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解ける謎
伍 シロ無双
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「呉竹様、ささ、お茶を」
「これはありがたい」
ここは分家の奥の一室。中年寄呉竹の部屋である。
今日は年寄梅枝が法要のため本家に出向いたので、留守居をしていた。そこへ奥女中仲間が好物の羊羹を持って来たので、ともに茶を喫することになった。
「この茶椀は、そなたのか」
「はい。国を出る時に兄から譲られたもの」
「よい色じゃ。器がよいと、茶の味も格別」
「かたじけのう存じます」
呉竹は最後の一滴まで茶を口にした。
「これはどこの茶か」
「宇治のものにございます」
「そうか。まるで公方様のようじゃな」
「まことに」
目の前の女の笑い声が不意に遠くに聞こえた。不思議なことに女の姿も揺れているように見えた。
「何やら、目の前が揺れているような。地が揺れておるのか」
そう言って呉竹は座ったまま、前のめりに倒れた。
すると、一緒に茶を飲んでいた女はさっと立ち上がり、女の身をそこに横たえた。懐から封書を出し、小机の上に置いた。さらに箪笥を開けてしごきの帯を出すと、呉竹の裾を縛った。
準備万端整えると、女は呉竹の帯に挟んだ懐剣を取り出した。そうして、眠ってしまった呉竹の首に刃を当てた。これで喉を掻き切ればすべてがうまくいく。女はほくそ笑んだ。
うううう、うわんわんわん。
突如、部屋と廊下を仕切る明かり障子の向こうでけだものの吼える声がした。驚きのあまり女は懐剣を床に落としていた。
廊下に駆け上がる足音がしたかと思うと、障子が勢いよく開かれた。
「川村、観念いたせ」
又四郎だった。その横には白い大きな犬がいた。その背後には梅枝、それに佳穂が立っていた。
「なんじゃ。奥に許しもなく入るとは」
川村は叫んだ。
「シロ、ゴアヘッド」
又四郎の命令にシロは忠実だった。まっすぐに川村に飛びかかった。
「ぎゃああああ」
川村は押し倒された上にのしかかられて身動きがとれない。
「ステイ」
シロはそのままの姿勢を保った。その隙に梅枝が部屋に駆け込んだ。
「呉竹、呉竹、目を覚ますのだ」
梅枝が頬を叩くと、呉竹はうっすらと目を開けた。
「梅枝様、何が」
呉竹が起き上がれないのを見た番士が二人部屋に入り、呉竹を持って来た戸板に乗せた。
梅枝は自分の部屋に呉竹を運ばせるため、部屋を出た。
後に残った川村は、犬の唸り声に震えていた。
「叔母さま」
佳穂は呉竹の身体の横に落ちていた鞘から抜かれた懐剣を見てしまった。裾はしごきの帯で縛られていた。それが何を意味するのか、佳穂にもわかる。
「なぜ、かようなことを」
「ええい、犬をどけよ」
佳穂の問いかけに答えず、川村は叫んだ。
「どけてもよいが、川村、この懐剣は何だ」
又四郎は懐剣を拾い上げた。そして部屋を見回した。
小机の上に封書があった。又四郎はその封を開け中から文を出し一読した。
「そういうことであったのか。呉竹にすべての罪を負わせるつもりであったのか」
「それは呉竹の書いたものじゃ」
川村はなおも叫んだ。
佳穂は部屋に入った。又四郎は佳穂に封書の中の文を見せた。
「これは、叔母さまの文字……」
文のやり取りをしていれば文字の特徴はわかる。だが、何より衝撃的だったのは、その内容だった。
奥方様の命を受け尼の元に参り本家中屋敷を探らせお志麻の方をそそのかししは我なり
浪人赤岩某に銀を渡し尼を斬るように依頼せしも我
しくじりし赤岩を品川の茶屋で害したるも我
その罪の重きに耐えかね自裁したく候 お許しを
これほどまでに詳しく書けるということは、叔母がすべてを行なったということではないか。
佳穂は恐ろしくなった。けれど、なぜさような愚かなことをしたのか、わからなかった。
それに瑠璃姫の様子を思い出すとどうにも腑に落ちない。
