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若殿様と中臈
伍 一夜の波紋
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「お佳穂様、御目覚めを」
耳元でささやかれるお喜多の声にはっと目が覚めた。
「ここは中奥です。小姓が来ぬうちに、奥へ」
そうだった。昨夜は又四郎の隣の床で眠ったのだった。
奥に戻らなければならない。
身体を起こすと、隣の床では又四郎がまだ眠っていた。音をたてぬように床からはい出た。お喜多が背中に打掛を掛けた。
「んん、お佳穂、起きたのか」
又四郎がこちらを見た。眠そうで目をしょぼしょぼさせている。昨夜より少し顎髭が伸びていた。
「申し訳ありません。寝過ごしてしまいまして」
又四郎はゆっくりと上半身を起こした。
「こちらへ」
こちらへ来いということらしいが、何であろうか。
佳穂は床の上に正座し、膝行して近づいた。
「もう少し、こちらへ」
膝が又四郎の身体に付きそうなほど近づくと、両腕で抱き寄せられた。
「きゃっ」
小さく叫んだ途端に、又四郎の唇が唇に触れた。又四郎の熱い身体と唇の感触に、佳穂の目がいっぺんに覚めた。お喜多もまた目を丸くしていた。
唇はすぐに離れた。だが、身体は抱きしめられたままだった。
「今後は、朝起きたら最初にキスをする」
そのような作法があるなど知らなかった。
「さようなこと初めて伺いました」
「私も初めてやってみた。そなたの唇はまことにみずみずしい。味わうと、命が延びるような心持ちだ」
そんなことを言われるとは思わず、佳穂は呆然となった。すると、再び唇が近づいた。
「さような顔をされると、我慢できぬ」
ささやきの直後、またも口づけされた。
お喜多はもう顔を真っ赤にしてうつむくしかなかった。なんとまあ朝から火が出るようにお熱いことよと思うしかなかった。
お喜多が遅いので様子を見に来た松村もそれを見てしまった。
「なんと」
その声を無視し、又四郎は今度はなかなか唇を離さなかった。佳穂はどうしようと思ったが、勝手に唇を離すのは不忠なのではないかと思うと離せなかった。それに、又四郎の唇は温かく、腕に触れられた背中の感触は不快ではなかった。
若殿様を起こしに来た小姓二人は松村の背後に棒立ちになってぽかんと口を開けていた。
松村が咳払いをした。
やっと、又四郎は唇を離した。佳穂はぼんやりとしたまま、その場から立つことができなかった。
「それでは、今宵また」
その声で我に返った。お喜多が手をつかんだ。
「参りましょう。小姓が」
そうだった。若殿様の小姓はまだ年若い男子である。彼らにこれ以上見られるのは恥ずかしかった。
佳穂はお喜多に手を引かれ、松村に守られるように、中奥を後にしたのだった。
奥の自室に戻り、衣裳を身につけ髪を結い化粧を直すと、朝食の膳が運ばれて来た。
膳を持って来たお三奈は、おめでとうございますと頭を下げた。だが、お喜多の表情は微妙だった。佳穂も果たしてこれがめでたいことなのか、わからなかった。それでもお三奈に礼を言い食事をした。
食べていると昨夜のことは夢ではないかと思えてくる。今汁を飲んでいるこの口に又四郎の唇が触れたのだ。温かく柔らかい唇は、これまで食べてきた物のどれとも違う感触だった。
思い出すだけで頬が赤らんでくる。
一体、自分はどうなってしまったのだろうか。昨夜は交わることなく、ただ好きだ、美しいと言われ、口づけられただけなのに、口づけを思い出すだけで、胸が高鳴ってしまう。
又四郎の声、長いまつげに縁どられた目、知らぬ世界のことを話す唇、口づける時にぶつかりそうになる鼻、形のよい耳たぶ、きれいに剃られた月代、豊かな髪、髪をなでつけている鬢付け油の香り、自分を抱き締めるたくましい腕、汗ばんだ額、そういう部分を一つ思い出すだけでも、胸がいっぱいになってくる。
何より、温かな声でささやかれた「好きだ」という言葉を思い出せば、もう落ち着いていられない。このまま部屋から走り出てどこぞに姿を隠してしまいたいほどだった。
胃の腑にこれ以上食べ物を入れることなどできなかった。
「すまぬ。もうこれ以上は」
佳穂は箸を置いた。いつもの半分も喉を通らなかった。
「御匙を呼びましょうか」
医師を呼んでもたぶん治るまいと佳穂は思った。
「それには及ばぬ」
「ですが」
不安そうなお喜多に笑いかけた。
「これは医者には治せぬ」
仕事がしたかった。空いた時間が少しでもあれば、又四郎のことを思い出してしまうだろう。思い出して浮ついた気持ちにならぬよう、しゃにむに仕事がしたかった。
