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解ける謎
参 尼の懺悔
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佳穂たちがシロを追って屋敷の番士の控え所である番屋に来た時、ちょうど医師の森山周軒が奥にある座敷牢に入るところであった。
番士の山本に先に戻っていた若い番士が説明していた。
「我らが戻ってくると見張りの者が倒されており、尼の牢をのぞいたところ、血が畳の上に。尼が倒れている横に、うつ伏せに倒れている男がおりました。恐らく尼を殺し、自害したものと思われます。見張りは詰所に運んだ後に目を覚ましました。誰かわからぬが頭を棒のようなもので叩かれたと申しております」
「お志麻の方は」
「そちらは無事でした。ただ隣の牢ゆえ気配の異常を感じ、怯えております」
佳穂は凄惨なありさまを想像し身震いした。
「誰ぞ、来てくれぬか」
牢から森山周軒の声が聞こえた。山本は走った。シロがそれを追ったので、佳穂も追いかけた。小姓とお三奈も続いた。
「シロ、のお」
だが、シロは佳穂の命令がわからないらしく走っていく。
佳穂は血まみれの牢など見たくはなかったが、シロをそのままにしておけず、結局座敷牢の戸口まで来てしまった。シロは中に入らずそこで足を止めた。佳穂も血の臭いにわざわざ戸を開けて中を覗くことなどできなかった。小姓は入ろうとしたが、シロの世話が仕事であるから入るわけにはいかなかった。
小姓はとりあえずシロに命じた。
「すいっと」
シロはさっとその場に座った。が、次の瞬間、女の声が聞こえ、佳穂はぎょっとした。
「あたしは生きてるよ。こいつが襲ってきたんで、数珠を足元に投げたら勝手にひっくり返って、抜き身の刀が自分の身体に当たって、このざまさ」
「この者、息があるぞ」
周軒の声がした。山本が叫んだ。
「こやつは、若殿様付きの佐野ではないか」
シロがくーんと甘えるように鳴いた。一体これはどういうことなのか。佐野も取り調べを受けており、たやすく他の牢に行けるはずがないのに。佳穂は立ちすくむばかりだった。
その背後ではおみちがゆっくりと座敷牢の戸口へと近づいていく。
彼女は佳穂たちより先に番所のそばまで来て隠れていた。
番士たちの騒ぎを聞きつけ、誰かに先を越されたと思ったが、まだ尼は生きていたらしい。皆が慌てている今なら。
不意に佳穂は背後から殺気めいたものが近づく気配を感じた。反射的に振り返ると、おみちがそこにいた。紅潮した顔、鞘を抜いた懐剣が目に入った。
「おみち、何を」
その言葉を発するとほぼ同時に、おみちは駆け出していた。
「よくも、御方様をたばかったなああ」
叫んで目の前にいたお三奈を突き飛ばして戸口を開け、中に入った。突き飛ばされたお三奈は尻もちをついたまま呆然としていた。小姓は驚き、大丈夫かとお三奈に駆け寄った。
佳穂はおみちを止めようと走った。シロがそれを追った。
戸口の先は土間になっており、牢は一段高くなっていた。尼は牢から出され番士によって隣の牢に移されるところであった。尼のいた牢では佐野が森山の治療を受けており、そこに尼を置くわけにはいかなかったのだ。
番士が牢の鍵を開けるために尼から離れた瞬間、おみちは尼めがけて抜き身の懐剣を振りかざした。尼は驚いたのかその場からあっと叫んだまま動けなかった。
いけない。佳穂はおみちの袖を掴もうと手を伸ばした。気付いた山本が刀の鯉口を切った。
ああ、おみちが斬られると思った時だった。
「シロ、ゴアヘッド」
