アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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若殿様と中臈

肆 キスと好き

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 佳穂の表情が硬くなったことに気付いた又四郎は崩していた足を正座に改めた。
 
「まあ、私も、こういうことはあまり慣れておらぬから」

 佳穂は驚いて又四郎を見た。慣れていないとは、どういうことであろうか。致したことがないという意味なのか。
 又四郎は苦笑いを浮かべた。

「分家の部屋住みゆえ、小遣いも少なくてな。洋書を買ったら素寒貧だ」
「すかんぴんとは、何ですか」
「小遣いがなくなって、財布が空ということだ」
「まあ」

 書物を買って小遣いがなくなるというのは又四郎らしいと思った。それだけの量の書物を読んでいるからこそ英吉利のことに詳しいのだろう。

「おかげで悪所あくしょに行くこともなかった」

 悪所とは芝居小屋や吉原、岡場所のような遊興の場を言う。それは佳穂も知っている言葉だった。淑姫が離縁されたのも、悪所と言われる芝居小屋に行ったからである。

「ゆえに、そなたを今すぐどうこうするつもりはない」
「ええっ」

 驚いて声を上げたのは隣の部屋に控えている松村だった。
 
「松村様」

 お喜多は慌てて、口の前に人さし指をあてた。松村は己の口に手を当て寝所の声に耳を澄ました。一体、この若殿は何を考えておられるのか。
 佳穂も信じられなかった。どうこうするつもりはないということは男女のことを致すつもりはないということではないか。
 覚悟はしていたものの、積極的な気持ちになれなかった佳穂にとってはありがたいと言えばありがたいが、それは許されるのだろうか。

「もちろん、そなたがして欲しいのなら構わぬが、そなたも女ばかりの中にいて、かようなことに慣れておらぬであろう。女子は緊張すると身体に力が入って、男を受け入れられぬと聞いたことがある。ゆえに、そなたが私に慣れるまでさようなことはせぬつもりだが、よいか」

 自分の意思を確認していることに、佳穂は驚きを通り越して、自分の耳がおかしくなったのではないかと思った。このような身分の方が家臣の意思を確認するなど、ありえないことだった。

「まことに、よいのですか、それで」
「構わぬ」

 又四郎は平然とそう言った。佳穂は恐る恐る口に出した。

「それでは、慣れるまで待ってくださいませ」

 ついに松村は我慢できなくなって、隣の間から出て来た。

「畏れながら、若殿様、今は危急存亡の秋ではないのですか。一日でも早く、御世継を儲けねばならぬのではありませんか。お佳穂、そなたも、わかっておろう。それを待っていただこうとは、なんという無礼な」

 その権幕に佳穂は後ずさりしたくなった。
 又四郎は困ったように頭をかいた。

「添い寝役ご苦労。私は部屋住みであったゆえ、これまでかようなことをしておらぬのだ。ゆえに、うまくできるかまだ自信がない。絵を見ても、そこに至るまでの過程がよくわからぬ。お佳穂もそうであろう。とりあえず今夜は床を共にして慣れて、それから徐々にと思っておる」
「さようなことをしていては、いつまでも御世継はできません」

 松村は頭から湯気を立てそうな勢いであった。

「いつまでもということはない。来年は国入りをすることになるゆえ、それまでには」

 家督を相続すれば来年は国入りである。つまり、来年の四月までには、佳穂はこの若殿のものになるということである。やはり逃れることはできないのだった。

「そのお言葉、信じております」

 松村は納得できぬという顔であるが、そう言うしかなかった。

「すまぬが、そういうことだと年寄にも伝えてくれ。それから」

 又四郎の声が少し大きくなった。

「そなたたち、添い寝の者は、もう一つ向こうの部屋に控えてくれぬか」
「畏れながら、それは」
「お佳穂はまだ慣れぬ。声など聞かれたら恥ずかしいこともあろう。恥ずかしがって、いつまでも子ができぬようなことがあれば、御前様も奥方様もお嘆きになる。世継ぎを望むなら、離れた部屋へ行ってくれ」

