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深まる絆

壱 深き口づけ

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 その日のうちに、小姓三人はお役御免となった。おたまは御末に、おちほとおまちは御次に落とされた。
 本来なら即刻国許に返すところだが、国に戻る者がいない時期であったので、帰国の目途がつくまで、上屋敷で働くことになったのである。
 おたまは国の奉行の娘で水汲みなどしたことがないので、御末の頭に徹底的に鍛えられることとなった。おちほとおまちは慣れぬ道具の運搬や掃除の仕事をすることになったが、御末よりは室内にいる時間が多くまだ暑い外での作業がないので楽であった。
 それでも他の小姓達は皆淑姫の処置に震えあがった。
 欠員の補充はしなかった。淑姫はそれで不自由が生じても、己の監督不行届きゆえのことと言って、手の足りぬところは自分で動いたのである。
 佳穂はその姿に、さすがは姫様と思うしかなかった。
 これほどの気持ちがなければ上に立つことはできぬ。佳穂は改めて己の仕える主の一家を敬わずにはいられなかった。
 又四郎の甘い言葉に浮かれている場合ではないのだ。又四郎のことを思い胸がいっぱいになり、のぼせ上がっていた佳穂に冷や水を浴びせかけるような一件だった。淑姫に言われた上屋敷の奥の主という言葉が重く心にのしかかる。 
 強くあらねばならぬ。鳴滝の言葉を佳穂は心に繰り返していた。淑姫の言うようにやれるとは思えぬが、最善を尽くすのみだった。





 その夜、佳穂が中奥の小座敷に入った時、又四郎はすでに座っていた。
 遅れて申し訳ありませんと言うと、今日はシロが大人しかったから少し早く来れたのだと笑った。

「雷が鳴ったであろう。犬は雷が苦手なのだ」
「まあ、気の毒に。兄の犬も怖がっていましたが、犬は皆そうなのですね」

 またも犬の話になった。犬の話になると、佳穂は身分のことも忘れて話をしてしまう。強くあらねばならぬというのにと思っても、つい、佳穂は又四郎の話に引き込まれてしまう。
 自分は又四郎に惹きつけられているのだという事実を突きつけられているようだった。

「兄上の犬はむく犬か」
「はい。狩りのために、出入りの商人に探してもらったものです」
「ほお。兄上は狩りをなさるのか」
「兄だけではありません。猪や鹿が山から下りて来て畑を荒らすことがありますので、陣屋の者や村人達総出で秋から冬にかけて狩りをします」

 又四郎は興味深そうに耳を傾けた。その姿を見れば、嬉しくなってしまうのは、やはり自分の中が徐々に変わってきているからであろうか。

「狩りか。では、御前様も国に帰るとなさっておいでなのだろうか」
「はい。奥方様に狩りのことをお話しになっていたことがございますから」

 奥女中らが同席した場での話なので、佳穂はこれは話してもいいことと思い語った。

「寛善院様が片耳の折れた兎を狩ったのが分家の始まりだとも伺ったことがあります」
「分家の紋だな」

 その昔、寛善院が月輪郷で狩りをしていた時に、片耳の折れた兎を獲ったという。その直後に分家の初代となった次男が生まれたということで、分家は「月に片耳折れ兎」の家紋になったと言われている。ちなみに本家の紋は「月に兎」である。

「そうか。では国入りしたら、狩りもせねばな」

 御前様の隠居の手続きは着々と進んでいるようで、又四郎は先々のことをあれこれ考えているようだった。
 佳穂は国入りという言葉を思い出していた。国入りまでにはと又四郎は考えている。果たして本当にあの絵のようなことをするのであろうか。想像するのも恥ずかしかった。