「犬をのけよ」
川村は叫んだ。
「リリース」
シロは川村の上から離れた。同時に大番組の者達が部屋に駆け上がり、川村を捕縛した。舌を噛まぬように猿ぐつわもかませた。
「分家御客応答川村、そなたを若殿様襲撃の一件の一味として、これより本家にて取り調べる」
山本の言葉にもの言いたげな顔の川村であったが、番士らに引き立てられ、裸足のまま外へ連れ出された。数人の番士は呉竹から事情を聴くために残った。
佳穂はこれでもう自分は又四郎の側に侍ることはできないと思った。叔母がこれだけの罪を重ねていたとなれば、御前様が許すはずがない。
「お佳穂、参ろう」
又四郎の声に振り返った。又四郎の顔も悲し気だった。
「申し訳ありません。叔母が」
「お佳穂、叔母上だけが悪いのではないぞ。もう一人極悪人がおる」
「え」
又四郎は佳穂の手をつかんだ。
「大丈夫。私がいつでもおる」
温かい手のひらだった。もしかするとこれが触れる最後になるやもしれぬ。佳穂はその手のぬくもりを忘れまいと思った。
手をつなぐ二人の背後からシロが嬉し気についていった。
その様子を騒ぎに気付いた女達が遠巻きに見ていた。その中には、昨夜二百文を手にしたおもんもいた。彼女は皆に気付かれぬように人の輪を抜けた。すぐに逃げなければ。
だが、女の不審な気配と動きに気付いた番士がいた。彼らは目配せして女を追った。
すぐに捕まり、本家の番屋に連行されたのは言うまでもない。
本家上屋敷の番屋は再び騒然となった。
分家の奥方様だけでなく御客応答までもが連れて来られたのだから。さらには本家の奥の御末のおたま、分家の御末のおもんも番屋で取り調べを受けることとなった。
前代未聞のことで調べる部屋がないので、川村はふだん使われていない座敷に入れられ取り調べを受けることとなった。
又四郎は座敷牢の佐野の元を訪れた。対応した番人は恐縮するばかりであった。
「命はあるのだな」
「はい。医師が血を止めまして。傷も存外浅かったようです」
「会えぬか」
「熱が出て横になっておりますが、意識はあります」
又四郎は座敷牢に入った。シロもついていった。佳穂は入るかどうか迷ったものの、戸口で待つことにした。
「覚兵衛」
又四郎は牢の格子の向こうに佐野が横たえられているのを見て呼びかけた。シロがくーんと鳴いた。
「シロか」
弱弱しい声が聞こえた。
「覚兵衛、何があったかはわからぬが、早く傷を治せ」
「申し訳、ございません」
「早くよくなってシロを安心させよ」
「シロにも悪いことを。それがしは勝手に部屋を出て、シロが奥に迷い込んだ騒ぎに乗じて尼を」
覚兵衛の告白に又四郎は驚いたものの、彼自身の考えではないことは明白だった。
「そなたの意思ではあるまい。誰に頼まれたのだ」
しばしの沈黙の後、覚兵衛は小さな声で答えた。
又四郎はやはりと思った。
「あいわかった。覚兵衛、よく話してくれた。怪我を治すことが先だ、ゆっくり休め」
佐野は目を閉じた。目尻から涙がすーっと落ちた。
座敷牢を出た又四郎はシロを連れて表御殿の座敷に向かった。佳穂にも来るようにと言って。
佳穂は叔母のことを皆に伝えるとしたら、己はいかなる顔をしてそこにいればいいのかと思った。
「よいのですか」
「よい。お佳穂がそばにいてくれなければ。そなたは私にとって光明なのだ」
光明。そうなのだろうか。自分は呉竹を殺そうとした川村の姪なのだ。光明になどなるはずがなかった。
「畏れおおいことです」
「そなたのいない世など、考えられぬのだ」
又四郎は佳穂の手をしっかりと握った。温かくて涙が出そうだった。
「参るぞ」
又四郎は左手にシロの縄を、右手に佳穂の手を握り、前に進んだ。これが本当の最後かもしれぬと佳穂もまた前に進んだ。
玄関まで来ると、又四郎は控えている者に命じた。
「シロの足を洗ってくれ」
こんな大きな犬を御殿に上げるのかと、係は驚いたものの命令ゆえ従った。又四郎がそばにいるせいか、シロは大人しく足を洗われていた。
