そこは気の利いた小姓がいるもので履物を持って参りますと言う。だが、佳穂は走りながら命じた。

「履物はいらぬ。そちらもついて参れ」

 慶温は驚いて佳穂に手を引かれ庭へ降りた。さすがに庭に下りれば慶温が足が速いから佳穂の手を引く形になる。
 シロは庭の松の木の下に向かっていた。子どもたちもそれを追う。シロの世話係の小姓も追っている。
 やっとシロが松の木の根方で止まり、子どもらが追いついた時、不意に地面から突き上げるような揺れが起きた。

「お佳穂、これは」

 慶温はすぐ近くの池の面が揺れるのを見た。これまで見たこともないような水面の波立ちだった。二人は必死の思いで足を動かした。揺れているから思うに任せず、地面に手を突いて這うようにして子どもたちのところになんとかたどり着けた。
 子どもたちはシロに寄りかかるようにして揺れに耐えていたが、両親を見ると安堵してその場に座りこんだ。
 よかった、無事だと慶温と佳穂が思った時、背後で雷が落ちたかのような凄まじい轟音が響いた。先ほどまでいた中奥の御殿の一画が崩れ落ちていた。柱が折れたのか屋根が落ち建物がひしゃげ瓦が何十枚と落ちていた。
 後にも先にも、これほど恐ろしいことはなかったと佳穂は後にこの時のことを思い出したものである。
 小姓達も真っ青な顔でそれを見つめていた。
 その後も揺れるたびに瓦が落ちる音、土壁が崩れる音がして、皆生きた心地がしなかった。また外から半鐘の音も聞こえた。間隔が長いので近火ではないとはいえ、いつそれが風にあおられて近づくかわからなかった。
 慶温は見舞いのため登城し、火事に備えて奥から来た部屋子が持って来た火事装束に着替えた佳穂は布団を身体に巻いた子どもたちとともに朝まで外で待機した。
 一方、シロは主たちが落ち着いたとみると、崩れた屋敷へと走って行った。
 番士たちは屋敷や長屋の中に残った者がいないか探していたが、シロはそこへ行き、生きている者がいる場所で吠えた。番士らは最初なぜ吠えるかわからなかったが、老番士の山本は恐らくここに人がいるのだろうと気づき、男らを率いてその場所を探索した。すると折れた柱と壁の間に挟まれた男が提灯に照らされた。壁や柱の損壊に気を付けながら、その場所から男を引き出した。幸い、さほど長い時間挟まれていなかったので腕を打撲しただけで命が助かった。
 他にも長屋で寝ていた者らを見つけたので、多くの者が命を救われた。
 また、奥でも、御末の長屋が倒壊し、逃げ遅れた女中を助けだした。
 長岡の娘で今は小姓をしている加奈はこの日は宿直で地震が起きてすぐに同僚を起こしてまわり、庭へ逃げた。が、母親のお駒が長屋で寝ていることを思いだし長屋へ行くと、母の部屋のあたり数部屋が潰れている。これはいけないと思って助けようとしても揺れるたびに他の部屋の屋根からも瓦が落ちてくる。
 御末らが駆け付けて、中にいる女を助けようとしたが、女の力だけでは柱の一本も動かせない。そこへ白い犬が駆けて来たかと思うと、その後から表御殿の番士らが駆け付けた。
 シロは崩れた壁の近くまで行き吠えた。

「そっちに生きている者がおる」

 番士の声で部下らがそこへ走り、壁や柱を倒さぬように用心してシロの見つめるあたりの壁を壊した。
 すると呻き声がする。加奈は母の声だと気づき叫んだ。

「母様、生きておいでか」
「加奈か」

 か細いが声がした瞬間、加奈は涙があふれてきそうになったが堪えた。
 男達に引き出されたお駒は手足や顔に擦り傷を負っていた。加奈は抱えられるように連れて来られた母を抱き締めた。
 母もまた加奈の背を撫でた。夫を失ったお駒にとって自分の命が助かったことよりも娘が怪我一つなかったことのほうが嬉しかった。
 翌日、中奥で御前様に仕えている英之助の無事を知り、改めて母子三人は幸運を感謝した。
 屋敷の多くの者の命を救ったシロは皆に感謝された。慶温と佳穂はシロに「グッジョブ」と言って代わる代わるに撫でたのだった。
 シロは文久元年(一八六一年)五月の千代姫の輿入れを見送った後、秋の朝眠るように亡くなった。菩提寺の歴代藩主の墓所のそばに葬られ、小さな墓石には「慈賢白狗之墓」と刻まれている。