 こうまで言われたら、松村は引き下がるしかなかった。松村とお喜多は布団をさらに離れた部屋に引いて行った。

「やれやれ、こんな習慣は私の代で終わりにするぞ」

 つぶやいた又四郎は立ち上がると次の間との境の襖をぴしゃりと立て切った。
 佳穂は又四郎の言葉に驚きの余り、何も言えなくなってしまった。変な方どころではない。この人はとんでもない人だと思った。普通の人ではない。何と言っていいのか、危険な匂いがした。危ない方と言うべきではなかろうか。

「よろしいのですか」
「え? 何が」
「年寄の鳴滝様や奥方様が知ったら、何と思われるか。御前様も驚かれるのでは」
「最初だけだ。慣れたらそういうものと人は思う」

 又四郎は落ち着いていた。

「でも……」
「そなたが当たり前と思っていることは当たり前ではないのかもしれぬのだ。さっき、英吉利の王は女だと話した。その国が清と戦をやって勝った。とても今の日の本では考えられぬ話だが、そういうことはこの世のあちこちで起きているのだ。我らが知らぬだけで」
「当たり前が当たり前ではない」

 口にしてみたが、お佳穂にはいまひとつよくわからなかった。確かに英吉利の女の王の話は当たり前が当たり前ではないということであろうが、英吉利は異国である。日の本の人と異国の人では髪の色も目の色も話す言葉も違う。そういう違いがあれば、女の王がいてもおかしくないように思う。だが、添い寝役の件は違うような気がする。

「将軍家がこの国を支配したのは、せいぜい二百四十年余り前からのこと。その前は大坂の関白豊臣家が支配し、その前は戦国の世、さらにその前は将軍は京室町の足利家、さらにさらに昔は鎌倉の源氏の世。それより以前は京の藤原家が摂政関白として帝の輔弼を行なっていた。これまでかようにまつりごとをする者が変わっているということは、この先、この国の形が今のまま続くのが当たり前とは言えぬということ」

 佳穂は確信した。若殿様は危険な方だと。まるで幕府がなくなってしまうかのように聞こえる言葉ではないか。
 だが、不思議なことに、又四郎自身には恐ろしさは感じなかった。
 なぜなのか。

「お佳穂」

 名を呼ばれ、佳穂は再び又四郎を見た。

「そなたにはずっと前にも会ったことがある、覚えておらぬか」

 又四郎は笑った。苦笑いではなく、白い歯が垣間見えた。心当たりが佳穂にはなかった。このような変わった人物なら会えば記憶に残るはずである。国にも江戸にも、このような変わった男はいなかった。

「畏れながら覚えておりません」
「そうか、覚えておらぬか。まあよい。そのうち、思い出す。さて、そろそろ休むか」

 そう言うと、又四郎は佳穂に近づいた。佳穂は身を固くした。慣れるまでしないと言われても、近寄られると平静ではいられない。

「何を固くなっておる」
「いえ、その」
「慣れるには、少しは身体に触れなければならぬ」
「少しでございますか」
「少しだ」

 そう言うと又四郎は佳穂の背後にまわった。

「後ろをとるのは少々卑怯かもしれぬが、許せ」

 背後から手を回されたかと思うと、胡坐をかいた上に横抱きにされていた。裾が乱れそうになったので、両足をぴたりと閉じた。背中に回された左腕、膝の下に回された右腕の感触が熱く、そこから身体に熱が広がっていくようだった。佳穂の想像した触れ方とは違った。淑姫から借りた絵のように、床にあおむけにされるのではないかと思っていた。
 又四郎は佳穂の顔をじっと見つめた。顔の近さに驚きながらも、これでは額のあばたがはっきり見えるでのはないかと不安になった。

