アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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絡まる謎

捌 朝の目付

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 月野家本家の目付、吉井采女忠澄ただすみの仕事は本家の家臣達の監察である。また配下とともに表御殿の見回りをして、火の始末などが疎かになっていないかも確認する。
 江戸屋敷は男、それも独身や単身赴任の者が大半であるため、家臣同士の喧嘩等が少なくない。たいていは大番組や書院番組、小姓組などの部署内で収めることができる。だが刃傷沙汰、金銭関係の不正等の重大事件は目付が入って捜査し、処分を御前様に直接提言する。場合によっては家老の不正も暴く。
 数年前、今の江戸家老の高橋の前任者が出入りの商人から付け届けでは済まされない額のまいないを受け取っているという密告を受け、捜査し、失脚に追い込んだのは本家のみならず分家でも有名だった。その一件で彼は家老を蟄居閉門に追い込んだだけではなかったからである。すでに長男と長女を儲けていた妻を家老の一族であるということで、処分が下ると同時に離縁し、国許に帰したのである。長男はすでに元服していたから理屈は理解できた。が、まだ九つの長女は母と引き離され父を恨んだ。昨年長女は十四になり、母方の遠縁にあたる家の長男と縁組し国許に嫁いだ。一回り以上年の差のある縁組だったが、父から離れられるなら誰でもいいと言ったという噂だった。
 小姓をしている息子新兵衛忠登ただちかは小姓長屋に住んでいる。
 采女はふだんは江戸屋敷に近い場所にある屋敷に起居している。老いた下男とその妻の下女だけが身の廻りの世話のために住み込んでいた。無論、それ以外の女性は一切入れない。
 今回のように事態にめまぐるしい動きがある場合は目付の控え部屋に泊まりこむ。
 この日も夜明け前の見回りを終えると、控え部屋で日誌に特段のこと無しと書き付けた。
 何やら盛りのついたけだもののつがいが騒いでいたようだが、けだものだから書く必要はなかった。彼の関心事は家臣の不正の追及だった。人の皮をかぶったけだものに用はない。
 それに、あのけだもの女を引き受けてくれる殊勝な男がいるというのは有難かった。下手をすると、御前様あたりが目付の後添いになどと言いだしかねない。冗談ではなかった。縁組するのはまともな人の女でなければ。
 そう思った時、不意に浮かんだ女の顔を目付は気の迷いと心から追い払った。世の中には決して触れてはならぬものがある。それに触れたら身の破滅である。ただ、触れずに守るだけしか己にはできぬ。それでよいのだ。
 まだ飯まで時間がある。配下達も今は仮眠をとっている。采女はこの一人になれる時間を大切にしていた。
 こんな時にはこれまでの経緯をまとめるに限る。そしてまっさらな頭で考えるのだ。



