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お志麻

お志麻という女

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 同じ日の夕刻。ここは赤坂の中屋敷、お志麻の方の部屋である。
 雨が上がり涼しくなった部屋に、小姓のおみちがやって来た。

伶観れいかん様が見えました」

 お志麻は写経の手を止めた。 

「通しておくれ」
「かしこまりました」

 お志麻は筆を擱き、小机に背を向けた。

「失礼いたします」

 すずやかな声でそう言ったのは廊下に座る尼であった。年の頃は四十ばかりであろうか。

「おお、ようおいでくださいました」

 お志麻は尼を招き入れた。尼はゆっくりと部屋の中央まで膝行で進み出た。

「先ほどまで雨が降っていたから難儀したのではありませんか」
「いえ、私がいおりを出ると、雨はぴたりと止み、この通り少しも濡れませなんだ」
「さすがは伶観様。やはり霊力があると雨もやむのですね」
「いえ、私にはさようなことはできません。すべては仏のお導き」

 そう言うと、尼はにっこり微笑んだ。

「さて、それでは御勤めを」
「よろしくお願いします」

 お志麻は部屋の上座に置いた棚の扉を開けた。持仏の観音様の姿が現われた。
 尼は観音様に一礼し、お香を焚き、数珠を手繰り、読経を始めた。
 お志麻もその後ろで一心に経を読んだ。
 しめやかな空気があたりに広がっていく。
 読経を終えると、伶観はお志麻の方に向きを変えた。

「若殿様は今あちらでいかがされているのでしょうか」

 お志麻は尋ねた。尼は厳かだった表情を急に苦し気にゆがめた。

「く、くるしい、くるしい」
「若殿様」

 お志麻は叫んだ。尼は胸を押さえ正座していた足を崩した。その目つきは尋常のものと見えなかった。白目を剥いていた。その声も読経とは違い、男のように低く部屋に響いた。

「く、くるしい。お志麻、たのむ、かたきを とってくれ、たのむ」
「はい、必ず、必ず仇をとります」

 お志麻は尼の手をとった。まるで生きていた時の若殿様にしたように。

「とってくれるか」
「はい」
「うれしいのう」
「きっと、きっと、討ち取ります。又四郎を」

 お志麻の目はらんらんと輝いていた。
 外は夕闇に包まれようとしていた。





 お志麻と斉倫はこの屋敷の庭で出会った。
 昨年の初春の頃のことで、庭掃除の手を休め梅の花の下で散ってきた花びらを手に取り見つめていると何をしていると問われた。

「花びらを見ておりました」
「梅が好きか」
「へえ。梅の実がたくさんなれば梅干しがたくさん食べられますので」

 斉倫はにっこり笑った。

「梅干しが好きか」
「へえ」

 斉倫はそうかと言って庭から御殿に戻った。その日はそれで終わった。
 翌々日の午後、御末の頭から奥の中臈のところへ行くように言われた。そこで風呂に入れられ身体中を磨かれ、きれいな着物を着せられ化粧をされた。何事かと思い中臈のところへ戻ると、今宵は若殿様に侍るように言われた。
 どうやら若殿様に見初められたようで、家族のことなどを調べた上で御側に侍ってもよいということになったらしい。
 自分のような生まれでも、若殿様の御側に侍ることができるなどお志麻は思ってもいなかった。
 お志麻の父は左官だったが、まとまった金が入ると大酒を飲み母に手を上げていた。長屋の人々が止めてくれたおかげで母もお志麻も無事に生きてこられたようなものだった。
 お志麻が十の年の冬に、父は仕事を終え行きつけの酒場で飲んだ後、誤って近くの堀に落ちて溺れ死んだ。母一人子一人となり途方に暮れていた親子を助けたのは父親の知り合いの大工の棟梁だった。三年前におかみさんを亡くしやもめ暮らしの棟梁と母が親しくなるのに時間はかからなかった。
 十一の秋、母は棟梁と所帯を持った。翌年には弟、その次の年には妹が生まれた。
 棟梁はお志麻のこともかわいがり、年頃になると縁組を考え始めた。弟子の中でも腕の立つ清蔵という三十過ぎの男の名が挙がったと知り、お志麻は冗談ではないと思った。年は勿論だが、顔立ちが嫌だった。髭が濃くてぎょろりとした目が耐えがたかった。一人前の職人の縁組が三十過ぎるのは珍しいことではない。年齢は我慢できるが、顔だけは嫌だった。
 お志麻は時間を稼ぐことにした。二年ほどよそで奉公をすればその間に清蔵は他の女と身を固めるだろう。清蔵は棟梁の家の下女らに人気があった。母や棟梁に奉公をしたいと訴えると、意外にも簡単に許しが出た。奉公をしてから嫁入りすれば箔が付くと考えたのである。
 棟梁の知り合いの口入屋を通じて、赤坂のお屋敷に勤めるようになって二年近く。お志麻は御末という末端の下働きであったが、御末の頭から信頼され、時には新入りの御末を指導することもあった。清蔵が若い下女と祝言を挙げたと聞いたので、そろそろ奉公を終えて実家にと思っていた。その矢先の思いもかけぬ話だった。
 実家にも話は通されていた。後に家から届いた文によると、お屋敷からの話に母も棟梁も驚いたが、同じ職人と祝言を挙げて長屋暮らしをするよりは御手付きとなり御子を産み御殿で大勢の人にかしずかれる暮らしならと、受け入れたとのことだった。
 中臈から若殿様の言葉に従うこと、自分からものを尋ねてはならない、若殿様からの問いには必ず答えよ、物をねだらぬようにと注意された。返事も「はい」と言い、町方のような早口にならぬようにせよと言われた。
 してはならぬことの多さに閉口したものの、悪い気はしなかった。
 遠目に見る若殿様は立派な体格で優しそうな方だった。髭も濃くないし、目もぎょろりとしていない。身分の隔たりは大きいが、話をした時は気さくな感じだった。
 そんな方に見初められるなど思ってもいなかった。あの方なら清蔵よりずっとましかもしれない。
 実際、ましどころかずっとよい方だった。
 支度を終え待っていると、寝間着を着た若殿様が来た。
 若殿様は初めてゆえ慣れぬであろうと、床に入るまでしばらく話をした。お志麻ははいという返事しかできなかった。やがて若殿様はこう言った。

