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事件

肆 袱紗の刺繍

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 中屋敷の小姓おみちはその日の早朝、分家の門の前で目隠しをされて立っていた。門番は門の横の詰め所にいて気付かなかったが、助けを呼ぶ声に気付き外に出ると明らかに奥女中とわかる髪型と衣裳の娘が門前に裸足で立っていた。目隠しを外すと「望月月野家中屋敷の小姓おみち」と答えたので驚いた。
 本家の中屋敷は赤坂にあり、それが分家のある外桜田にまで裸足で歩いて来たらしいと、門番はすぐに上に報告した。
 留守居役まで話がいき、家老を通じて殿様にも報告、とりあえず隣の本家の上屋敷にそのような奥女中がいるかどうか確認することとなった。
 本家ではおみちを探していたので驚き、分家はすぐにおみちを上等の女乗り物に乗せて隣の本家の上屋敷まで送り届けた。





 おみちを調べたのは、工藤だった。厳つい顔の吉井采女の顔を見た途端、おみちが顔を青ざめさせたので、工藤がそれがしがいたしましょうと言ったのである。お志麻の調べで疲れていたものの、吉井に委縮してしまったら、重要な証言が得られぬ恐れがあった。吉井はそれではと工藤に取り調べをやらせた。
 おみちは比較的冷静に昨日からのことを語ってくれた。それにより、以下のことがわかった。
 お志麻とともに中屋敷を駕籠で出た後しばらくして町家の前に着いた。時間にすると恐らく一刻はかかっていなかっただろうということだった。お志麻の方の実家は大工の棟梁なのに、弟子らしい者が出入りする姿がなく、出て来たのは少し着崩したなりをした大年増だった。話しぶりからお志麻の母親ではないようで、そこで出された食事を食べ、暮れ六つの鐘が鳴るまでそこにいた。食事はその家で作ったものではないようで、食べた後、膳や器を大年増は水でゆすいだだけで部屋の隅に片付けた。
 その家は裏にも出口があり、そこには駕籠ではなく女乗り物があり、駕籠かきも体格のいい六尺だった。お志麻は目隠しをされて乗り物に先に乗った。その後おみちも目隠しをされて別の乗り物に乗せられた。目隠しをされた時に、一体どうしてこんなことをするのかと尋ねると、大年増らしい女の声で「余計なことを言うと、御中臈様もおまえも命がないよ」と言われ、初めて行先がお志麻の方の実家でないことに気付いた。これはかどわかしかと思い、とにかく隙を見て逃げて助けを求めようと思ったが、乗り物はいっこうに止まる気配がない。
 五つの鐘が鳴ってしばらくして乗り物が止まった。目隠しをされたまま乗り物から降ろされた。そのまま柔らかな女のような手で手を引かれて五十歩ほど歩いた後、目隠しを取られて周りを見ると、どこかの屋敷の一室のようだった。背後で声を出すなと大年増とは違う女の声がして戸が閉められたので、振り返り部屋から出ようとしたが、外から鍵がかけてあるようで戸はびくともしなかった。窓もない部屋で恐ろしかったが、声を出すなと言われたので助けも呼べず、ただそこでじっとしていた。一体お志麻の方はどこに連れて行かれてしまったのか。ここはどこなのかわからぬ恐怖で眠れなかったが、そのうち寝入ってしまい、人の足音で目覚めた。
 戸が開き、頭巾をかぶり目だけ出した女が入って来て目隠しをされた。その時もいいと言うまで声を出すなと低い声で言われた。
 板の上らしいところを歩かされたが、突然、身体を持ち上げられて、誰かの肩に担がれたように思われた。息遣いからして担いでいるのは男のようだった。
 明け六つの鐘の音がした頃、身体を降ろされた。百数えるまでじっとしていろと言われた。男の声だった。
 百数えたところで思い切って、お助けをと声を上げると、誰かが走って来て、どうしたんだと言い、目隠しの手ぬぐいを取ってくれた。回りを見ると夜が明けており、目の前に屋敷の門があった。
 目隠しを取った男は門番だった。一体どうしたと問われて、おみちは考えた。
 ここはどうやら武家屋敷らしい。助けを求めようかと思った。が、お志麻のことを思い出した。主人の行方もわからぬのに、自分だけが助けを求めるなど、不忠ではないか。しかも、自分は主人がさらわれるのを見ていることしかできなかった。あの時、乗り物に乗る前に身を張ってでも止めるべきではなかったのか。それをしなかった自分は不忠者であり、自害してお詫びするしかないのではないか。
 そう思った瞬間、涙がこぼれた。死ぬのが怖かったわけではない。国の両親に会えぬまま、不忠義の詫びとして自害すれば、両親や許婚者が悲しむのではないか。しかもお志麻の方の行方もわからぬというのに。こんな情けないありさまで自害をすることになるとはと思うと、涙が次から次へと溢れて来たのである。
 門番は驚き、おみちを門の横のくぐり戸から中に入れて名まえを尋ねた。
 おみちが本家月野家の小姓とわかると門番は仰天し、ここは分家の月影月野家の屋敷と言った。これにはおみちも驚いた。
 おみちは死なせてくれと言ったが、門番は懐剣を取り上げ、もう一人に見張りをさせすぐに上役に報告したのだった。
 ここまで聞き出した工藤はおみちに、お志麻は生きてこの屋敷の中にいると告げた。
 それまで冷静に語っていたおみちは、それを聞いた瞬間、堰を切ったように泣き始めた。緊張がいっきに緩んだためであろうか。
 工藤は泣き止んだら奥で休ませるように立ち合いの吉野に頼んで、目付に報告に向かった。





