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事件

捌 奥の夜

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 お喜多は待っていた。
 食事が終わり、佳穂が若殿様とどこぞへ行ってしまっても、食事の間の隣で待っていた。
 それが仕事だからである。
 といっても、限度というものがある。
 さすがに待ちくたびれてきた。欠伸が出そうになった。
 が、慌ててかみ殺した。足音が近づいてきたのだ。男性のもののようだった。小姓であろうか。

「よろしいか」

 名乗らずに襖をすっと開けて入って来た男に、おきたはぎょっとした。が、かみしもをきっちりと着こなしている姿は人品骨柄卑しからぬ風情がある。三十を超えていると思われる顔には年齢相応の自信がみなぎっていた。

「お佳穂の方様の部屋子か」
「はい」
「名は」
「お喜多と申します」
「お喜多、頼みがある」
「畏れながら貴方さまはどなたですか」

 誰かわからぬ者の頼みをきくわけにはいかない。

「留守居役の桂木だ」

 驚いた。今度の養子話をまとめた辣腕の男という噂だった。

「いくらお留守居役でも、頼まれるわけには参りません」

 桂木の顔が蒼白になった。先ほどまでの自信ありげな顔が別人のように思われた。

「困る、困るのだ」

 その変貌がおかしくも哀れで、おきたはうなずいてしまった。

「そんなにお困りなら、ようございます」
「かたじけない。今はそなたしか頼りがないのだ。これを淑姫様に」

 桂木は懐からさっと小さく結んだ文を出すと、お喜多に渡した。
 お喜多は目を丸くした。

「これは」
「お佳穂の方様には内緒だ。こっそり姫様にな」

 そう言うと、桂木はさっと部屋を出て行った。まるで嵐のようだった。
 お喜多は結ばれた文を懐に入れた。これは重大な役目かもしれぬ。姫様への文ということは特別な内容かもしれない。奥に戻ったら、なんとかして姫様に渡さねばならない。お喜多は背筋を伸ばした。
 そこへ小姓がやって来て、間もなく御中臈様がお戻りになりますと伝えたので、お喜多は部屋を出て御錠口に向かった。
 そんなお喜多の凛とした後ろ姿を若い小姓達は憧れのまなざしで見送った。





 奥ほど安全な場所はないと佳穂が言っても、又四郎はなかなか納得しなかった。
 だが、吉井采女の言葉で、又四郎の考えは変わった。

「すでに、お佳穂の方様のことは、年若い小姓らの間では噂になっております。一目御方様を見たいと用もないのに、中奥をうろつく者までおります。中奥に御方様を置くことのほうがよほど危ないのではありませんか」

 小姓といっても十代前半の稚児小姓から三十近い者まで年齢は幅広い。加えて、彼らは武術に優れている。もし、本気で佳穂をどうにかしようと思う者がいたとしたら、それは不可能ではなかろう。
 苦々しげな顔で又四郎は奥に戻ることを許した。

「わかった。だが、精進日以外は、必ずこちらへ来るように」

 吉井は付け加えた。

「それ以外にも女子には無理な日がございます」
「わかった」

 佳穂はほっとしたものの、精進日と月のものの日以外は侍るというのは、異常だと思った。だが、ここでそれを言ったら、又四郎は二人きりになった時に言うようなことを吉井の前で言うかもしれなかった。あんなことを言われたら、いくら目付の前であっても恥ずかし過ぎる。 
 又四郎は御錠口まで見送りについてきた。すでに、そこではお喜多が待っていた。

「すまぬ。待たせてしまって」

 佳穂はお喜多のことを忘れていたことが申し訳なかった。

「お待ちするのも勤めです」

 お喜多はそう言って立ち上がり、御錠口を守る小姓に声をかけた。
 小姓は顔を赤らめて、戸の向こう側にいる御錠口の者に御方様のお戻りですと伝えた。すぐに戸が開かれ、佳穂はお喜多とともに奥へ向かった。

「お佳穂」

 呼ばれて佳穂は振り返った。又四郎が見つめるまなざしの熱さに佳穂は言葉を失った。
 どうして、こんなにも自分を熱く見つめるのか、それほどまでに「ほおむ」という物が欲しいのか。自分とほおむを作ったら、若殿様は幸せになれるのだろうか。佳穂にはわからない。又四郎の言うことすべてに、はいと言うことができなかった。
 又四郎の言動は佳穂のこれまで信じてきた常識を超越していた。
 佳穂は身体ごと向きを変え、又四郎に頭を垂れた。
 やがて、戸が閉じられた。





