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事件
壱 お志麻の襲撃
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お佳穂は水仙ではない。牡丹の花だ。
朝の支度、それも月代を剃られている最中にふと思い浮かんでしまい、顔が緩んだ。
朝餉の膳を持って来た小姓がそれを見て、後で若殿様のご機嫌がよいのは中臈様とお休みだったからだと台所の者らに訳知り顔に語るのだが、そんなことなど又四郎は知らない。ただただ昨夜から今朝にかけて共に過ごした佳穂のことが愛おしくてならなかった。
ディープキスをした時、印を肌に付けた時のとまどい、身体に触れた時の艶めかしくも甘やかな声、どれもが清らかさの奥に艶めいた色を含んでいた。一見純白に見えるが、重なった花弁はよく見れば白一色ではなくほのかに紅色を含むがごとき白牡丹、それが佳穂だった。
いまだつぼみのままだが、花開く時を思うと心は躍る。つぼみを無残に散らさぬために、時をかけ、心と身体を開こうと又四郎は己の欲望を押さえていた。
交流のある蘭方医の話では、男と通じたことのない女子には処女膜というものがあるのだと言う。その形は輪状、半月状をしているとも聞いた。
佳穂のそれはどうなっているかわからぬが、膜なのだから男のものがそれを突き破れば痛いはずである。その痛みがないように愛撫に慣らして緊張せぬようにしたかった。
そんな思慮をする一方で、早く己のものにという欲望もあった。
佳穂を思いやる気持ちと欲望の狭間で揺れながらも、床の中でのことを思い出し、つい顔が緩むのを気付かれぬように抑えているつもりでいる又四郎を小姓達は微笑ましく思うのだった。
表の小姓達は八歳くらいの稚児小姓から元服を済ませた者、さらには二十代後半の妻帯者まで年齢の幅が広い。組頭は三十で妻と子どもが二人いる。御前様や若殿様のそばに仕えるので落ち着きが必要と、彼らはできるだけ早く妻帯することを勧められている。だから控えている小姓の大半は妻がおり、又四郎の身分に似つかわしくない佳穂への気遣いに驚きながらもうぶなことだと思っている。大人たちはさほど遠くないうちに二人が結ばれることは十分想像できたので、陰では何かと言いながらも見守っているのだった。
その夜、表御殿の座敷では、若殿様主催で家臣の集まりが行なわれた。
分家から伴ってきた益永寅左衛門、佐野覚兵衛、田原十郎右衛門と、新たに本家で若殿様付きとなった小姓達の顔合わせと懇親のためである。
又四郎慶温は、座を丸く作り膳を並べ、上座下座の別をしなかったので、皆驚いた。
座の中央では余興が行なわれ、皆食べ飲み笑い、親交を深めたのだった。ことに分家から来た三人組の異国の言葉での小芝居は身振り手振りだけで、皆大笑いするほどであった。
三人は若殿様とともに阿蘭陀語を学んでいた。田原は蘭方医の息子で長崎にも行ったことがあるのだった。三人とも若殿様と年が近く朗らかな者達で、すでに周囲に溶け込んでいた。
しまいには賑やかな様子に誘われて、御前様も様子を見に来たほどだった。若殿様は隣に席を設け、酌をした。さすがに息子を失って間の無い御前様の寂しさを皆察し、しばらくしてお開きとなった。
中奥の小座敷に又四郎が入ったのは戌の刻(午後十時頃)であった。
今宵は佳穂はいない。物足りないが、致し方ない。又四郎は小姓の開ける襖から寝所に入った。
「ん、誰ぞ」
床の脇に女が座っていた。白い帷子の上に打掛を掛けている。頭を下げているので、誰かわからない。佳穂でないことは確かである。佳穂の姿勢は美しい。女は猫背とまではいかぬが、背が少し曲がっていた。
「お礼を申し上げに参りました」
この声には覚えがあった。だが、ここにいるはずがない人のものである。
「そなた、なぜここにおる」
「それは」
女は顔を上げると同時に立ち上がり、一尺(約三十センチメートル)足らずの長さの刃物を振りかざした。
「若殿様のかたきいいいいいい」