男の声を聞くや否やシロがおみちの腰に飛びかかった。驚いたおみちに生じた隙を見た佳穂が背後から手首を掴むと、懐剣が土間の上に落ちた。山本は刀を抜かずに、土間の上でシロに押さえつけられているおみちを取り押さえた。
佳穂はおみちの懐剣を拾った。
「おみち、しっかりせよ」
そう声を掛けたが返事はない。ただすすり泣きだけが聞こえた。
「シロ、リリース」
佳穂は声のした方を見た。牢の中の佐野だった。医師の治療を受けながらも彼は状況を察し、シロに指示を与えたのだ。
「佐野様、ありがとうございます」
「御方様、それがし、には、かようなことしか、できませぬ、お許しを」
苦し気な声だった。
「話はそこまで。傷に障る」
そう言った森山に佐野は従った。
おみちから離れたシロは牢の中の佐野を見つめ、クーンと悲し気に鳴いた。
「ちょいと、さっさと仕事をおしよ」
尼はそう言うと、自分から隣の牢に入った。
おみちの声に驚き、格子をつかんで外の様子を伺っていたお志麻は、尼よりもおみちのことが気になって仕方ないらしく、尼には目もくれなかった。
番士は鍵をかけると、まだすすり泣くおみちを、取り押さえている山本とともに立ち上がらせた。
「おみちは乱心したのです。決して正気での仕業ではありません」
おみちがなぜ尼がお志麻を唆したことを知ったのかはわからぬが、佳穂はここは乱心ということにして収めておきたかった。正気でやったことならば重罪になる恐れがあった。
「なれど、屋敷の中で剣を振るうは重罪」
山本はそう言うと、おみちをお志麻の入っている牢の前に連れて行った。
お志麻は格子を掴んだまま、おみちの姿を見てああっと声を上げた。
「御方様」
おみちもまたそれしか言えなかった。涙だけが両の目からぽたぽたと落ちて土間を濡らした。
「まったく、馬鹿な主従だねえ」
伶観は二人を見て言った。
振り返ったお志麻は尼の衣に血が付いているのに驚いた。
「伶観様、大丈夫ですか」
「大丈夫。やれやれ、あんたにも申し訳ないことをしたよ」
「え」
二人はこれまで別々に取り調べられていたので、言葉を交わすのは中屋敷以来のことであった。
尼はその時の厳めしさをかなぐり捨てて、伝法な口振りであった。それだけでも驚きなのに、さらに彼女は言った。
「悪いことはできないもんだね。二度、いや三度も殺されかけるなんてさ。因果応報さ。まるで八犬伝じゃないか」
この数年前に曲亭馬琴の読本「南総里見八犬伝」が完結していた。二十八年に渡って出版されたため、お志麻も題名だけは知っていた。伶観は中身を少しは知っているようであった。
「巡る因果の糸車ってやつだね。まあ、私は船虫ほどワルじゃないけどさ。あんたはあたしみたいになっちゃあダメだよ」
「伶観様の教えがなければ、私はあの屋敷で若殿様に寵愛されなかったかもしれません。それに他の女の嫌がらせにだって耐えられた」
お志麻にとって伶観は大恩人だった。それが悪女のはずはなかった。
「大川端で会った時に、あんたのこと父親は死んで母親は大工の棟梁と所帯を持ったって言ったろ。あれはある人に教えられたんだよ。あんたに取り入ってお屋敷に入るためにさ」
「うそでしょ」
「嘘じゃないよ。イカサマ尼が身体を売れなくなったら、生きてくためには大名の側室や大店のおかみさんにでも取り入るしかないからね」
「そんな……」
「あんたは悪い夢を見たんだ。大名屋敷で若殿様に愛されたあんたに取り入る悪い尼に唆されて人をあやめようとしてしまったっていう夢さ。あんたは悪くないんだよ。町方だから、あんたはじきにここを出されて家に戻れるんだろ。そしたら、これまでのことは忘れて、幸せになるんだよ。まだ若いんだし、何より、きれいなんだから。ああ、あたしもあんたぐらいの年に、いや、この嬢ちゃんくらいの時にお前の生き方はおかしいって言ってくれる人がいたらねえ。今更言っても仕方ないけどさ。嬢ちゃん、あんたもだよ。刀なんぞ振り回しちゃ駄目だ」