 この地震は安政江戸地震と言われ、震央は東京湾北部、マグニチュードは七から七・一と推定される。直下型の地震のため、江戸での揺れが大きく、火災よりも家屋の倒壊による死者が多かった。
 震度六以上であったと推定されるのは、現在の東京都千代田区丸の内、墨田区(本所)、江東区(深川)、茨城県取手市、埼玉県幸手市、千葉県浦安市、松戸市、木更津市、神奈川県横浜市(神奈川区)である。
 月野家上屋敷周辺は現在の永田町近くで震度五と推定されている。
 町奉行所の調べでは死者は七四一八人となっているが、一万人を超えるとの説もある。
 建造物については、江戸城の石垣が崩れ、櫓(やぐら)や門、番所など二十六棟が全壊、市中の家屋一七二七棟、一万五二九四軒が全壊及び焼失、土蔵一七三六棟、長屋一三一五棟、寺社一六五か所が全壊している。地盤の弱い日比谷から丸の内、埋立地の本所、深川、吉原などの被害が多かった。
 月野家本家でも上屋敷の御殿が半壊、長屋の多くが崩れた。
 この日は来客があり多くの者が遅くまで仕事をしていたため、逃げ遅れる者は少なかったが、続く揺れで長屋が壊れることを恐れ、大勢が庭に出て夜を明かした。それは奥も同様だった。
 慶温は明け方城から戻ると佳穂と下の子ども三人を下屋敷に一時的に退避させた。長屋が崩れ、仕える奥女中らが寝起きする場所に不自由したためでもある。
 赤坂の中屋敷でも御殿が半壊し、大殿様と大奥様は翌日被害の少なかった白金の下屋敷に避難した。
 分家の住まいは比較的被害は少なかったので、避難はしなかった。
 花尾播磨守一家は帰宅途中で揺れに遭った。お供はこれは大変と屋敷へ急がせた。幸いにも花尾家の上屋敷は高台にあったので被害は少なかった。ただ六尺が走って乗り物を担いだので中に乗っていた播磨守は揺れで目まいがして大変だったと後に語っている。
 地震はこれ以降の歴史に大きく影響していく。
 旗本・御家人所有の建物の八割が被害を受けたことは彼らの経済状況に深刻な影響をもたらした。幕府を支える彼らの痛手は幕府の痛手でもあった。
 さらには、老中や多くの幕閣が上屋敷を持つ大名小路が大きな被害を受け、その復興のため拝借金(無利息・十年の年賦返済)が幕府から被害を受けた老中、若年寄、寺社奉行らに与えられた。この支出五万八千両(約六十九億六千万円)等の復興費用も幕府の財政に影響を及ぼす。
 また、被害が大きかった場所の一つに小石川がある。ここには御三家の水戸徳川家の屋敷がある。元々低地であったので揺れがひどく建物が倒壊、水戸学の大家藤田東湖が圧死している。彼を尊敬していた西郷隆盛はその死に大きな衝撃を受けた。藤田東湖の思想は西郷だけでなく多くの幕末の志士に影響を与えていた。彼がもし生きていたら幕末の水戸藩は違ったものになっていたかもしれない。





