アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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解ける謎

捌 如草会

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「そんなにも、大名であることが苦しかったのか」

 斉尚の問いに対して斉理は問いで答えた。

「苦しいと思ったことはないのか、丹後守」
「あるが、それは大名も旗本も、畏れおおくも公方様も同様ではないか。いや、商人も百姓も職人も、皆それぞれに人にはわからぬ苦しみがそれぞれあるものだと、余は思っておる」

 斉理はふっと苦笑いを見せた。

「子どもの頃から御世継として育てば、そうであろうな」

 吉井采女は内心それは勝手な言い分と思ったが口には出さなかった。御世継が死に、分家を継ぐ身になった時、それを選択したのは己ではないのかと。

「江戸で生まれたというのに、国許にやられ子どもの頃は女子のなりをさせられるのが嫌であった。同じ男児にはからかわれ、女子からは気味悪がられ。身分が違うと言っても、子どもは素直だからな。ましてや皆田舎者。だが、お千勢だけは違った。女子のなりをしていた私の心の奥に気付いていた。苦痛も悲哀も何もかもな」
「お千勢を何故娶らなんだ」
「父上が佐野に養子に行けと決めたゆえな。子どもの我に何ができよう。お千勢もそれを知り、国にいては私の邪魔になると江戸屋敷での奉公を決めてしまった」

 斉理は佐野家の養子になり、佐野の遠縁の娘と縁組し又四郎が生まれたのだった。
 それを知る斉尚としては、斉理の選択は致し方のないことと思えた。

「だが、江戸の兄上が亡くなられるとはな。父上も江戸で生まれ次男ゆえ国許に置かれたが、やはり兄の死で私を置いて江戸に行き、分家を継いだ。私も父同様に又四郎を国許に置き、江戸に参ることになってしまうとは。兄上さえ亡くならなければ、佐野覚右衛門として又四郎とともに国許にいられたものを」

 仮定の話など何の意味もないと吉井は思う。だが、口にはできなかった。

「瑠璃殿はよい妻ではないか。それなのに」
「確かにな。丹後守から見ればそうであろう。だが、良妻賢母ほど息苦しいものはない。元はそなたの許婚者であったのに、そなたが聡を娶りたいがために、そなたは婚約を破棄した。そんなことがあったにも関わらず、瑠璃は良き妻、良き母であった。それがどれだけ息苦しいものかわかるまい。奥の乏しい金子をやり繰りして私の羽織を見事に仕立てたものだが、あれを見るたび、羽織るたびに、瑠璃の執念を感じた。月野家分家の良き嫁でありたいという強い念をな」

 贅沢なことをと吉井は思った。なんと良い妻女ではないか。別れた妻とは大違いである。

「吉井、いかがした。何か言いたいことがあるのではないか」

 主君の問いに吉井は慌てた。

「滅相もないことでございます」

 斉尚は鷹揚に見えて実は細やかな気配りをする男だった。家臣一人一人を実によく見ていた。吉井はこの方はたとえ大名でなくとも、どんな仕事に就いても一廉の者になるのではないかと失礼ながら思うことがあった。

「丹後守、瑠璃はな、今のそなたのようなことを言うような女子なのだ。人の気持ちを先回りして読み、気配りをする。それが年に数度のことならまだしも、毎日なのだ。あれはたまらぬ。気味が悪い。お千勢と睦み合うようになってからは、今日はお顔の色つやがよろしいようでまことにめでたきことなどと朝から言うのだ。逢瀬のことなど知らぬはずなのに。あのような女子、薄気味が悪うて」

 人を殺めるような女子はもっと薄気味悪かろうと吉井は心の中でつぶやいた。

「お千勢のほうがよほど薄気味が悪いが」

 斉尚も吉井と同じことを思っていたようだった。
 斉理はフフンと鼻先で笑った。

「お千勢は己の欲望に忠実であった。私を欲する時は欲しいと言った。己の欲しい物はなんとしても手に入れた。地位もな。そのためには、手を汚すことも厭わなかった」

 これでまた仕事が増えたと吉井は思った。分家の目付や梅枝に、奥での変死の有無を問い合わせねばならない。恐らく一人や二人ではあるまい。
 斉尚の表情が曇った。

「なぜ、さような女子に」
「私と似ておるからであろうな。そういえば、丹後守殿は聡に似ておるな。二人とも真面目で」

 あまり褒められているような感じがしない斉尚だった。
 吉井もまたこれは皮肉であろうと思った。だが、真面目でなぜ悪いのだ。二人とも人を殺めてまで己の欲望を満たすことなど考えもしない。それがまともな人の道というものだ。