叫びながら自分に向かって来る女を、又四郎はさっと横に動きよけた。女は転びそうになったが、かろうじて耐え、反転し再び、又四郎に飛びかかろうとした。
「おのれえ、許さぬ」
又四郎は女を害するわけにはいかぬと、床にあった箱枕を女のすねめがけて投げた。狙い過たず、向こうずねに当たって女はよろけた。
「いかがされましたか」
異常を察知した小姓二人は駆け込むや、女を背後から取り押さえた。小姓は年少の者であっても腕に覚えのある者ばかりである。女の手の中にあった刃物もすぐに畳の上に叩き落とされた。
女ははあはあと息をしながらも、叫んだ。
「お、おのれ、おのれ、おのれええ」
又四郎は刃物を拾い上げた。
「これはどうしたことか」
血走った目の女は叫んだ。
「又四郎、おぬしが、若殿様を殺したのじゃ。絶対に許さぬ」
又四郎は呆然とした顔で女を見つめた。
「おぬしが、若殿様に肉を食わせたのであろう。あの中に毒が仕込んであったにちがいない」
「それは誤解」
「若殿さまあああ、御無事ですか」
女の声を聞き付けた警護の者達がどやどやと襖の向こうから、庭から入って来た。
小姓が叫んだ。
「若殿様に不埒な振舞をした女子を捕まえました」
「おお、天晴じゃ」
警護担当の書院番頭の石垣豪左衛門は小姓をねぎらい、すぐに縄を持ってくるよう部下に命じた。
「捕まえるべきは、わらわではない。又四郎じゃ。こやつが若殿様に毒を盛ったのじゃ」
女の叫びに皆、ぎょっとした。又四郎は違うと言おうとしたが、それよりも石垣が早かった。
「黙れ、黙らぬと斬るぞ」
石垣は鯉口を切った。女はなおも叫んだ。
「斬るなら斬れ。だが、又四郎の罪は消えぬ」
石垣は刀を抜きかけた。
「石垣、ならぬ」
石垣は又四郎の命に従ったものの、自分の持っていた手ぬぐいを部下に渡しさるぐつわをかませた。
だが、女はなおももの言いたげな目つきで又四郎を睨んでいた。
縄もすぐにかけられた。
「早速、取り調べをいたします」
怒りを隠さぬ石垣に又四郎は言った。
「私は無傷だ。ゆえに、この女子を厳しく取り調べてはならぬ。女子の身であるから、奥の者に取り調べをさせよ」
「畏れながら、若殿様に刃を向けただけでも、斬り捨てて当然かと」
「か弱い女子の身でここまでするとは、相当のこと。きちんと話を聞き、道理を説いて聞かせれば反省もしよう。拷問などは決してしてはならぬ」
「かしこまりました」
石垣はそう言うと引き立てよと部下に命じた。裸足のままで女は庭から番所に連れて行かれた。
「失礼いたします」
書院番らと入れ替わりに目付の吉井采女と部下らがやって来た。厳めしい顔の吉井は黙って立っているだけで、周囲を威圧する雰囲気があった。又四郎は養子に決まってから幾度か顔を合わせたことがあった。その時も近づきがたいものを感じていたが、今宵は一層険しい顔つきになっていた。
吉井は現場の状態をさっと見回した後、話をお聞かせ願いたいと切り出した。目付は御前様直属で屋敷の監察を行なう。時には家老の不正をも暴く。又四郎も従わねばならなかった。
部下らは床の周辺をあれこれ調べていたが、特に見るところもないと判断したのか、すぐに出て行った。
吉井だけが残った。
「お怪我はありませんか」
「大事ない」
「あの女人に心当たりは」
「あれは、中屋敷のお志麻の方」
吉井はしばし沈黙した。
「若殿様がお召しになったのですか」
「さようなこと、あるはずがなかろう」
又四郎はさすがに怒りを覚えた。
中屋敷の奥にいる女が上屋敷の中奥に来るのはたやすいことではない。中屋敷を出ることがまず難しい。屋敷の門には番がいるし、奥の門はなおさら厳しい。もし出られたとしても上屋敷に入るのは無理だった。奥女中なら奥の門を利用するが、中屋敷の奥女中が事前の連絡もなしに来るなどありえない。女が一人で屋敷に入り込めるはずがないのだ。ましてや中奥である。男ばかりの空間に女が入ってくればすぐわかる。誰かが手引きしない限りは不可能なのだ。吉井の考えはあながちおかしな話ではない。
だが、佳穂のことを知っていれば、自分が招くことなどないと思うはずなのだが。
「では、誰かが手引きしたということですな」
「そうなるな」
「心当たりは」