 その頃、目付の仕事部屋は騒然となっていた。
 広尾に向かっていた者達のうち一人が報告に戻って来たのである。

「伶観の庵に到着すると、庵には町奉行所の者らがおりました。伶観が今朝浪人者に腕を切られたというのです。とりあえず伶観が怪我をしているので奉行所の調べの後、溜池の医師岸田東斎の元に連れて行くことにしました。後で奉行所の者が報告に参ります」

 吉井は留守居役の桂木にも知らせ、奉行所の者が来たら自分も同席すると告げた。桂木はそのほうが話が早いと了承し、部下に奉行所の者に渡す菓子折を用意させた。
 奉行所の者は八つ(午後二時頃)過ぎに来た。
 桂木は留守居役の仕事部屋の奥にある座敷に吉井とともに向かった。
 そこにいたのは、町奉行所の与力狭間はざま勘兵衛かんべえだった。四十を過ぎた勘兵衛は顔を赤くして額に汗をにじませていた。よほど急いで来たのであろう。
 挨拶もそこそこに、狭間は用件を述べた。

「今朝五つ(午前八時頃)過ぎに、広尾村に庵を営む伶観なる尼僧の家に浪人者が押し入り、伶観に切りつけるという事が起きました。尼の叫び声で近くの畑を耕していた者達が庵に駆けつけたので、浪人は逃亡、尼は左腕を斬られましたが、命には別条はありません。尼の話では、知らぬ男だったということですが、その場に浪人がかようなものを落としていきました」

 狭間は懐から袱紗ふくさを出し、それを手のひらの上で広げた。
 桂木も吉井も眉をひそめた。
 袱紗の上にあったのは長方形の一分銀が数枚。ざっと見ると八枚。二両分ほどある。
 だが、問題はそれではない。それを包んでいた白い袱紗の隅には刺繍があった。三日月の上に兎が描かれている「月に兎」紋である。よく見ると、兎の耳が片方折れている。さらに、紋の横には紅梅の花の刺繍が入っている。
 狭間は尋ねた。