「奥方様のところへ参る」
「今日は休むようにと鳴滝様からありました」
どうしてこういう時に限って。身体を思いやっての配慮なのだろう。けれど、身体は前と少しも変わらない。
それなのに、部屋にいて休めとは。又四郎のことが思い出されると、胸が高鳴り、他のことが考えられなくなるというのに。これでは、自分が自分でなくなるようなものだった。こんなにも苦しい思いに苛まれるなど初めてのことだった。
だが、その苦しみはじきに終わった。
鳴滝の部屋子が呼びに来たのである。恐らく昨夜のことであろう。松村の報告を聞いた鳴滝は、どう思ったことか。不首尾を責められるかもしれぬと思った。
「そなたを責めるつもりはない」
控えの間に入った佳穂に鳴滝は言った。意外だった。慣れるまで待つように言ったのは佳穂なのだ。松村からも聞いているはずである。
「若殿様がよくない」
「鳴滝様、お言葉ですが、慣れるまでお待ちくださるようにと申したのは私です」
「だが、それを言わせたのは若殿様ぞ。これまでの御前様や若殿様で、さようなことを仰せになった方はおらぬ。困った方よ」
めったに苛立ちや怒りをあらわにせぬ鳴滝の口調は鋭い。
「今宵もとお話があったが、いかがする。嫌なら断っても構わぬ。気分が優れぬというのも理由になる」
年寄とも思えぬ発言だった。よほど、昨夜の件が腹に据えかねているのであろう。お清の中臈をわざわざ夜伽に指名しておきながら、口吸いだけしかせぬとは奥の女を愚弄していると鳴滝は思ったに違いなかった。
何より、断るという選択肢が示されたのは、佳穂にとっては衝撃だった。
「そなたが生涯をかけた決心をして参ったのに、それを無下にするとは、いくら若殿様とはいえ」
鳴滝の怒りは佳穂を思うゆえのものだった。佳穂は鳴滝の気持ちをありがたく思った。恐らく昨日の今時分にいかがすると言われたら断っただろう。けれど、今朝の『それでは、今宵また』と言った又四郎の声を思い出せば、断ることなど考えられなかった。
「鳴滝様、かたじけのうございます。なれど」
「お佳穂、そなた」
鳴滝は「なれど」という言葉だけで、佳穂の気持ちに気付いてしまった。
「口吸いだけで、そなたの気持ちを動かすとは、若殿様という方は罪作りな方よ」
口吸いだけではないと佳穂は言いたかった。若殿様は知らない世界のことを教えてくれた。好き、美しいとも言ってくれた。英吉利の言葉で口吸いをキスと言うことも知った。それに、殿御の唇や腕の温かさも。あばたのことも。あばたのあるお佳穂が好きだと言ったことを思い出すと、これまで心の底に沈んでいた澱が流されていくようだった。
年寄の鳴滝の部屋にいるというのに、昨夜のことを思い出すだけで身体が熱くなってくる。
「ただ、できるだけ早う、若殿様の御寵愛を受けたほうがよい」
鳴滝の言葉は佳穂を現実に引き戻した。
「女子というのは、他の女子に対して厳しいもの。そなたがいつまでも口吸いばかりで殿様を独り占めすることをよく思わぬ者も出てくるはず」
そのようなことがあるのだろうか。佳穂の知る同僚も年長者も年少者も、嫉妬を見せることはなかった。
「そなたは、支藩の御家老の娘でお清の中老ということで、これまでは皆が面と向かってあれこれ言うことはなかったはず。だが、若殿と一夜でも一緒に過ごせば、何もなくとも、お清ではない。汚れた方と陰で言われることもあろう。いつまでも懐妊せねば、他の女子が嫌味を言うこともある」
「さようなことがあるのですか」
鳴滝の話は極端ではないかと思った。が、鳴滝はうなずいた。
「この奥でも、子を産むことのなかった女子の中には謗りに耐えられず、命を絶った者がおる。勤めに参った初めの頃ゆえ、もう三十年ほど前のことだが。他にもいろいろあるのだ。使われておらぬ井戸の跡が西側にあろう。あれは、飛び込んだ者がおるからという話。いや、ここだけではない。分家でも同じこと。他の家の奥でもいろいろとな」
井戸の話は聞いたことがあった。前の御前様の寵を受けた若い奥女中が御前様からいただいた櫛を井戸に落とし、それを取ろうとして落ちたという話であった。それゆえ、井戸に物を落としても自分で取ろうとしてはならぬ、必ず人を呼ぶようにと新参者の奥女中への教訓として語られる話である。だが、飛び込んだとなると話は違ってくる。
寒気がしてきた。庭からは蝉の鳴き声が聞こえるというのに。
「強くならねばならぬ。殿の寵愛を受けるというのはさようなこと。弱い女子では務まらぬ。お佳穂、頼むぞ」
