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深まる絆
参 子宝の薬
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「今朝、目覚めた時には、でいぷきすを、なさりながら、襟元を」
赤い顔で途切れ途切れに今朝のことを語ろうとするのを鳴滝は制した。
「わかった、もうよい。結局、今朝も同じことであったのであろう」
「はあ」
「同じ床に入りながら、そこまでとは」
鳴滝は肩を落とした。
佳穂は申し訳ありませんと言うしかなかった。
又四郎が添い寝役の吉野とお多江を遠くの部屋にやったため、昨夜の報告は佳穂が自分ですることになってしまった。
その前の松村とお喜多はまだ途中まで聞いていたし、朝別々の布団で寝ているのを確認しているから、佳穂が話すことはほとんどなかった。
だが、昨夜の委細は佳穂しか知らないから、佳穂が自分でああしてこうしてと話すしかなかったのである。
添い寝役がいるというのは案外ありがたいことなのかもしれなかった。又四郎にされたことを自分で申告するというのは、かなり恥ずかしいものだった。添い寝役であれば、客観的な事実だけを伝えそこに生じた感情までは伝えることはない。だが、佳穂は感情を言葉にしないまでも、表情に出してしまっていた。真っ赤な顔で震える声で話す佳穂を見れば、さすがに鳴滝もみなまで聞くことは憚られた。
長く続く慣習には続くだけの理由があるのかもしれない。
「でいぷきすとかれいすなることをしただけか。それにしても、若殿様はまことに、これまで何もなさったことがない、お清の身かもしれぬな」
それは佳穂にはわからない。ただ、又四郎を見ていると、恐る恐る佳穂に触れているようにも思える。やはり、女人に触れたことがないのかもしれない。
「今宵はお呼びはないゆえ、ゆっくりと休むがよい」
そう言われ、ほっとして部屋に戻ると、来客があるとお喜多が言った。
「分家の奥の川村様です」
叔母が来るとは驚きだった。これまで一度も本家の奥へ顔を見せたことはなかったのに。
奥方様と話しているということだったので、小姓が座敷へおいでくださいと伝えに来た。
佳穂は急いで化粧を直して座敷に向かった。
「佳穂にございます」
廊下から声を掛けると奥方様の入れという声がした。障子を開けると、叔母の使う香の匂いが漂ってきた。奥方様に挨拶した後、叔母が言った。
「おめでとうございます、お佳穂の方様」
叔母の物言いに佳穂は驚いた。だが、様付きになるのは致し方なかった。
「ありがとうございます、川村様」
「まあまあ他人行儀な。叔母と姪ではないか」
奥方様はそう言うと、用を思い出したので席を外すと言った。
川村は奥方様に頭を下げる際に付け加えるように言った。
「先ほどの話、よろしく姫様にもお伝えください」
奥方様はうなずいたように見えた。佳穂は何の話であろうかと思ったが、奥方様にしかしていないのであれば、あまり興味を示すのもよくなかろうと思った。
小姓も出て行くと、座敷には叔母と二人きりになった。
叔母はにこやかな表情で改めて言った。
「まことにめでたい。若殿様の寵を受けられるようになったとは」
実際はまだきちんと受けてはいないのだが、対外的にはそういうことにしておかないとまずいのだろう。普通大名の世継ぎであの年齢なら子どもの二人や三人いてもおかしくないのだ。それがお清のままというのは本人にとって知られて嬉しい話ではあるまい。
「嬉しくて、兄上に文を書いてしまいました」
佳穂はえっと声に出しそうになった。うかつだった。恐らく叔母だけでなく、他の者も国の家族への文に江戸屋敷の話題として、佳穂のことを書き知らせるはずである。佳穂も以前、亡き若殿様がお志麻の方を寵愛していると父に書き送ったことがある。同じことをする者がいるのは当然のことである。