それきり尼は口を閉じた。見張りの者が黙れと言いそうな顔になったからである。
伶観は正座したまま、外と中を隔てる格子を見つめていた。
お志麻は目の前のおみちを見つめた。
「おみち、すまぬ。心配をかけて」
「御方様、申し訳ありません」
やっとのことで口に出せたおみちは唇をぎゅっと噛みしめた。
主はこんなイカサマ尼に騙されていたのだ。己のやったことを棚に上げ、悪い夢を見たなどと言ってのけるようないい加減な尼に。こんな尼を殺そうとした己まで、阿呆に思えてくる。
「おみちとやら、早まってはならぬ。そちはうちの娘とさほど変わらぬ年頃に見える。早まって、この中に入ったら、主もそなたを止めようとしたお佳穂の方様も、国の親も悲しむことになる」
山本はそう言うと、心配そうな顔でおみちを見つめる佳穂を見た。
「この娘はまだ年端もゆかぬゆえ、奥の預かりにするように鳴滝様に伝えるが、よいか」
「はい。お心遣い、まことにありがたきこと」
佳穂は安堵した。おみちはこの一件で監禁された被害者でもあった。それが彼女を巻き込んだ尼を襲ったからといって目付らに取り調べられるというのは合点のゆかぬ話であった。
ただ、気になることがあった。
落ち着いてきたように見えたので、佳穂は尋ねた。
「おみち、誰がそなたに尼のことを話した」
「それは」
わずかに躊躇の色が見えた。
「お嬢ちゃん、はっきり言っちまいな。でないと、後悔するよ」
伶観の声が牢の奥から聞こえた。おみちは決めた。
「おたまさんです。お昼に台所に用があって行ったら、こっそり耳打ちして教えてくれました」
「おたまが」
淑姫様付きの小姓から御末に下げられたおたまが。佳穂は山本に小声で言った。
「おたまは御末ですから、知るはずがありません」
「おかしいな」
佳穂は外にいるお三奈を呼んだ。入って来たお三奈は血の臭いに驚いたものの、主のお呼びなので我慢して、はいと返事をした。
「山本様、お三奈におたまを呼びにやらせます」
「そうだな」
先ほどのように奥に番士が入れるのは非常事態だけである。山本はお三奈に番士を一人つけて、奥におたまを呼びにやらせた。お三奈はすぐに駆けだした。
その姿を先ほどまで突き飛ばされたお三奈に付き添っていた小姓がじっと見つめていた。彼の心に灯った小さな恋心が実るのはこの五年後となる。
佐野覚兵衛の傷はさほど深くはなかった。覚兵衛の話によれば、不埒者の尼を斬ろうとしたが、尼が足元に投げた数珠で転んで、我が身を我が刀で傷付けることになったということだった。尼はその出血に驚き失神したのを番士が勘違いして斬られたと騒ぎになり、医者が来て初めて事実の誤認に皆気付いたのだった。
だが、どのようにして謹慎していた座敷から出たのか、それについては口をつぐんでいた。
何より、一体、なぜ、佐野は尼を斬ろうとしたのか。
佳穂はおみちとシロと小姓とともに、番士の詰め所に入った。おたまが連れて来られるまでおみちとともに待つつもりであった。シロは佐野が気になるのか、しきりに詰所から出たそうであったが、小姓がそれをなだめていた。
おみちはうつむいたままだった。
そこへ大勢の足音が聞こえた。シロは緊張したのか耳をぴんと立てた。佳穂は詰所の戸を開けて外に出た。書院番たちと目付の吉井の姿が、ついで瑠璃姫の姿が見えた。その後ろにも書院番士がついていた。
佳穂は瑠璃姫に頭を下げた。捕われの身であっても分家の奥方様なのだ。
