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絡まる謎
壱 目付の問い
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佳穂を奥へ送った後、又四郎は吉井の控えている部屋に向かった。吉井は若殿自ら目付の部屋に来るとはと驚き、書きかけの書類を慌てて片付けた。
「して、なぜ、内与力がさようなことを知らせに来たのだ。内与力の仕事ではないと思うのだが」
吉井は又四郎の問いに驚いた。実は吉井もまた近藤の来訪に不審を感じていた。
面会の前に、桂木は初めて聞く名だと言っていた。
南町奉行はこの三月に遠山左衛門少尉景元が着任し内与力の顔ぶれもすべて変わっていた。暑中見舞いを贈っていない内与力が来たということで桂木はこれは何かあるとも言っていた。
だが、若殿までが内与力の来訪を不審に思っているとは。
「実は、それがしも留守居役もいささか不審に思っておりました」
「して、近藤は他になんと言っていた?」
「この件は町方でも詳しく調べたいと奉行が仰せと申しました。赤岩は浪人、どこの御家中にも関わりなき者、住まいは長屋、それが尼を襲うなどとんでもないこと。町方で捜索するのが筋と申しまして」
又四郎は来たかと思った。やはり遠山奉行は只者ではない。彼は伶観と赤岩の一件から、月野家を調べる口実を見つけようとしているのではないか。
「分家の奥方様の御印の入った袱紗のこともあります。しかも星川家に元仕えていた浪人。分家の奥方様との関わりが深いとなると、この一件、町方に探索させるのはいかがかと。町方が浪人を探し当てる前にこちらが探し出したく存じます。そこで、若殿様にお願いの儀がございます」
吉井は深く頭を下げた後、顔を上げた。
「若殿様、何か隠しておいでのことがあるのではございませんか。お教え願えませんでしょうか」
一体近藤は吉井に何を言ったのか。吉井こそ、隠していることがあるのではないか。又四郎は逆に尋ねた。
「近藤が何か言ったのか」
吉井は又四郎の顔をじっと見た。家臣にあるまじきことだった。
「佐野覚兵衛が赤岩半兵衛と玄武館で同門だったと申していました。若殿様は佐野と玄武館に通っていた時期があります。赤岩のことをご存知ではないかと」
よかった。佐野のことだった。長岡のことが出てきたらまずいと思ったが。
確かに又四郎は佐野と玄武館に通っていた。だが、赤岩半兵衛のことは知らない。二つ上の佐野は又四郎より二年ほど前から玄武館に通っていたから、その頃の付き合いだろう。
「知らぬ。佐野は私が通うよりも二年早く玄武館に入門しているから、その頃付き合いがあったのではないか」
「なるほど、そういうことなら。ただ、佐野についてはもう一度調べをいたしますので、そのお許しを願います」
「よかろう」
許さぬわけにはいかない。
「実は、お志麻の一件の後、三人の御側の方についてこちらで行動を調べておりまして、佐野は神田小川町の長屋の友人を訪ねたり、品川の遊郭に行く途中で麻布の病の友人の家を訪れております。恐らく、神田小川町のほうが赤岩と思われます」
又四郎ははっとしたが、平静を装った。
「そうか、赤岩とはずいぶん親しいのだな」
「品川の遊郭のなじみの遊女についても調べればすぐ出てくることでしょう」
「そうなのか」
「家中の者で品川や吉原に一度も行かぬ者はおりませぬ。すぐに判明するでしょう」
「私は行ったことがないぞ」
「それはともかく」
吉井は又四郎の言葉を軽く流した。
「病の友人の名はまだわかりません」
吉井の声が一段と低くなった。
「月に一度の割合でこの二ケ月ばかり見舞っているようですが」
そこまで吉井は調べているのかと又四郎は寒気を覚えた。
「それに分家にもよく顔をお出しのようで。実は、おみちの調べをしていて気づいたのですが」
「おみち? お志麻と中屋敷を出た小姓だな」
「はい。おみちは、監禁されていた場所から分家の門の前まで目隠しで連れて行かれています。さような目立つ姿の奥女中がおれば、辻番が必ず気付くはず。なれど、辻番から咎められもせず分家の門の前にいた。妙ではありませんか」