ない、と断言したいが、そういうことを考えそうな者はいる。
「おありなのですね」
わずかの沈黙を読み取って吉井が言った。
「私が連れて来た者達は、時折、思いもかけぬことをする。なれど、もし引き入れたとしても、あのような真似をするとは思ってもいないはず」
吉井はふむふむとうなずいた。若殿の連れて来た者といえば、あの三人である。
「三人を調べさせていただきますが、よろしいでしょうか」
「よろしく頼む」
恐らく何も出てこないだろうとは思う。
「ところで、長岡英仙という名をご存知ですか」
不意打ちのような問いに又四郎はぎょっとした。が、顔には出さなかった。
「長岡英仙。蘭学者だな」
「左様でございます。奉行所のお尋ね者です。昨年の火事の切り放ちの際に逃亡したことはお聞き及びかと」
「らしいな」
「若殿様はお付き合いはなかったのですか」
「ない」
「左様ですか。蘭学好みであればお付き合いがあったのかと」
吉井は恐らく又四郎と長岡の関わりに気付いているらしい。でなければ、こんなことをわざわざ言うはずがない。
「留守居役の桂木の元へ先日奉行所の者が参りまして、長岡が江戸に潜伏しているかもしれぬと。若殿様は蘭学をお好みと伺っておるゆえ心当たりがあったら知らせて欲しいとのことで」
どうやら奉行所は長岡が江戸に戻って来たことに気付いたらしい。これは用心せねばならなかった。
長岡は分家の長屋を出た後、蘭学者の中田からオランダの兵法書の翻訳を依頼されてその謝礼を前払いで受け取っていたが、それだけでは足りぬらしく、又四郎に援助を求めたのだった。文を見た十郎右衛門は図々しいにもほどがあると怒ったが、又四郎はいずれオランダ語の兵法書の翻訳を依頼するからと、佐野覚兵衛に長岡の隠れ家に金子を届けさせている。
お志麻の件の取り調べだけならよいが、長岡のことまでほじくり出されてはたまらない。
「長岡のことなど知らぬ。私が知らぬのだから、益永、佐野、田原も知るはずがなかろう」
「御意」
吉井はそれだけ言って部屋を出た。
どっと疲れが込み上げてきた。お志麻に襲われた時よりも吉井との話のほうが緊張した。
小姓が床を整えに来た。
こんな夜に一人とは。
佳穂にいて欲しかった。何もしなくとも、話を聞いてもらえるだけでよかった。異国の蒸気船、蒸気機関車、砂の海に埋まる金字塔、見上げるような高さの南蛮寺等々、佳穂は目を輝かせて聞いてくれるだろう。
「入るぞ」
その声に又四郎は姿勢を改めた。
「御前様、わざわざのお越し、いたみいります」
養父は供もつけずに一人で又四郎の部屋に入って来た。床を整えた小姓は部屋を出た。
「何やらあったようだが、大事ないか」
「おかげさまで、怪我もなく」
「賊は女子のようであったが」
養父の部屋にまで声が聞こえたらしい。
「中屋敷のお志麻の方でした」
「なんと」
斉尚はしばし沈黙した。
「私が光信院様を殺したと思っているようです」
「愚かな」
確かにお志麻は愚かかもしれない。けれど、そう思い込むのはそれだけの理由があるのだろうと又四郎は思う。
「乱心したのでございましょう。正気でかようなことはできません」
「乱心ゆえ、罪一等減じろと言うか」
「元は町方の者。あまり厳しき裁きはいかがかと」
斉尚は胸の前で腕を組んだ。
「だが、無罪放免というわけにもいくまい」
養父の怒りは当然のことである。女子とはいえ家臣である。それが新たに主となる者を害そうとするは謀叛である。
斉尚が部屋を出て、やっと又四郎は床に入れた。
襖の向こう側には小姓以外の気配があった。書院番組か大番組かが今宵は警護をしているらしい。彼らは今夜は一睡もせずに警備と取り調べをするのだろう。
又四郎も眠れそうになかった。けれど、寝ずに体調を崩せば皆が大騒ぎすることになる。無理矢理にでも眠らねばならなかった。
分家の部屋住みなら咳をしようが鼻水を出そうが誰も相手にせぬが、今の身の上ではくしゃみをしただけでお風邪かと小姓が騒ぐ。
又四郎は目を閉じると、白い牡丹を瞼の裏に思い浮かべてみた。が、それは逆効果だった。かえって胸が騒ぎ身体が熱くなってきた。