鳴滝の部屋を出た佳穂は、庭に面した廊下を歩いて自室に向かった。蝉の声は相変わらず高い。鳴滝の話はまことのことなのだろうか。だが、彼女が偽りを言ったことは一度もない。
ふと雷の音が遠くに聞こえた。空を見上げれば雲の動きが早い。これは雨になるかもしれなかった。
「……ねえ、おかしなこと」
「あばたのくせにね」
淑姫付きの小姓の声が不意に耳に飛び込んで来た。淑姫の部屋はこの奥である。この刻限なら姫は奥方様の部屋で歌の師匠に添削を受けている頃だろう。小姓はその間に部屋に控えているようだった。
あばたという言葉が気になり、部屋の手前に立ち止まり耳を澄ました。
「あの方、気にして化粧を濃くしてるから、時々髪に白粉がついてるのよ」
「ホホホ、なにそれ」
「よく見てるわねえ」
明らかに自分のことだった。佳穂は衝撃で立っていられそうになかった。今は髪につくほど塗っていないのに。
「若殿様、近くであばたを見て、何もされなかったんじゃないの」
「そうかもね」
三人の小姓はケラケラと笑っていた。
鳴滝の言う通りだった。ただのからかいと笑い飛ばすことなどできなかった。背筋を冷たい汗が流れてゆく。
「まだ姫様のほうがいいかも」
「そうよね。格から言えば姫様のほうが。正直、花尾の殿様は若過ぎたのよ。子どもだったんだもの」
「え、そうなの、やっぱり」
小姓の一人は姫の嫁ぎ先にもついていった者だった。実家の者に嫁ぎ先の話を勝手にするなど、奥女中にはありえぬ作法であった。
「だって、姫様と同じ布団に入っても、何もなさらずに眠ってらしてね。寝言で母上とか言ってるんだもの」
「ちょっと何それ」
「それじゃ姫様も役者に夢中になるはずね」
もう我慢ができなかった。自分のことだけならいざ知らず、淑姫様の嫁ぎ先の寝所のことまで話すなど許せるものではなかった。
部屋の前まで歩き、少しだけ開いていた明かり障子をさっと開けた。
「そなたたち、何を話している。恥を知れ」
佳穂自身も驚くほど大きな声をあげていた。
小姓達はさすがに驚きすぐに姿勢を正した。だが、淑姫の婚家でのことを話していたおたまという年長の小姓だけは不貞腐れていた。
呆れたものの、一度振り上げたこぶしをそのままにはできない。
「姫様の御側で見聞きしたことを語るとは不届き千万。奥女中のたしなみを忘れたか」
「申し訳ございません」
「心得違いをしておりました」
二人は頭を下げた。だが、おたまだけが顔を上げたまま言った。
「姫様が不憫とは思わぬのですか」
おたまの視線には明らかに蔑みの色があった。
「あなた様のような方が姫様を差し置いて若殿様に侍るなど」」
「何を申す。己が主のことを語ったことを棚に上げ」
おたまは不敵に笑った。
「若殿様の寵を受けられなかったから、さようにいきり立つとは、御見苦しうございませんか」
そんなふうに思われているのかと、佳穂は衝撃を受けていた。
さすがに同輩は驚いて、おたま様、もういい加減にと声を掛けた。
だが、不貞腐れたおたまはさらに続けた。
「あなた様より姫様のほうがよほどお似合いなのに。たかが支藩の家老の娘のくせに」
そんなことはわかっている。一万石の月影藩の家老である父の扶持は、十万石の望月藩の奉行を勤めるおたまの父よりも少ない。小姓の時も、親の扶持や知行地の石高を自慢する同僚がいて、佳穂は何も言えなかったことがあった。
だが、父の仕事は本家の家老以上に多忙で過酷だった。洪水が起きそうになれば堤が切れては大変と豪雨の中、陣屋を出て、代官所の者や農民を指揮して堤を守り、被害が出れば現地を視察し報告書を江戸に送り、被災者を見舞い、改修工事に立ち会いと、陣屋に座っているだけでは済まない仕事だった。そんな父を陣屋の役人や領民は尊敬のまなざしで見ていた。仕事をしている父は本当に誇らしかった。家庭では、義母と結婚してから亡き母のことなど忘れたように振る舞って見える父ではあるが。
本家の上屋敷の者にそんな父のことをたかがと言われるのは、口惜しいことであった。
思わず、自分でも普段なら決して口にせぬことを吐き出していた。
「たかが支藩などと言うとは本家に仕える者の風上にもおけぬ。奥方様は支藩から嫁がれ、若殿様は支藩から養子に入られた。分家は月野家本家を支えているのに、なんという不遜な」
言ってからしまったと思った。以前から時折感じていた、分家の者に対する本家の奥女中の優越感への反発をこんな形で吐き出してしまうとは。己の心のどす黒さを感じ、佳穂は泣きたくなった。
だが、口に出したものを取り消すことはできない。
一方、言われたおたまは顔を青ざめさせていた。他の二人も震えていた。怒った顔を見せたことのない佳穂がこれほど怒るとは思っていなかったのだった。