又四郎、佳穂、シロは座敷に向かった。
近づくにつれ、何やら大きな声が聞こえてきた。斉陽の声のようだった。登美姫の声も聞こえた。
「……母上がさようなことをするはずがない」
「父上は母上がどれほど苦労されているのか、わかっておいでではない」
ふだん大人しい登美姫の大きな声に佳穂は驚いた。
座敷の障子は開け放たれていた。
「失礼つかまつる」
又四郎はそう言って立ったまま中に入った。喧騒はそれでやんだ。
座敷には月野斉理、斉陽、登美姫ら分家の一家だけでなく、斉尚、聡姫、淑姫もいた。佳穂はさっと廊下に座った。
「ダウン」
又四郎はシロに命じた。するとシロも中に入らず廊下で伏せをした。
「お佳穂は入れ」
佳穂はそう言われ、中に入り、下座に向かおうとしたが、又四郎に袖を引かれた。
「ここでよい」
又四郎の隣に座るなど、ありえなかった。しかも位置を見れば、分家の殿様、斉陽、登美姫、奥方様、淑姫よりも上座にあたる。
「かような場所には座れません」
「よい。ここにおれ」
又四郎はそう言うと、父の前に座る斉理に頭を下げた。
「下野守様、今日は寛善院様の法要、その後の会食においでくださったのに、奥方様がかようなことになり、さぞやお気を落としかと思います」
「致し方ない。奥が悪いのだ。こちらこそ、奥の所業に気付かず、まことに申し訳ない」
斉理は頭を下げた。
登美姫は又四郎に向かって言った。
「畏れながら、母は悪事を企むような女ではありません。何かの間違いではございませんか。母のふだんの振舞を存じておるゆえ、どうしても合点がゆきませぬ」
「さよう。母上がそんなことをするはずがない」
斉陽も言う。
「そなたら、見苦しいぞ。証拠は明白なのだ。瑠璃のやったことは疑いない事実」
斉理は叫んだ。佳穂は分家の殿が感情的になる姿を初めて見た。
「なれど、離縁は酷いことにございます」
登美姫は言った。
「先ほど花尾播磨守様が一度は離縁した淑姫様を迎えにおいでになりました。淑姫様は綸言汗のごとしとお断りになりました。ひとたび、離縁などしたら取り返しがつかないのです。それに、詳しいことはわらわにはわかりませんが、淑姫様の離縁も深い事情があってのこと。母上が罪を認めた、離縁を受け入れたと父上は仰せでしたが、まことにその通りなのでしょうか。母上には淑姫様のごとき深いお考えがあってそうされたのではありませんか」
殿様夫妻は播磨守が来たことをまだ知らされていなかったので、隣の聡姫がまことかと淑姫に尋ねた。
淑姫はやれやれという顔で言った。
「深い事情など、わらわにはない。子どもの相手に飽きただけぞ。それにたった二年ぞ。叔父上達のように二十年連れ添った夫婦とは違う。それにしても、二十年一緒においでだったのに、茶室で茶を飲み、証拠を突きつけられ、それで離縁とは叔父上、何を急いでおられるのやら」
最後の言葉に斉理は表情を変え、淑姫をじっと睨み据えた。
「姉上、少し言い過ぎではありませんか」
又四郎は言った。実際は年上だが、公には淑姫より年下なのである。
「そうかのう」
淑姫はしらじらしく言った。
「ところで登美姫様、母御のふだんの振舞とは」
又四郎の問いに即座に登美姫は答えた。
「母上はまめな方で、兄上やわらわの衣服のこと、父上の御召し物のことなど、いつもきちんと整えてくださる。父上の羽織も仕立てたりなさる。けれど、ご自分の御召し物にはあまり頓着なさらぬ。実家の星川家の分家の旗本の娘が大奥勤めで、御台所様や御年寄、老女、中臈らからよく御召し物を下されるので、それを手に入れてお召しになっている。時折実家の星川家に顔を出すのはそのため。ゆえに、年甲斐もないような派手な柄の打掛などお召しになることがあって。先だっての白金の宴の時に着ていた孔雀の打掛は大奥御年寄の御召し物。ちと派手ではないかとわらわが申すと、めでたい席ゆえ、これくらいはよかろうと笑って仰せであった。わらわの打掛もご自分が嫁入りに持ってきた物を仕立て直したり、刺繍を入れたりされたもの。食事とて御本家同様、倹約されておる。いつも母上はご自分のことよりも、父上や子どものことを先に考えておいで。又四郎殿も覚えておられよう。毎年、仕立てた単衣や帷子を贈られていたことを。あれは、母上がご自分で仕立てたもの。又四郎殿には、母御がおいでにならぬからせめてこれくらいはと仰せであった。ただ、それを言うのは恩着せがましくなるからと、自分で仕立てたとはおっしゃらなかった」