「これは月野家分家の紋ではありませんか」

 兎の耳が両方立っているのが月野家本家の紋である。分家の紋は手前に見える兎の左の耳が折れている。

「分家にお知らせする前に御本家にと」
「かたじけない」

 日頃、奉行所の者に付け届けをしていたのが役に立ったと、桂木はとりあえず安堵した。

「この一件、分家には知らせぬように」
「かしこまりました」
「ところで、その伶観とはいかなる尼だ」

 吉井は町方の者なら伶観のことをよく知っているはずと思い尋ねた。お志麻の知る伶観とはまた違うかもしれぬのだ。

「数年前から庵に住み、占いのようなことをやって暮らしを立てていたとのこと。武家の立派な駕籠が時々出入りしていると近所の者が言っておりました。また本人も武家屋敷に出入りしていると申しております。御本家の中屋敷にも参ったことがあるよし」
「重ね重ねかたじけない」
「浪人はいかがいたしましょう。浪人が逃げるのを見た村の者の話では年の頃は三十過ぎ、背丈は五尺二寸ほどで痩せており、左の頬にほくろがあったとのこと、白金の方向へ逃げたということで、そちらを探索させております」
「その者の身元、所在が判明したらお教え願いたい。以後はお構いなく」
「心得ました」

 桂木は帰り際に狭間にこれを皆様でどうぞと菓子折を渡した。狭間はいつもお気遣いかたじけないと受け取った。吉井は菓子折の中に入っているのは菓子だけではあるまいと思ったが、それは口にしなかった。





 桂木と吉井は重臣の待つ部屋に戻った。
 彼らは御前様に委細を報告する前に、吉井の取調の内容を精査するために集まっていたのである。
 すでにお志麻が尼伶観に唆されて若殿様を光信院の仇と思い込み、敵討ちのために中屋敷を出て上屋敷に忍び入ったこと、共に中屋敷を出たおみちがどこかに監禁されていたが今朝分家の門の前で見つかったことは重臣全員が把握していた。
 吉井は与力の狭間の話を伝え、片耳の折れた兎の紋と紅梅の刺繍のされた袱紗を見せた。

「おおっ、なんと」
「これは」

 分家の紋の羽織などは家臣も身につけるが、紋の入った袱紗は分家の身内しか持たない。しかも紅梅の刺繍が入っている。大名家では、持ち物には家紋だけでなく家の中だけで使う個人特有の印を入れることがある。つまり、この袱紗の持ち主は分家の家族の誰かだということである。
 浪人がそれに金を包んで持っていたということは特別な意味があるとしか考えられない。

「伶観という尼が切りつけられたということは、お志麻の一件と関係あるのではないか」

 桂木の意見に家老らはうなずいた。吉井はそれを受けて言った。

「それでは早速、伶観を調べます。岸田東斎の元で傷の手当てをしておりますので、終わり次第こちらへ連れて参ります」 

 家老はその場の全員に今の話は一切漏らしてはならぬと告げた。
 当然のことだった。紅梅の印の持ち主を皆知っていた。その方が関わっているとなれば、御家の一大事である。





 午後には伶観は医者の元から上屋敷に連行され取り調べられた。伶観は取り調べの者が驚くほど、お志麻の一件についてぺらぺらと語った。
 夕刻、目付と家老に報告があった。

「伶観は、お志麻に近づくように、ある貴人から依頼されていたとのことです。お志麻の家族や境遇を事前に知らされ、偶然を装って昨年の夏に外出先の大川端で会って以来、お志麻に信用され、相談事に乗っておったと。その貴人から、光信院様が若殿様に毒殺された恨みで成仏できぬと、お志麻に偽りを話すようにと金を渡されておったとわかりました。貴人は名乗ったことがなく、常に御高祖頭巾をかぶって女乗り物で来たとのこと。伶観は自分より少し年上の女、恐らく五十前後ではないかと言っております」

 家老はあまりのことに言葉を失っていた。
 これはもはや本家だけの問題ではない。





「まさか、さような」

 御前様は家老の持って来たそれを見た時、思わず声を上げていた。
 昨夜の騒ぎに目を覚ました御前様は、この時間まで一睡もしていなかった。だが、眠くはなかった。
 家老は、お志麻が伶観という尼に操られていたこと、伶観はさる貴人に依頼されてお志麻に近づき、若殿様又四郎を殺す様に仕向けたこと、伶観が今朝浪人に襲われ、浪人の落とした一分銀を包んでいた袱紗に分家の家紋と紅梅の印が刺繍されていたことを報告した。
 御前様は証拠の袱紗を見せられて声を上げてしまったのである。
 絹の布で刺繍の糸も絹である。紅梅の印が誰を意味するかも知っていた。
 若殿又四郎慶温もそれを凝視していた。