だが、佳穂は己の言葉が彼女達を傷つけたのだと、情けなく思った。
その時だった。稲光が輝き、五つも数えぬうちに雷鳴が地を這うようにとどろいた。そのとどろきもやまぬうちに地の底から聞こえてくるような低い声が背後から聞こえた。
「まこと、お佳穂の申す通りじゃ」
佳穂はゆっくりと振り返った。
大きな目をかっと見開いた淑姫が立っていた。背後のお園はガタガタと震えている。
「分家は本家を支えておる。そなたは分家の出のお佳穂をないがしろにしただけでなく、わらわの大切な母上もないがしろにしたも同じ。その血を受けた光信院様もな。恥を知れ」
淑姫がこのような姿を見せることはめったになかった。
「お許しを」
おたまは頭を床にすりつけるようにして叫んだ。
「おたま、おぬしの暴言、この耳でしかと聞いた。部屋に戻り謹慎せよ。お園、しかるべき者におたまを監視させよ。おちほ、おまち、そなたらから話を聞きたいゆえ、ここに残れ」
おたまはお園の側にいた他の小姓二人に両側から支えられ立ち上がると、部屋へ連れて行かれた。お園もついて行った。
佳穂は淑姫を見上げた。淑姫のつらそうな顔を見れば、佳穂は何も言えない。
「お佳穂、すまぬ。わらわの小姓がつまらぬことを言うて。この者らの不始末は、わらわが仕置きをするゆえ、そなたは気にすることはない。情ないものよの」
「畏れながら申し上げます。寛大な御仕置きを」
「そなたは甘い」
淑姫はぴしゃりと言った。同時にまた雷鳴がとどろいた。
「最初が肝心じゃ。でなければ、この先も同じことになる」
そうかもしれない。だが、小姓達はまだ幼い。思慮も浅い。
「わらわが父上らと中屋敷に行けば、そなたが上屋敷の奥の主も同じ。甘い顔だけでは乗り切れぬぞ。母上などもああ見えて、かようなことには厳しい。覚えておくがよい」
上屋敷の奥の主。思いもかけぬ言葉であった。確かにいずれ御前様や奥方様、淑姫様は中屋敷に移る。そうなれば上屋敷の主は又四郎である。だが、己が奥の主になるとは思いもしなかった。奥の主は正室である。大名の正室は大名の子女、つまり姫と呼ばれる方々である。佳穂のような中臈は正室に仕える立場であり、主などという大それた立場になることなどありえない。
「畏れながら、主は奥方様ではありませんか」
「若殿様は、光信院様の喪中ということで奥方はしばらく娶らぬそうじゃ。ゆえに、そなたが奥の主。奥のことはそなた次第ぞ。そなたがしっかりせねば、綱紀が緩む。頼むぞ」
「まさか、さような」
思わず口にした言葉に淑姫は笑った。
「まさか、という出来事は世間にいくらでもあるではないか。たとえば、わらわが戻ってきたことも、兄上が亡くなられたことも」
本人がそれを言うかと佳穂は絶句した。
「そなたならやれる。わらわが嫁ぎ先から戻って来た時、そなたはすぐに屋敷に残っていた女どもを使い、部屋の支度をし、台所に昼餉と夕昼の用意を命じた。一方では、下屋敷に使いを送り、母上にわらわの里帰りを知らせた。母上は覚悟した上で父上にわらわのことを話せた。留守居役の桂木にも広敷を通じて知らせてくれたおかげで、桂木も離縁のことを知らなかったと恥をかかずに済んだ。そうそう、お園の癪も御匙に知らせてくれたのであろう。人手が足りぬからと、薬を煎じてくれたとお園が言うておった」
それはその時、考えられるだけのことをしただけのことである。留守居の小姓たちもよく動いてくれたからできたのだった。
「私にはそれしかできませんでした。後から、風呂の支度や姫様のお猫様の食べ物の用意をしておけばと気づきましたが、後回しになってしまいました」
「風呂も猫の食べ物も他の者で済むこと。そなたはそなたにしかできぬことをやった。そなたにはできるのだ。自信をもて」
淑姫の低い声が佳穂の胸に染み入った。
夫から離縁を言い渡されれば、理不尽と思える理由であっても、文句も言わず実家に帰らねばならない。それが大名の妻というものだった。淑姫はそれでも弱音一つ吐かず、強く生きている。おたまたち小姓の不始末から目をそらすこともない。
佳穂もまた佳穂の立場でできることを懸命に勤めなければならない。
私にはできる。確信はない。けれど、そう思うしかない。
己の立場から逃げることはできないのだ。置かれた立場でできるだけのことをする、それが人の道かもしれない。
「姫様、最善を尽くすように努めます」
淑姫はうなずいた。
「それでよい。さて、それでは、おちほ、おまち、話を聞くぞ」
淑姫は二人の小姓の前にどっしりと腰を据えた。
佳穂は廊下に出た。