父はどう思うのであろうか。喜ぶのだろうか。それとも普通に家臣と結婚したほうが良かったと思うのだろうか。
「お志寿様が生きていたら、さぞやお喜びになったであろうに」
亡き母の名を叔母が口にするのは珍しかった。
「励まねばなりませんよ」
そう言うと、叔母は脇に置いた包みを開いた。一合升ほどの大きさの木箱が現われた。
「これは子宝に恵まれる薬。そなたのことを聞きつけた奥方様から賜ったもの。これを毎日夕刻茶杓の先ほどの量を煎じて飲めば必ずや子宝に恵まれるそうな」
気の早い話と思ったが、佳穂は礼を言い受け取った。それにしても分家の瑠璃姫様がこのような気遣いをするとは思いもしなかった。鳴滝の話では壁の修繕代にも事欠くということであったが。
「お高いお薬ではないのですか」
「気にすることはありません。奥方様の話では、又四郎様を養子に出す代わりに、本家からいくばくかの金子をお借りできたとか」
佳穂は今度はえっと口に出してしまった。
叔母は佳穂の驚く顔を気にもしていないようだった。
「本来なら養子が持参金を持っていくもの。なれど、当家は一万石。とても用意できぬ。そこで本家から金子をお借りし、そのうちの半分を持参金とし、残りは十年で返済するということになった。御本家も背に腹は代えられぬゆえな。御世継がいなければどうしようもないのだから」
要するに分家は世継ぎのいなくなった本家の弱みに付け込んで、金を借りたのだ。しかしながら、節約するふうもなくこのような薬を贈ってくるというのは、いかがなものか。
「お佳穂、そなたも月影の者なら、そのことよくわきまえてお仕えするのですよ。若殿様には、くれぐれも分家のことをよろしくと」
要するにこれからも困った時は頼むということらしい。
なんと図々しい話か。相手が叔母でなければ、佳穂は何か言っていたかもしれない。けれど、口にするわけにはいかなかった。
ふとシロと犬小屋を載せた荷車を引いて本家に来た又四郎の話を思い出した。笑いごとではなかった。本来であれば人を雇って運ぶものを、自分で荷車を引いたということは、分家は引っ越しの費用すら出さなかったということではないか。分家から連れて来たお付きが三人しかいないのもそういうことだろう。
変わった人などではない。分家が金を出さぬからそうするしかなかったのだ。
叔母はその後、分家の若殿の話や何やらをして帰っていった。
佳穂は残された薬の木箱を見つめた。これが必要になる日が来るのであろうか。
「お佳穂、何をしておる」
その声に顔を上げると、淑姫が目の前に立っていた。自分の部屋へと向かう廊下の真ん中にいることに気付き、佳穂は慌てて端に寄ってひざまずいた。
淑姫にはいつもならおつきの小姓がついているが、三人が昨日お役を御免になったためであろうか、一人だった。それで気付くのが遅れたらしい。
「申し訳ありません。お邪魔をいたしました」
「それは何じゃ」
淑姫は佳穂の持つ木箱を見た。
「これは分家の奥方様から叔母を介していただいた子宝の薬です」
「子宝の」
淑姫はすっと手を伸ばすと、箱を手に取って蓋を開けた。薬独特の匂いが佳穂の鼻にも届いた。
「そうか。わらわも嫁入り先でもらった。同じ匂いがする」
そう言うと、淑姫は箱の中身を廊下から庭にぶちまけた。瞬く間に薬は土の上に散らばった。
「何を」
佳穂は立ち上がり、せめて箱に残った分だけでもと返してもらおうとした。高価な薬なのだ。が、淑姫の大きな身体に遮られた。
「姫様、なにゆえ」
「お佳穂、これは子宝の薬ではないぞ」
「え」
「わらわはもらった薬を何も言わず医者に見せた。医者は言った。これは子流しの薬とな」