昨年六月三十日
  長岡英仙、火事に乗じて小伝馬町牢屋敷から脱獄
五月十七日夜  
  若殿様と分家の又四郎殿豚肉を食べる・お志麻の方同席
五月十八日未明 
  若殿様亡くなる・医師の見立てでは眠っている間に心臓が止まったとのこと
  長岡らしき男仙蔵、分家に現われる
五月二十日
  若殿様の死去を公表
五月二十六日
  光信院様初七日法要
  長岡らしき男仙蔵、分家を出る
五月二十七日  
  御前様倒れる
五月二十九日  
  又四郎殿、本家御養子を決定
五月三十日 
  佐野覚兵衛、麻布・品川に出かける
六月二十六日
  田原十郎左衛門、中田英春宅を訪問
六月二十八日
  佐野覚兵衛、麻布・品川に出かける
六月二十九日  
  田原十郎左衛門、実家と中田英春宅訪問   
七月九日    
  光信院様四十九日法要
七月十日    
  又四郎殿月野家本家嫡子として御目見え。慶温の名を賜る
七月十三日 
  分家の川村が子宝の薬と称する物を佳穂の方に贈る
  川村は奥方様に淑姫と分家の若殿の縁組を提案する
  お志麻の方、本家上屋敷に潜入し若殿に狼藉未遂・おみち監禁される(分家の屋敷か)
七月十四日
  明け六つ頃、おみち分家屋敷の門番に発見される
  梶田仁右衛門、この朝より中屋敷にて謹慎
  朝五つ頃、広尾村の尼伶観、浪人に襲われ左腕を切りつけられる
  浪人袱紗と一分銀を落とす
  八つ、奉行所の与力狭間勘兵衛より袱紗を入手
  伶観の身柄を本家上屋敷に
  伶観、五十余りの御高祖頭巾の貴人からの依頼でお志麻に近づき、又四郎を襲わせたとの証言
  佳穂の方から、分家の奥方が又四郎をよく思っていないこと、子流しの薬を叔母を通じて贈ってきたことを聞く
  夕刻、南町奉行所の内与力の近藤が来る。
  浪人の名が赤岩半兵衛と判明。元星川美作守家中(分家の奥方の実家)にいたことも。
  佳穂の方が目付の仕事部屋に若殿と来て袱紗の香りをかぎ、分家の奥にいる叔母の川村の使う香と若殿に話す
  若殿、長岡英仙のことを語る
七月十五日
  伶観の元に来た貴人の仕える主の生まれた干支と月日、場所が分家の奥方と一致していることが判明
  佳穂の方に贈られた薬が子流しの薬と判明
  夜、品川の喜久乃屋で赤岩、紺の御高祖頭巾の女に殺害される
  遺骸を白金の下屋敷に運ぶ
七月十六日
  赤岩の件で犬の毛刈りを終えた佐野を調べるも新しい証言はなし
  赤岩の遺骸を菩提寺に葬る

 

 これが昨日までの経緯である。
 長岡については、分家にいる横目からの報告を、また田原、佐野についても分家・本家それぞれの横目からの報告を元にしている。
 事件の中心は若殿様殺害未遂である。長岡や子流しの薬の件や浪人赤岩殺害の件は本筋ではない。
 まず、若殿様殺害未遂を行なったのはお志麻の方である。それを唆したのは伶観。伶観を操っていたのは御高祖頭巾の五十余りの女。その女は分家の奥方に仕えていると推定される。伶観を襲った赤岩は分家の奥方の実家星川家にゆかりがあり、佐野覚兵衛とは玄武館道場で親しくしていた。佐野家は分家の殿様に縁のある家である。
 これからまず解決しなければならない。
 佳穂の方へ子流しの薬を贈った一件といい、若殿様が本家を継ぐことを良しとしていない分家の奥方様が関与していることは間違いないだろう。
 袱紗の耳折れ兎の紋と紅梅の印が証拠である。袱紗が佳穂の叔母川村の香の匂いがするということは奥方から下賜されたものだと考えられる。川村は奥方様の命令で動いたということだろう。恐らく、分家の奥方は息子の斉陽と淑姫を縁組させて、ゆくゆくは本家を継がせようと考えているのではないか。本家の殿が実子ということになれば、苦しい分家の奥の財布も少しはゆとりができよう。
 分家の奥方と赤岩をつなぐ線は佐野と思われるが、佐野は一切分家の奥方の名を出さない。今日はもう少し厳しく調べる必要があろう。
 赤岩殺害については、御高祖頭巾の女の行方が知れないのが問題だった。武家の女が一人でうろついていれば目立つはずである。現場の様子から恐らく返り血を浴びていてもおかしくないのだ。だが、そういう女を周辺で見かけた者はいない。
 吉井は昨日分家の目付を通じて広敷に奥女中の外出の記録の提出を依頼した。川村か奥方に近い奥女中が昨日外出していないか、調べるためである。本家の目付が直接分家の奥に話をするわけにはいかないので、分家の目付にだけ事情を打ち明けた。分家の目付は驚き、もし他にも参考になる書類があれば出すと言ったので、ついでに奥の出納関係の書類も依頼した。恐らく今日のうちに書類は届くだろう。





