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若殿様と中臈
参 英吉利語
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ここは中奥、若殿様が寝室に使っている小座敷である。奥の小座敷は御前様が使用するので、若殿様は使えない。そこで佳穂が中奥に行く形になったのである。
佳穂は結っていた髪を解き、白羽二重の寝巻に打掛を着て、夜具のそばにかしこまって又四郎を待っていた。
隣の間には添い寝役として鳴滝に選ばれたお喜多と中年寄の松村が控えている。添い寝役は御前様と側室の寝所に控えるのだが、若殿様も御前様に準じるということで、二人が選ばれたのだった。隣の間に布団を敷き横になり声だけ聞いて事が成ったか確認するのが役目である。
夕刻、早めの夕食をとった後、風呂を浴び身体を清め、髪を洗い、化粧をし、中奥に来て早や半刻。佳穂は眠かった。昨夜の酒が抜けきっていなかった。
あくびをかみ殺した回数も数えきれない。
これだけ待たされると、もう来ないかもしれないという期待もわずかだが、兆してくる。
御前様からの引継ぎの仕事が多いので来られないのではないか、あるいは、夕食を食べた後、酒を飲み過ぎたのではないか。様々なことが想像された。
奥方様には畏まりましたと言ったけれど、やはり気が進まないのは変わらない。
今朝奥方様に返事をした後、佳穂は淑姫の部屋に呼ばれた。
「これを貸す。わらわはもう見飽きたから、すぐに返さなくていい」
そう言って、渡されたのは文箱から出した数枚の絵だった。
絵を包んでいる薄紙を開いたお佳穂は、あっと叫んだ。
「そなたは嫁入りを考えたことがないから見たことがなかろう。これは偃息図。わらわの嫁入りにわざわざ御用絵師に頼んで描いてもらったのだが、今となっては宝の持ち腐れ」
とても、直視できなかった。
淑姫は目をそらす佳穂に呆れたようだった。
「そなた、今宵かようなことをいたすのじゃから、目を背けてはならぬぞ。わらわからすれば羨ましい限りぞ」
「え」
佳穂は淑姫を見上げた。
「わらわはな、殿といっぺんもかようなことをしておらぬ。手を握るくらいはしたが」
淑姫の顔はいつもと変わらない。けれど、その奥に隠された心情を思えば、佳穂は平静ではいられなかった。男女のことがまったくないまま、我儘を理由に離縁されるなど、ひどい話と憤りがこみあげてくる。
「それは、あんまりでは」
「わらわは別に構わぬ。殿が子どもだったのだ。口では一人前のことを言うておられたが、閨ではわらわの胸にすがって眠っておった。なんというか、わらわは母親のようなものであった。要するに、わらわは妻と思われていなかったということ。大方、今頃はもっと年の近い女子がお側に侍っておるであろうよ。それでいいのじゃ。わらわも殿も、別れることで幸せになれたということ。そなたも、お清の身でなくなることで幸せになれるかもしれぬな。幸せというのは、己の望みのままになることではないのかもしれぬ。己の望みを超えたところにあるのやもしれぬ」
幸せは己の望みを越えたところにある。今の佳穂にとって、それは理解しがたい言葉だった。淑姫は離縁されて本当に幸せなのであろうか。
「わかりませぬ。姫様はよろしいのですか」
「よい。少なくとも、手をつないで寝るだけの夫がおらぬだけ、今のほうがずっとましじゃ」
そう言うと、淑姫は絵を持って部屋に戻るように言った。人前で見るのは恥ずかしかろうと。
佳穂は、自室で見たものの、やはり直視できなかった。
男女の裸が描かれているというだけで、目が受け付けないのだ。
なんとか我慢して見たものの、手足がどうなっているのかよくわからないものもあった。ただわかったのは、古の神々の物語のように男の「成り余れる処」を女の「成り合はぬ処」に宛がうということだけだった。
こんなことを今宵まことに行うのか、佳穂には信じられなかった。いや、何より御前様と奥方様がこんなことをしていたとは。それなのに、よく平気でいられるものと不思議で仕方なかった。