背筋をぞくりと寒気が走った。
「いくら親しい者からもらったとしても、中身を確めずに薬を飲んではならぬぞ。いや、ことによると医者も仲間になっておるかもしれぬ。信じられるのは己だけぞ」
淑姫はそう言うと、さらに付け加えた。
「分家の奥方が若殿に子ができることを望むと思うか。考えればわかることじゃ」
淑姫の低い声が佳穂の耳にずんと響いた。
遠くで雷が鳴る音が聞こえた。空を見上げると、雲が激しく流れていた。
「嫁入り先でのことゆえ他言無用ぞ」
淑姫の足音が遠ざかる。
やがて雨粒が庭にぽつりぽつりと落ち始めたかと思うと、あっという間に周囲の景色を覆い隠すほどの激しい雨が降ってきた。
女達が雨戸を閉め始めた。佳穂もまたそばの雨戸を閉めた。
叔母が分家の奥方様に頼まれて子流しの薬を持ってくるなど、信じたくなかった。
淑姫は医者でもないのだ。匂いだけでわかるわけがない。淑姫がもらった薬とたまたま匂いが似ていただけではないのか。
佳穂はそう思ったものの、分家の奥方瑠璃姫様が又四郎に子ができることを望むと思うかと言われれば否であった。
まず、分家での又四郎の境遇からして、大事に扱われていないことは明らかだった。素寒貧などという言葉を知っていること自体、貧しかったということだろう。シロと犬小屋を引いてきたこともそうだ。引っ越し費用も禄に出さぬのだから。
分家でそういう扱いをされていた又四郎が分家に対してあまりいい感情を持たぬのは当然だろう。今の御前様が塀の修繕や養子の件で金子を融通しても、そのうちそういうこともなくなるかもしれぬ。子どもの代になれば、ますます分家との縁は遠くなる。
それに次男扱いだった又四郎が本家の主となれば分家の長男斉陽は又四郎に従わざるを得ない。それもまた瑠璃姫には屈辱的であろう。
結論として、瑠璃姫は又四郎に子ができるのを望んでいないと言える。子ができなければ斉陽の子を本家は養子にするはずである。つまり、瑠璃姫の孫が本家の主となる。そうなったら、孫が祖母に逆らえようか。
本家に子を望まぬ瑠璃姫が子流しの薬を佳穂に贈るというのはありえない話ではない。
だが、叔母は薬の中身を知らずに渡されたのかもしれない。叔母が知っていてあの箱を持って来たとは思いたくなかった。いくら忠誠心に篤くとも、姪の身体を傷つけかねない薬を贈るものであろうか。
佳穂はとりあえず、瑠璃姫には注意を払い、叔母を通じて物をもらうのは今後は遠慮しようと思った。
と同時に、淑姫の花尾家での生活は一体いかなるものであったのかと想像し、寒気を覚えた。
年下の殿様とは添い寝をするだけ、なのに子流しの薬を贈られるとは尋常ではない。一体、花尾家の奥はいかなることになっているのか。ことによると、淑姫は身の危険を感じてわざと離縁されるような振舞をしたのではないか。だとすると、単なる我儘などとは言えない。
だが、他言無用と言われれば事の仔細を詮索するわけにはいかない。花尾家の問題を我が身一つに抱え実家にさえ知らせぬ覚悟で戻ってきたのだ。ならば、その気持ちを汲むべきであろう。
佳穂は己の胸一つに淑姫の言葉を納めることにした。
それにしても、若殿の御手付きになるということは、大変なことだった。若殿様との時間を過ごす以外の時間に様々なことが起き、気を遣い、考えねばならぬことが増える。
雨上がりの庭を眺めながら、佳穂は、ふと中屋敷のお志麻の方を思った。あの方もきっと若殿様に愛されるだけでなく、様々な物思いに苦しめられたのであろうと。町方の者ゆえに、奉公人に侮られることもあったのではなかろうか。それでも亡き若殿様を思い屋敷に残りたいと思うとは、よほどあの屋敷での幸せな思い出が多いのだろう。
もし、自分がお志麻の立場になったら、不吉なことを想像し佳穂は胸がしめつけられるように感じられた。