故郷の景色を思い浮かべようとしたが、それでも佳穂の面影は又四郎の脳裏から容易に離れそうになかった。
朝の支度、それも月代を剃られている最中にふと思い浮かんでしまい、顔が緩んだ。
朝餉の膳を持って来た小姓がそれを見て、後で若殿様のご機嫌がよいのは中臈様とお休みだったからだと台所の者らに訳知り顔に語るのだが、そんなことなど又四郎は知らない。ただただ昨夜から今朝にかけて共に過ごした佳穂のことが愛おしくてならなかった。
ディープキスをした時、印を肌に付けた時のとまどい、身体に触れた時の艶めかしくも甘やかな声、どれもが清らかさの奥に艶めいた色を含んでいた。一見純白に見えるが、重なった花弁はよく見れば白一色ではなくほのかに紅色を含むがごとき白牡丹、それが佳穂だった。
いまだつぼみのままだが、花開く時を思うと心は躍る。つぼみを無残に散らさぬために、時をかけ、心と身体を開こうと又四郎は己の欲望を押さえていた。
交流のある蘭方医の話では、男と通じたことのない女子には処女膜というものがあるのだと言う。その形は輪状、半月状をしているとも聞いた。
佳穂のそれはどうなっているかわからぬが、膜なのだから男のものがそれを突き破れば痛いはずである。その痛みがないように愛撫に慣らして緊張せぬようにしたかった。
そんな思慮をする一方で、早く己のものにという欲望もあった。
佳穂を思いやる気持ちと欲望の狭間で揺れながらも、床の中でのことを思い出し、つい顔が緩むのを気付かれぬように抑えているつもりでいる又四郎を小姓達は微笑ましく思うのだった。
表の小姓達は八歳くらいの稚児小姓から元服を済ませた者、さらには二十代後半の妻帯者まで年齢の幅が広い。組頭は三十で妻と子どもが二人いる。御前様や若殿様のそばに仕えるので落ち着きが必要と、彼らはできるだけ早く妻帯することを勧められている。だから控えている小姓の大半は妻がおり、又四郎の身分に似つかわしくない佳穂への気遣いに驚きながらもうぶなことだと思っている。大人たちはさほど遠くないうちに二人が結ばれることは十分想像できたので、陰では何かと言いながらも見守っているのだった。
その夜、表御殿の座敷では、若殿様主催で家臣の集まりが行なわれた。
分家から伴ってきた益永寅左衛門、佐野覚兵衛、田原十郎右衛門と、新たに本家で若殿様付きとなった小姓達の顔合わせと懇親のためである。
又四郎慶温は、座を丸く作り膳を並べ、上座下座の別をしなかったので、皆驚いた。
座の中央では余興が行なわれ、皆食べ飲み笑い、親交を深めたのだった。ことに分家から来た三人組の異国の言葉での小芝居は身振り手振りだけで、皆大笑いするほどであった。
三人は若殿様とともに阿蘭陀語を学んでいた。田原は蘭方医の息子で長崎にも行ったことがあるのだった。三人とも若殿様と年が近く朗らかな者達で、すでに周囲に溶け込んでいた。
しまいには賑やかな様子に誘われて、御前様も様子を見に来たほどだった。若殿様は隣に席を設け、酌をした。さすがに息子を失って間の無い御前様の寂しさを皆察し、しばらくしてお開きとなった。
中奥の小座敷に又四郎が入ったのは戌の刻(午後十時頃)であった。
今宵は佳穂はいない。物足りないが、致し方ない。又四郎は小姓の開ける襖から寝所に入った。
「ん、誰ぞ」
床の脇に女が座っていた。白い帷子の上に打掛を掛けている。頭を下げているので、誰かわからない。佳穂でないことは確かである。佳穂の姿勢は美しい。女は猫背とまではいかぬが、背が少し曲がっていた。
「お礼を申し上げに参りました」
この声には覚えがあった。だが、ここにいるはずがない人のものである。
「そなた、なぜここにおる」
「それは」
女は顔を上げると同時に立ち上がり、一尺(約三十センチメートル)足らずの長さの刃物を振りかざした。
「若殿様のかたきいいいいいい」
叫びながら自分に向かって来る女を、又四郎はさっと横に動きよけた。女は転びそうになったが、かろうじて耐え、反転し再び、又四郎に飛びかかろうとした。
「おのれえ、許さぬ」
又四郎は女を害するわけにはいかぬと、床にあった箱枕を女のすねめがけて投げた。狙い過たず、向こうずねに当たって女はよろけた。