又四郎も知らぬ話であった。
聡姫もまた己を恥ずかしく思った。勝手に贅沢な方と思い込んでいたとは。瑠璃姫に申し訳なかった。
斉尚は瑠璃姫の所業とあまりにかけ離れたふだんの振舞にこれはどういうことかと考えた。己は何かをどこかで間違えたのではあるまいか。
「それは、まことにありがたきこと。では奥方様は私を害する気持ちなどみじんもなかったのですね」
又四郎の言葉に斉陽はうなずいた。
「そうじゃ。口では蘭癖の、無駄遣いのと仰せであったが、又四郎殿が高輪や日比谷の方の御屋敷に招かれるとたいそう喜んでおいでだった。シロのことも、毛玉のようじゃと言いながら、時々こっそり小屋を覗きに行っておった。母上は犬はお好きだが、費えがかかるからと飼っておいでではなかったゆえ、寂しかったのであろう」
斉理は子どもたちの反論に何も言わなかった。ただ顔をこわばらせていた。
それまで沈黙していた聡姫は言った。
「兄上、御考え直しくださいませ。瑠璃様が又四郎殿の命をどうこうするなど、わらわにも考えられません」
「奥、だが、あの袱紗はどう説明するのだ。あれは瑠璃姫のものであろう。本人も認めておるではないか。三か月前になくしたなどと申しておったが、嘘にしてももう少しうまくつけばよいものを。三か月の間なかったものが突然出てくるものか」
斉尚の問いに答えたのは、又四郎だった。
「御前様、その袱紗でございますが、それに香りが沁みついております。分家の瑠璃姫様の持ち物と香りが同じであれば、袱紗は三か月の間、瑠璃姫様の元にあったということ。なれど、そうでなければ、瑠璃姫様のところになかったということ」
「又四郎殿、そんなことを確かめられるのか」
斉尚は身を乗り出していた。
「できます。鼻の良いものにさせればよいのです」
「鼻のよいものとは」
「ここに控えております」
又四郎は振り返った。
「シロ、スタンダップ、カメ」
シロは立ち上がり、又四郎と佳穂の間に顔を突き出した。佳穂はシロの場所を空けるために、下座に動いた。
「スイット」
シロはまるで小姓のように、又四郎の横に座った。
斉陽も登美姫も目を丸くした。分家にいた頃は毛玉のようであったものが刈りこまれている。
又四郎は廊下に控えている小姓に耳打ちした。小姓は取り調べの行なわれている座敷に向かった。
「さようなこと、まことにできるのか」
斉陽は好奇の目でシロを見た。
「はい。先ほどもシロは鼻の力で不埒者を捕えております」
「不埒者とは誰だ」
斉尚はまだ報告を受けていない。
「それは後ほどお話しします。まずは御覧ください」
佳穂は一体、何をするのであろうかと思った。
そこへ小姓が戻って来た。なぜか吉井も来た。吉井は長い布包みを持っていた。小姓は瑠璃姫の打掛を持って来た。今日着ていたものである。
「打掛は瑠璃姫様の部屋に置かれておりますから、香りが沁みつくはず」
そう言って小姓から畳まれた打掛を受け取ると、又四郎は斉理から一間(約一・八メートル)ほど離れた場所に置いた。
又四郎は懐から再び袱紗を出し、シロにかがせた。
「この袱紗と同じ匂いがする物をシロが探し当てます」
そう言って、コマンドをシロに告げた。
「サーチ」
シロは立ち上がった。正面に見える打掛の方向に歩きだした。
そのまま瑠璃姫の打掛に向かうかと思われたが、不意に斉理にその鼻を向けた。