それは、嫌だった。今宵会えないのは仕方ないとわかっている。だが、永遠に会えなくなったら……
やはり、自分は本当に医者では治せぬ病になってしまったらしい。
赤い顔で途切れ途切れに今朝のことを語ろうとするのを鳴滝は制した。
「わかった、もうよい。結局、今朝も同じことであったのであろう」
「はあ」
「同じ床に入りながら、そこまでとは」
鳴滝は肩を落とした。
佳穂は申し訳ありませんと言うしかなかった。
又四郎が添い寝役の吉野とお多江を遠くの部屋にやったため、昨夜の報告は佳穂が自分ですることになってしまった。
その前の松村とお喜多はまだ途中まで聞いていたし、朝別々の布団で寝ているのを確認しているから、佳穂が話すことはほとんどなかった。
だが、昨夜の委細は佳穂しか知らないから、佳穂が自分でああしてこうしてと話すしかなかったのである。
添い寝役がいるというのは案外ありがたいことなのかもしれなかった。又四郎にされたことを自分で申告するというのは、かなり恥ずかしいものだった。添い寝役であれば、客観的な事実だけを伝えそこに生じた感情までは伝えることはない。だが、佳穂は感情を言葉にしないまでも、表情に出してしまっていた。真っ赤な顔で震える声で話す佳穂を見れば、さすがに鳴滝もみなまで聞くことは憚られた。
長く続く慣習には続くだけの理由があるのかもしれない。
「でいぷきすとかれいすなることをしただけか。それにしても、若殿様はまことに、これまで何もなさったことがない、お清の身かもしれぬな」
それは佳穂にはわからない。ただ、又四郎を見ていると、恐る恐る佳穂に触れているようにも思える。やはり、女人に触れたことがないのかもしれない。
「今宵はお呼びはないゆえ、ゆっくりと休むがよい」
そう言われ、ほっとして部屋に戻ると、来客があるとお喜多が言った。
「分家の奥の川村様です」
叔母が来るとは驚きだった。これまで一度も本家の奥へ顔を見せたことはなかったのに。
奥方様と話しているということだったので、小姓が座敷へおいでくださいと伝えに来た。
佳穂は急いで化粧を直して座敷に向かった。
「佳穂にございます」
廊下から声を掛けると奥方様の入れという声がした。障子を開けると、叔母の使う香の匂いが漂ってきた。奥方様に挨拶した後、叔母が言った。
「おめでとうございます、お佳穂の方様」
叔母の物言いに佳穂は驚いた。だが、様付きになるのは致し方なかった。
「ありがとうございます、川村様」
「まあまあ他人行儀な。叔母と姪ではないか」
奥方様はそう言うと、用を思い出したので席を外すと言った。
川村は奥方様に頭を下げる際に付け加えるように言った。
「先ほどの話、よろしく姫様にもお伝えください」
奥方様はうなずいたように見えた。佳穂は何の話であろうかと思ったが、奥方様にしかしていないのであれば、あまり興味を示すのもよくなかろうと思った。
小姓も出て行くと、座敷には叔母と二人きりになった。
叔母はにこやかな表情で改めて言った。
「まことにめでたい。若殿様の寵を受けられるようになったとは」
実際はまだきちんと受けてはいないのだが、対外的にはそういうことにしておかないとまずいのだろう。普通大名の世継ぎであの年齢なら子どもの二人や三人いてもおかしくないのだ。それがお清のままというのは本人にとって知られて嬉しい話ではあるまい。
「嬉しくて、兄上に文を書いてしまいました」
佳穂はえっと声に出しそうになった。うかつだった。恐らく叔母だけでなく、他の者も国の家族への文に江戸屋敷の話題として、佳穂のことを書き知らせるはずである。佳穂も以前、亡き若殿様がお志麻の方を寵愛していると父に書き送ったことがある。同じことをする者がいるのは当然のことである。