 一方、昨日現場の茶屋の主に詳しく話を聞くように配下の小田をやったところ、茶屋はもぬけの殻で空き家になっていたと言う。赤岩が殺された部屋の畳も襖もすべて取り換えられていた。わずか半日足らずの間にである。近所の茶屋の者から話を聞いても、今朝早く大八車が来て店の中の物をすべて運び出し、どこに行ったかわからないと言う。主の儀兵衛という名も、他の茶屋の者が金兵衛だ、いや惣兵衛だと言いだし、はっきりしない。大家の元に行くと、喜久乃屋儀兵衛の名で借りられており、日本橋の呉服屋ということであった。大家は今朝商売を畳む、前払いしていた家賃は約束を違えたから返さなくてもいいと喜久乃屋の手代という男が来たと言う。だが、日本橋にそのような屋号の呉服屋はなかった。
 まるで狐につままれたようだと小田は頭を抱えていた。いつもなら調べが足りぬと怒る吉井も、これは何かおかしいと感じた。代官所の調べが入っていたら大ごとになってしばらく茶屋を閉じねばならぬが、赤岩の殺害は代官所では把握していないはずだった。茶屋を閉める必要はない。それなのに、まるで夜逃げのようにして出て行くとは。
 どうもこれは裏がありそうだと、引き続き喜久乃屋儀兵衛を調べるように小田の尻を叩いたのが昨夜のことだった。
 中屋敷からお志麻とおみちを連れ出した者らは、伶観の証言では、知り合いの口入屋を通じて雇ったということだった。口入屋に配下の者をやってきいたところ、確かに伶観からの依頼があったと言う。だが、金三役をやった男もおみちの言っていた大年増も、すでにそこを辞めて行方が知れないと言う。乗り物を担ぐ六尺の手配については伶観はやっていないということだった。御高祖頭巾の女が六尺や乗り物はなんとかすると言っていたという。
 いよいよ御高祖頭巾の女は怪しかった。
 川村か、それとも他の奥女中なのか。吉井は分家の目付の持ってくるはずの書類が決定的なものになるだろうと思っている。
 奥女中の誰かが赤岩の死んだ日に外出し帰りが遅くなったとしたら記録が必ず残るはずである。一体どのように殺害し、茶屋を出たのか、じっくりと調べ上げれば真相がおのずと明らかになるであろう。伶観には分家の奥女中の顔を実際に検分してもらわねばならない。赤岩殺害に関わった奥女中がもし伶観のところに来ていた奥女中と同じなら、主である分家の奥方まで行きつくのはたやすかろう。
 後は分家の中の話である。分家の殿の考え次第であろう。本家の御前様の御心を斟酌すれば、恐らくは離縁か。関わった奥女中は死罪か押し込めか。お志麻は実家預かり。伶観は人心を惑わす不埒の振舞ありと寺社奉行に引き渡せばよかろう。
 町奉行の手を煩わせることなく解決すれば、長岡とかいう男については知らぬ顔を通せよう。
 それでも町奉行が関わってくるようなら、麻布にいると密告し、知らぬ存ぜぬという顔でいればよかろう。ただ、そうなると佐野覚兵衛は無事ではすむまい。やはり、若殿様殺害未遂に関わっていたということで、腹を切ってもらうか。そうすれば当家にまで害は及ぶまい。
 吉井の頭の中では数々の仮定に基づいて計算がなされていた。
 だが、唯一判断が揺らぎそうになる仮定があった。もし分家の川村が関わっているとなると、姪の佳穂の方の処遇が問題になる。
 若殿様はつらい決断を要求されることになるかもしれぬ。
 吉井自身にとってもそれは決して望ましいことではなかった。



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