ウオンオンオン。
激しい鳴き声だった。斉理は来るなと叫び、正座を崩し後ずさった。
「これはありがたい」
ここは分家の奥の一室。中年寄呉竹の部屋である。
今日は年寄梅枝が法要のため本家に出向いたので、留守居をしていた。そこへ奥女中仲間が好物の羊羹を持って来たので、ともに茶を喫することになった。
「この茶椀は、そなたのか」
「はい。国を出る時に兄から譲られたもの」
「よい色じゃ。器がよいと、茶の味も格別」
「かたじけのう存じます」
呉竹は最後の一滴まで茶を口にした。
「これはどこの茶か」
「宇治のものにございます」
「そうか。まるで公方様のようじゃな」
「まことに」
目の前の女の笑い声が不意に遠くに聞こえた。不思議なことに女の姿も揺れているように見えた。
「何やら、目の前が揺れているような。地が揺れておるのか」
そう言って呉竹は座ったまま、前のめりに倒れた。
すると、一緒に茶を飲んでいた女はさっと立ち上がり、女の身をそこに横たえた。懐から封書を出し、小机の上に置いた。さらに箪笥を開けてしごきの帯を出すと、呉竹の裾を縛った。
準備万端整えると、女は呉竹の帯に挟んだ懐剣を取り出した。そうして、眠ってしまった呉竹の首に刃を当てた。これで喉を掻き切ればすべてがうまくいく。女はほくそ笑んだ。
うううう、うわんわんわん。
突如、部屋と廊下を仕切る明かり障子の向こうでけだものの吼える声がした。驚きのあまり女は懐剣を床に落としていた。
廊下に駆け上がる足音がしたかと思うと、障子が勢いよく開かれた。
「川村、観念いたせ」
又四郎だった。その横には白い大きな犬がいた。その背後には梅枝、それに佳穂が立っていた。
「なんじゃ。奥に許しもなく入るとは」
川村は叫んだ。
「シロ、ゴアヘッド」
又四郎の命令にシロは忠実だった。まっすぐに川村に飛びかかった。
「ぎゃああああ」
川村は押し倒された上にのしかかられて身動きがとれない。
「ステイ」
シロはそのままの姿勢を保った。その隙に梅枝が部屋に駆け込んだ。
「呉竹、呉竹、目を覚ますのだ」
梅枝が頬を叩くと、呉竹はうっすらと目を開けた。
「梅枝様、何が」
呉竹が起き上がれないのを見た番士が二人部屋に入り、呉竹を持って来た戸板に乗せた。
梅枝は自分の部屋に呉竹を運ばせるため、部屋を出た。
後に残った川村は、犬の唸り声に震えていた。
「叔母さま」
佳穂は呉竹の身体の横に落ちていた鞘から抜かれた懐剣を見てしまった。裾はしごきの帯で縛られていた。それが何を意味するのか、佳穂にもわかる。
「なぜ、かようなことを」
「ええい、犬をどけよ」
佳穂の問いかけに答えず、川村は叫んだ。
「どけてもよいが、川村、この懐剣は何だ」
又四郎は懐剣を拾い上げた。そして部屋を見回した。
小机の上に封書があった。又四郎はその封を開け中から文を出し一読した。
「そういうことであったのか。呉竹にすべての罪を負わせるつもりであったのか」
「それは呉竹の書いたものじゃ」
川村はなおも叫んだ。
佳穂は部屋に入った。又四郎は佳穂に封書の中の文を見せた。
「これは、叔母さまの文字……」
文のやり取りをしていれば文字の特徴はわかる。だが、何より衝撃的だったのは、その内容だった。
奥方様の命を受け尼の元に参り本家中屋敷を探らせお志麻の方をそそのかししは我なり
浪人赤岩某に銀を渡し尼を斬るように依頼せしも我
しくじりし赤岩を品川の茶屋で害したるも我
その罪の重きに耐えかね自裁したく候 お許しを
これほどまでに詳しく書けるということは、叔母がすべてを行なったということではないか。
佳穂は恐ろしくなった。けれど、なぜさような愚かなことをしたのか、わからなかった。
それに瑠璃姫の様子を思い出すとどうにも腑に落ちない。
「犬をのけよ」
川村は叫んだ。
「リリース」
シロは川村の上から離れた。同時に大番組の者達が部屋に駆け上がり、川村を捕縛した。舌を噛まぬように猿ぐつわもかませた。
