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解ける謎

弐 茶室の対決

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 何やら外がざわついているように感じたものの、今は目の前のことに集中すべきと月野丹後守斉尚は茶を立てた。
 ここは表御殿に隣接した茶室である。表御殿の玄関とは反対側にあり、喧騒とは無縁の世界だった。茶室の周囲は低い植え込みと竹垣に囲まれている。恐らく、今は書院番士と目付、それに又四郎慶温と小姓らが竹垣の周辺に控えているはずである。彼らは殺気を押し隠し茶屋を囲み、万一に備えている。
 上座から順に月野斉理、瑠璃姫が座っていた。斉尚は亭主、聡姫は亭主を補佐する半東はんとうとして控えていた。すでに茶菓子を二人の前に出している。
 斉尚が茶を立てると、聡姫は主客の斉理に茶を出した。斉理は「お先に」と瑠璃姫に向かってお辞儀をしした。

「お点前頂戴します」

 斉尚にお辞儀をした斉理は礼法通りに茶を喫した。次の瑠璃姫も夫同様に茶を喫した。
 ごく内輪の茶なので、聡姫はすぐには茶碗を斉尚に返さなかった。

「下野守殿、まことにこたびはいろいろと世話になった」

 斉尚の礼に斉理は微笑んだ。

「困った時はお互い様と言う。光信院様のことは残念であったが、又四郎が御役に立ててよかった」
「まことに、又四郎殿はまじめで、余には勿体ない世継ぎ」

 そう言うと、斉尚は瑠璃姫に顔を向けた。

「奥方様もそう思わぬか」
「はあ」

 瑠璃姫の返事はどこか気が抜けているように感じられ、聡姫は違和感を覚えた。夫の話では、又四郎の命を狙ったり、佳穂に子流しの薬を贈ったりした黒幕だということであったが。

「なれど、蘭癖の方ゆえ、無駄遣いなどせねばよいのですが」

 瑠璃姫が又四郎の蘭癖を好ましく思っていないのは相変わらずのようだった。

「ところで」

 斉尚は己の袂から袱紗を取り出した。

「かようなものが先日我が家に届けられたのだが」

 斉尚は袱紗を広げた。月に片耳折れ兎の紋と紅梅の印が鮮やかだった。

「これは」

 斉理は顔色を変えた。瑠璃姫はいぶかしげに首をひねった。

「これはわらわのものじゃ。三ケ月ほど前から見えなくなっておったが、どこにあったのか」
「やはり、奥方様のものか」

 斉尚はそう言うと、瑠璃姫を見た。

「瑠璃殿、これはな、先日、広尾村でさる尼が浪人者に斬りつけられた折に、浪人が落とした袱紗でな、一分銀が八枚包まれていたと奉行所の者が持って来たのだ」

 瑠璃姫はきょとんとした顔であった。

「浪人が持っていたのか」
「そういうことだ。だが、浪人はあくる日の宵に品川の茶屋で御高祖頭巾の奥女中らしい女子に殺された。浪人の名は赤岩半兵衛と申して、元は星川家に仕えていたとのこと。不義密通を理由に放逐されたという。ご存知ないか」
「存じません」

 瑠璃姫は相変わらずきょとんとした顔で答えた。
 が、斉理は顔を震わせていた。

「一体、どういうことなのだ、丹後守殿。よもや奥が浪人に命じて尼を殺そうとしたというのか」
「はあっ」

 瑠璃姫は夫の言葉に初めて驚きを見せた。

「浪人だの尼だの、一体何のことじゃ。わけがわからぬ」

 斉尚はあまりのしらじらしさに、怒りを覚え始めていた。

「だが、瑠璃殿、この袱紗はそなたのものではないか。それを浪人が持っていたのはいかなることだ。しかも銀が包まれていたのだ」
「確かにわらわのものなれど、浪人とか銀とか一体何の話ぞ。わらわは銀など触れたこともないぞ。それに尼とは誰ぞ」

 聡姫はなんだかおかしいと感じ始めていた。夫の言ったことは筋が通っていたのだが、目の前の瑠璃姫を見ていると、とても又四郎の暗殺を企んだとは思えない。
 何より、瑠璃姫の言うように聡姫もまた金や銀、銭というものを触ったこともなければ見たこともないのだ。子どもの頃から、汚らわしいものゆえ触ってはならぬと厳しく育てられているのだから。淑姫がもももんじ屋の掛けをさほど気にしていなかったのも、それゆえであった。

「御前様、おそれながら」

 聡姫はおかしいと言おうと思ったが、斉尚のほうが声が大きかった。

「実は先日、又四郎殿が寝所で殺されかかったのだ。中屋敷から連れ出されたお志麻の方が光信院の仇と言ってな」
「まあ、怖い」

 瑠璃姫は怯えていた。だが、斉尚にはそれがますますしらじらしく思われた。

「お志麻の方は、尼に仇と唆されて又四郎の命を狙ったのだ。又四郎のせいで光信院が死んだのだと思い込んでな。その尼が広尾村で浪人に斬りつけられたのだ。尼の元には女乗り物に乗った奥女中らしい者が出入りしていて、お志麻を唆す様に命じたのだ。また、奥女中は自分の主人のことを占って欲しいと言っていた。文化三年丙寅水無月八日に江戸で生まれた女主人のな。瑠璃殿、そなた丙寅の生まれであろう」
「確かに丙寅だか」