両親にしてもそうである。と、父と継母のことを思い、ああっと声をあげてしまった。
家老の家に家政をとりしきる者がいないのは不便なことだからと、母が死んで一年もたたぬのに継母を家に迎えた父を許せぬ気持ちは国を離れて薄らいでいた。けれど、かような行為を継母ともしたのかと思うと、男の浅ましさを今更ながら感じた。
若殿の又四郎も奥方様をいずれ迎えてしまえば、父のように浅ましい男となるのかもしれず、気がめいってくる。
そんな気持ちを払いのけることもできぬうちに、鳴滝から呼ばれ夜伽の支度となったのである。
もう来ないかもしれぬ、奥へ戻ってよいか松村に尋ねてみようかと思った時だった。近づく足音が聞こえた。
「すまぬ、遅くなった」
赤い顔で額に汗をにじませた又四郎はそう言って、佳穂の前に胡坐をかいた。突然のことに佳穂は頭を下げるのも忘れていた。
「シロが小屋を抜け出してしまって、それを追いかけておった。手足は洗ったゆえ、泥はついておらぬと思うが」
犬を追いかけていたというのはまことらしい。寝間着の裾にわずかに泥はねらしいものが付いていた。それに犬の白い毛が寝間着からわずかだが落ちたのにも気付いた。
「どうも、前いた屋敷に戻りたかったようで。犬は賢いゆえ、匂いでわかるのだ。しばらくは気を付けねばならぬ。なにしろ力があってのう。おかげで、寅左衛門の手までわずらわしてしまった」
「とらざえもんとは」
佳穂はつい尋ねてしまった。若殿様に質問などしてはならないことに気付いたが遅かった。だが、又四郎は咎めるどころか、平然とした顔で答えた。
「分家からついて来た用人だ。益永寅左衛門というて、月輪郷の代官の息子だ」
益永という姓には覚えがあった。母方の石森家の祖母は代官の益永家の出だった。
「益永というのは祖母の実家です」
「ああ、そうか。そなたの母は石森であったな。では寅左衛門とはいとこ、いやはとこになるのか」
「はい、恐らくは」
母の実家の名もすでに調べているらしい。いとこならともかく、はとこの名までは佳穂も知らなかった。だが、犬の話と益永の名を聞いたことで、少しだけ緊張が緩んだ。
「今度、シロに会わせよう。また重くなったゆえ、おぶることなどできぬぞ」
又四郎は笑った。その歯の白さが行灯の灯火でも眩しく見えた。思わず、佳穂も笑ってしまった。
が、ふとこれは失礼な振舞なのではないかと思い、頭を下げようとした時だった。又四郎は言った。
「犬はドッグというのじゃ、英吉利では」
唐突な話に佳穂の頭は混乱した。なぜ、英吉利などという異国の話になるのだ。
「あの、犬と英吉利にいかなる関わりがあるのでしょうか」
「あ、すまぬ。最近、英吉利の言葉を学んでおるゆえ」
阿蘭陀の言葉ならともかく、何故、英吉利の言葉など学んでおいでなのか。まことに変わった方と佳穂は思った。
又四郎は少し身を乗り出した。佳穂は身構えるように姿勢を正した。
「英吉利という国は、阿蘭陀より大きく、自国の他に領地を広げておるのだ。庚子の年に、英吉利は清と戦い、勝っておるのだ。清にだぞ」
「まことでございますか」
「まことのことじゃ」
佳穂にとって、それは初めて聞く話であった。庚子の年とは天保十一年、西暦一八四〇年のことである。その年に清はイギリスとアヘン戦争となり、二年後に南京条約が結ばれ終結した。
すでに日本にはオランダや清の商人を通じて清の敗戦が伝えられ、幕府もまたこれを重視し、異国船に対する政策も変化していた。それまでは漂流民を日本に送り届けた船を追い返していたのが、薪や水を与えるという方針に変わったのである。
だが、殿様たちはともかく、奥の女達にとってそれは遠い話であった。佳穂もまた英吉利や仏蘭西という国が阿蘭陀の他にもあるらしいとは知っていたが、清との戦争のことなどまったく知らなかったのである。
だが、知ってしまえば好奇心がもたげてくる。佳穂も武家の娘だから源平の戦の話くらいは知っている。江戸に出てくる時に、鵯越の近くを通ったこともある。
当然、大国である清が遠い西の国の英吉利に敗れたと聞けば、なぜという疑問が浮かぶ。ここで英吉利と清の戦のことを尋ねていいものだろうかと迷ったものの、又四郎はゆったりと構えており、佳穂の言葉を咎めだてするような雰囲気ではなかった。佳穂は思い切って口を開いた。