「一応、里の親に許しを得ているが、そなたはいいのか。里に心に思う者はおらぬのか」

 そんなことを聞かれるとは思わなかった。もとより心に思う者などいないから、首を振った。

「いいです。思う者もおりません」

 答えながら、なんという方だろうと思った。もし里に思う者がいると言ったら、この方は何もせずに帰してくれるのだろうか。若殿様という身分でそんなことをするなんて信じられなかった。

「よかった。もしいたらとずっと気掛かりであったのだ」
「いたら、どうなさるのですか」

 中臈の戒めを破って尋ねた。

「残念だが、その時は里に戻す。そのほうがそなたもよかろう」

 若殿様は少し寂しげに微笑んだ。その微笑みを見てお志麻は安堵した。怒ったりなさらないと。

「お、笑ったな」

 思わず浮かんだわずかな笑みを見て若殿様は言った。

「笑ったほうが良い顔だ。先ほどからずっと顔が固まっておったからな」
「かたまるって、にこごりみたくですか」

 思わず早口になっていた。若殿様は笑った。

「にこごりとは。いや、なんというか石のような感じであった。だが、今は柔かそうに見える」

 そう言うと、若殿様はそっと手に触れた。温かな感触に驚いたお志麻にささやいた。

「そなたの手も柔らかい。下働きの者の手は固いと言うが、そうではないのだな」
「人によって違います。あたしはあんまり手が荒れないたちで」

 お志麻はよく同僚に言われていた。まるでお姫様みたいにきれいな手だと。母もまた苦労知らずに見られる柔かい手をしていた。

「そうなのか。思い込みで物事を決めてかかってはならぬのだな」

 しみじみと言う若殿様の様子にお志麻は驚いた。お志麻の言うことを聞いてそのようなことを言う人など初めてだった。
 
「おいで。夜は長いようで短い。そなたの柔らかい身体を知りたい」

 若殿様に床に誘われた時、お志麻はためらわなかった。この方にならすべてを預けられると思った。
 抱き締められて口を吸われた。薄荷はっかのさわやかな香りが鼻に抜けた。やはり若殿様ともなれば歯磨きに使う塩も特製の物らしい。

「なんとかわいい」

 長屋住まいをしている頃、手習いから帰ってくると隣との仕切りになっている薄い板壁の向こうから若夫婦の声が聞こえてきたことがあった。なんだろうと怖い物見たさで壁に開いていた小さな穴から覗くと、夫婦が二人抱き合っている姿が見えた。
 あの二人の幸せそうな姿を思い出す。若殿様とこれからあの夫婦のようなことをするのだ。
 お志麻は何もかも若殿様に委ねた。
 すべてが終わった後、若殿様の声が聞こえた。

「かわいいの、お志麻は」

 髪を撫でられながら言われ、お志麻はほっとした。中臈から質問したり、ねだったりすることを禁じられていたのに、若殿様はお咎めにならなかった。
 何より、お志麻をかわいいと言ってくれた。離れたくないという気持ちが込み上げてきた。お志麻はぎゅっと両腕で抱き付いた。