「真面目ではない私には耐えられなかった。柳の間に控えている間、末座から数えたほうが早い席に座り、御目見えを待つ時間の長いことよ。しかも御目見えは五人一緒でずっと畳の目ばかり見ておった。大御所様も公方様も一度もご尊顔を拝したことはないのだ」
「それは大広間詰めも同じようなものぞ」
「柳の間には百人以上詰めておるのだ。大広間といっても三十人もおらぬ部屋とは大違いぞ」

 そういう家柄だとわかって後を継いだのではないか。吉井はいい加減にして欲しいと思った。

「畏れながら、目付としては、さような下野守様のお話を伺うよりも、先日来の一件をもう少し詳しく伺いたいのですが。御前様、よろしいでしょうか」

 吉井は斉理の愚痴を聞きに来たのではなかった。さっさと事件について聞き、番屋の取り調べを取りまとめ、評定のための資料を作成せねばならないのだ。

「そうであった。采女も忙しいからな。下野守、お志麻に尼を近づけたのは川村の考えであろうが、慶温を寝所で襲わせたのは誰が考えたのだ。そなたか、川村か」

 斉尚は吉井の知りたいであろうことを尋ねた。吉井は御前様はわかっていらっしゃると思った。

「お千勢がな、瑠璃が又四郎の命を狙ったと思わせればよいと最初に申してな、それで私が考えたのだ。知り合いの商人を通じて、人も手配した」
「呉服屋の喜久屋利兵衛ですな」

 吉井の間髪入れぬ声に、斉理はほおと感心した。

「そなた、そこまで調べたか。当家にもそなたのような者がおればのう」
「畏れいります。喜久屋利兵衛は別名喜久乃屋儀兵衛でございますな」

 吉井はとりあえず手持ちの情報を一つ出した。

「そうじゃ。吉井と申したな、そなた。それでは、如草じょそう会のことまで調べたのだな」

 初めて聞く名称だった。じょそう会とは何なのか。除草、草でも刈るのか。

「それは存じません」
「もしや、女子に扮装する集まりか」

 斉尚の言葉に斉理はうなずいた。斉尚は言ってみるものだなとつぶやいた。吉井はすぐには理解できなかった。女子に扮装とは、一体どういうことなのだ。
 
「知っておいでか」
「ずいぶん前に噂を聞いたことがある。女子に扮装するのを好む大名や旗本の集まりがあると。聞いた時は不思議な集まりがあると思った。家を継いだばかりの頃で、かつがれておるのかと思った」

 吉井は昨夜小田が伝えた喜久屋と取引している家のことを思い出した。さてはあれが斉理の仲間だったのかと思ったが、あの家の主らが女子のなりをするとは想像もつかぬ話であった。あの中には譜代や国持ち大名、交代寄合と言われる名門旗本もいた。

「それは恐らく誘いであろうな。だが、丹後守殿は関心を示さなかったのであろう。示せば、私のように仲間になったであろうな」

 この場に不似合いな笑いを浮かべた斉理だった。

「いかなる字を書くのだ」
「草の如しと書く。山川草木悉皆成仏さんせんそうもくしっかいじょうぶつと言うであろう。この世のものすべてには仏性が宿る。従ってたとえ女のなりとなっても男の時同様仏性が宿るのだ」

 こじつけだろうと吉井は思う。人を殺めておいて仏とはふざけにもほどがある。そんなことより、知りたいことがあった。
 吉井は尋ねた。

「その会に喜久屋が関わっていたのですね」
「関わっていたというか、喜久屋が作ったようなものだ。女子のなりがしたくとも、我らは奥方や側室の物を持ってくるわけにはいかぬし、べに白粉おしろいを自分で買うこともできぬのだから」

 大名が金や銀、銭に触れることはまずない。さすがに旗本ともなれば米の相場を知らねば扶持米を売ることもできぬから銭勘定はするであろうが、普通は銭で買い物する機会はない。
 恐らく喜久屋は武士に不似合いな買い物をする家臣に気付きその主の嗜好を見抜きあれこれ品を手配する一方で、同じ嗜好の者を集めた会を作ったのだろう。案外、喜久屋自身も同じ趣味の持ち主かもしれぬと吉井は思っている。