「あまり見ないでください。恥ずかしうございます」
「そなたの顔を見たかったのだ。このあばた、少し薄くなったのではないか」

 あばたのことを口にされた衝撃で、佳穂は顔が熱くなった。やはり、あばたが自分と他の者を区別するものなのかと。薄くなったとはいつと比べてのことであろうか。だが、こんな男に会った記憶などない。

「あばたのことはおやめください」
「なぜだ。このあばたは、そなたが病と闘って勝った証ぞ」

 同じようなことを言われた覚えがあった。だが、言ってくれた千代はいなくなってしまった。それをなぜ若殿様は言うのであろうか。気にしている者にはそのように言うということにでもなっているのであろうか。
 
「若殿様、後生ですから、あばたのことは」
「私は、あばたのあるお佳穂が好きなのだ」

 またも又四郎の言葉に佳穂の顔の熱が上がった。好き。初めて殿御に言われた言葉だった。妹や奥の小姓から好きと言われたことはある。だが、男性から言われるのは初めてだった。それになんとなく意味が違うように感じられた。

「好き、なのですか」
「でなければ、そなたをここに呼ぶはずはない」

 信じられなかった。自分のことを好きだという男がいるとは。

「私がそなたをなぜ呼んだと思っていたのだ」
「それは、顔を見知っているからと」

 又四郎は少しだけ悲しげな顔になった。佳穂は自分が酷いことを言ってしまったことに気付いた。

「あ、申し訳ありません」
「許さぬ」

 又四郎はそう言うと、佳穂の身体をぐっと引き寄せた。何をされるのだろうか、佳穂は恐怖で身体が動かせず、又四郎の端正な顔を見つめていた。顔を直接見るなど無礼なことなのに、視線が外せなかった。

「お許しを」
「許して欲しいか」

 又四郎の目の光の鋭さに、佳穂はとうとう耐え切れず、視線を口のあたりに移した。

「はい」
「キスをさせてくれれば許す」
「きす……」

 魚の鱚しか思い浮かばない。魚へんに喜ぶと書くので縁起がいいということで、殿様や奥方様の御膳によく出される白身の魚である。だが、魚とは関係なさそうである。

「させてくれるか」
「きすとは何でしょうか」

 又四郎は微笑んだ。

「怖いことではない。そなたもすぐに覚えよう」

 ますますわからない。この方は知らない話をして、人を驚かすのが好きなのだろうか。だとしたら、ずいぶんと意地悪である。

「キスを逆さに言ってみよ」
「す、き」
「好きか。嬉しいのう」

 あっ、しまったと思った瞬間、生え際のあばたに何か柔かい物が触れた。目の前に見えるのは、少し髭が伸び始めた又四郎の顎だった。とすると、生え際に当たっているのは、顎の上の物。
 あまりのことに、佳穂は呆然となった。ありえない。病の後に残ったあばたに口を付けるなど。
 病の癒えた後、家に戻った佳穂の生え際のあばたを見た近所の子どもが気味悪そうに見た後、目を背けたことを思い出す。
 あの時の気持ちが甦る。自分のあばたは人を怯えさせる。恐ろしいものなのだと。病に勝った証とは思ってくれぬ人が世間にはたくさんいるのだと思い知らされた。
 涙が頬をつたっていた。

「お佳穂」

 又四郎の声と指が涙を柔らかになぞった。

「申し訳ありません。見苦しいさまを」
「どこが見苦しかろう。そなたの涙は、いやそなたのすべては美しい。だから口づけたのだ」

 美しい。言われたことのない言葉だった。すべて美しいなど、信じられない。このあばたは目を背けられるようなものなのに。

「そなたは信じぬかもしれぬが、私はずっとそなたを好いていた」

 いつからだというのだろう。佳穂は知らない。知らないことばかりだ。知っているのは又四郎だけ。それはずるい。
 又四郎の唇がまた佳穂の顔に近づく。目尻からあふれた涙の痕にそっと唇が触れる。その感触に、背筋が震えた。こんなことをされるなど知らなかった。涙の痕をなぞる唇は次第に下がってくる。頬からやがて唇へと触れた。
   