父はどう思うのであろうか。喜ぶのだろうか。それとも普通に家臣と結婚したほうが良かったと思うのだろうか。
「お志寿様が生きていたら、さぞやお喜びになったであろうに」
亡き母の名を叔母が口にするのは珍しかった。
「励まねばなりませんよ」
そう言うと、叔母は脇に置いた包みを開いた。一合升ほどの大きさの木箱が現われた。
「これは子宝に恵まれる薬。そなたのことを聞きつけた奥方様から賜ったもの。これを毎日夕刻茶杓の先ほどの量を煎じて飲めば必ずや子宝に恵まれるそうな」
気の早い話と思ったが、佳穂は礼を言い受け取った。それにしても分家の瑠璃姫様がこのような気遣いをするとは思いもしなかった。鳴滝の話では壁の修繕代にも事欠くということであったが。
「お高いお薬ではないのですか」
「気にすることはありません。奥方様の話では、又四郎様を養子に出す代わりに、本家からいくばくかの金子をお借りできたとか」
佳穂は今度はえっと口に出してしまった。
叔母は佳穂の驚く顔を気にもしていないようだった。
「本来なら養子が持参金を持っていくもの。なれど、当家は一万石。とても用意できぬ。そこで本家から金子をお借りし、そのうちの半分を持参金とし、残りは十年で返済するということになった。御本家も背に腹は代えられぬゆえな。御世継がいなければどうしようもないのだから」
要するに分家は世継ぎのいなくなった本家の弱みに付け込んで、金を借りたのだ。しかしながら、節約するふうもなくこのような薬を贈ってくるというのは、いかがなものか。
「お佳穂、そなたも月影の者なら、そのことよくわきまえてお仕えするのですよ。若殿様には、くれぐれも分家のことをよろしくと」
要するにこれからも困った時は頼むということらしい。
なんと図々しい話か。相手が叔母でなければ、佳穂は何か言っていたかもしれない。けれど、口にするわけにはいかなかった。
ふとシロと犬小屋を載せた荷車を引いて本家に来た又四郎の話を思い出した。笑いごとではなかった。本来であれば人を雇って運ぶものを、自分で荷車を引いたということは、分家は引っ越しの費用すら出さなかったということではないか。分家から連れて来たお付きが三人しかいないのもそういうことだろう。
変わった人などではない。分家が金を出さぬからそうするしかなかったのだ。
叔母はその後、分家の若殿の話や何やらをして帰っていった。
佳穂は残された薬の木箱を見つめた。これが必要になる日が来るのであろうか。
「お佳穂、何をしておる」
その声に顔を上げると、淑姫が目の前に立っていた。自分の部屋へと向かう廊下の真ん中にいることに気付き、佳穂は慌てて端に寄ってひざまずいた。
淑姫にはいつもならおつきの小姓がついているが、三人が昨日お役を御免になったためであろうか、一人だった。それで気付くのが遅れたらしい。
「申し訳ありません。お邪魔をいたしました」
「それは何じゃ」
淑姫は佳穂の持つ木箱を見た。
「これは分家の奥方様から叔母を介していただいた子宝の薬です」
「子宝の」
淑姫はすっと手を伸ばすと、箱を手に取って蓋を開けた。薬独特の匂いが佳穂の鼻にも届いた。
「そうか。わらわも嫁入り先でもらった。同じ匂いがする」
そう言うと、淑姫は箱の中身を廊下から庭にぶちまけた。瞬く間に薬は土の上に散らばった。
「何を」
佳穂は立ち上がり、せめて箱に残った分だけでもと返してもらおうとした。高価な薬なのだ。が、淑姫の大きな身体に遮られた。
「姫様、なにゆえ」
「お佳穂、これは子宝の薬ではないぞ」
「え」
「わらわはもらった薬を何も言わず医者に見せた。医者は言った。これは子流しの薬とな」
背筋をぞくりと寒気が走った。
「いくら親しい者からもらったとしても、中身を確めずに薬を飲んではならぬぞ。いや、ことによると医者も仲間になっておるかもしれぬ。信じられるのは己だけぞ」
