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解ける謎

肆 淑姫と播磨守

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 その少し前、又四郎は茶室前を一人離れ、表の座敷にいた。

「鳴滝と梅枝はどこにおる」

 淑姫は黒石を置くと顔を上げた。

「二人は広敷の座敷におる」
「すまぬ」

 座敷を出た又四郎の足音はものすごい勢いで遠ざかっていった。

「又四郎殿は落ち着きがないのう」

 そう言いながら斉陽は白石を置く場所を探していた。淑姫の布石は隙がないのだ。

「兄上、勝ち目はありませんよ」

 碁盤を見ていた登美姫が言った。

「そんなことがあるか。あきらめぬぞ」

 斉陽は両腕を胸の前で組んだ。
 その時だった。また足音が近づいた。

「姫、帰って来てくれぬのか」

 まだ声変わりも済まぬ声音が響いた。品のいい色白の少年が着ている物は質のいい絹織物だった。彼の所領で丹精込めて育てられた蚕から作られたものである。
 それを慌てて追って来たのは桂木であった。
 淑姫は一瞥もくれずに言った。

「帰れ。用はない」

 斉陽は少年を見た。

「あ、これは播磨守様。今手を離せぬので。姫、相手をしたらどうだ。少し冷たくはないか」
「赤の他人じゃからな」

 少年は目に涙をためていた。

「姫、そなたをいじめた者らは奥から追い出した。改革も急激なことはせぬと言うたから、家臣らも納得した。そなたはわざと離縁されるように芝居を見に行ったのだな。我が家中が混乱せぬようにと」

 淑姫は言った。

「離縁すると言って、それを覆すなど、武士にあるまじき振舞かと。綸言汗のごとし」

 斉陽はようやく白い石の置き場所を見つけた。

「これでどうじゃ」
「ふん。わらわの目論見通りじゃな」

 淑姫はとどめの黒石を置いた。

「はあ、またもやられたか」

 斉陽は額に手を当てそう言うと、少年を見た。

「淑姫は我が従姉で気性はわかっておる。一度決めたら絶対考えを枉げぬのだ。そして必ず実行する」
「なれど、余には姫しかおらぬ」
「人の半分は女子ぞ。世間は広いのだ」

 淑姫は石を数えながら言った。
 登美姫は碁盤から少年に視線を移した。

「ところで、そなた、名も名乗らずに無礼ではないか。そのような無礼な者を淑姫様がまともに相手にするわけがなかろう」

 少年は登美姫の存在に初めて気づいた。大人し気な顔だが、気が強いらしい。
 少年はその場に座り、居住まいを正した。

「これは失礼した。それがし、花尾播磨守はりまのかみ勘太夫かんだゆう斉靖なりやすと申す。そなたは」
「わらわは月野下野守が娘登美じゃ。無礼の儀許そうぞ」

 登美姫はそう言うと、淑姫を見た。淑姫はほとんど表情を変えず、碁石を碁笥ごけに納めていた。

「登美様、あいにくだがわらわは離縁した夫にもはや何の情もない。どうなろうと知ったことではない。名を名乗ろうが、わらわには関わりなき者。さっさと屋敷に戻ったほうが御身のためぞ。別れた女子のことより、領民を慈しむが主の勤めだからな。覆水盆に返らずという言葉を知っておろう」

 少年はうなだれて立ち上がった。

「失礼つかまつる」

 淑姫は初めてそこで振り返った。

「播磨殿はまだお若い。よい女子はいくらでもおる。息災でな」
「息災で」

 少年が座敷を出ると、桂木はほっと大きく息をついた。
 斉陽はふふんと笑った。

「桂木、そなた、嬉しそうに見えるが」
「滅相もございません」

 桂木はそう言うと踵を返して播磨守を追いかけた。

「これでよいのだ」

 淑姫には二年間の家老や重職、奥の女達までも巻き込んだ花尾家での出来事が夢のように思われた。若い藩主の改革を危ぶむ家老や、奥の倹約を進める淑姫を排除したい年寄らの思惑が一致し、淑姫は命の危機の寸前まで追い込まれた。子流しの薬など可愛いものである。幾度、食後に腹を下したことか。これ以上ここにいても何も事態は変わらぬ、己が死ねばかえって殿に迷惑をかけると、淑姫は身を引くことを決意した。殿の嫌う芝居を見に行けば、誰も離縁に文句は言えぬはずであった。それに殿の改革に反対する家老もその責めを負って隠居せざるを得なくなる。
 だが、殿は阿保ではなかったらしい。状況をなんとか自らの考えで動かした。大人になられたものよと思い、淑姫は微笑んだ。
 これでよいのだ。自分が戻ったら、殿は己の言葉を枉げたことになる。それでは臣下の信頼は得られまい。
 それに、淑姫には今はあの少年よりも大事な者がいる。