「分家御客応答川村、そなたを若殿様襲撃の一件の一味として、これより本家にて取り調べる」
山本の言葉にもの言いたげな顔の川村であったが、番士らに引き立てられ、裸足のまま外へ連れ出された。数人の番士は呉竹から事情を聴くために残った。
佳穂はこれでもう自分は又四郎の側に侍ることはできないと思った。叔母がこれだけの罪を重ねていたとなれば、御前様が許すはずがない。
「お佳穂、参ろう」
又四郎の声に振り返った。又四郎の顔も悲し気だった。
「申し訳ありません。叔母が」
「お佳穂、叔母上だけが悪いのではないぞ。もう一人極悪人がおる」
「え」
又四郎は佳穂の手をつかんだ。
「大丈夫。私がいつでもおる」
温かい手のひらだった。もしかするとこれが触れる最後になるやもしれぬ。佳穂はその手のぬくもりを忘れまいと思った。
手をつなぐ二人の背後からシロが嬉し気についていった。
その様子を騒ぎに気付いた女達が遠巻きに見ていた。その中には、昨夜二百文を手にしたおもんもいた。彼女は皆に気付かれぬように人の輪を抜けた。すぐに逃げなければ。
だが、女の不審な気配と動きに気付いた番士がいた。彼らは目配せして女を追った。
すぐに捕まり、本家の番屋に連行されたのは言うまでもない。
本家上屋敷の番屋は再び騒然となった。
分家の奥方様だけでなく御客応答までもが連れて来られたのだから。さらには本家の奥の御末のおたま、分家の御末のおもんも番屋で取り調べを受けることとなった。
前代未聞のことで調べる部屋がないので、川村はふだん使われていない座敷に入れられ取り調べを受けることとなった。
又四郎は座敷牢の佐野の元を訪れた。対応した番人は恐縮するばかりであった。
「命はあるのだな」
「はい。医師が血を止めまして。傷も存外浅かったようです」
「会えぬか」
「熱が出て横になっておりますが、意識はあります」
又四郎は座敷牢に入った。シロもついていった。佳穂は入るかどうか迷ったものの、戸口で待つことにした。
「覚兵衛」
又四郎は牢の格子の向こうに佐野が横たえられているのを見て呼びかけた。シロがくーんと鳴いた。
「シロか」
弱弱しい声が聞こえた。
「覚兵衛、何があったかはわからぬが、早く傷を治せ」
「申し訳、ございません」
「早くよくなってシロを安心させよ」
「シロにも悪いことを。それがしは勝手に部屋を出て、シロが奥に迷い込んだ騒ぎに乗じて尼を」
覚兵衛の告白に又四郎は驚いたものの、彼自身の考えではないことは明白だった。
「そなたの意思ではあるまい。誰に頼まれたのだ」
しばしの沈黙の後、覚兵衛は小さな声で答えた。
又四郎はやはりと思った。
「あいわかった。覚兵衛、よく話してくれた。怪我を治すことが先だ、ゆっくり休め」
佐野は目を閉じた。目尻から涙がすーっと落ちた。
座敷牢を出た又四郎はシロを連れて表御殿の座敷に向かった。佳穂にも来るようにと言って。
佳穂は叔母のことを皆に伝えるとしたら、己はいかなる顔をしてそこにいればいいのかと思った。
「よいのですか」
「よい。お佳穂がそばにいてくれなければ。そなたは私にとって光明なのだ」
光明。そうなのだろうか。自分は呉竹を殺そうとした川村の姪なのだ。光明になどなるはずがなかった。
「畏れおおいことです」
「そなたのいない世など、考えられぬのだ」
又四郎は佳穂の手をしっかりと握った。温かくて涙が出そうだった。
「参るぞ」
又四郎は左手にシロの縄を、右手に佳穂の手を握り、前に進んだ。これが本当の最後かもしれぬと佳穂もまた前に進んだ。
玄関まで来ると、又四郎は控えている者に命じた。
「シロの足を洗ってくれ」
こんな大きな犬を御殿に上げるのかと、係は驚いたものの命令ゆえ従った。又四郎がそばにいるせいか、シロは大人しく足を洗われていた。
又四郎、佳穂、シロは座敷に向かった。
近づくにつれ、何やら大きな声が聞こえてきた。斉陽の声のようだった。登美姫の声も聞こえた。