「口吸いのことを英吉利ではキスと言う」

 そう言うと、さらに抱き寄せられ、口づけられた。又四郎の長いまつげに縁どられた目は佳穂の目だけを見つめていた。そのまなざしから目を離せず、佳穂は唇を受け入れていた。柔かく温もりに満ちたそれは、遠い幼い日に千代が与えてくれた言葉と似て、佳穂の目の前に新しい世界を広げようとしていた。
 この方はまことにあばたを病に打ち勝った証と思ってくださっている。そして、まことに己を美しいと思い好いてくださっている。この方の話は危ういものに思えるが、この方は危うい方ではない。





 その後、同じ床に誘われて入った後も、又四郎は佳穂に口づけた。横向きになってゆるやかに両腕で抱きしめられた瞬間、佳穂は又四郎の腕、胸の熱を感じ、胸がどくんどくんと高鳴るのを感じた。

「力を抜くのだ。さっきと同じところにキスをするだけだ」

 それで少しだけ安堵した。それでも胸の動悸はやまない。そのまま、佳穂は動けず、ただ又四郎の口づけを受け続けた。
 あばた、頬、唇、首筋と首から上だけであったが、又四郎はゆっくりとまるで佳穂の皮膚を味わうかのように口づけた。
 人の唇がこんなにも優しく温かいものだとは知らなかった。

「これがキスというもの。覚えたな」

 そう言われて、やっと腕から放たれた時、なぜかもう少しそばにいたいと思う自分に佳穂は戸惑っていた。あんなにも不安だったというのに。あの不安を感じていた自分という者はどこに行ってしまったのか。
 隣の床に入っても、しばらくは寝付けそうになかった。眠かったはずなのに、又四郎が気になって仕方なかった。
 けれど、穏やかな寝息を聞くうちに、佳穂もそれに誘われるように眠りに落ちていた。
 又四郎は佳穂の寝息を聞き、目を開けた。彼は眠ったふりをして、佳穂の寝返りの気配を感じていたのだった。
 音を立てぬように身を起こし、有明行灯に照らされた寝顔を見た。
 なんと愛らしい顔だろう。美しい形の額、豊かな髪、血色のよい頬はまことに魅力的だった。半分開いた唇がまるで誘うように見える。
 この唇に触れ、口づけ、白羽二重の襟元を開き胸に顔をうずめ、裾を割って……想像が勝手に広がっていく。思わず右手を唇に伸ばそうとしている己に気付き、はっとした。
 いけない。なんと危ない真似をしようとしているのだ。
 慌てて床に入った。あの唇は誘っているのではない。誘っているように見えるだけだ。
 だが、今度は寝息だけでも胸が締め付けられそうになる。聞こえぬようにと頭から布団をかぶった。
 こんな思いをするくらいなら、もう少し先にまで進んでもよかったのではないか。後悔の念が兆した。けれど、もし嫌われたら。キスだけでもよしとしなければ。だが、物足りない。もっと触れ合いたい。いや、まだ駄目だ。
 様々な思いが胸をよぎる。
 一体、エゲレス人やオランダ人はこんな時どうしているのだろうか。彼らの宗教である耶蘇教では結婚まで純潔でなければならないらしい。彼らはどうやって祝言まで耐えているのだろうか。そういえば耶蘇教の僧侶は禁欲していると聞いたことがある。その点で彼らは日の本の生臭坊主よりよほど立派に思われた。彼らの教えは受け入れるわけにはいかないが、彼らの禁欲の方法を知るべきかもしれぬ。そんなとりとめもないことを思ううちに、又四郎もまた眠りの国の住人となっていた。




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