淑姫はそう言うと、さらに付け加えた。
「分家の奥方が若殿に子ができることを望むと思うか。考えればわかることじゃ」
淑姫の低い声が佳穂の耳にずんと響いた。
遠くで雷が鳴る音が聞こえた。空を見上げると、雲が激しく流れていた。
「嫁入り先でのことゆえ他言無用ぞ」
淑姫の足音が遠ざかる。
やがて雨粒が庭にぽつりぽつりと落ち始めたかと思うと、あっという間に周囲の景色を覆い隠すほどの激しい雨が降ってきた。
女達が雨戸を閉め始めた。佳穂もまたそばの雨戸を閉めた。
叔母が分家の奥方様に頼まれて子流しの薬を持ってくるなど、信じたくなかった。
淑姫は医者でもないのだ。匂いだけでわかるわけがない。淑姫がもらった薬とたまたま匂いが似ていただけではないのか。
佳穂はそう思ったものの、分家の奥方瑠璃姫様が又四郎に子ができることを望むと思うかと言われれば否であった。
まず、分家での又四郎の境遇からして、大事に扱われていないことは明らかだった。素寒貧などという言葉を知っていること自体、貧しかったということだろう。シロと犬小屋を引いてきたこともそうだ。引っ越し費用も禄に出さぬのだから。
分家でそういう扱いをされていた又四郎が分家に対してあまりいい感情を持たぬのは当然だろう。今の御前様が塀の修繕や養子の件で金子を融通しても、そのうちそういうこともなくなるかもしれぬ。子どもの代になれば、ますます分家との縁は遠くなる。
それに次男扱いだった又四郎が本家の主となれば分家の長男斉陽は又四郎に従わざるを得ない。それもまた瑠璃姫には屈辱的であろう。
結論として、瑠璃姫は又四郎に子ができるのを望んでいないと言える。子ができなければ斉陽の子を本家は養子にするはずである。つまり、瑠璃姫の孫が本家の主となる。そうなったら、孫が祖母に逆らえようか。
本家に子を望まぬ瑠璃姫が子流しの薬を佳穂に贈るというのはありえない話ではない。
だが、叔母は薬の中身を知らずに渡されたのかもしれない。叔母が知っていてあの箱を持って来たとは思いたくなかった。いくら忠誠心に篤くとも、姪の身体を傷つけかねない薬を贈るものであろうか。
佳穂はとりあえず、瑠璃姫には注意を払い、叔母を通じて物をもらうのは今後は遠慮しようと思った。
と同時に、淑姫の花尾家での生活は一体いかなるものであったのかと想像し、寒気を覚えた。
年下の殿様とは添い寝をするだけ、なのに子流しの薬を贈られるとは尋常ではない。一体、花尾家の奥はいかなることになっているのか。ことによると、淑姫は身の危険を感じてわざと離縁されるような振舞をしたのではないか。だとすると、単なる我儘などとは言えない。
だが、他言無用と言われれば事の仔細を詮索するわけにはいかない。花尾家の問題を我が身一つに抱え実家にさえ知らせぬ覚悟で戻ってきたのだ。ならば、その気持ちを汲むべきであろう。
佳穂は己の胸一つに淑姫の言葉を納めることにした。
それにしても、若殿の御手付きになるということは、大変なことだった。若殿様との時間を過ごす以外の時間に様々なことが起き、気を遣い、考えねばならぬことが増える。
雨上がりの庭を眺めながら、佳穂は、ふと中屋敷のお志麻の方を思った。あの方もきっと若殿様に愛されるだけでなく、様々な物思いに苦しめられたのであろうと。町方の者ゆえに、奉公人に侮られることもあったのではなかろうか。それでも亡き若殿様を思い屋敷に残りたいと思うとは、よほどあの屋敷での幸せな思い出が多いのだろう。
もし、自分がお志麻の立場になったら、不吉なことを想像し佳穂は胸がしめつけられるように感じられた。
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