 自分の居室に戻ると、佳穂はお喜多に今日は休むようにと言って部屋に帰した。後のことはお三奈一人でもやれることだった。
 しばらくすると、淑姫付きの小姓がお薬は姫様が医者から受け取り、お園に渡しましたのでご安心をと伝えに来た。
 あれこれと忙しくてお園の薬のことを取り紛れていたのに、淑姫様は気付いてくださったのかと、申し訳なかった。
 お喜多にも淑姫様にも申し訳ないことをと思うにつけ、その理由がすべて又四郎に関係するということが佳穂にとっては、少しばかり情けなかった。
 又四郎のことを第一に考えなければならないというのは仕方のないことなのだが、そのために部屋子や同輩のことを疎かにしてしまうというのは、奥勤めの身としてはどうなのか。これでは奥勤め失格ではないか。お園の薬の件は淑姫様が気づいてくださったからいいようなものの、淑姫様は姫様、このようなことをさせてはならぬのだ。お喜多にしろ、朝から晩まで奉公してくれているのに、食事の時間をはるかに超えて待たせてしまった。一言、お喜多に先に戻るようにと言えばよかったのではないか。
 佳穂は己がすっかり阿保になってしまっているように思えた。
 若殿様にのぼせ上がっていると。
 若殿様の熱いまなざし、信じられないような言葉……。目付の仕事部屋にまで入れてもらったという破格の扱いなど、調子に乗っている場合ではないのではないか。
 何より袱紗の件もある。叔母がこの一件に関わっているとなると、佳穂もまたお園のように謹慎になる恐れもある。若殿様どころではない。目付はたとえ相手が家老であっても容赦をしないのだ。いくら、若殿様が家族だ、ほおむだといっても、騒ぎに関わった者に連座した者をそばに侍らせるわけがない。

「御方様、そろそろお休みになっては」

 お三奈の声に佳穂は我に返った。そうだった。自分が休まないと、お三奈も休めないのだ。
 佳穂は寝間着をとお三奈に言い、化粧を落とした。
 化粧を落とした顔を鏡で見ると、額の生え際にはあいも変わらずあばたがある。そうなのだ。自分はあばたのある身。若殿様の寵に浮かれていてはならない。佳穂は心を引き締めるように、あばたを右手の人差指でなぞった。
 すぐにお三奈が寝間着を持って来た。
 打掛を脱ぎ、帯を解き、帷子を脱いだ。

「あ、これは何でございますか」

 不意にお三奈が言った。佳穂は慌てて言った。

「それは、虫じゃ」

 首筋の赤い印がまだ残っていた。

「ここにもございます。お薬を持って参りましょう」

 鎖骨の上の印にもお三奈は気付いたようだった。いつも着替えを手伝うお喜多は気付いても何も言わなかったが、年若いお三奈はそれがどういうものかわかっていないようだった。

「薬はいらぬ。そのうち治る」
「なれど、若殿様が御覧になったら心配なさいます」
「よいのじゃ」
「はあ」

 お三奈は納得できないようだったが、佳穂が拒んだので致し方ないと薬はあきらめた。

「虫がわかぬように、蚊遣火かやりびを焚く事にしましょうか」
「さようなことをしたら、けむたくて、他の方々の迷惑。それにそろそろ暑さも峠を越す。虫もいなくなる」
「さようですね」

 着替えが終わり、お三奈が部屋を出て、やっと佳穂は安堵の息をついた。
 若殿様は一体何故、かような印をおつけになったのか。部屋子に説明できないというのはまことに困る。佳穂はあれこれと物思うことの多さにため息をついてしまった。
 若殿に名を問われず、お清の中臈のままであれば、こんな物思いなどせずにすんだものを。
 そう思う一方で、この次はいつと待ち遠しく思うような心持ちになる己が恐ろしかった。
 だが、袱紗の香りの件もある。
 そんなことを思ううちに、いつの間にやら眠りに落ちてしまうのは、佳穂の身体が健やかなためであろうか。