「喜久屋は我らが女子に扮装する屋敷や、その姿で飲食できる茶屋を用意してくれた。芝居の衣裳や小間物を扱っておるから装束もくしかんざしも選び放題。紅、白粉もたっぷりある。かもじを付けて首まで白く塗って化粧して、腰巻、襦袢から身に着け、己の姿が変わっていくさまを鏡で見れば、日ごろの憂さも晴れたものよ。童の頃はしたくなかったなりだが、なぜなのだろうな。なんというか別人になったようでな。己の立場も何もかも忘れて、息が楽になった」

 女装。現代ならコスプレ感覚で性的な嗜好と関係なく楽しんでいる男性もいるであろうが、身分性別により髪型や衣装が違うのが当たり前の当時としては異様なことであった。芝居の女形おやまでもないのに成人男子が女子の姿になるなど、斉尚も吉井も何が楽しいのかまったく理解できなかった。ましてや、そういう者が一人や二人ではないことも。

「女子に扮装して何をするのだ」

 斉尚の問いに斉理は平然と答えた。

「特別なことはしておらぬ。女子のするように歌舞音曲を楽しみ、茶を嗜み、時には御高祖頭巾をして町中を歩いたこともある。誰も男であることに気付かぬのだから、愉快なことよ。そうそう、八犬伝を真似たこともあった。船虫をやったが、なかなか面白い趣向であった」

 百鬼夜行、吉井の脳裏に浮かんだのはこの言葉だった。女形の美青年ならともかく、喜久屋と取引のある大名らの年齢は最低でも三十代、あとは四十、五十台である。それが白粉を塗って紅をつけて、女子の装束を着て喜んでいる姿を想像するだけで寒気がしてくる。

「それでは品川の喜久乃屋でもさようなことをされたのですね」

 吉井はそれならすべてに説明がつくと思った。

「ああ。喜久屋の寮が高輪近くにあって、そこで着替え、駕籠に乗ってあの店に行き皆で茶を飲んだものよ。御殿山の桜も見たのう」
「では、十五日の外出もそうなのですか」
「記録を見たのか」
「はい。出かけた先はさる旗本の屋敷でしたが、あまりにお供が少なくて妙だと思いました」
「供まわりは少ないほうが目立たぬゆえな。そこで仲間と着替えて共に茶を飲んだ。だが、赤岩の件は皆知らぬこと。私一人の考え。男の姿に戻りその屋敷を出た後、喜久屋の寮で奥女中の姿に着替え、品川まで喜久屋の馴染みの駕籠屋の駕籠で行き、喜久乃屋へ行った。赤岩め、すっかり油断しておったわ。先に出した酒には痺れ薬を入れておいたゆえ、ことは簡単であった」
「なんという」

 斉尚は天を仰いだ。

「いかにして喜久乃屋を出られたのですか」
「出てはおらぬ」

 吉井ははっとした。

「あの茶屋にはもしもの時に備えて隠し部屋がある。狭いので気付かなかったであろうが、隣の部屋との境の押し入れの向こうに隠し戸がありそこに人ひとり入れる小部屋がある。おぬしらが赤岩の亡骸を運び出した直後に出て、品川に行ったのと同じ駕篭で寮に戻り急ぎ着替え屋敷に戻った」

 一本とられたと吉井は思ったが、悔しさを隠してさらに尋ねた。

「では、喜久屋も知っていたのですね」
「無論。喜久屋は当家にも出入りしていたが、瑠璃は高価な品が多いことを嫌い利用していなかった。当然奥女中らも瑠璃の意向を慮り、高価な物は買わぬ。瑠璃が離縁して実家に戻れば、少しは売上が増えるとふんだのであろう。いろいろと手伝ってくれた。喜久乃屋も一時的に畳んでほとぼりが冷めた頃に少し離れた場所で始めるつもりであろうな。だが、喜久乃屋が喜久屋であること知られるとはな」
「町奉行所が密かに調べていたことご存知でしたか」
「なんと」

 斉理は気付いていなかったらしい。危ういことだと吉井は思う。恐らく他の大名か旗本が気づき、奉行所に圧力をかけたのだろう。

「ですが、どこかの御家が奉行に圧力をかけたようで、赤岩の探索は打ち切られたようです。おかげで喜久屋の話もこちらに流れてきたわけですが」

 吉井の言葉に斉理は驚いたふうには見えなかった。むしろ驚いていたのは斉尚だった。

「では、如草会には幕閣も加わっておるのか。なんということか。だから、水野様の一件も事細かく知っておったのだな」

 斉尚は白金下屋敷での斉理の話を思い出していた。

「まあ、女の姿ではできるだけ仕事の話はしないようにしていたが、万が一に備えて他の老中らの機嫌を損ねぬようにせねばならぬからな。内輪のことを教えてもらうのはありがたかった。だが、町奉行にさようなことをしたのなら、私は除名だな。私のせいで会がなくなっては皆困るからな」