瑠璃姫は何も言わずまっすぐ前に視線を向けたまま通り過ぎた。
身分の高い者の取り調べは、番屋ではなく御殿の中の小座敷を使用することになっている。瑠璃姫はその座敷へ連れて行かれるのであろう。
何かがおかしい。
佳穂は国許にいる頃罪人を見た事がある。陣屋に連行された彼らは盗みや狼藉を働いた者達がほとんどだった。彼らは不貞腐れたような顔をして役人に引っ張られて行った。中には罪を素直に認めて大人しくしている者もいたが、彼らは恥じて顔を伏せていた。
だが、瑠璃姫の顔はそんな顔ではない。遠くから見てもどこか困惑しているように感じられた。
後からついてきた書院番士が大番の者に話す声が聞こえた。大きな声ではないが、彼らの声はよく通る。
「下野守様は離縁をすると」
「であろうな」
御前様は下野守の前で瑠璃姫の罪を問い詰めたのだろう。下野守はそれで離縁と言いだしたのか。
家を守るためには致し方のないことだと佳穂は思った。だが、何かが引っかかった。
「シロ、いかがした」
小姓が叫んだ。シロが詰所から必死で出ようと縄を引いたのである。
彼の顔は座敷牢ではなく、番士たちが来た方向を向いていた。
「うわっ」
またもシロの縄が小姓の手から離れた。小姓はシロを追った。佳穂もまた走った。佳穂が見るところ、この小姓は走るのが遅かった。佳穂のほうがよほど早いので追い抜いてしまった。その後から番士らもシロを追いかけた。
おみちは呆気に取られて彼らの後ろ姿を見送った。
広い屋敷の庭をまるで目的があるかのように、シロはまっすぐ駆けた。
広敷の玄関前でやっとシロは止まった。
佳穂はそこにいる人を見て、息を呑んだ。
「お佳穂!」
叫ぶ又四郎の胸に飛び込んだのは、シロだった。後ろ足だけで立って前足で抱き付いたシロは尻尾を激しく振っていた。
少しだけ、佳穂はシロを羨ましく思った。
番士の山本に先に戻っていた若い番士が説明していた。
「我らが戻ってくると見張りの者が倒されており、尼の牢をのぞいたところ、血が畳の上に。尼が倒れている横に、うつ伏せに倒れている男がおりました。恐らく尼を殺し、自害したものと思われます。見張りは詰所に運んだ後に目を覚ましました。誰かわからぬが頭を棒のようなもので叩かれたと申しております」
「お志麻の方は」
「そちらは無事でした。ただ隣の牢ゆえ気配の異常を感じ、怯えております」
佳穂は凄惨なありさまを想像し身震いした。
「誰ぞ、来てくれぬか」
牢から森山周軒の声が聞こえた。山本は走った。シロがそれを追ったので、佳穂も追いかけた。小姓とお三奈も続いた。
「シロ、のお」
だが、シロは佳穂の命令がわからないらしく走っていく。
佳穂は血まみれの牢など見たくはなかったが、シロをそのままにしておけず、結局座敷牢の戸口まで来てしまった。シロは中に入らずそこで足を止めた。佳穂も血の臭いにわざわざ戸を開けて中を覗くことなどできなかった。小姓は入ろうとしたが、シロの世話が仕事であるから入るわけにはいかなかった。
小姓はとりあえずシロに命じた。
「すいっと」
シロはさっとその場に座った。が、次の瞬間、女の声が聞こえ、佳穂はぎょっとした。
「あたしは生きてるよ。こいつが襲ってきたんで、数珠を足元に投げたら勝手にひっくり返って、抜き身の刀が自分の身体に当たって、このざまさ」
「この者、息があるぞ」
周軒の声がした。山本が叫んだ。
「こやつは、若殿様付きの佐野ではないか」
シロがくーんと甘えるように鳴いた。一体これはどういうことなのか。佐野も取り調べを受けており、たやすく他の牢に行けるはずがないのに。佳穂は立ちすくむばかりだった。
その背後ではおみちがゆっくりと座敷牢の戸口へと近づいていく。