 地震の後、月野家江戸屋敷、特に下屋敷にはこれまで来たことのない客が訪れるようになった。
 通詞、幕閣、洋学者等々。佳穂は慶温とともに彼らをもてなした。
 海外との条約が結ばれるようになると、異国の外交官もお忍びでやって来るようになった。下屋敷の富士見の間は彼ら外国人をもてなす絶好の場となった。上屋敷の御末のお駒は元芸者であったということで、来客に舞や三味線を披露し好評を博した。慶温の英吉利語の発音も次第に日本人離れしたものになった。
 佳穂も夫とともに言葉を磨いた。英吉利と米利堅では、発音が違うことも学んだ。
 時代は動く。
 安政五年六月、日米修好通称条約が結ばれた。これは朝廷の勅許を得ぬ調印ということで、多くの反発を招いた。また将軍継嗣が大老井伊直弼の推す徳川慶福(後の家茂)と決まった。直後に家定は死去、家茂が十四代将軍となった。
 七月、鹿児島藩主島津斉彬が国許で急死した。病死とも暗殺とも言われている。斉彬は直弼に反発し、五千の藩兵を率いて上洛を計画していたという。
 慶温にとって部屋住み時代の恩人ともいえる人であった。斉彬は若い頃又三郎という名を名乗っていたので、又四郎と名乗っていた慶温を弟のようだと言い、豚肉をよくもらったものだった。
 慶温はその死を知った日から数日は生臭物は食べなかった。
 その後、勅許を得ぬ条約調印と徳川家茂の将軍継嗣決定に反発する動きに対し、井伊直弼は弾圧を決行、これが安政の大獄である。井伊を詰問するため、決まった登城日以外に登城した前水戸藩主、尾張藩主、福井藩主らを隠居謹慎処分にしたのを始め、多くの志士や幕臣、公家までもが処罰された。
 福井藩主と親しかった慶温も一時登城差控となった。幸いにも隠居までは命じられなかったものの、顔を知る多くの優秀な者達が処罰されたのは心苦しいことだった。





 大獄が始まって一年余り後の万延元年(一八六〇年)一月二十二日、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府の遣米使節団が横浜からサンフランシスコに向けてアメリカ海軍のポーハタン号と幕府の軍艦咸臨丸で出港した。
 使節団はサンフランシスコからパナマを経てワシントンで批准書を交換、大西洋を横断しポルトガル領カーボベルデのポルテグランデ、アフリカ南端の喜望峰を経てインド洋に出てオランダ領バタビア、香港を経て九月二十七日品川沖に帰着した。
 だが、大老の井伊直弼はこの世界一周の旅の報告を聞く事はなかった。
 使節団がサンフランシスコ滞在中の三月三日、この日は上巳の節句で大名らの登城日であった。新暦では三月二十四日にあたるこの日、珍しく雪が降った。その雪を赤く染めて桜田門外で井伊直弼が暗殺された。襲ったのは安政の大獄で前藩主斉昭が処分を受けた水戸藩の者達だった(一人は薩摩藩士の有村次左衛門)。
 この日、城から屋敷に戻った慶温は人払いをし、一人御座の間で考えた。
 まだ公表されてはいないが、大老が死亡したことは周知の事実だった。これで時代は大きく変わる。
 政権トップの大老が衆人環視の中、暗殺されたという事実は、幕府の権威の失墜を意味している。恐らく来日している外国人を通じてこの事件は海外に知られるだろう。
 海外には新聞というものがある。瓦版のようなものらしい。新聞を通して海外の人々はこの事実を知るだろう。彼らは幕府の弱体化を知り、いかなる行動をとるのか。
 果たしてこれから何が起きるのか。慶温にもわからない。誰も予想しえぬことがこれから起きるに違いない。
 だが、一つだけわかっていることがあった。大名も旗本も、いや将軍も、今のままであれば滅ぶと。
 建前を重んじ平然と年齢を偽り、家を守ることに雁字搦めにされてきた時代は、海外の事情を知れば終わるだろう。
 慶温は己の実父斉理の所行の元は家に縛られたことにあると考えていた。幼い頃から何もかも当たり前のように思って江戸に住む者と違い、国で育った斉理にとって、江戸は、いや藩主の地位は己を縛るものでしかなかった。愛しい者と結ばれず、子と引き離される暮らしは彼にとって大きな心労だったはずである。しかも藩主であっても城では一介の小大名でしかない。
 その心労が如草会への参加となった。同じような心労を持つ者が他にもいたということであろう。無論、中には斉理とは別の理由の者、たとえば己の性に違和感を感じている者もいただろう。だが皆に共通するのは、雁字搦めの社会の中で生きる息苦しさではなかったのか。
 同じ息苦しさを慶温も感じていた。恐らく他の者も。家を守るという美名の下、年齢を偽り、出自を偽る。それが二百六十年近く積もり積もってきた。個人では背負いきれぬほどに。そうなればいずれ社会は瓦解する。幕府の体制を維持するのは無理な話というものである。 
 個人を重んじる西洋の思想が入ればなおさらであろう。
 長岡英仙はそれに気付いていた。彼が危険を冒してまでも、あれほど家族を大事にしたのは西洋の思想を知ったからではあるまいか。故郷の家を継ぐことをせず、江戸に出て己の家族を作った長岡は、だからこそ洋書の底にある思想を理解し、翻訳を巧みにできたのではなかろうか。
 慶温は思う。長岡は死んだ。けれど、彼の翻訳した書により多くの者が海外の自然科学に触れた。いずれその底に流れる個人を重んじる思想に気付いた時、幕府は終わるのだと。長岡は死んだが、彼の思想は幕府を終焉に導くであろうと。
 ただし、この終焉はできるだけ穏やかでなければならぬ。諸外国を介入させてはならぬし、自国民同士の争いは最低限に収めねばならない。それをやり遂げるのは、生きている自分の仕事だと慶温はこの日、改めて決意した。