江戸では治安維持のため町方が自身番を置いていたが、大名旗本も武家屋敷周辺に辻番を置いて警備していた。元は辻斬りの防止が目的だったが、捨て子や変死、喧嘩なども取り扱った。
当然、人さらいなども見つけたら辻番が放っておくわけはない。明け六つの頃に目隠しをした奥女中が不審者に連れられているのを咎めぬはずはなかった。
「妙だな」
「これは私見ですが、おみちは分家の中にいたのではありませんか」
吉井の意見は大胆なものだった。ということは、お志麻の一件に分家で働く者が関わっているということになる。袱紗の件といい、赤岩が奥方の実家星川家に元いたことといい、分家との関わりがあまりに多過ぎるように思えた。
「分家の通用門から正門までなら途中に辻番はおりません。百数えるうちに通用門の中に戻るのもたやすいはず」
さすが吉井だと又四郎は思った。辻番のことなど失念していた。又四郎は時々帰りが遅くなって辻番に声をかけられたことがある。髭を剃っておらず不審者と思われたのだ。さすがに何度も繰り返すと、月野家分家の部屋住みと辻番らは理解したようだが。
「なるほどな」
「袱紗の匂いも分家に関わりがあるのではありませんか」
どうやら、吉井の部下が又四郎がお佳穂を連れて仕事部屋に来たことを告げたらしい。
「聞いたのか、お佳穂に袱紗を触らせたことを」
「部下から報告がありましたので」
「よい部下を持っているな」
「ありがとうございます」
「勘違いかもしれぬが、お佳穂が叔母の使う香と同じ香りだと申していた」
吉井の顔色が変わった。
「なんと」
「同じ香りを使う者がおるかもしれぬがな」
「たとえそうであっても、これは重大な証拠。話しにくいことかと存じましたが、お話しくださりありがとうございます。隠しておいでなどと失礼なことを申し上げてしまいました」
又四郎は安堵した。どうやら吉井の言う隠し事とは袱紗の香りの件だったらしい。
「お佳穂を遠ざけねばならぬのか」
「それには及びません。まだ、分家の誰が関わっているのか、わかっておりませんので。特に奥というのは魑魅魍魎の世界。女同士のあれこれは、それがしらの想像には及ばぬことばかり」
「例の薬もそうだな」
「はい」
「淑姫様も嫁ぎ先でご苦労されたのであろうな」
「恐らくは。留守居役も花尾家との交渉に難儀しているようで」
「まだ、手続きは済まぬのか」
「あちらから離縁と言ってきたのに、復縁をと」
奇妙なこともあるものである。
「まこと、奥は奇怪だな。佳穂はやはり中奥に」
「さようなことをすれば、奥の女達の嫉妬がひどくなりましょう。女というのは、自分より劣る者、同じ立場にいると思っていた者が破格の扱いで上の身分になると、表向きは褒めそやしますが、裏では仲間内であれこれと悪口雑言。中奥に置くなどという扱いをすれば、何を言いだすか。それよりも他の中臈と同じように奥に置いたほうがまだ安全です」
「先ほどは小姓がと言うておったのに」
「あれは御方様がおいでゆえ。まことは奥の女子の嫉妬が恐ろしいゆえに申しました。御方様が中奥にいれば、若殿様が奥に来て他の女子に目を付ける機会が減ります。女というのは、どんな女でも、自分にも寵愛の機会があるかもしれぬと思っておるものです」
吉井は少々奥の女への偏見が過ぎるのではないかと又四郎は思った。過去に奥女中にひどい目に遭わされたことがあったのかもしれない。
少し気が楽になったせいか、又四郎は口が軽くなっていた。
「佐野の調べはよしなにな。あれはまっすぐな男ゆえ。赤岩の行方が早くわかるとよいのだが。佐野の友人ならば、佐野にとってもつらいことのはず」
又四郎はこの分なら長岡の件まで問われるはずはなかろうと思っていた。
「まことに。ところで、若殿様」
吉井の声がひどく冷たく響いた。
「今一つ、隠しておいでのことがあるのではありませんか。仙蔵とかいう犬の世話係が分家にいたそうですが」
ぬかったと思った。吉井を見くびっていたつもりはなかったが。