 瑠璃姫はそう言った後で、首をひねった。

「本当は睦月むつきの生まれなのだが。水無月生まれになったのは、身体が弱くてもたぬと父が思ってすぐに届けを出さなかったからじゃ。それでは占いは当たらぬのではないか」

 誕生の月日が実際と違うのは大名の子女にはよくあることであった。
 斉尚は瑠璃姫の的外れな言葉にいよいよ腹を立てた。

「占いの当たる当たらぬではない。そなた、又四郎を亡き者にしようとしたのであろう。しかも、お佳穂には子流しの薬など贈っておるではないか」
「又四郎殿を亡き者にとは、なぜじゃ。又四郎をわらわがなぜ殺さねばならぬのだ。それに子流しの薬とは何ぞ。お佳穂の方に贈ったは滋養強壮の薬ぞ」

 瑠璃姫はそう言うと夫を見た。

「殿様、そうではありませんか」

 だが、斉理は顔を真っ赤にして叫んだ。

「なんということを。そなたは、そなたは、又四郎憎しでさようなことまで。ええい、離縁じゃ。星川の家に戻れ。そなたの顔など見とうはない」

 瑠璃姫は夫の言葉に反論しなかった。ただ、青ざめた顔で黙って夫を見つめていた。

「丹後守殿、まことに申し訳ない。我が妻の不始末はそれがしにも責任がある。こうなっては奥を離縁し、それがしは隠居いたす。どうか、それで奥を許してもらえぬか」
「浪人を殺した奥女中、それに、尼の元に通っていた奥女中は、誰なのでしょう」

 聡姫は瑠璃姫に向かって尋ねた。
 瑠璃姫はそれには答えずに言った。

「要するに、わらわが実家に戻れば、すべてが治まると」

 その冷静な口調に聡姫は違和感を覚えた。おかしい。何かが変だ。

「そうじゃ。そなたが悪いのだ」

 斉理は叫んだ。
 斉尚は瑠璃姫がまったく反省の色を見せぬのが腹立たしかった。実家に戻ればいいというものではあるまい。

「わらわが身を引けばよいのであろう」

 瑠璃姫は静かに微笑んで躙り口へと向かった。
 聡姫は何かが違うと思った。だが、どうすればよいのか。
 夫はまだ怒りで顔を赤くしていた。斉理は肩を落としていた。

「誠に申し訳ない。我が不徳のいたすところ」

 聡姫はその姿を見つめた。何かがおかしい。





 茶室の外に出た瑠璃姫は周囲を取り囲む男達を不思議なものを見るように見ていた。

「そなたら、なんじゃ」

 男達の中から目付の吉井采女が進み出た。

「当家の目付、吉井采女と申します。お話を伺いたいことがございます。こちらへおいで願えませんか」
「話とは何ぞ。わらわに何を聞きたいのだ」
「若殿様の一件です」
「それは困った。わらわはわけがわからぬのだが。あの袱紗は確かにわらわのものだが三ケ月前になくなったもの。尼だの浪人だのと言われても、何がなにやら」

 瑠璃姫は目付の背後にいる又四郎に気付いた。

「おや、又四郎殿、ここまでおいでになったのか。そなた殺されかかったそうじゃのう。大変なことであったな。怪我はなかったのか」
「怪我はありません」
「それはよかった。ところで、わらわはなぜそなたを殺さねばならぬのであろうか。殺すというなら、分家にいる時であろうにな。おかしい話じゃ」

 瑠璃姫は微笑んだ。
 又四郎ははっとした。
 これまで感じていた違和感の正体がうっすらとわかった気がした。
 瑠璃姫から殺意を感じたことなど一度でもあっただろうか。分家にいた時たまに正月等に挨拶に伺うと、いつも持って行けと言って笑ってしまうほど大量の菓子を持たされたものだった。あの菓子はうまかった。殺すならあの菓子に毒を入れればよかったのだ。
 振り返って考えれば、町方の出のお志麻の方が又四郎を殺せるだろうか。殺せるはずはないのだ。彼女は特に武芸を習得しているわけではない。
 又四郎を本気で殺すなら、側近の梶田仁右衛門を唆せばよい。あるいは、本家についてきた三人の中の誰か一人を。梶田も佐野も又四郎同様、神田於玉ヶ池の北辰一刀流の道場玄武館で修業し免状を得ているのだから。
 尼にしても、剣の心得があればすぐに切り捨てることもできよう。だが、浪人赤岩は手を傷つけただけであった。そして現場に袱紗を落とした。一分銀八枚とともに。偶然にしては出来過ぎている。二両の価値のあるものを簡単に落とすものだろうか。袱紗ごと落とさぬように懐の奥深くにしまうはずである。
 まるで、袱紗の持ち主を特定させようとするかのように。
 吉井采女もまた、何か腑に落ちぬものを感じていた。配下の者は品川の茶屋にいた御高祖頭巾の女を見つけることができなかった。まだ暑いこの時期に目以外すべて覆い隠した御高祖頭巾姿はかなり目立つはずである。それに奥女中が走って逃げるなどありえない。周辺の駕籠かきを調べても、そんな女を乗せたり見たりした者はいない。位の高い奥女中が乗るような女乗り物もその日のその刻限には付近を通っていない。御高祖頭巾の女など本当は存在しなかったのではないかと思われるほどだった。
 瑠璃姫を追及すれば女の正体がわかるかもしれない。だが、目の前の瑠璃姫は子どものように無抵抗で、殺しを命じたり、子流しの薬を贈ったりするようには見えなかった。おかしい。吉井のこれまでの経験に照らし合わせても、瑠璃姫の態度はあまりに不可解だった。
 さらには昨日判明した喜久屋と分家のつながりがある。特に芝居を好むようには見えぬ瑠璃姫と喜久屋に関わりがあるようには思えない。
 だが、吉井は瑠璃姫を番所に連行するために来たのである。