「桂木様から預かりました」

 お喜多はそう言い、懐から結び文を出し淑姫に恭しく捧げた。

「そうか、すまぬ」

 あっさりと淑姫は言い、その場にあった砂糖菓子を懐紙に包んでお喜多に渡した。
 ここは淑姫の部屋。お喜多は御側付きの小姓にお佳穂の方からの言伝があるのでと言って中に入れてもらったのだった。

「お佳穂はここに来たことを知っているのか」
「いいえ。桂木様からは黙っているようにと」
「そうか。少し待っておくれ」

 そう言うと淑姫は文を広げ、読み始めた。さほど長い文ではないようで、淑姫はすぐに折りたたんだ。

「確かに拝見した。お喜多、明日はお佳穂は若殿のところへ参るのか」
「それはわかりかねます」
「もし参るなら、頼まれてくれぬか」

 お召しは午前中には判明する。

「かしこまりました。明日の昼までにはわかりますので」
「そうか。その時はあちらへ文を持って行ってくれ。他言は無用ぞ」
「はい」

 お喜多は一体何のやりとりであろうかと思ったものの、詮索するのも憚られ、それ以上は何も言わず、淑姫の部屋を出た。
 部屋に戻ると、お三奈が不安そうな顔で座っていた。

「御方様が虫に噛まれておいでですが、あれはあのままでよろしいのでしょうか」
「虫とは」
「襟元や胸にまるで赤い輪のような痕が。あんなになるような虫がこの屋敷にいるとは存じませんでした。なぜ、御方様だけ噛まれてしまったのか」

 お喜多はあれのことかと気づいた。お喜多は経験はないが、あれは男が口吸いで付けるものと年長の奥女中から聞いたことがあった。年若いお三奈が知らぬのは当然だった。

「あれはあのままでよい」
「でも、あのようなものを見たら、若殿様が気味悪がられるのでは」
「それはない」
「なれど」
「あれは、若殿様がお付けになったものゆえ」

 お三奈はしばし呆然となった。どうやって付けるのか想像がつかなかった。

「虫ではない。案ずるな。御方様は恥ずかしくてまことのことが言えなかったのだ」
「虫ではなかったのですか」
「そうじゃ」
「よかった」

 お三奈は安心したようだった。

「蚊遣火を焚かねばならぬと思っておりました」

 思わずお喜多は吹き出した。若殿様は悪い虫ということではないか。お三奈もつられて笑った。

「若殿様のお気持ちの深い証ゆえ、心配いらぬ」

 お喜多はそう言うと、声を低めた。

「御方様はおきれいになったと思わぬか」
「元からおきれいです」
「いやいや、そうではなくて、なにやら肌が光っておいでのように」
「そういえば」
「若殿様は御方様を大事にされておるからじゃ。我らも御方様がこれからも幸せでいられるようにお仕えしたいもの」

 お喜多とお三奈はうなずき合った。
 と同時に、お喜多は淑姫もまた近頃肌色がよい事に気付いた。ももんじ屋の山鯨のせいだけではないような気がした。





 同じ頃、お園は自室で一人涙にくれていた。癪のせいではない。癪の薬は夕刻、淑姫がじきじきに部屋に来て煎じたものを飲ませてくれた。
 恐縮するお園に、淑姫はこれはお佳穂が匙に頼んでおいたものと笑って言ったのだった。
 お園は、佳穂にどうやって感謝の気持ちを伝えればいいものか困った。謹慎では文のやり取りはできぬのだ。だが、淑姫は言った。

「文がなくとも、お佳穂にはわかるであろう。そなた達の付き合いは長いのだから」

 それでも気持ちを伝えられぬのはもどかしいものだった。
 けれど、淑姫様もまた同じかもしれぬとお園は気付いた。

「申し訳ありません。このようなことになり、文の使いもできなくなり」
「よいよい。あの方のことゆえ、よい手立てを考えるであろう。気にせずともよい。気にするのが癪には一番よくないのだから」