「シロも連れていけば喜ぶだろうな。シロは水鳥を狩る犬なのだ。あちらでは水鳥の狩りはあるのか」

 佳穂の返事がないので、又四郎はもう一度言った。

「水鳥は狩るのか、お佳穂」
「え、はい、鴨を獲ります」

 慌てて返事をする佳穂に又四郎は不審を感じたようだった。

「何かあったのか。奥で誰かに何か言われたか」

 まっすぐに見つめられ、佳穂は視線を畳の上に落とした。

「御心配なさるようなことはございません」

 奥であったことを話せば余計な心配をかける。それに、奥での出来事は基本的に他言してはならないことになっている。 

「夕刻、奥の者から家老に、近々国に戻る予定の者はないか問い合わせがあったが、それと何か関係あるのか」

 おたまらの件だと佳穂は気付いた。又四郎は勘がいいらしい。

「奥の者が国許の親が病という知らせを受けたのか、それとも罰せられ国に帰る者がおるのか」
「気になるのですか」

 佳穂は話すつもりはないが、尋ねた。

「気になる。そなたのことで、誰ぞつまらぬことを言って罰せられたのではないかと」
「もしそうならどうなさいます」
「許さぬ」
「御心が狭いのではありませんか」

 言ってからしまったと思った。若殿にこのような口のきき方が許されるはずもない。
 だが、又四郎は笑った。白い歯を見せて。

「そなたのことに関しては、私は心が狭いのだ。そなたを他の者に触れさせたくないし、そなたにキスをしていいのも私だけだ。そなたがキスをしていいのも、私だけだ」
「畏れおおうございます」

 佳穂は恐縮するしかなかった。そんなことを言われるような身ではないのに。何より又四郎にきすをするなど恥かしい。

「その代わり、そなたの心が狭くても許す。他の女子に私が触れられたら悋気りんきを起こしても構わない」
「さようなこと……」

 身が縮まるほど恥ずかしいことだった。女子は悋気を起こしてはならぬ、嫉妬してはならぬと、子どもの頃から言われ続けている身では、そんなことを言われても困るのだ。
 
「え」

 恥ずかしさに俯いている間に、背後に又四郎が座っていた。
 また、昨夜のように抱かれるのかと思うと身体がかっと熱くなった。
 好きという言葉を思い出してしまうと、もう何も考えられなくなりそうだった。それにあの口吸いも。

「どうして、背後にまわられるのですか」

 つい言ってしまった後で、こういう物言いはしてはならぬことを思い出した。
 
「どうして? そなたは私がまっすぐ見ると目をそらそうとするではないか」

 当然のことである。目を合わせるなど、してはならないことだった。

「若殿様のご尊顔をを拝するなど、畏れおおくて」
「私はそなたの顔がもっと見たいのだが」

 その言葉とほぼ同時に、背後から抱きかかえられていた。昨夜のように胡坐をかいた上に横向きにされた。
 
「昨日、言うたことを忘れたようだな。もう一度、いや、何べんでも言う。私はお佳穂が好きだ。あばたがあろうと、お佳穂は美しい」

 低く落ち着いた声が、耳を通してだけでなく、身体を伝わって響いてくる。佳穂は身体を満たす熱をどう逃せばいいのかわからず、ただ頬を染めてうつむくだけだった。

「昨日のように、お佳穂も言うてくれぬか」
「なんと」

 又四郎はこれは困ったとばかりに佳穂をぐいと抱き寄せた。

「ああっ」

 温かな胸に顔が近づき、佳穂はその熱とほんのりと香る汗の匂いにめまいが起きそうになった。

「キスの逆さ」

 あの言葉を言う。昨日は意味を考えずに答えてしまった。だが、今日はとても畏れおおく恥ずかしくて言えない。

「どうしても言わなければならぬのですか」
「お佳穂、そなた、私が嫌いか」

 それこそ滅相もないことだった。主を嫌いなどと言うことはできない。それに、言ってしまったら、もっと取り返しのつかないことになるような気がする。

「嫌いではありません」
「では、言うてくれ」

 言えない。
 言葉には魂があると歌の師匠に教わった。悪い言葉を使えば悪いことが起き、善い言葉を使えば善いことが起きると。もし、好きと言ってしまったら、佳穂は本当に又四郎を好きになってしまうのではないか。中臈の身で、そのようなのぼせ上がった気持ちで仕えていたら、いずれ奥方様を迎えた時に、耐えられるのであろうか。亡くなった母のことを忘れたかのような父のことを思い出す。いつか、佳穂もあのように忘れられてしまうだろう。その時に感じるであろう虚しさを想像するだけで、身体の熱が冷めていく。
 