「そうか、そんなに」

 そう言うと、若殿様はまたもお志麻の身体を撫で始めた。
 朝までお志麻と若殿様は幸せな時を過ごした。





 実は同じ頃、他にも御手付きの中臈がいたらしいというのは後で知ったことだった。彼女らの存在を知った時、お志麻は不安になった。彼女らは武家の出、自分は町人。いずれ飽きられるのではないか。何より御子を宿さなければならない。
 そんな不安をよそに、若殿様の寵愛はますます深まった。
 大川の花火をお忍びで見に行った日のことだった。
 出入りの商人の伝手で舟を借りて、隅田川の花火を川から見るというのは初めてのことだった。里にいる頃は川岸から大勢の人並みの向こうに見える花火を遠くに見るのがやっとだった。
 川岸近くの茶屋で贅沢な食事をした後、舟に乗って花火のよく見える辺りまで出ると、すでに同じような舟が並んで花火が上がるのを今や遅しと待っていた。
 横にいる若殿様は今年から玉屋の花火が見られなくなったと残念がっていた。玉屋は前年の夏に火事を出したために、財産没収の上、主人は江戸追放となってしまったのである。  
 それでも、お志麻にはその夜の花火は美しかった。若殿様と同じ空を見上げ、美しさに共にため息をついた。このような花火見物は初めてのことだった。
 やがて最後の花火が打ち上がり、空は再び闇に覆われた。舟は続々と岸へ戻って行く。
 お志麻達の乗った舟も川岸の小さな桟橋に寄り着いた。茶屋で待っていたお供の侍や奥女中らが目の前に控えていた。若殿様から先に舟を降りた。お志麻も続いた。

「どうぞ」

 差し出された手は、かつての御手付き中臈のものだった。今は寵愛が薄れ近々実家に戻ると聞いていた。
 なんとなく嫌な予感がしたけれど拒むわけにはいかない。拒めば町方の娘は疑い深い、卑しいことよと言われるかもしれなかった。

「えっ」

 差し出された右手に自分の左手を載せようとした瞬間、突き返された。それでも手を借りずに桟橋に自力で下りようとした途端、右手でつまんでいた打掛の裾を誰かが後ろで踏んだ。転んでしまう。川に落ちると思った。怖くて目を閉じてしまった。きゃっという悲鳴と同時に水に何かが落ちる音が次々にした。誰かがお志麻の左手を引っ張り身体をぐいと抱き上げたように思われた。
 気が付くと、お志麻は桟橋の上に立っていた。その左手を握っていたのは中臈ではなく尼だった。
 悲鳴のした方を見れば小姓が一人舟から川に足を滑らせたのか、水の中で助けてと悲鳴を上げていた。驚いてお供の男が駆け寄って小姓を引き上げた。手を突き返した中臈も川の中から桟橋につかまって助けて助けてと大騒ぎをしている。すぐに彼女も引き上げられた。

「大事ありませぬか」

 尼の落ち着いた声を聞いて初めて、これはもしかすると、自分は嫌がらせを受けたのかもしれぬと気づいた。

「お志麻、お志麻、いかがした」

 水音と悲鳴に驚いた若殿様が駆け戻ってきた。
 お志麻は周囲を見回した。小姓はぬれねずみになったままきょとんとして土の上に座り込んでいた。中臈は髪振り乱し、お志麻が落とした落としたとわめいていた。

「この二人は、御中臈を川に落とそうとしておりましたよ。一人は手を突き放し、もう一人は後ろで打掛の裾を踏んでました。二人とも失敗して足を滑らせてこのありさま。この二つの目でしっかり見ましたから間違いございません」

 尼は言った。船頭や他の舟の客もそうだそうだと言った。
 若殿様はお供の侍に何か指示した後、お志麻の手を握っている尼に言った。

「かたじけない。何と礼を言ってよいか」
「お礼などいりません。私は何もしておりません。見ていただけでございます」

 そう言うと、尼はお志麻を見た。

「あなた様は大変な強運をお持ちですね。実の父親が亡くなっても、母親は大工の棟梁と所帯を持って何不自由ないようにあなた様を育てられた。今はこうして御大名の若殿様の想い人。この幸いを大切になさいませ」

 なぜ、この人は自分の身の上を知っているのか、お志麻は不思議でならなかった。ひょっとすると神仏が変化した姿ではないのか。

「尼様、あなたは一体どちらから」
「広尾村の伶観というしがない比丘尼びくにでございますよ」

 尼はそう言うと手を離し、すたすたとその場から歩き去った。
 その夜以来、お志麻はぬれねずみになっていた中臈と小姓の姿を見ることはなかった。
 数日後、お志麻は御次の頭に頼んで広尾に住むという尼を探してもらった。
 尼はすぐに見つかった。以来、伶観は中屋敷に出入りするようになった。



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