「そういえば、さような者がいたな。だが親が倒れたと言って里に戻ったまま帰らぬ」
「まことですか。似た男を麻布辺りで見たという者がおるのですが」
「そうか」
ここはしらをきり通すしかなかった。
「同じ犬の世話係の佐野ならば詳しいでしょうな」
吉井は明らかに仙蔵のことを怪しんでいる。佐野に仙蔵のことまで聞き出そうとしているのではないか。
「佐野はただ同じ仕事をしていただけのことではないか」
「まことにそうでしょうか。まあ、佐野によくよく話を聞く事にいたしましょう」
「采女、おぬしは」
どこまで知っているのか、尋ねようとして又四郎は寒気を覚えた。吉井采女は一切顔色を変えることなく、又四郎を見据えていた。
「やはり、そうでしたか。内与力が来るなど、おかしなこと。若殿様、隠し立ては無用です」
「隠してなど」
「それがしに隠し事ができるなどと思ったら大間違い。おかしいと思っていたのです。麻布の病人の話をした時、顔色が少々お悪くなられた。それに、内与力の近藤は若殿は蘭学にお詳しいのかとわざわざ尋ねたのです。まったく尼や浪人の話に関係なく」
近藤がそのようなことを尋ねたということは奉行も何かしら又四郎のことを怪しんでいるということである。これはまずいことになった。又四郎は考えた。
このまましらをきっても、吉井は長岡のことを探りあててしまうだろう。吉井の情報網は分家にまで張り巡らされていると思われた。そうなれば、町奉行に密告するかもしれぬ。長岡の命運はそこで尽きてしまう。
ならば、事情を話し、吉井を味方にしてしまえばよいのではないか。長岡が国にとっていかに必要な人物であるか説得すれば吉井もわかってくれるのではないか。だが、御家のためにはそれはできない相談と吉井が言えば、長岡の命運は尽きる。
どちらにしろ、吉井にすべてがかかっている。吉井が長岡の命運を握っているのだ。
だが、当の吉井はまだ長岡のことを知らなかった。
ただ、彼の情報網に引っかかっていた妙な事実をつなぎ合わせて、若殿様は何か隠していると判断しただけである。
分家の仙蔵という犬の世話係が働き始めてさほど日もたたぬうちに辞めたこと。
仙蔵が犬にどこぞのわけのわからぬ言葉で話しかけていたこと。
佐野が月に一度、まとまった金子を持って品川の廓に行くが、相手は安女郎。
途中で寄り道する麻布の病の友人と称する者が二ケ月ほど前に越してきたばかりだということ。
一家が何で生計を立てているのか不明なこと。
町奉行の内与力が妙に若殿様の蘭学について知りたがっていたこと。
これらの事実から、仙蔵が蘭学者らしいこと、人目を避けていること、若殿が佐野を使って仙蔵に何か援助をしているのではないか、仙蔵は御公儀から睨まれている蘭学者ではないかと推定したのである。
何より、若殿自身が内与力の来訪に驚いていること自体怪しかった。
似た男を麻布で見た者がいたというのは出まかせである。だが、又四郎の「そうか」という声には動揺が感じられた。それで吉井は確信したのだった。
「まあ、お話しになりたくなければ、それでよろしいかと。佐野を念入りに調べるだけのこと」
念入りに調べる。それが何を意味するのかわからぬ又四郎ではなかった。
「佐野は分家の殿様の縁者ぞ」
「御家のためです。若殿様のご実家とはいえ、本家のためにならぬとあらば、それがしにも考えがございます」
「わかった、話す」
佐野を犠牲にするわけにはいかなかった。自分がここで話せば、佐野が拷問にかけられることはないはずである。
「伺います」
「その前に、ここで話したことは内密に。御前様にもだ」
「御前様から命令があれば、話します」
融通のきかぬ男だと思った又四郎に吉井はさらりと言ってのけた。
「といっても、御隠居を前にした身には面倒なお話はいたしませぬ」
「そうか。ならば」
又四郎は一切を語った。
その間、吉井は表情一つ変えず、話を黙って聞いていた。
「というわけだ。どうか長岡英仙を助けてやって欲しい。この国の行く末にとって必要な人物なのだ」