 斉理はそう言うと、吉井を見た。

「そうそう、切れ者の目付殿についでに教えてやろう。そちの配下には私の手の者がいる。それは」
「存じております。なれど、その者は腹を切りました」

 斉尚は息を呑んだ。吉井は主に顔を向けた。

「それがしの配下にさような者がいること、今日まで気づきませなんだ。この一件の評定が済みましたら、職を解いてくださるようこいねがい奉り申し上げます」

 斉尚は首を振った。

「今しばらく目付を続けてもらわねば困る。慶温は経験が足りぬ。そなたのような者がそばにおらねば」

 不意に斉理がククっと笑った。斉尚はなぜかような時にと腹立たしかった。だが、斉理はさらに斉尚の感情を逆なでにするようなことを言った。

「丹後守、又四郎には何の瑕疵もないと思っておるようだが、あれは食わせ物ぞ」
「下野、この期に及んで何を申すか」
「天下のお尋ね者に金子を融通し、さらにはそれを隠しておるのだからな」

 知っていたのかと驚く吉井にも斉理は告げた。

「長岡英仙、知っておろう。人相書きがまわっておったからな。昨年の小伝馬町の火事と解き放ちに乗じて牢破りをした蘭方医だ。蘭癖をきどる又四郎め、あの男の家族に斉倫殿から金を無心して渡しておったのだ。揚句の果てに、当家の屋敷の長屋に一時お尋ね者を住まわせていたこともあった。今もあの男と家族に支援をしておるはず。丹後守、あれはそなたの息子を利用し、揚句は死んだ後に後釜に座ったのだ。我が息子ながら要領のいいことよ。しかも実の父親の罪をさも己が正義であるかのように犬畜生を使って責めるとはな。かような者、本家のためにはならぬぞ」

 実の息子のことをここまで言うなど、吉井には信じられなかった。事実としても、言いようがあるだろう。
 確かに又四郎は父親の斉理の罪を糾弾したが、又四郎とて決して喜んでやったことではなかろう。これ以上の人死にが出ぬように、訴えたに違いないのだ。川村を捕縛すれば当然身内のお佳穂が側に侍ることはできなくなる。正義のために、己の恋情を捨てたも同然の行為は本家の世継ぎにふさわしいと吉井は思っている。
 長岡英仙の一件は確かに問題だが、知っていてこれまで黙っていた斉理も同罪ではないか。
 吉井は斉尚をちらと見た。が、その表情には意外なほど驚きの色が見えなかった。

「丹後守、聞いておるのか」

 斉理の問いかけにも斉尚の表情は変化を見せなかった。

「聞いておる。下野、言いたいことはそれだけか」
「そなたの世継ぎのことぞ」
「おぬしに、慶温のことを語る資格はない」
「なにぃ」

 斉理の目は怒りをあらわにしていた。吉井は後は調べ座敷で話を聞かせてもらえばよかろうと思った。そろそろ潮時だった。

「御前様、下野守様を座敷にお連れ申し上げてもよろしいでしょうか」
「その前に、一言だけ言っておく」

 斉尚は立ち上がり、斉理の一間ほど前に進んだ。

「余は慶温を世継ぎに決めた時から、あれのすべてを受け入れることに決めた。亡くなった斉倫と同様にな。長岡なる者のことも考えあってのことと思う。当家、いやもっと大きな日の本のことを考えての振舞であろう。しかるに、息子である慶温が天下国家のことを考えておる時、そなたは何を考えていたのだ。女子のなりをして憂さを晴らし、他の女子に心奪われるとは。あまつさえ、己の欲望を満たす企みのために人を殺め、その罪を貞淑な正室や何の関係もない奥女中になすりつけようとするなど。それでも、そなたは藩主か。人の親か。まらも切り捨て女子になってしまえばよかろう。いや、女子にもそちのような者はおらぬ」

 一言ではないではないかと吉井は思った。が、これだけのことを言う資格が斉尚にあることは確かだった。

「斉尚、おぬしはまこと、昔からさようなことばかり。又四郎はそのうち、当家を潰すかもしれぬぞ。いや、御公儀に仇をなそうぞ」
「こやつを早く連れて行け」

 吉井は主の命に従うべく立ち上がった。



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