「梅枝殿、今すぐ屋敷の奥へお戻りを」

 又四郎は広敷の座敷の襖を開けるなり叫んだ。鳴滝も梅枝も呆気にとられていた。

「今すぐ、奥へ。でなければ死人がでますぞ」
「なんじゃと」

 梅枝は顔色を変えた。

「どういうことですか、若殿様」
「どうもこうも。とにかく急いで」

 又四郎は梅枝の腕を引っ張った。

「それがしも参りますゆえ、御錠口をお開けください」
「はあ」

 前代未聞の話であった。分家の奥に本家の若殿を入れるなど。

「時がないのです」
「わかった」

 梅枝はこんな又四郎を見たことがなかった。分家の部屋住みである頃はのんびりと犬の世話などしていたのに。これは大ごとかもしれぬ。
 鳴滝もまたこれは一大事かもしれぬと思った。

「では、奥方様にお知らせを」
「いけません。誰にも言うては」

 又四郎は叫んだ。鳴滝はその迫力に何も言えなくなった。 
 梅枝は何が何やらわからぬが、又四郎に従うことにした。
 広敷の玄関に梅枝の乗って来た乗り物があった。だが、駕籠を担ぐ六尺の姿がなかった。

「六尺はいかがした」

 又四郎は広敷の襖を開けるなり叫んだ。

「六尺は皆酒を飲んで寝ております」

 広敷役人の答えに、又四郎は絶句した。なんということか。

「お帰りが宵になる予定ということで、それまでには酔いも醒めようかと」

 不覚だった。月野家では法事等で寺から屋敷まで戻った六尺には精進落としとして酒が振る舞われていたのだ。帰りが遅くなるので、六尺らは軽く一杯やって昼寝をして酔いを醒まして帰りの乗り物を担いでいたのだった。
 急がねばならぬ。
 又四郎の考えが正しければ、まことの咎人とがにんは分家の奥女中の一人を生贄にするはずである。己の罪をすべて生贄になすりつけるために。





 そこへ現れたのが、佳穂とシロだった。
 番士らはシロが又四郎に抱き付くのを見て、襲われていると思った。なにしろ、シロは普通に四足で立っていても、佳穂の腰のあたりに頭があるのである。二本脚で立てば人の胸のあたりに頭がある。
 佳穂は刀を抜かんばかりの番士らに叫んだ。