「いかがされましたか」
異常を察知した小姓二人は駆け込むや、女を背後から取り押さえた。小姓は年少の者であっても腕に覚えのある者ばかりである。女の手の中にあった刃物もすぐに畳の上に叩き落とされた。
女ははあはあと息をしながらも、叫んだ。
「お、おのれ、おのれ、おのれええ」
又四郎は刃物を拾い上げた。
「これはどうしたことか」
血走った目の女は叫んだ。
「又四郎、おぬしが、若殿様を殺したのじゃ。絶対に許さぬ」
又四郎は呆然とした顔で女を見つめた。
「おぬしが、若殿様に肉を食わせたのであろう。あの中に毒が仕込んであったにちがいない」
「それは誤解」
「若殿さまあああ、御無事ですか」
女の声を聞き付けた警護の者達がどやどやと襖の向こうから、庭から入って来た。
小姓が叫んだ。
「若殿様に不埒な振舞をした女子を捕まえました」
「おお、天晴じゃ」
警護担当の書院番頭の石垣豪左衛門は小姓をねぎらい、すぐに縄を持ってくるよう部下に命じた。
「捕まえるべきは、わらわではない。又四郎じゃ。こやつが若殿様に毒を盛ったのじゃ」
女の叫びに皆、ぎょっとした。又四郎は違うと言おうとしたが、それよりも石垣が早かった。
「黙れ、黙らぬと斬るぞ」
石垣は鯉口を切った。女はなおも叫んだ。
「斬るなら斬れ。だが、又四郎の罪は消えぬ」
石垣は刀を抜きかけた。
「石垣、ならぬ」
石垣は又四郎の命に従ったものの、自分の持っていた手ぬぐいを部下に渡しさるぐつわをかませた。
だが、女はなおももの言いたげな目つきで又四郎を睨んでいた。
縄もすぐにかけられた。
「早速、取り調べをいたします」
怒りを隠さぬ石垣に又四郎は言った。
「私は無傷だ。ゆえに、この女子を厳しく取り調べてはならぬ。女子の身であるから、奥の者に取り調べをさせよ」
「畏れながら、若殿様に刃を向けただけでも、斬り捨てて当然かと」
「か弱い女子の身でここまでするとは、相当のこと。きちんと話を聞き、道理を説いて聞かせれば反省もしよう。拷問などは決してしてはならぬ」
「かしこまりました」
石垣はそう言うと引き立てよと部下に命じた。裸足のままで女は庭から番所に連れて行かれた。
「失礼いたします」
書院番らと入れ替わりに目付の吉井采女と部下らがやって来た。厳めしい顔の吉井は黙って立っているだけで、周囲を威圧する雰囲気があった。又四郎は養子に決まってから幾度か顔を合わせたことがあった。その時も近づきがたいものを感じていたが、今宵は一層険しい顔つきになっていた。
吉井は現場の状態をさっと見回した後、話をお聞かせ願いたいと切り出した。目付は御前様直属で屋敷の監察を行なう。時には家老の不正をも暴く。又四郎も従わねばならなかった。
部下らは床の周辺をあれこれ調べていたが、特に見るところもないと判断したのか、すぐに出て行った。
吉井だけが残った。
「お怪我はありませんか」
「大事ない」
「あの女人に心当たりは」
「あれは、中屋敷のお志麻の方」
吉井はしばし沈黙した。
「若殿様がお召しになったのですか」
「さようなこと、あるはずがなかろう」
又四郎はさすがに怒りを覚えた。
中屋敷の奥にいる女が上屋敷の中奥に来るのはたやすいことではない。中屋敷を出ることがまず難しい。屋敷の門には番がいるし、奥の門はなおさら厳しい。もし出られたとしても上屋敷に入るのは無理だった。奥女中なら奥の門を利用するが、中屋敷の奥女中が事前の連絡もなしに来るなどありえない。女が一人で屋敷に入り込めるはずがないのだ。ましてや中奥である。男ばかりの空間に女が入ってくればすぐわかる。誰かが手引きしない限りは不可能なのだ。吉井の考えはあながちおかしな話ではない。
だが、佳穂のことを知っていれば、自分が招くことなどないと思うはずなのだが。
「では、誰かが手引きしたということですな」
「そうなるな」
「心当たりは」
ない、と断言したいが、そういうことを考えそうな者はいる。
「おありなのですね」
わずかの沈黙を読み取って吉井が言った。
「私が連れて来た者達は、時折、思いもかけぬことをする。なれど、もし引き入れたとしても、あのような真似をするとは思ってもいないはず」