彼女は佳穂たちより先に番所のそばまで来て隠れていた。
番士たちの騒ぎを聞きつけ、誰かに先を越されたと思ったが、まだ尼は生きていたらしい。皆が慌てている今なら。
不意に佳穂は背後から殺気めいたものが近づく気配を感じた。反射的に振り返ると、おみちがそこにいた。紅潮した顔、鞘を抜いた懐剣が目に入った。
「おみち、何を」
その言葉を発するとほぼ同時に、おみちは駆け出していた。
「よくも、御方様をたばかったなああ」
叫んで目の前にいたお三奈を突き飛ばして戸口を開け、中に入った。突き飛ばされたお三奈は尻もちをついたまま呆然としていた。小姓は驚き、大丈夫かとお三奈に駆け寄った。
佳穂はおみちを止めようと走った。シロがそれを追った。
戸口の先は土間になっており、牢は一段高くなっていた。尼は牢から出され番士によって隣の牢に移されるところであった。尼のいた牢では佐野が森山の治療を受けており、そこに尼を置くわけにはいかなかったのだ。
番士が牢の鍵を開けるために尼から離れた瞬間、おみちは尼めがけて抜き身の懐剣を振りかざした。尼は驚いたのかその場からあっと叫んだまま動けなかった。
いけない。佳穂はおみちの袖を掴もうと手を伸ばした。気付いた山本が刀の鯉口を切った。
ああ、おみちが斬られると思った時だった。
「シロ、ゴアヘッド」
男の声を聞くや否やシロがおみちの腰に飛びかかった。驚いたおみちに生じた隙を見た佳穂が背後から手首を掴むと、懐剣が土間の上に落ちた。山本は刀を抜かずに、土間の上でシロに押さえつけられているおみちを取り押さえた。
佳穂はおみちの懐剣を拾った。
「おみち、しっかりせよ」
そう声を掛けたが返事はない。ただすすり泣きだけが聞こえた。
「シロ、リリース」
佳穂は声のした方を見た。牢の中の佐野だった。医師の治療を受けながらも彼は状況を察し、シロに指示を与えたのだ。
「佐野様、ありがとうございます」
「御方様、それがし、には、かようなことしか、できませぬ、お許しを」
苦し気な声だった。
「話はそこまで。傷に障る」
そう言った森山に佐野は従った。
おみちから離れたシロは牢の中の佐野を見つめ、クーンと悲し気に鳴いた。
「ちょいと、さっさと仕事をおしよ」
尼はそう言うと、自分から隣の牢に入った。
おみちの声に驚き、格子をつかんで外の様子を伺っていたお志麻は、尼よりもおみちのことが気になって仕方ないらしく、尼には目もくれなかった。
番士は鍵をかけると、まだすすり泣くおみちを、取り押さえている山本とともに立ち上がらせた。
「おみちは乱心したのです。決して正気での仕業ではありません」
おみちがなぜ尼がお志麻を唆したことを知ったのかはわからぬが、佳穂はここは乱心ということにして収めておきたかった。正気でやったことならば重罪になる恐れがあった。
「なれど、屋敷の中で剣を振るうは重罪」
山本はそう言うと、おみちをお志麻の入っている牢の前に連れて行った。
お志麻は格子を掴んだまま、おみちの姿を見てああっと声を上げた。
「御方様」
おみちもまたそれしか言えなかった。涙だけが両の目からぽたぽたと落ちて土間を濡らした。
「まったく、馬鹿な主従だねえ」
伶観は二人を見て言った。
振り返ったお志麻は尼の衣に血が付いているのに驚いた。
「伶観様、大丈夫ですか」
「大丈夫。やれやれ、あんたにも申し訳ないことをしたよ」
「え」
二人はこれまで別々に取り調べられていたので、言葉を交わすのは中屋敷以来のことであった。
尼はその時の厳めしさをかなぐり捨てて、伝法な口振りであった。それだけでも驚きなのに、さらに彼女は言った。