「シロは甘えておるだけじゃ」

 番士たちは又四郎がシロを撫でるのを見て、刀から手を離した。

「お佳穂、いかがした」

 又四郎はよもや佳穂がここに来るとは思わなかった。

「いろいろとありまして。あ、そちらは梅枝様」

 又四郎の後ろに梅枝が立っていた。

「分家に戻らねばならぬのだが、六尺が酔って寝ておる。年寄殿を乗り物に乗せぬわけにはいかぬ」

 佳穂は切羽詰まったような顔の又四郎を見て、何やら事情が有るらしいと気づいた。

「分家に行かねばならぬのですか」
「ああ、奥にだ。急がねば人死にが出るやもしれぬ」

 どうやらただ事ではないらしい。

「それでは、壁を超えていけばよいのでは、梯子なら煤払いに使うものがあります」

 佳穂はシロが迷い込んで来た時のことを思い出していた。あの時は壁の破れからシロが入ってきた。

「梅枝殿、梯子は使えますか」

 梅枝は首を振った。梯子に乗るのは火消しだけだと梅枝は思っている。
 そこへやって来た山本が言った。

「壁は壊せばよい。人死にが出るなら梯子で一人ずつでは間に合わぬ。大番一同で不心得者を捕まえましょうぞ」

 又四郎は驚愕した。だが、今はそれしかない。
 佳穂は鳴滝の話を思い出した。

「この前分家との境で普請をした場所は安普請ゆえ、簡単に壊れるはず」
「あれは奥でしたな。とすると、分家の中奥に出ます。誰ぞ、火消し道具を持って参れ」

 山本は部下に命じた。当時の火消しは消火よりも建物の破壊によって延焼を防いでいた。十万石の月野家は独自に火消しの組織を持っており、破壊の道具もそろっていたのである。
 佳穂は先ほどシロとくぐった奥への入口の戸を開けた。まだ誰も閉めていなかった。不用心だと思ったが、ありがたかった。又四郎は急がねばならぬと梅枝の手を引いた。シロもついてくる。又四郎はシロにあることをさせてみようと思った。遊びでやっていたことだが、できるかもしれぬ。
 すぐに大番組の番士らも火消し道具を持ってやって来た。
 佳穂は分家との境の壁まで急いだ。

「ここだな」

 大番組の山本は壁の色で気付いた。そこは奥の台所から二十間(約三十六メートル)ほど離れた場所だった。真新しい白い壁を男達は一斉に大鎚やら鳶口やらを使って破壊し始めた。台所にいた御末達はその音に驚き出て来た。
 出て来なかったのは、おたまと御末の頭だけである。二人はお三奈と番士に連れられ広敷を通って表御殿に向かっていた。
 梅枝が呆気にとられているうちに壁は壊された。人ひとり通れる幅の壁を山本が先導して又四郎と梅枝は分家の中奥に入った。佳穂もシロとともに追った。シロはなじみの場所に来た喜びのせいか、興奮しているようだった。

「なんじゃ、そなたらは」

 分家の警護の番士がすぐに気付いた。山本は言った。

「本家大番組、これより御用の筋あって、奥を調べる」
「聞いておらぬぞ」

 番士は叫んだ。すると梅枝が前に出た。

「本家の若殿様の御命令で急ぎの用ぞ」

 分家の番士は驚き、ははっと頭を下げた。奥の年寄は表の家老に匹敵する役職であった。

「奥までご案内します」

 番士らは奥と中奥を仕切る壁を壊の戸をくぐって奥に入った。
 奥は静かだった。
 又四郎は懐から袱紗を出した。茶室から出て来た父から借りたものである。

「シロ、カメ」

 シロがとことこと又四郎に寄って来た。又四郎はシロの鼻先に袱紗をひらひらさせた。シロはその匂いをクンクンと嗅いだ。

「サーチ」

 又四郎が命じると、シロは走り出した。

「梅枝殿、ついてきてください。シロが連れて行ってくれましょう」

 又四郎は走り出した。梅枝は打掛を脱ぎ捨てて追った。佳穂もついていった。あの袱紗の持ち主は瑠璃姫のはずだった。だが、染みついた香りは叔母川村のものだった。一体、シロはどこへ向かっているのか。不吉な予感を覚えつつも、又四郎から離れたくはなかった。
 大番組は音を立てぬように静かに後を追った。





 瑠璃姫の取り調べを始める前に、調べ座敷の横の小部屋に大番組の山本が来た。
 吉井はその報告で、尼が佐野に襲われたが佐野が誤って負傷したこと、その後、おみちという娘が隣の牢に移される尼を襲ったが未遂に終わったこと、おみちが御末のおたまからお志麻の事件を聞いたことを知った。
 報告の後、シロがまた飛び出したらしく番屋のほうが騒がしくなったので、山本はそれではと小部屋を出た。
 吉井はおたまが本来知るはずのないことを知っていたことに興味を持った。誰かがおたまに教えたに違いなかった。おたまをよくよく調べねばなるまい。手荒なことはしたくないが。
 佐野の件はさらなる重大な問題を含んでいた。
 佐野の謹慎している部屋の前には目付の配下を置いている。ところが佐野はそれを抜け出し座敷牢まで行った。大番組が奥での犬の騒ぎに出動したため、手薄になっていたとはいえ、他にも目付の配下がいたはずである。
 喜久乃屋での赤岩殺害の件でも、目付配下が周辺で見張っていたにもかかわらず、御高祖頭巾の女は見つかっていない。
 となると、結論は一つだった。配下に裏切者がいるということだ。御高祖頭巾の女を気付かれぬように逃し、今日は佐野を部屋から出したのだろう。
 吉井にとって、それは屈辱以外の何者でもなかった。優秀な耳目を持った者を家臣から選び抜き鍛えてきたはずなのに、それが己を、いや家中を裏切ったのだ。
 裏切った者の見当はついていた。
 吉井は外に控えている小田を呼んで耳打ちした。