吉井はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「長岡なる者は月野家にとって必要なのですか」
返答次第で吉井の考えは決まる。
又四郎は己の考えを述べ始めた。
「して、なぜ、内与力がさようなことを知らせに来たのだ。内与力の仕事ではないと思うのだが」
吉井は又四郎の問いに驚いた。実は吉井もまた近藤の来訪に不審を感じていた。
面会の前に、桂木は初めて聞く名だと言っていた。
南町奉行はこの三月に遠山左衛門少尉景元が着任し内与力の顔ぶれもすべて変わっていた。暑中見舞いを贈っていない内与力が来たということで桂木はこれは何かあるとも言っていた。
だが、若殿までが内与力の来訪を不審に思っているとは。
「実は、それがしも留守居役もいささか不審に思っておりました」
「して、近藤は他になんと言っていた?」
「この件は町方でも詳しく調べたいと奉行が仰せと申しました。赤岩は浪人、どこの御家中にも関わりなき者、住まいは長屋、それが尼を襲うなどとんでもないこと。町方で捜索するのが筋と申しまして」
又四郎は来たかと思った。やはり遠山奉行は只者ではない。彼は伶観と赤岩の一件から、月野家を調べる口実を見つけようとしているのではないか。
「分家の奥方様の御印の入った袱紗のこともあります。しかも星川家に元仕えていた浪人。分家の奥方様との関わりが深いとなると、この一件、町方に探索させるのはいかがかと。町方が浪人を探し当てる前にこちらが探し出したく存じます。そこで、若殿様にお願いの儀がございます」
吉井は深く頭を下げた後、顔を上げた。
「若殿様、何か隠しておいでのことがあるのではございませんか。お教え願えませんでしょうか」
一体近藤は吉井に何を言ったのか。吉井こそ、隠していることがあるのではないか。又四郎は逆に尋ねた。
「近藤が何か言ったのか」
吉井は又四郎の顔をじっと見た。家臣にあるまじきことだった。
「佐野覚兵衛が赤岩半兵衛と玄武館で同門だったと申していました。若殿様は佐野と玄武館に通っていた時期があります。赤岩のことをご存知ではないかと」
よかった。佐野のことだった。長岡のことが出てきたらまずいと思ったが。
確かに又四郎は佐野と玄武館に通っていた。だが、赤岩半兵衛のことは知らない。二つ上の佐野は又四郎より二年ほど前から玄武館に通っていたから、その頃の付き合いだろう。
「知らぬ。佐野は私が通うよりも二年早く玄武館に入門しているから、その頃付き合いがあったのではないか」
「なるほど、そういうことなら。ただ、佐野についてはもう一度調べをいたしますので、そのお許しを願います」
「よかろう」
許さぬわけにはいかない。
「実は、お志麻の一件の後、三人の御側の方についてこちらで行動を調べておりまして、佐野は神田小川町の長屋の友人を訪ねたり、品川の遊郭に行く途中で麻布の病の友人の家を訪れております。恐らく、神田小川町のほうが赤岩と思われます」
又四郎ははっとしたが、平静を装った。
「そうか、赤岩とはずいぶん親しいのだな」
「品川の遊郭のなじみの遊女についても調べればすぐ出てくることでしょう」
「そうなのか」
「家中の者で品川や吉原に一度も行かぬ者はおりませぬ。すぐに判明するでしょう」
「私は行ったことがないぞ」
「それはともかく」
吉井は又四郎の言葉を軽く流した。
「病の友人の名はまだわかりません」
吉井の声が一段と低くなった。
「月に一度の割合でこの二ケ月ばかり見舞っているようですが」
そこまで吉井は調べているのかと又四郎は寒気を覚えた。
「それに分家にもよく顔をお出しのようで。実は、おみちの調べをしていて気づいたのですが」
「おみち? お志麻と中屋敷を出た小姓だな」
「はい。おみちは、監禁されていた場所から分家の門の前まで目隠しで連れて行かれています。さような目立つ姿の奥女中がおれば、辻番が必ず気付くはず。なれど、辻番から咎められもせず分家の門の前にいた。妙ではありませんか」
江戸では治安維持のため町方が自身番を置いていたが、大名旗本も武家屋敷周辺に辻番を置いて警備していた。元は辻斬りの防止が目的だったが、捨て子や変死、喧嘩なども取り扱った。