「悪いことはできないもんだね。二度、いや三度も殺されかけるなんてさ。因果応報さ。まるで八犬伝じゃないか」
この数年前に曲亭馬琴の読本「南総里見八犬伝」が完結していた。二十八年に渡って出版されたため、お志麻も題名だけは知っていた。伶観は中身を少しは知っているようであった。
「巡る因果の糸車ってやつだね。まあ、私は船虫ほどワルじゃないけどさ。あんたはあたしみたいになっちゃあダメだよ」
「伶観様の教えがなければ、私はあの屋敷で若殿様に寵愛されなかったかもしれません。それに他の女の嫌がらせにだって耐えられた」
お志麻にとって伶観は大恩人だった。それが悪女のはずはなかった。
「大川端で会った時に、あんたのこと父親は死んで母親は大工の棟梁と所帯を持ったって言ったろ。あれはある人に教えられたんだよ。あんたに取り入ってお屋敷に入るためにさ」
「うそでしょ」
「嘘じゃないよ。イカサマ尼が身体を売れなくなったら、生きてくためには大名の側室や大店のおかみさんにでも取り入るしかないからね」
「そんな……」
「あんたは悪い夢を見たんだ。大名屋敷で若殿様に愛されたあんたに取り入る悪い尼に唆されて人をあやめようとしてしまったっていう夢さ。あんたは悪くないんだよ。町方だから、あんたはじきにここを出されて家に戻れるんだろ。そしたら、これまでのことは忘れて、幸せになるんだよ。まだ若いんだし、何より、きれいなんだから。ああ、あたしもあんたぐらいの年に、いや、この嬢ちゃんくらいの時にお前の生き方はおかしいって言ってくれる人がいたらねえ。今更言っても仕方ないけどさ。嬢ちゃん、あんたもだよ。刀なんぞ振り回しちゃ駄目だ」
それきり尼は口を閉じた。見張りの者が黙れと言いそうな顔になったからである。
伶観は正座したまま、外と中を隔てる格子を見つめていた。
お志麻は目の前のおみちを見つめた。
「おみち、すまぬ。心配をかけて」
「御方様、申し訳ありません」
やっとのことで口に出せたおみちは唇をぎゅっと噛みしめた。
主はこんなイカサマ尼に騙されていたのだ。己のやったことを棚に上げ、悪い夢を見たなどと言ってのけるようないい加減な尼に。こんな尼を殺そうとした己まで、阿呆に思えてくる。
「おみちとやら、早まってはならぬ。そちはうちの娘とさほど変わらぬ年頃に見える。早まって、この中に入ったら、主もそなたを止めようとしたお佳穂の方様も、国の親も悲しむことになる」
山本はそう言うと、心配そうな顔でおみちを見つめる佳穂を見た。
「この娘はまだ年端もゆかぬゆえ、奥の預かりにするように鳴滝様に伝えるが、よいか」
「はい。お心遣い、まことにありがたきこと」
佳穂は安堵した。おみちはこの一件で監禁された被害者でもあった。それが彼女を巻き込んだ尼を襲ったからといって目付らに取り調べられるというのは合点のゆかぬ話であった。
ただ、気になることがあった。
落ち着いてきたように見えたので、佳穂は尋ねた。
「おみち、誰がそなたに尼のことを話した」
「それは」
わずかに躊躇の色が見えた。
「お嬢ちゃん、はっきり言っちまいな。でないと、後悔するよ」
伶観の声が牢の奥から聞こえた。おみちは決めた。
「おたまさんです。お昼に台所に用があって行ったら、こっそり耳打ちして教えてくれました」
「おたまが」
淑姫様付きの小姓から御末に下げられたおたまが。佳穂は山本に小声で言った。
「おたまは御末ですから、知るはずがありません」
「おかしいな」
佳穂は外にいるお三奈を呼んだ。入って来たお三奈は血の臭いに驚いたものの、主のお呼びなので我慢して、はいと返事をした。
「山本様、お三奈におたまを呼びにやらせます」
「そうだな」