 奥入りした慶温を佳穂は温かく迎えた。大老の井伊様が桜田門外で襲われお屋敷で療養されていると聞いた。夫の登城差控を命じた大老が負傷したということは、今後、夫が動きやすくなるということである。妻である佳穂にとって、それは喜ばしいことだった。夫の知見がこれから御公儀の役に立つのだから。
 無論、まだまだ多くの困難があることは予想できた。けれど、二人なら乗り越えることができると佳穂は信じている。





 結局、井伊直弼の死亡は翌月の閏三月晦日になって公表された。
 命日は三月二十八日で病死となっている。大老職を免じられたのは三月晦日である。
 実際の死亡後二ケ月近く、公表されなかったわけである。
 幕府、井伊家、水戸家のそれぞれの体面を考えてのことであろう。
 すでに慶温から大老の死を知らされていた佳穂もさすがに公表の遅さに驚いた。光信院様も公表は遅くなったもののそこまでではなかった。驚くと同時に、御公儀の対応は果たしてこれでいいのであろうかとも思った。異国との交易が始まり人の出入りも多くなれば、大老や老中のような幕府の上層の人々の動静の情報は彼らにとっても重要なものになるはずである。しかも大老は大勢の人の前で暗殺されている。それを二ケ月近くなかったことのようにしている幕府は果たして諸国に信用されるのであろうか。
 一介の大名の妻の己でさえそんなことを思うのだから、様々な情勢に詳しい方々はどう思われることかと、佳穂は御公儀の行く末に不安を覚えた。





 この後、月野丹後守慶温は幕閣の中で外交について重きをなすようになった。
 諸外国との様々なトラブル、例えばアメリカ公使官通訳殺害事件、生麦事件、薩英戦争、神戸事件等の事後の諸国との交渉の場に月野家家臣らの姿が垣間見える。
 ただ、彼自身がどのような役職にあり、いかなる仕事をしていたかは、幕府の公式の記録にはない。武鑑にも海防掛御用等の役目しか書かれていない。
 研究者の中には、彼が語学を利用してインテリジェンスに関わる仕事をしていたと論ずる者もいるが、彼の日記は残されておらず確たる証拠はない。
 ただ、来日した外交官某が日記の中で「Dangerous Lords」とたびたび書き残しており、前後の文脈から月野丹後守のことではないかと推測されている。
 



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