当然、人さらいなども見つけたら辻番が放っておくわけはない。明け六つの頃に目隠しをした奥女中が不審者に連れられているのを咎めぬはずはなかった。
「妙だな」
「これは私見ですが、おみちは分家の中にいたのではありませんか」
吉井の意見は大胆なものだった。ということは、お志麻の一件に分家で働く者が関わっているということになる。袱紗の件といい、赤岩が奥方の実家星川家に元いたことといい、分家との関わりがあまりに多過ぎるように思えた。
「分家の通用門から正門までなら途中に辻番はおりません。百数えるうちに通用門の中に戻るのもたやすいはず」
さすが吉井だと又四郎は思った。辻番のことなど失念していた。又四郎は時々帰りが遅くなって辻番に声をかけられたことがある。髭を剃っておらず不審者と思われたのだ。さすがに何度も繰り返すと、月野家分家の部屋住みと辻番らは理解したようだが。
「なるほどな」
「袱紗の匂いも分家に関わりがあるのではありませんか」
どうやら、吉井の部下が又四郎がお佳穂を連れて仕事部屋に来たことを告げたらしい。
「聞いたのか、お佳穂に袱紗を触らせたことを」
「部下から報告がありましたので」
「よい部下を持っているな」
「ありがとうございます」
「勘違いかもしれぬが、お佳穂が叔母の使う香と同じ香りだと申していた」
吉井の顔色が変わった。
「なんと」
「同じ香りを使う者がおるかもしれぬがな」
「たとえそうであっても、これは重大な証拠。話しにくいことかと存じましたが、お話しくださりありがとうございます。隠しておいでなどと失礼なことを申し上げてしまいました」
又四郎は安堵した。どうやら吉井の言う隠し事とは袱紗の香りの件だったらしい。
「お佳穂を遠ざけねばならぬのか」
「それには及びません。まだ、分家の誰が関わっているのか、わかっておりませんので。特に奥というのは魑魅魍魎の世界。女同士のあれこれは、それがしらの想像には及ばぬことばかり」
「例の薬もそうだな」
「はい」
「淑姫様も嫁ぎ先でご苦労されたのであろうな」
「恐らくは。留守居役も花尾家との交渉に難儀しているようで」
「まだ、手続きは済まぬのか」
「あちらから離縁と言ってきたのに、復縁をと」
奇妙なこともあるものである。
「まこと、奥は奇怪だな。佳穂はやはり中奥に」
「さようなことをすれば、奥の女達の嫉妬がひどくなりましょう。女というのは、自分より劣る者、同じ立場にいると思っていた者が破格の扱いで上の身分になると、表向きは褒めそやしますが、裏では仲間内であれこれと悪口雑言。中奥に置くなどという扱いをすれば、何を言いだすか。それよりも他の中臈と同じように奥に置いたほうがまだ安全です」
「先ほどは小姓がと言うておったのに」
「あれは御方様がおいでゆえ。まことは奥の女子の嫉妬が恐ろしいゆえに申しました。御方様が中奥にいれば、若殿様が奥に来て他の女子に目を付ける機会が減ります。女というのは、どんな女でも、自分にも寵愛の機会があるかもしれぬと思っておるものです」
吉井は少々奥の女への偏見が過ぎるのではないかと又四郎は思った。過去に奥女中にひどい目に遭わされたことがあったのかもしれない。
少し気が楽になったせいか、又四郎は口が軽くなっていた。
「佐野の調べはよしなにな。あれはまっすぐな男ゆえ。赤岩の行方が早くわかるとよいのだが。佐野の友人ならば、佐野にとってもつらいことのはず」
又四郎はこの分なら長岡の件まで問われるはずはなかろうと思っていた。
「まことに。ところで、若殿様」
吉井の声がひどく冷たく響いた。
「今一つ、隠しておいでのことがあるのではありませんか。仙蔵とかいう犬の世話係が分家にいたそうですが」
ぬかったと思った。吉井を見くびっていたつもりはなかったが。
「そういえば、さような者がいたな。だが親が倒れたと言って里に戻ったまま帰らぬ」
「まことですか。似た男を麻布辺りで見たという者がおるのですが」
「そうか」
ここはしらをきり通すしかなかった。
「同じ犬の世話係の佐野ならば詳しいでしょうな」