「……母上がさようなことをするはずがない」
「父上は母上がどれほど苦労されているのか、わかっておいでではない」
ふだん大人しい登美姫の大きな声に佳穂は驚いた。
座敷の障子は開け放たれていた。
「失礼つかまつる」
又四郎はそう言って立ったまま中に入った。喧騒はそれでやんだ。
座敷には月野斉理、斉陽、登美姫ら分家の一家だけでなく、斉尚、聡姫、淑姫もいた。佳穂はさっと廊下に座った。
「ダウン」
又四郎はシロに命じた。するとシロも中に入らず廊下で伏せをした。
「お佳穂は入れ」
佳穂はそう言われ、中に入り、下座に向かおうとしたが、又四郎に袖を引かれた。
「ここでよい」
又四郎の隣に座るなど、ありえなかった。しかも位置を見れば、分家の殿様、斉陽、登美姫、奥方様、淑姫よりも上座にあたる。
「かような場所には座れません」
「よい。ここにおれ」
又四郎はそう言うと、父の前に座る斉理に頭を下げた。
「下野守様、今日は寛善院様の法要、その後の会食においでくださったのに、奥方様がかようなことになり、さぞやお気を落としかと思います」
「致し方ない。奥が悪いのだ。こちらこそ、奥の所業に気付かず、まことに申し訳ない」
斉理は頭を下げた。
登美姫は又四郎に向かって言った。
「畏れながら、母は悪事を企むような女ではありません。何かの間違いではございませんか。母のふだんの振舞を存じておるゆえ、どうしても合点がゆきませぬ」
「さよう。母上がそんなことをするはずがない」
斉陽も言う。
「そなたら、見苦しいぞ。証拠は明白なのだ。瑠璃のやったことは疑いない事実」
斉理は叫んだ。佳穂は分家の殿が感情的になる姿を初めて見た。
「なれど、離縁は酷いことにございます」
登美姫は言った。
「先ほど花尾播磨守様が一度は離縁した淑姫様を迎えにおいでになりました。淑姫様は綸言汗のごとしとお断りになりました。ひとたび、離縁などしたら取り返しがつかないのです。それに、詳しいことはわらわにはわかりませんが、淑姫様の離縁も深い事情があってのこと。母上が罪を認めた、離縁を受け入れたと父上は仰せでしたが、まことにその通りなのでしょうか。母上には淑姫様のごとき深いお考えがあってそうされたのではありませんか」
殿様夫妻は播磨守が来たことをまだ知らされていなかったので、隣の聡姫がまことかと淑姫に尋ねた。
淑姫はやれやれという顔で言った。
「深い事情など、わらわにはない。子どもの相手に飽きただけぞ。それにたった二年ぞ。叔父上達のように二十年連れ添った夫婦とは違う。それにしても、二十年一緒においでだったのに、茶室で茶を飲み、証拠を突きつけられ、それで離縁とは叔父上、何を急いでおられるのやら」
最後の言葉に斉理は表情を変え、淑姫をじっと睨み据えた。
「姉上、少し言い過ぎではありませんか」
又四郎は言った。実際は年上だが、公には淑姫より年下なのである。
「そうかのう」
淑姫はしらじらしく言った。
「ところで登美姫様、母御のふだんの振舞とは」
又四郎の問いに即座に登美姫は答えた。
「母上はまめな方で、兄上やわらわの衣服のこと、父上の御召し物のことなど、いつもきちんと整えてくださる。父上の羽織も仕立てたりなさる。けれど、ご自分の御召し物にはあまり頓着なさらぬ。実家の星川家の分家の旗本の娘が大奥勤めで、御台所様や御年寄、老女、中臈らからよく御召し物を下されるので、それを手に入れてお召しになっている。時折実家の星川家に顔を出すのはそのため。ゆえに、年甲斐もないような派手な柄の打掛などお召しになることがあって。先だっての白金の宴の時に着ていた孔雀の打掛は大奥御年寄の御召し物。ちと派手ではないかとわらわが申すと、めでたい席ゆえ、これくらいはよかろうと笑って仰せであった。わらわの打掛もご自分が嫁入りに持ってきた物を仕立て直したり、刺繍を入れたりされたもの。食事とて御本家同様、倹約されておる。いつも母上はご自分のことよりも、父上や子どものことを先に考えておいで。又四郎殿も覚えておられよう。毎年、仕立てた単衣や帷子を贈られていたことを。あれは、母上がご自分で仕立てたもの。又四郎殿には、母御がおいでにならぬからせめてこれくらいはと仰せであった。ただ、それを言うのは恩着せがましくなるからと、自分で仕立てたとはおっしゃらなかった」