「どうしたのだ」
「どうかお許しください」
 
 又四郎はしばらく黙っていた。佳穂はきっと怒っているのだと思い、顔を上げることができなかった。昨日はきすだけで済んだが、今日は果たして許してもらえるのだろうか。

「わかった、許す」

 意外な言葉だった。が、ほっとしたのも束の間だった。

「だが、私はそなたが好きなのに、そなたは私のことを好きと言ってくれぬ。それでは釣り合いがとれぬ」
「釣り合い」

 そんなことを考えたこともなかった。又四郎と佳穂の身分自体、釣り合いがとれていない。又四郎と釣り合いがとれるのは大名の姫であろう。

「そうだ。釣り合いがとれぬ。釣り合いをとるためには、そなたにしてもらわねば」

 嫌な予感がした。

「好きと言えぬなら、キスをしてくれ」

 佳穂は顔を上げ又四郎を見た。見下ろす目はらんらんと輝いている。
 昨夜とは違う男のようだった。そういえば英吉利と清の戦争の話が途中だったはずである。今日は続きはしないのだろうか。

「昨夜の話で、未だ清が敗れた理由を伺っていないのですが」

 又四郎はブッと吹き出した。

「そなた、なぜ、かような時に」
「思い出したのです。英吉利が勝った理由はわかりました。優れた船と広い領土があるからと」

 又四郎はそうかとうなずいた。
 よかった、これで風向きが変わると佳穂は思った。

「それだけでないのだ」
「というと」
「武器があったからだ。大砲と言って、多くの火薬を詰めた弾を船から陸や敵の船に撃つことができる武器があった。種子島などまったく相手にならぬほどだ。一発で船が沈むこともある」
「恐ろしい」

 国許で狩りの時の種子島の音を聞いたことがあったが、あのような音では済まないのだろう。しかも一発で船が沈むとは。

「そなたと私も今、戦いをしておる」

 風向きが微妙に変わったことに佳穂は気付いた。だが、それを変える術はない。

「私もそなたも、まだ互いの武器を交わしておらぬ。今は名乗りを上げておるところだ」
「名乗りでございますか」

 おかしな喩えだと佳穂は思った。

「そうだ。キスは戦いで言えば名乗り。私は昨夜そなたに名乗りを上げた。だから、今宵はそなたがキスで名乗りを上げねばならぬ。でなければ、戦いは始まらぬ」
「戦いなどしておりません」

 男女のことが戦いなどとは聞いたことがない。

「そなたはそのつもりであろうが、私にとっては戦いだ。そなたをこの戦場いくさばに招き寄せるのに、どれほど苦労したことか」

 ここが戦場。ふと昨夜感じたことを思い出す。この方は危険な方だったと。ならば、ここを戦場に喩えるのもおかしな話ではない。だが、この戦は何をもって勝敗となすのか。

「ここが戦場としても、若殿様に負けたら私はどうなるのでしょうか。あるいはその逆は」
「それは」

 又四郎はにやりと笑った。

「勝っても負けても、悔いはない。そなたと戦うことだけを願って、私はここにいるのだから」

 なんだかよくわからない又四郎の言葉だった。

「名乗りを上げずに戦うは卑怯ぞ。お佳穂、下りてくれぬか」

 卑怯とまで言われては、名乗りを上げぬわけにはいかなかった。佳穂が膝の上から降りて畳の上に座ると、又四郎は床の夜着を払いのけ敷布団に横になった。無防備な寝間着のまま、仰向けになって。