吉井は明らかに仙蔵のことを怪しんでいる。佐野に仙蔵のことまで聞き出そうとしているのではないか。
「佐野はただ同じ仕事をしていただけのことではないか」
「まことにそうでしょうか。まあ、佐野によくよく話を聞く事にいたしましょう」
「采女、おぬしは」
どこまで知っているのか、尋ねようとして又四郎は寒気を覚えた。吉井采女は一切顔色を変えることなく、又四郎を見据えていた。
「やはり、そうでしたか。内与力が来るなど、おかしなこと。若殿様、隠し立ては無用です」
「隠してなど」
「それがしに隠し事ができるなどと思ったら大間違い。おかしいと思っていたのです。麻布の病人の話をした時、顔色が少々お悪くなられた。それに、内与力の近藤は若殿は蘭学にお詳しいのかとわざわざ尋ねたのです。まったく尼や浪人の話に関係なく」
近藤がそのようなことを尋ねたということは奉行も何かしら又四郎のことを怪しんでいるということである。これはまずいことになった。又四郎は考えた。
このまましらをきっても、吉井は長岡のことを探りあててしまうだろう。吉井の情報網は分家にまで張り巡らされていると思われた。そうなれば、町奉行に密告するかもしれぬ。長岡の命運はそこで尽きてしまう。
ならば、事情を話し、吉井を味方にしてしまえばよいのではないか。長岡が国にとっていかに必要な人物であるか説得すれば吉井もわかってくれるのではないか。だが、御家のためにはそれはできない相談と吉井が言えば、長岡の命運は尽きる。
どちらにしろ、吉井にすべてがかかっている。吉井が長岡の命運を握っているのだ。
だが、当の吉井はまだ長岡のことを知らなかった。
ただ、彼の情報網に引っかかっていた妙な事実をつなぎ合わせて、若殿様は何か隠していると判断しただけである。
分家の仙蔵という犬の世話係が働き始めてさほど日もたたぬうちに辞めたこと。
仙蔵が犬にどこぞのわけのわからぬ言葉で話しかけていたこと。
佐野が月に一度、まとまった金子を持って品川の廓に行くが、相手は安女郎。
途中で寄り道する麻布の病の友人と称する者が二ケ月ほど前に越してきたばかりだということ。
一家が何で生計を立てているのか不明なこと。
町奉行の内与力が妙に若殿様の蘭学について知りたがっていたこと。
これらの事実から、仙蔵が蘭学者らしいこと、人目を避けていること、若殿が佐野を使って仙蔵に何か援助をしているのではないか、仙蔵は御公儀から睨まれている蘭学者ではないかと推定したのである。
何より、若殿自身が内与力の来訪に驚いていること自体怪しかった。
似た男を麻布で見た者がいたというのは出まかせである。だが、又四郎の「そうか」という声には動揺が感じられた。それで吉井は確信したのだった。
「まあ、お話しになりたくなければ、それでよろしいかと。佐野を念入りに調べるだけのこと」
念入りに調べる。それが何を意味するのかわからぬ又四郎ではなかった。
「佐野は分家の殿様の縁者ぞ」
「御家のためです。若殿様のご実家とはいえ、本家のためにならぬとあらば、それがしにも考えがございます」
「わかった、話す」
佐野を犠牲にするわけにはいかなかった。自分がここで話せば、佐野が拷問にかけられることはないはずである。
「伺います」
「その前に、ここで話したことは内密に。御前様にもだ」
「御前様から命令があれば、話します」
融通のきかぬ男だと思った又四郎に吉井はさらりと言ってのけた。
「といっても、御隠居を前にした身には面倒なお話はいたしませぬ」
「そうか。ならば」
又四郎は一切を語った。
その間、吉井は表情一つ変えず、話を黙って聞いていた。
「というわけだ。どうか長岡英仙を助けてやって欲しい。この国の行く末にとって必要な人物なのだ」
吉井はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「長岡なる者は月野家にとって必要なのですか」
返答次第で吉井の考えは決まる。
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