 淑姫はそう言って部屋を後にした。
 夕食後には鳴滝が来て、兄の行なった不始末について説明した。
 さすがに、お園も呆れてしまった。不注意とはいえ、中臈を供の小姓一人だけつけて屋敷から出すなど。しかも小姓は一時監禁されて恐ろしい思いをしている。
 鳴滝は奥方様も案じているので、気分が悪いようなら昼間も床で休んでも構わぬと最後に言った。お園は昼間、じわじわと感じる癪に耐えながら、部屋の中で一人正座していたのだった。
 というわけで、その後、床に入って休んだのだが、つくづく兄達の行ないや佳穂の気持ちを思うと何もできぬ我が身が情なく涙がこぼれて仕方なかった。 
 謹慎が解けるのはいつかわからぬが、奥から出ることになったら兄に真っ先に会い、その横面を張り倒してやらねばなるまいと思うのだった。
 その前に、おみちに謝らねばならないが。





 その頃、おみちは淑姫の部屋の隣で床についていた。
 工藤の取り調べの後、奥に入ったおみちはまず鳴滝の部屋に行った。鳴滝は工藤から調べの一切を聞いていたので、おみちに細かいことは問わず、食事をするように言った。
 おみちは主を守ることができなかったのにと言うと鳴滝はただ生きていてくれてよかったと言った。それでおみちは泣き出し、せっかく用意した食事も冷めてしまった。
 泣き止んだおみちは温め直すという台所方の申し出をこれ以上手数をかけるわけにはいかないと断り、冷めた食事を食べた。鳴滝はそんなおみちを見てお志麻はなんと愚かなことをしたのだと思った。このように健気な小姓を泣かせるような真似をするとは。
 食事の後、淑姫が来た。事情を聞いたからこちらで預かると言う。鳴滝は大丈夫かと案じたが、母上は心労がただでさえ多いのだからと言われれば頷かざるを得なかった。
 淑姫はおみちをじっとさせてはあれこれとくよくよ考えるに違いないと思い、お園の部屋子二人とともに部屋の掃除をさせたり、猫の毛の手入れをさせたりした。といっても、猫のほうはなかなか言うことをきかないので、庭で猫を追いかけまわすことになってしまったのだが。それでも、猫を相手に奮闘するうちに、おみちは笑顔を見せるようになった。お園の部屋子とも仲良くなり、夕食は三人でとらせた。
 淑姫は他の者と一緒の部屋にすれば、つい話してはならぬことも話してしまうかもしれぬと思い、寝るのは自分の隣の部屋と決めた。最初は遠慮していたおみちだが、淑姫に意図を聞き従った。身体をよく動かしたのと、昨夜の疲れもあったのか、床に入るとすぐに寝入ってしまった。
 淑姫はとりあえずはよしと思ったものの、さて明日からまた忙しくなると思い、床に入ってもすぐには眠れなかった。
 桂木の文にはまだ花尾家の殿が離縁を渋っているとあった。近々使いを送り、再び迎えたいなどと言っているらしい。だが、淑姫にはもう戻る気はない。淑姫はここで幸せを見つけてしまったのだから。





 まったく気に入らぬことばかりだった。
 おたまは御末の長屋で六畳の部屋に他の御末三人と床を並べていた。他の三人はすでにすやすやと寝入っているが、おたまは怒りで眠れなかった。
 一昨日の一件でおたまは御末に落とされ、その夜からこの部屋で休むことになってしまった。
 一緒に罰せられたおちほとおまちは御次でやはり長屋住まいだがそちらは二人一部屋だからまだいい。仕事も屋敷の中で荷物を運んだり重い家具を動かしたりするばかりで暑い日差しを浴びることもない。
 だが、御末は炎天下で炭や薪を運んだり、水を汲んだり、掃除をしたりと力仕事が多い。おまけに御末の頭は仕事が遅い、おしゃべりが多いと口うるさい。淑姫も怖いが、頭はもっと怖かった。
 食事も小姓よりおかずが少ない。風呂に入るのは古参からなので、おたまが入る頃には湯は汚れている。
 何から何まで腹の立つことばかりだった。
 その上、今日は屈辱的な出来事があった。庭を掃除していると、猫の糞が落ちていた。淑姫様の馬鹿猫の仕業に違いないと思いながらも、それを片づけているところへ声が聞こえた。