吉井はふむふむとうなずいた。若殿の連れて来た者といえば、あの三人である。
「三人を調べさせていただきますが、よろしいでしょうか」
「よろしく頼む」
恐らく何も出てこないだろうとは思う。
「ところで、長岡英仙という名をご存知ですか」
不意打ちのような問いに又四郎はぎょっとした。が、顔には出さなかった。
「長岡英仙。蘭学者だな」
「左様でございます。奉行所のお尋ね者です。昨年の火事の切り放ちの際に逃亡したことはお聞き及びかと」
「らしいな」
「若殿様はお付き合いはなかったのですか」
「ない」
「左様ですか。蘭学好みであればお付き合いがあったのかと」
吉井は恐らく又四郎と長岡の関わりに気付いているらしい。でなければ、こんなことをわざわざ言うはずがない。
「留守居役の桂木の元へ先日奉行所の者が参りまして、長岡が江戸に潜伏しているかもしれぬと。若殿様は蘭学をお好みと伺っておるゆえ心当たりがあったら知らせて欲しいとのことで」
どうやら奉行所は長岡が江戸に戻って来たことに気付いたらしい。これは用心せねばならなかった。
長岡は分家の長屋を出た後、蘭学者の中田からオランダの兵法書の翻訳を依頼されてその謝礼を前払いで受け取っていたが、それだけでは足りぬらしく、又四郎に援助を求めたのだった。文を見た十郎右衛門は図々しいにもほどがあると怒ったが、又四郎はいずれオランダ語の兵法書の翻訳を依頼するからと、佐野覚兵衛に長岡の隠れ家に金子を届けさせている。
お志麻の件の取り調べだけならよいが、長岡のことまでほじくり出されてはたまらない。
「長岡のことなど知らぬ。私が知らぬのだから、益永、佐野、田原も知るはずがなかろう」
「御意」
吉井はそれだけ言って部屋を出た。
どっと疲れが込み上げてきた。お志麻に襲われた時よりも吉井との話のほうが緊張した。
小姓が床を整えに来た。
こんな夜に一人とは。
佳穂にいて欲しかった。何もしなくとも、話を聞いてもらえるだけでよかった。異国の蒸気船、蒸気機関車、砂の海に埋まる金字塔、見上げるような高さの南蛮寺等々、佳穂は目を輝かせて聞いてくれるだろう。
「入るぞ」
その声に又四郎は姿勢を改めた。
「御前様、わざわざのお越し、いたみいります」
養父は供もつけずに一人で又四郎の部屋に入って来た。床を整えた小姓は部屋を出た。
「何やらあったようだが、大事ないか」
「おかげさまで、怪我もなく」
「賊は女子のようであったが」
養父の部屋にまで声が聞こえたらしい。
「中屋敷のお志麻の方でした」
「なんと」
斉尚はしばし沈黙した。
「私が光信院様を殺したと思っているようです」
「愚かな」
確かにお志麻は愚かかもしれない。けれど、そう思い込むのはそれだけの理由があるのだろうと又四郎は思う。
「乱心したのでございましょう。正気でかようなことはできません」
「乱心ゆえ、罪一等減じろと言うか」
「元は町方の者。あまり厳しき裁きはいかがかと」
斉尚は胸の前で腕を組んだ。
「だが、無罪放免というわけにもいくまい」
養父の怒りは当然のことである。女子とはいえ家臣である。それが新たに主となる者を害そうとするは謀叛である。
斉尚が部屋を出て、やっと又四郎は床に入れた。
襖の向こう側には小姓以外の気配があった。書院番組か大番組かが今宵は警護をしているらしい。彼らは今夜は一睡もせずに警備と取り調べをするのだろう。
又四郎も眠れそうになかった。けれど、寝ずに体調を崩せば皆が大騒ぎすることになる。無理矢理にでも眠らねばならなかった。
分家の部屋住みなら咳をしようが鼻水を出そうが誰も相手にせぬが、今の身の上ではくしゃみをしただけでお風邪かと小姓が騒ぐ。
又四郎は目を閉じると、白い牡丹を瞼の裏に思い浮かべてみた。が、それは逆効果だった。かえって胸が騒ぎ身体が熱くなってきた。
故郷の景色を思い浮かべようとしたが、それでも佳穂の面影は又四郎の脳裏から容易に離れそうになかった。
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