大きな雨粒が庭に落ち始めたかと思うと、ザアっと音を立てて激しく降り始めた。蝉の鳴き声はもう聞こえない。
耳元でささやかれるお喜多の声にはっと目が覚めた。
「ここは中奥です。小姓が来ぬうちに、奥へ」
そうだった。昨夜は又四郎の隣の床で眠ったのだった。
奥に戻らなければならない。
身体を起こすと、隣の床では又四郎がまだ眠っていた。音をたてぬように床からはい出た。お喜多が背中に打掛を掛けた。
「んん、お佳穂、起きたのか」
又四郎がこちらを見た。眠そうで目をしょぼしょぼさせている。昨夜より少し顎髭が伸びていた。
「申し訳ありません。寝過ごしてしまいまして」
又四郎はゆっくりと上半身を起こした。
「こちらへ」
こちらへ来いということらしいが、何であろうか。
佳穂は床の上に正座し、膝行して近づいた。
「もう少し、こちらへ」
膝が又四郎の身体に付きそうなほど近づくと、両腕で抱き寄せられた。
「きゃっ」
小さく叫んだ途端に、又四郎の唇が唇に触れた。又四郎の熱い身体と唇の感触に、佳穂の目がいっぺんに覚めた。お喜多もまた目を丸くしていた。
唇はすぐに離れた。だが、身体は抱きしめられたままだった。
「今後は、朝起きたら最初にキスをする」
そのような作法があるなど知らなかった。
「さようなこと初めて伺いました」
「私も初めてやってみた。そなたの唇はまことにみずみずしい。味わうと、命が延びるような心持ちだ」
そんなことを言われるとは思わず、佳穂は呆然となった。すると、再び唇が近づいた。
「さような顔をされると、我慢できぬ」
ささやきの直後、またも口づけされた。
お喜多はもう顔を真っ赤にしてうつむくしかなかった。なんとまあ朝から火が出るようにお熱いことよと思うしかなかった。
お喜多が遅いので様子を見に来た松村もそれを見てしまった。
「なんと」
その声を無視し、又四郎は今度はなかなか唇を離さなかった。佳穂はどうしようと思ったが、勝手に唇を離すのは不忠なのではないかと思うと離せなかった。それに、又四郎の唇は温かく、腕に触れられた背中の感触は不快ではなかった。
若殿様を起こしに来た小姓二人は松村の背後に棒立ちになってぽかんと口を開けていた。
松村が咳払いをした。
やっと、又四郎は唇を離した。佳穂はぼんやりとしたまま、その場から立つことができなかった。
「それでは、今宵また」
その声で我に返った。お喜多が手をつかんだ。
「参りましょう。小姓が」
そうだった。若殿様の小姓はまだ年若い男子である。彼らにこれ以上見られるのは恥ずかしかった。
佳穂はお喜多に手を引かれ、松村に守られるように、中奥を後にしたのだった。
奥の自室に戻り、衣裳を身につけ髪を結い化粧を直すと、朝食の膳が運ばれて来た。
膳を持って来たお三奈は、おめでとうございますと頭を下げた。だが、お喜多の表情は微妙だった。佳穂も果たしてこれがめでたいことなのか、わからなかった。それでもお三奈に礼を言い食事をした。
食べていると昨夜のことは夢ではないかと思えてくる。今汁を飲んでいるこの口に又四郎の唇が触れたのだ。温かく柔らかい唇は、これまで食べてきた物のどれとも違う感触だった。
思い出すだけで頬が赤らんでくる。
一体、自分はどうなってしまったのだろうか。昨夜は交わることなく、ただ好きだ、美しいと言われ、口づけられただけなのに、口づけを思い出すだけで、胸が高鳴ってしまう。
又四郎の声、長いまつげに縁どられた目、知らぬ世界のことを話す唇、口づける時にぶつかりそうになる鼻、形のよい耳たぶ、きれいに剃られた月代、豊かな髪、髪をなでつけている鬢付け油の香り、自分を抱き締めるたくましい腕、汗ばんだ額、そういう部分を一つ思い出すだけでも、胸がいっぱいになってくる。
何より、温かな声でささやかれた「好きだ」という言葉を思い出せば、もう落ち着いていられない。このまま部屋から走り出てどこぞに姿を隠してしまいたいほどだった。
胃の腑にこれ以上食べ物を入れることなどできなかった。
「すまぬ。もうこれ以上は」
佳穂は箸を置いた。いつもの半分も喉を通らなかった。
「御匙を呼びましょうか」
医師を呼んでもたぶん治るまいと佳穂は思った。
「それには及ばぬ」
「ですが」
不安そうなお喜多に笑いかけた。
「これは医者には治せぬ」
仕事がしたかった。空いた時間が少しでもあれば、又四郎のことを思い出してしまうだろう。思い出して浮ついた気持ちにならぬよう、しゃにむに仕事がしたかった。
「奥方様のところへ参る」
「今日は休むようにと鳴滝様からありました」