「この一件に、あの方が関わっていたとは」

 御前様はため息をついた。

「まだ、そうとは限りません。どこぞで落としたものを浪人が拾ったのかもしれません」

 家老はそう言うしかなかった。あってはならないことなのだ。分家の者が本家の者の命を狙うような事件に関わっていたとは。

「だが、この刺繍はまごう方なき……」

 それまで黙っていた又四郎は口を開いた。

「浪人が袱紗の持ち主から銀を受け取ったかどうかは、浪人から聞くしかありません。町方よりも早く浪人を見つけて、調べをすべきかと。それが終わらねば、確たることは言えません」

 御前様は又四郎を見た。

「そなた、誰かをかばっておらぬか。それはそなたのためにも御家のためにもならぬのだぞ」
「かばうのではありません。確たる証拠もないのに、疑うなどできません」

 御前様は又四郎の考えの深さを喜ばしく思うものの、そんな又四郎の命を奪おうと画策したものを許すことはできなかった。

「その浪人、早く見つけ出さねばなりません。もし、私が浪人に銀を渡した者であれば、口封じをするでしょう。伶観という尼を殺せなかったのですから。もし浪人が捕えられて銀を渡した者について語ったら、己にまで探索の手が伸びるのですから」

 又四郎の不穏な発言に、御前様は言葉を失った。口封じという言葉は思いつかなかったのである。
 御前様は、口封じという言葉を知っている又四郎は一体どのようにして育ってきたのかと、不憫に思った。





 又四郎としては、この騒動をこれ以上大きくしたくはなかった。家老の話では、見つかったら当家の者に知らせ、後はこちらに任せて奉行所は関与しないことになっていると言っていた。確かに多忙な与力や同心はそれで済ませることもできよう。だが、もし奉行がその方針をとらなかったら。
 今の南町奉行の遠山左衛門少尉さえもんのじょう景元は前職は大目付だった。大目付は閑職とはいえ老中の下に属するから幕閣にもある程度顔はきく。
 しかも、大目付になる前は北町奉行であった。彼は町奉行の職務に精通していた。切れ物と言われる奉行が月野家の騒動を知り、調べの過程で又四郎の蘭癖を知れば長岡英仙との関係がないか探りを入れてこよう。町奉行の立場からすれば脱獄した長岡を放置するはずがない。御家騒動を口実に老中に働きかけて、月野家の探索をやりかねなかった。
 長岡は今隠れ家で家族と静かに暮らしている。病身という触れ込みなので、外に出なくとも怪しまれることはない。だが、今朝の伶観の事件の捜索を口実に月野家を探索されたら長岡の居場所を奉行所の者に察知される恐れがあった。
 早く浪人を探し出し町奉行所の介入を防がなければならない。浪人の証言一つで月野家は大騒動になりかねないのだ。
 先ほど口封じと言ったのも、自分の密かな願望かもしれなかった。
 町奉行所の介入で長岡の行方が判明し、一時は分家の長屋にいたことや家族への援助などがわかってしまったらと思うと、心のどこかでは浪人が生きていては困ると思う自分がいる。又四郎は己は何という嫌な男かと思う。月野家を守るため、いや己の立場を守るために、浪人の死を願うとは。
 それは別としても、長岡を生かすことはこの国のために必要なことだと思う。国防のために西欧列強の兵制や軍備を研究するには、彼の語学力は必須だと又四郎は思っている。悔しいが、又四郎には彼のように西洋の自然科学を深く理解した上での翻訳はできなかった。
 騒動を外に漏らさず月野家本家と分家の中だけで収めるのは、月野家や又四郎のためだけではなく長岡、ひいては日の本の未来にも関わることだと又四郎は己の心の内に言い聞かせるのだった。




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