「奥方様、表御殿でお話を少々伺わせていただけませんか」

 吉井の言葉に瑠璃姫は困ったような顔になった。

「わらわは殿様に離縁されることになったゆえ、奥方様と呼ばれるのはおかしいと思うのだが」

 離縁。又四郎ははっとした。

「御公儀に届けを出すまでは奥方様です」

 吉井は言った。

「そうか。では参ろう」

 瑠璃姫は背筋を伸ばし、吉井の後に続いた。又四郎は茶室を見た。
 確証はない。だが、又四郎の胸にはある疑いが兆していた。
 躙り口から聡姫が出て来た。又四郎は駆け寄って履物を近くに置いた。

「これはすまぬ」

 そう言って履物を履いた聡姫は立ち上がると、番士らの後ろ姿を見送った。

「行ってしまわれたか」

 又四郎は違和感を口にせずにはいられなかった。

「まことに瑠璃姫様なのでしょうか」
「そなたもそう思うか」
「はい」
「わらわにはわからぬことがあるのだが」
「何でしょうか」
「瑠璃様は自分で外に出られることは多くないはず。とすれば尼を尋ねた奥女中、浪人を殺した女は分家の奥女中ではないのか。そうであれば、そちらも捕まえねばなるまい」

 又四郎は考えた。瑠璃姫の印のついた袱紗、佳穂に贈られた薬、尼に伝えられた生まれた年月日、袱紗に染みついた香り、離縁……。そしていまだ行方のわからぬ浪人を殺した御高祖頭巾の女。
 何かがつながりそうでつながらない。何かが足りない。

「これは又四郎殿」

 躙り口から出て来た斉理に又四郎は頭を下げた。

「下野守様の心中をお察しすると心苦しうございます」
「何を言う。実の父と子ではないか。養子に行っても、そなたは私の子。それを害そうとする者はたとえ奥であっても許せぬ」

 父と子の情を感じさせるはずの言葉なのに、又四郎の心には入ってこなかった。おかしい。何だろう。

「いたみいります」

 斉理はうむとうなずき、表御殿へと向かった。又四郎にとっては馴染みのある後ろ姿だった。幼い頃から息子の部屋を出て行く父を又四郎はいつも見送っていた。あの時の寂しい心持ちを思い出した。

「あっ」

 思い出した。あの香りのことを。もしかすると、これは。
 斉理を見送る聡姫に又四郎は尋ねた。

「母上、分家の奥から今日来ているのは年寄だけですか」
「梅枝と小姓が二人、それから奥方様付きの中臈一人小姓二人。後は留守居じゃ」
「川村はおらぬのですね」
「おらぬ」

 恐らくそういうことだったのだ。又四郎の中でいくつかの事実がつながった。
 瑠璃姫様は違う。
 真の悪は恐らくは……。
 認めたくないことだった。けれど、いくつかの事実をつなぎ合わせると、結論はこれしかあるまい。
 ただ、この結論は佳穂を苦しめることになる。それだけが又四郎の決断を鈍らせる。

「いかがした」

 茶室から出て来た斉尚は何事か思いに耽る又四郎と聡姫に気付いた。
 又四郎は顔を上げて養父を見た。今の己は分家の部屋住みではない。この本家の世継ぎだった。本家の世継ぎとして行動せねばならなかった。

「父上、これより私の為すことをお許しください」

 又四郎のまなざしが斉尚を射抜いた。今まで見たことのないような表情だった。事態が切迫していると斉尚は感じた。

「それは正しきことか」
「正しきことと信じております」
「ならば許す」
「ありがたき幸せ」

 又四郎は義父に近づき、耳打ちした。義父はうなずき、懐から袱紗を出し手渡した。

「かたじけない」

 又四郎は踵を返すや走り去った。

「御前様、若殿様は何をなさろうとしているのですか」

 聡姫の問いに斉尚は一言で答えた。

「義である」

 斉尚は又四郎を息子として信頼していた。父子となってまだ日は浅いが、それを補って余りある又四郎の己への崇敬の念を斉尚は感じていた。父となったからにはそれに応えるのは当然のことであった。



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