どうしてこういう時に限って。身体を思いやっての配慮なのだろう。けれど、身体は前と少しも変わらない。
それなのに、部屋にいて休めとは。又四郎のことが思い出されると、胸が高鳴り、他のことが考えられなくなるというのに。これでは、自分が自分でなくなるようなものだった。こんなにも苦しい思いに苛まれるなど初めてのことだった。
だが、その苦しみはじきに終わった。
鳴滝の部屋子が呼びに来たのである。恐らく昨夜のことであろう。松村の報告を聞いた鳴滝は、どう思ったことか。不首尾を責められるかもしれぬと思った。
「そなたを責めるつもりはない」
控えの間に入った佳穂に鳴滝は言った。意外だった。慣れるまで待つように言ったのは佳穂なのだ。松村からも聞いているはずである。
「若殿様がよくない」
「鳴滝様、お言葉ですが、慣れるまでお待ちくださるようにと申したのは私です」
「だが、それを言わせたのは若殿様ぞ。これまでの御前様や若殿様で、さようなことを仰せになった方はおらぬ。困った方よ」
めったに苛立ちや怒りをあらわにせぬ鳴滝の口調は鋭い。
「今宵もとお話があったが、いかがする。嫌なら断っても構わぬ。気分が優れぬというのも理由になる」
年寄とも思えぬ発言だった。よほど、昨夜の件が腹に据えかねているのであろう。お清の中臈をわざわざ夜伽に指名しておきながら、口吸いだけしかせぬとは奥の女を愚弄していると鳴滝は思ったに違いなかった。
何より、断るという選択肢が示されたのは、佳穂にとっては衝撃だった。
「そなたが生涯をかけた決心をして参ったのに、それを無下にするとは、いくら若殿様とはいえ」
鳴滝の怒りは佳穂を思うゆえのものだった。佳穂は鳴滝の気持ちをありがたく思った。恐らく昨日の今時分にいかがすると言われたら断っただろう。けれど、今朝の『それでは、今宵また』と言った又四郎の声を思い出せば、断ることなど考えられなかった。
「鳴滝様、かたじけのうございます。なれど」
「お佳穂、そなた」
鳴滝は「なれど」という言葉だけで、佳穂の気持ちに気付いてしまった。
「口吸いだけで、そなたの気持ちを動かすとは、若殿様という方は罪作りな方よ」
口吸いだけではないと佳穂は言いたかった。若殿様は知らない世界のことを教えてくれた。好き、美しいとも言ってくれた。英吉利の言葉で口吸いをキスと言うことも知った。それに、殿御の唇や腕の温かさも。あばたのことも。あばたのあるお佳穂が好きだと言ったことを思い出すと、これまで心の底に沈んでいた澱が流されていくようだった。
年寄の鳴滝の部屋にいるというのに、昨夜のことを思い出すだけで身体が熱くなってくる。
「ただ、できるだけ早う、若殿様の御寵愛を受けたほうがよい」
鳴滝の言葉は佳穂を現実に引き戻した。
「女子というのは、他の女子に対して厳しいもの。そなたがいつまでも口吸いばかりで殿様を独り占めすることをよく思わぬ者も出てくるはず」
そのようなことがあるのだろうか。佳穂の知る同僚も年長者も年少者も、嫉妬を見せることはなかった。
「そなたは、支藩の御家老の娘でお清の中老ということで、これまでは皆が面と向かってあれこれ言うことはなかったはず。だが、若殿と一夜でも一緒に過ごせば、何もなくとも、お清ではない。汚れた方と陰で言われることもあろう。いつまでも懐妊せねば、他の女子が嫌味を言うこともある」
「さようなことがあるのですか」
鳴滝の話は極端ではないかと思った。が、鳴滝はうなずいた。
「この奥でも、子を産むことのなかった女子の中には謗りに耐えられず、命を絶った者がおる。勤めに参った初めの頃ゆえ、もう三十年ほど前のことだが。他にもいろいろあるのだ。使われておらぬ井戸の跡が西側にあろう。あれは、飛び込んだ者がおるからという話。いや、ここだけではない。分家でも同じこと。他の家の奥でもいろいろとな」
井戸の話は聞いたことがあった。前の御前様の寵を受けた若い奥女中が御前様からいただいた櫛を井戸に落とし、それを取ろうとして落ちたという話であった。それゆえ、井戸に物を落としても自分で取ろうとしてはならぬ、必ず人を呼ぶようにと新参者の奥女中への教訓として語られる話である。だが、飛び込んだとなると話は違ってくる。
寒気がしてきた。庭からは蝉の鳴き声が聞こえるというのに。
「強くならねばならぬ。殿の寵愛を受けるというのはさようなこと。弱い女子では務まらぬ。お佳穂、頼むぞ」
鳴滝の部屋を出た佳穂は、庭に面した廊下を歩いて自室に向かった。蝉の声は相変わらず高い。鳴滝の話はまことのことなのだろうか。だが、彼女が偽りを言ったことは一度もない。