「ミイや、どこにいるの」

 その声には覚えがあった。一緒に働いていたことのある小姓のおみちだった。中屋敷にいたはずと思ってそちらを見ると、お園の部屋子が二人そばにいた。

「おみちさん、ミイの足跡がこっちにある」
「あら、そうね。それじゃそっちに行ったのね」

 新しい糞がここにあると言おうとした時だった。

「おたまあ、何してんだい、さっさと片付けるんだよ」

 御末の頭の声だった。何もここで名まえを呼ばなくてもと思った。

「おたま、返事は」
「は、はい」
「声が小さい」
「はい」

 その声におみちが気づいた。
 
「え、おたまさん、どうしてそんなとこにいるの」

 おみちは不思議そうな顔でこちらを見た。おたまは今の己の恰好を見られたのがたまらなく恥ずかしかった。お仕着せの木綿の着物に黒い掛け襟、黒い帯という小姓の時には着たこともない恰好で、猫の糞の始末をしている姿など、見られたくなかった。
 お園の部屋子がはっとしておみちの手を引き、耳打ちした。

「まあ、そんな。かわいそうに」
「仕方ないわ。姫様の御怒りをかったのですもの」

 かわいそう。おみちに言われるとは思ってもいなかった。
 おたまの父は作事奉行である。おみちの父は今でこそ城代家老の側近だが、元々は作事奉行の下で働いていた下士の娘である。身分が下の娘に同情されるとは思ってもいなかった。
 糞を片づけ掃除を終え、かわいそうにという声を思い出した。なんだか腹立たしかった。おみちごときにかわいそうなどと言われたくなかった。
 仕事を終え、蔵に薪を取りに行った時だった。

「あんた、見ない顔だね」

 話しかけてきたのは五十ばかりの女だった。着ている物から御末だと判断できた。だが、本家では見かけない顔だった。
 相手にするつもりはなかった。

「今忙しいんですけど」
「色が白いとこ見ると、ここに来て日が浅いみたいだね」

 おたまは返事をせず、蔵の前で台所の薪を取りに来たと言うと、係が二束どんと渡した。その重さに思わずよろけたが、不意に軽くなった。
 さっきの五十女だった。

「慣れないうちは大変だろ。一つ持ったげるよ」
「ありがとうございます」

 礼くらいは言わねばならなかった。

「あたしゃ、もんていうんだ。分家の台所の御末でね。時々御使いでここに来るんだよ」

 女は訊かれもしないのにぺらぺらとしゃべる。

「あんたみたいな若い子が一人で苦労してんの見ると、なんか若い頃のことを思い出しちまうよ。本当はこんなとこで働くような子じゃないんだろ。手がきれいだもんね。苦労してんだね」

 思わず足を止めてしまった。そうだ。私はこんなところで働くような身分ではない。それなのに、淑姫のせいで。いや、違う。悪いのは、佳穂だ。あのあばた女だ。

「どうしたんだい。まあ、話してごらん。何があったんだい」

 あの女がいけないんだ。若殿様の寵愛を得て偉そうに説教なんかして。そのせいでこんなことになったのだ。
 思わずぶちまけたくなる衝動を必死に抑えた。
 本家望月月野家の作事奉行の娘たるもの、たかが分家の月影月野家の国家老の娘に腹を立てていかがする。しかも、こんな下賤の女にそんなことを話すなど。奥女中の誇りがおたまを辛うじて止めた。
 おたまは黙って台所のかまどの係に薪を渡した。もんという女は台所の入口に薪を置いた。おたまが取りに行くとささやいた。

「やなことがあったら話しとくれ。言いたいことを辛抱すんのは身体に悪いからね」

 もんは裾をさっと翻して出て行った。

「おたま、残りの薪はどうしたんだい」

 頭の声で我に返った。返事をして薪を抱えてかまどに向かった。
 仕事をしている間、もんという女のことは忘れていた。が、夕餉を食べ、片付けをし、明日の台所の支度を終え、後は寝るだけになった時、昼間のあれこれを思い出した。
 おみちに同情され、分家の御末にまで気安く話しかけられた。つくづく、自分は落ちぶれてしまったのだと思い知らされ苛立ちが募ってくる。私がいる場所はここではないのに。
 あの時、もんに話していたら、この苛立ちが少しは治まったのではないか。いや、御末風情に弱音を吐けるものか。そんなことばかり考えて眠れなかった。




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