又四郎も知らぬ話であった。
聡姫もまた己を恥ずかしく思った。勝手に贅沢な方と思い込んでいたとは。瑠璃姫に申し訳なかった。
斉尚は瑠璃姫の所業とあまりにかけ離れたふだんの振舞にこれはどういうことかと考えた。己は何かをどこかで間違えたのではあるまいか。
「それは、まことにありがたきこと。では奥方様は私を害する気持ちなどみじんもなかったのですね」
又四郎の言葉に斉陽はうなずいた。
「そうじゃ。口では蘭癖の、無駄遣いのと仰せであったが、又四郎殿が高輪や日比谷の方の御屋敷に招かれるとたいそう喜んでおいでだった。シロのことも、毛玉のようじゃと言いながら、時々こっそり小屋を覗きに行っておった。母上は犬はお好きだが、費えがかかるからと飼っておいでではなかったゆえ、寂しかったのであろう」
斉理は子どもたちの反論に何も言わなかった。ただ顔をこわばらせていた。
それまで沈黙していた聡姫は言った。
「兄上、御考え直しくださいませ。瑠璃様が又四郎殿の命をどうこうするなど、わらわにも考えられません」
「奥、だが、あの袱紗はどう説明するのだ。あれは瑠璃姫のものであろう。本人も認めておるではないか。三か月前になくしたなどと申しておったが、嘘にしてももう少しうまくつけばよいものを。三か月の間なかったものが突然出てくるものか」
斉尚の問いに答えたのは、又四郎だった。
「御前様、その袱紗でございますが、それに香りが沁みついております。分家の瑠璃姫様の持ち物と香りが同じであれば、袱紗は三か月の間、瑠璃姫様の元にあったということ。なれど、そうでなければ、瑠璃姫様のところになかったということ」
「又四郎殿、そんなことを確かめられるのか」
斉尚は身を乗り出していた。
「できます。鼻の良いものにさせればよいのです」
「鼻のよいものとは」
「ここに控えております」
又四郎は振り返った。
「シロ、スタンダップ、カメ」
シロは立ち上がり、又四郎と佳穂の間に顔を突き出した。佳穂はシロの場所を空けるために、下座に動いた。
「スイット」
シロはまるで小姓のように、又四郎の横に座った。
斉陽も登美姫も目を丸くした。分家にいた頃は毛玉のようであったものが刈りこまれている。
又四郎は廊下に控えている小姓に耳打ちした。小姓は取り調べの行なわれている座敷に向かった。
「さようなこと、まことにできるのか」
斉陽は好奇の目でシロを見た。
「はい。先ほどもシロは鼻の力で不埒者を捕えております」
「不埒者とは誰だ」
斉尚はまだ報告を受けていない。
「それは後ほどお話しします。まずは御覧ください」
佳穂は一体、何をするのであろうかと思った。
そこへ小姓が戻って来た。なぜか吉井も来た。吉井は長い布包みを持っていた。小姓は瑠璃姫の打掛を持って来た。今日着ていたものである。
「打掛は瑠璃姫様の部屋に置かれておりますから、香りが沁みつくはず」
そう言って小姓から畳まれた打掛を受け取ると、又四郎は斉理から一間(約一・八メートル)ほど離れた場所に置いた。
又四郎は懐から再び袱紗を出し、シロにかがせた。
「この袱紗と同じ匂いがする物をシロが探し当てます」
そう言って、コマンドをシロに告げた。
「サーチ」
シロは立ち上がった。正面に見える打掛の方向に歩きだした。
そのまま瑠璃姫の打掛に向かうかと思われたが、不意に斉理にその鼻を向けた。
ウオンオンオン。
激しい鳴き声だった。斉理は来るなと叫び、正座を崩し後ずさった。
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