ふと雷の音が遠くに聞こえた。空を見上げれば雲の動きが早い。これは雨になるかもしれなかった。
「……ねえ、おかしなこと」
「あばたのくせにね」
淑姫付きの小姓の声が不意に耳に飛び込んで来た。淑姫の部屋はこの奥である。この刻限なら姫は奥方様の部屋で歌の師匠に添削を受けている頃だろう。小姓はその間に部屋に控えているようだった。
あばたという言葉が気になり、部屋の手前に立ち止まり耳を澄ました。
「あの方、気にして化粧を濃くしてるから、時々髪に白粉がついてるのよ」
「ホホホ、なにそれ」
「よく見てるわねえ」
明らかに自分のことだった。佳穂は衝撃で立っていられそうになかった。今は髪につくほど塗っていないのに。
「若殿様、近くであばたを見て、何もされなかったんじゃないの」
「そうかもね」
三人の小姓はケラケラと笑っていた。
鳴滝の言う通りだった。ただのからかいと笑い飛ばすことなどできなかった。背筋を冷たい汗が流れてゆく。
「まだ姫様のほうがいいかも」
「そうよね。格から言えば姫様のほうが。正直、花尾の殿様は若過ぎたのよ。子どもだったんだもの」
「え、そうなの、やっぱり」
小姓の一人は姫の嫁ぎ先にもついていった者だった。実家の者に嫁ぎ先の話を勝手にするなど、奥女中にはありえぬ作法であった。
「だって、姫様と同じ布団に入っても、何もなさらずに眠ってらしてね。寝言で母上とか言ってるんだもの」
「ちょっと何それ」
「それじゃ姫様も役者に夢中になるはずね」
もう我慢ができなかった。自分のことだけならいざ知らず、淑姫様の嫁ぎ先の寝所のことまで話すなど許せるものではなかった。
部屋の前まで歩き、少しだけ開いていた明かり障子をさっと開けた。
「そなたたち、何を話している。恥を知れ」
佳穂自身も驚くほど大きな声をあげていた。
小姓達はさすがに驚きすぐに姿勢を正した。だが、淑姫の婚家でのことを話していたおたまという年長の小姓だけは不貞腐れていた。
呆れたものの、一度振り上げたこぶしをそのままにはできない。
「姫様の御側で見聞きしたことを語るとは不届き千万。奥女中のたしなみを忘れたか」
「申し訳ございません」
「心得違いをしておりました」
二人は頭を下げた。だが、おたまだけが顔を上げたまま言った。
「姫様が不憫とは思わぬのですか」
おたまの視線には明らかに蔑みの色があった。
「あなた様のような方が姫様を差し置いて若殿様に侍るなど」」
「何を申す。己が主のことを語ったことを棚に上げ」
おたまは不敵に笑った。
「若殿様の寵を受けられなかったから、さようにいきり立つとは、御見苦しうございませんか」
そんなふうに思われているのかと、佳穂は衝撃を受けていた。
さすがに同輩は驚いて、おたま様、もういい加減にと声を掛けた。
だが、不貞腐れたおたまはさらに続けた。
「あなた様より姫様のほうがよほどお似合いなのに。たかが支藩の家老の娘のくせに」
そんなことはわかっている。一万石の月影藩の家老である父の扶持は、十万石の望月藩の奉行を勤めるおたまの父よりも少ない。小姓の時も、親の扶持や知行地の石高を自慢する同僚がいて、佳穂は何も言えなかったことがあった。
だが、父の仕事は本家の家老以上に多忙で過酷だった。洪水が起きそうになれば堤が切れては大変と豪雨の中、陣屋を出て、代官所の者や農民を指揮して堤を守り、被害が出れば現地を視察し報告書を江戸に送り、被災者を見舞い、改修工事に立ち会いと、陣屋に座っているだけでは済まない仕事だった。そんな父を陣屋の役人や領民は尊敬のまなざしで見ていた。仕事をしている父は本当に誇らしかった。家庭では、義母と結婚してから亡き母のことなど忘れたように振る舞って見える父ではあるが。
本家の上屋敷の者にそんな父のことをたかがと言われるのは、口惜しいことであった。
思わず、自分でも普段なら決して口にせぬことを吐き出していた。
「たかが支藩などと言うとは本家に仕える者の風上にもおけぬ。奥方様は支藩から嫁がれ、若殿様は支藩から養子に入られた。分家は月野家本家を支えているのに、なんという不遜な」
言ってからしまったと思った。以前から時折感じていた、分家の者に対する本家の奥女中の優越感への反発をこんな形で吐き出してしまうとは。己の心のどす黒さを感じ、佳穂は泣きたくなった。
だが、口に出したものを取り消すことはできない。
一方、言われたおたまは顔を青ざめさせていた。他の二人も震えていた。怒った顔を見せたことのない佳穂がこれほど怒るとは思っていなかったのだった。
だが、佳穂は己の言葉が彼女達を傷つけたのだと、情けなく思った。