「畏まりました」

 小田はさっと出て行った。
 昨夜褒めてやっただけなのに、今日の動きは以前より機敏になったように見えた。案外、伸びしろのある男かもしれぬ。
 そう思っていると意外に早く小田は戻って来た。

「早かったな」

 そう声を掛けた吉井は小田の真っ青な顔ですべてを悟った。まだまだ未熟者らしい。

「よ、よ、吉井さま。む、むら、村中さ、まは、は、は、は、はらを」
「みなまで言うな。場所は長屋か」
「は、はい」
「誰も部屋に入れぬようにせよ。番士を使え」
「はい」

 小田は脱兎のごとく部屋から出て行った。
 切腹したのは恐らく拷問を恐れたためであろう。吉井が裏切者に対して残忍な拷問を加えたことは一度や二度ではない。彼もそれを実際に目にしていた。

「愚か者めが」

 村中の三白眼を吉井は思い出していた。
 喜久乃屋の二階に踏み込む前から裏口の見張りに一人で立っており、今日佐野の部屋の前で警護に立っていた村中こそが裏切者だったとは。
 村中の経歴と家族構成を思い出した。彼の妹は分家の家臣の家に嫁いでいた。母親も分家の出だった。国許の父親は分家と隣り合う里の代官だった。分家との関係はずぶずぶと言っていい。
 それでも優秀な横目であったから番士から引き抜いたのだ。いずれは己の後をと思ってもいたのだが。
 この騒動の始末がついたら部下から裏切者を出してしまった己の進退も考えねばなるまい。 





 その頃、表御殿の玄関では桂木が花尾播磨守を見送っていた。
 淑姫との対面の後、桂木は白書院で播磨守に復縁が無理である事情を説明した。
 淑姫への子流しの薬の件は花尾家の留守居役に伝えていたものの、案の定、播磨守の耳には入っていなかった。留守居役は遠回しに奥で嫌がらせがあったとしか話していないらしかった。薬の件を知っていれば、とてもではないが、舅であった御前様のいるこの屋敷に顔を見せることなどできるはずがなかった。
 播磨守は驚愕の余り、しばし絶句していた。

「御前様もたいそう御怒りにございます。さようなことがあれば、復縁は不可能。持参した化粧料を倍にして返していただきたきほど」

 倍返しは大袈裟かと思ったが、桂木はそこまで言わねばわかるまいと思う。

「姫はさぞかし、余を恨んでおろうな」
「播磨守様を恨むなど。なれど、縁組は家と家とのこと。畏れながら時が悪かったのだと存じます」
「時か」
「はい。年回りや周りの方々のお考えなど、他の御家でもうまくゆかぬということはよくあること」
「年回りか……つまり、余が姫に比べて未熟であったということか」

 播磨守の表情が変わったように桂木には思われた。

「未熟などとは滅相もないことでございます」
「いや、そうなのだ。余は、まだまだ至らぬ。すべては奥や家老、そして姫の勝手のせいだと思っていた。姫が芝居を見に行ったのは離縁を余が言いだせるように配慮してのことだと気付き、余のことをまだ慕ってくれているものだと思っていた。だが、気づくのが遅過ぎたのだ。遅過ぎたことにさえ気づかなかった余はまこと未熟者よ」

 播磨守は桂木を見つめた。

「桂木と申したな。姫様に伝えてくれ。幸いを祈っていると」
「畏まりました」

 そういう話をして玄関まで見送ったのであった。
 桂木は遠ざかる乗り物に向かって深々と頭を下げた。
 たとえ未熟であっても、姫を厳しい環境の中で二年の間守ってくれたのだ。感謝するしかない。
 三年後、婚約者に先立たれた分家の登美姫に花尾家との縁談が持ち上がった時、桂木は本家の留守居役として花尾家と分家の間の調整役を務めることとなる。




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