「さあ、名乗りを上げよ。そなたのキス、いくらでも受け止めようぞ」

 佳穂は布団の横に座って又四郎を見下ろす形になってしまった。若殿様より高い位置にいるというのは、失礼なことである。

「できません」
「なぜだ」

 又四郎は佳穂を見上げた。佳穂は視線を外した。 

「お顔の上から名乗りを上げるなど、失礼ではありませぬか」
「では、私がそなたの上に乗ってもよいのか」

 佳穂は淑姫から渡された絵を思い出した。あれはまさしく殿御が女の上にのしかかるさまであった。

「いえ、さような意味では」
「気にするな。昨夜の返礼をすると思えばよい。私はそなたに昨夜したのと同じくらいしてもらえればよい」

 回数など数えていなかった。

「回数を数えていないのはわかっている。私は気が済むまでやった。だから、そなたもそうすればよい」

 又四郎という男はよほど、釣り合いというのが気になるらしい。佳穂も己と同じように振る舞わねば気が済まぬらしい。他の男もそうなのだろうか。それとも、又四郎だけなのか。
 又四郎は目を閉じた。

「見られては恥ずかしかろう。好きなところに触れるがよい」

 長いまつげ、整った鼻、色のよい唇、少し伸びた髭が見える顎、又四郎の清らかなものを汚してしまうような気がして佳穂は怖かった。けれど、卑怯と言われるのは嫌だった。
 大きく息を吐いて吸い、呼吸を整えた。丹田に意識を集中した。

「失礼いたします」

 佳穂は座ったまま、両手を己の膝の前に突いて顔を近づけた。汗のにおいがうっすらとする。だが、不快ではなかった。
 昨夜の記憶を頼りに、額に唇を近づけた。唇が触れたのは滑らかな額の中央だった。

「あっ」

 又四郎の口から小さな息が漏れた。びくりとして、佳穂は唇を離した。口紅がうっすらとついてしまった。後で拭かなければなるまい。

「よい、それでよい。そなたの唇はなんと愛らしい」

 又四郎の唇から漏れる言葉は甘い響きを持っていた。

「次はどこだ」

 佳穂はゆっくりと手前にある右の頬に口づけた。薄い皮膚の下に頬骨の感触があった。又四郎は何も言わぬまま、わずかに瞼を動かした。だが、目は開けない。
 佳穂は再び顔を上げた。赤い唇が誘うように感じられた。

「唇にしてよろしいですか。息が苦しくなければ」
「ああ、頼む。少々長くても構わぬ」

 佳穂は息を吸い、ゆっくりと唇を近づけた。柔かい皮膚に触れた瞬間、昨夜の温かさを思い出した。なんと人の唇は柔かくも温かいものか。
 息をするのも忘れそうになったが、さすがに苦しくなり唇を離した。

「ああっ」

 又四郎は息を吸い、目を開けた。潤んだような目に見つめられ、佳穂は視線を外そうとしたができなかった。美しかった。

「お佳穂、もう一度唇に触れてくれぬか。少し口を開けてな」

 佳穂は言われたように口を半開きにして唇に触れた。すると、不意に口の中に柔かい物が入って来た。未知の感触に、佳穂は狼狽した。が、すぐにこれは舌らしいと気づいた。己の舌に触れるそれの柔らかさは人の舌でしかない。又四郎のものゆえ、噛むわけにもいかず、佳穂は己の舌を突くような動きに逆らえなかった。
 それはまるでナメクジか何かのようであった。無論佳穂は口の中にナメクジを入れたことはないが、もし入ったらこのような感じなのかもしれぬと思ったのである。又四郎とはまた別の命を持つ物のように、佳穂の舌の先や歯の根元を舐めた。
 ややあって舌は口から出て行った。

「汚うございます」
「私は言った。佳穂は美しいと。だからそなたの身体はすべて美しいと思う。だから舐めるくらいなんでもない」

 この方は一体、何を言っているのか。佳穂には到底理解できない理屈だった。

「そうそう、このような口吸いをディープキスというのだ。深き口吸いという意味だ」
「でーぷきす、深き口吸い」

 英吉利の人々がかようなことをしているとは。世界には様々な人がいるものだと佳穂は思った。
 
「そう深いのだ。つまり、これをすれば、仲が深まるのだ」

 又四郎の言葉にまたも佳穂は驚かされた。一体、又四郎の頭の中はどうなっているのだろうか。寝所を戦場に喩えたり、きすをすることが名乗りを上げることだと言ったり。
 何より、仲が深まる口吸いなど、恥かしくてならない。




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