その時だった。稲光が輝き、五つも数えぬうちに雷鳴が地を這うようにとどろいた。そのとどろきもやまぬうちに地の底から聞こえてくるような低い声が背後から聞こえた。
「まこと、お佳穂の申す通りじゃ」
佳穂はゆっくりと振り返った。
大きな目をかっと見開いた淑姫が立っていた。背後のお園はガタガタと震えている。
「分家は本家を支えておる。そなたは分家の出のお佳穂をないがしろにしただけでなく、わらわの大切な母上もないがしろにしたも同じ。その血を受けた光信院様もな。恥を知れ」
淑姫がこのような姿を見せることはめったになかった。
「お許しを」
おたまは頭を床にすりつけるようにして叫んだ。
「おたま、おぬしの暴言、この耳でしかと聞いた。部屋に戻り謹慎せよ。お園、しかるべき者におたまを監視させよ。おちほ、おまち、そなたらから話を聞きたいゆえ、ここに残れ」
おたまはお園の側にいた他の小姓二人に両側から支えられ立ち上がると、部屋へ連れて行かれた。お園もついて行った。
佳穂は淑姫を見上げた。淑姫のつらそうな顔を見れば、佳穂は何も言えない。
「お佳穂、すまぬ。わらわの小姓がつまらぬことを言うて。この者らの不始末は、わらわが仕置きをするゆえ、そなたは気にすることはない。情ないものよの」
「畏れながら申し上げます。寛大な御仕置きを」
「そなたは甘い」
淑姫はぴしゃりと言った。同時にまた雷鳴がとどろいた。
「最初が肝心じゃ。でなければ、この先も同じことになる」
そうかもしれない。だが、小姓達はまだ幼い。思慮も浅い。
「わらわが父上らと中屋敷に行けば、そなたが上屋敷の奥の主も同じ。甘い顔だけでは乗り切れぬぞ。母上などもああ見えて、かようなことには厳しい。覚えておくがよい」
上屋敷の奥の主。思いもかけぬ言葉であった。確かにいずれ御前様や奥方様、淑姫様は中屋敷に移る。そうなれば上屋敷の主は又四郎である。だが、己が奥の主になるとは思いもしなかった。奥の主は正室である。大名の正室は大名の子女、つまり姫と呼ばれる方々である。佳穂のような中臈は正室に仕える立場であり、主などという大それた立場になることなどありえない。
「畏れながら、主は奥方様ではありませんか」
「若殿様は、光信院様の喪中ということで奥方はしばらく娶らぬそうじゃ。ゆえに、そなたが奥の主。奥のことはそなた次第ぞ。そなたがしっかりせねば、綱紀が緩む。頼むぞ」
「まさか、さような」
思わず口にした言葉に淑姫は笑った。
「まさか、という出来事は世間にいくらでもあるではないか。たとえば、わらわが戻ってきたことも、兄上が亡くなられたことも」
本人がそれを言うかと佳穂は絶句した。
「そなたならやれる。わらわが嫁ぎ先から戻って来た時、そなたはすぐに屋敷に残っていた女どもを使い、部屋の支度をし、台所に昼餉と夕昼の用意を命じた。一方では、下屋敷に使いを送り、母上にわらわの里帰りを知らせた。母上は覚悟した上で父上にわらわのことを話せた。留守居役の桂木にも広敷を通じて知らせてくれたおかげで、桂木も離縁のことを知らなかったと恥をかかずに済んだ。そうそう、お園の癪も御匙に知らせてくれたのであろう。人手が足りぬからと、薬を煎じてくれたとお園が言うておった」
それはその時、考えられるだけのことをしただけのことである。留守居の小姓たちもよく動いてくれたからできたのだった。
「私にはそれしかできませんでした。後から、風呂の支度や姫様のお猫様の食べ物の用意をしておけばと気づきましたが、後回しになってしまいました」
「風呂も猫の食べ物も他の者で済むこと。そなたはそなたにしかできぬことをやった。そなたにはできるのだ。自信をもて」
淑姫の低い声が佳穂の胸に染み入った。
夫から離縁を言い渡されれば、理不尽と思える理由であっても、文句も言わず実家に帰らねばならない。それが大名の妻というものだった。淑姫はそれでも弱音一つ吐かず、強く生きている。おたまたち小姓の不始末から目をそらすこともない。
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私にはできる。確信はない。けれど、そう思うしかない。
己の立場から逃げることはできないのだ。置かれた立場でできるだけのことをする、それが人の道かもしれない。
「姫様、最善を尽くすように努めます」
淑姫はうなずいた。
「それでよい。さて、それでは、おちほ、おまち、話を聞くぞ」
淑姫は二人の小姓の前にどっしりと腰を据えた。
佳穂は廊下に出た。
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