先ほどのように奥に番士が入れるのは非常事態だけである。山本はお三奈に番士を一人つけて、奥におたまを呼びにやらせた。お三奈はすぐに駆けだした。
その姿を先ほどまで突き飛ばされたお三奈に付き添っていた小姓がじっと見つめていた。彼の心に灯った小さな恋心が実るのはこの五年後となる。
佐野覚兵衛の傷はさほど深くはなかった。覚兵衛の話によれば、不埒者の尼を斬ろうとしたが、尼が足元に投げた数珠で転んで、我が身を我が刀で傷付けることになったということだった。尼はその出血に驚き失神したのを番士が勘違いして斬られたと騒ぎになり、医者が来て初めて事実の誤認に皆気付いたのだった。
だが、どのようにして謹慎していた座敷から出たのか、それについては口をつぐんでいた。
何より、一体、なぜ、佐野は尼を斬ろうとしたのか。
佳穂はおみちとシロと小姓とともに、番士の詰め所に入った。おたまが連れて来られるまでおみちとともに待つつもりであった。シロは佐野が気になるのか、しきりに詰所から出たそうであったが、小姓がそれをなだめていた。
おみちはうつむいたままだった。
そこへ大勢の足音が聞こえた。シロは緊張したのか耳をぴんと立てた。佳穂は詰所の戸を開けて外に出た。書院番たちと目付の吉井の姿が、ついで瑠璃姫の姿が見えた。その後ろにも書院番士がついていた。
佳穂は瑠璃姫に頭を下げた。捕われの身であっても分家の奥方様なのだ。
瑠璃姫は何も言わずまっすぐ前に視線を向けたまま通り過ぎた。
身分の高い者の取り調べは、番屋ではなく御殿の中の小座敷を使用することになっている。瑠璃姫はその座敷へ連れて行かれるのであろう。
何かがおかしい。
佳穂は国許にいる頃罪人を見た事がある。陣屋に連行された彼らは盗みや狼藉を働いた者達がほとんどだった。彼らは不貞腐れたような顔をして役人に引っ張られて行った。中には罪を素直に認めて大人しくしている者もいたが、彼らは恥じて顔を伏せていた。
だが、瑠璃姫の顔はそんな顔ではない。遠くから見てもどこか困惑しているように感じられた。
後からついてきた書院番士が大番の者に話す声が聞こえた。大きな声ではないが、彼らの声はよく通る。
「下野守様は離縁をすると」
「であろうな」
御前様は下野守の前で瑠璃姫の罪を問い詰めたのだろう。下野守はそれで離縁と言いだしたのか。
家を守るためには致し方のないことだと佳穂は思った。だが、何かが引っかかった。
「シロ、いかがした」
小姓が叫んだ。シロが詰所から必死で出ようと縄を引いたのである。
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またもシロの縄が小姓の手から離れた。小姓はシロを追った。佳穂もまた走った。佳穂が見るところ、この小姓は走るのが遅かった。佳穂のほうがよほど早いので追い抜いてしまった。その後から番士らもシロを追いかけた。
おみちは呆気に取られて彼らの後ろ姿を見送った。
広い屋敷の庭をまるで目的があるかのように、シロはまっすぐ駆けた。
広敷の玄関前でやっとシロは止まった。
佳穂はそこにいる人を見て、息を呑んだ。
「お佳穂!」
叫ぶ又四郎の胸に飛び込んだのは、シロだった。後ろ足だけで立って前足で抱き付いたシロは尻尾を激しく振っていた。
少しだけ、佳穂はシロを羨ましく思った。
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兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
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