「畏れながら、清といえば古より我が国に多くの文物を伝えた大国ではありませぬか。それがなぜ英吉利などという遠い国に負けたのですか。遠い国からいかにして武器や侍を運んだのですか。戦をするなら兵糧も運ばねばならないではありませんか」
又四郎の目の色が変わった。
「そなた、なかなか面白いことを。清がなぜ負けたかということより、英吉利がなぜ勝ったかから話そう。英吉利では蒸気機関というものが発明されてな」
面白い、まさかそう言われるとは思わず、佳穂は胸の鼓動が早まるのを感じた。ついでだからとさらに尋ねた。
「じょうききかんとは何ですか」
「水を薬缶で湧かすと、湯気がたってやがて蓋が持ち上がるであろう」
「はい」
「その力を使うからくりを蒸気機関という。その力で清は勝ったようなものだ」
佳穂にとっては信じられない話だった。水を沸かす力で戦に勝つとは。
「それでは一体、水は何石いるのでしょうか。薪もいかほど必要とするのでしょうか」
「それは、私も不勉強でわからぬ。とにかく、蒸気機関の力で鉄の車を走らせたり、鉄の船を動かしたりするのだ。船の漕ぎ手がおらずとも船が動くのだ」
「なんということ。それでは、その船で英吉利は清まで行ったのですね」
「そうだ。しかも途中には英吉利の領地がある。その港で兵糧を調達すれば船に乗った武士や足軽の兵糧の心配もない」
途方もない話であった。
「英吉利という国は大したものなのですね」
「しかも英吉利の王は女子だということだ」
「なんと」
「ビクトリアという名で二十にならぬうちに位についたそうだ」
「びくとりあ」
この世には不思議な国があるものとお佳穂は思った。女の王がいる国があるとは。しかもその国が男の皇帝の国である清に戦で勝ってしまうとは。
「この世には知らないことがたくさんあるのですね」
「そうだな。だから私も様々な人から学ぶのが楽しい」
又四郎はそう言うと、改めて佳穂を見た。己の目に狂いはなかったと。
本当は別の話を切り出すつもりだった。だが、直前になってシロが小屋を抜け出してしまった。世話係の覚兵衛が外出していたので、寅左衛門と二人がかりで捕まえた。小屋に戻して手足を洗って小座敷に急いだ。
待っている佳穂に謝るうちに、予定の話を切り出すべき時を見失ってしまった。寅左衛門の話などするつもりはなかったのだ。どうしてお佳穂と同じ部屋にいて他の男の話などせねばならぬのか。
どうしたものかと思い、英吉利語の犬のことを持ち出したのは成功だった。まさかここまで自分の話に興味を持ってもらえるとは思っていなかった。
あの日、偶然奥に入り込んだ犬のシロを背負った姿に、又四郎は、彼女は只者ではないと思った。普通の女子は犬を抱く事はあっても背負うことはない。しかも御末のように梯子を使うとは。
はしたない奥女中と思う者もいるかもしれぬが、時に応じて必要なことならば己の身を使って働くというのは、誰にでもできることではない。この先、世の中が大きく変わるかもしれぬのだ。その時に旧態依然とした考えにとらわれていては、男であろうが女であろうが対処しきれぬ。行動的な上に、新しい知識に目を輝かせるお佳穂は又四郎を喜ばせた。
何より、又四郎にとって、あの出会いは僥倖と言うより他なかった。会えるはずがないと思っていたのだ。その話がきっかけで斉倫が縁組をと言ってくれた。斉倫の死で一度は諦めていたのだが、どういう巡り合わせか己は本家の養嗣子となった。
今ここに二人いるのは、黄泉の斉倫のおかげと言ってよいかもしれぬ。
この好機を生かさねば、斉倫に申し訳ない。
「ところで、お佳穂、そなた、何故、ここに来たかわかっているのか」
又四郎から切り出され。佳穂ははっとした。そうだった。又四郎の話が面白くて、肝心のことを忘れていた。
今宵は夜伽。話をするだけで終わるわけがなかった。
佳穂は結っていた髪を解き、白羽二重の寝巻に打掛を着て、夜具のそばにかしこまって又四郎を待っていた。
隣の間には添い寝役として鳴滝に選ばれたお喜多と中年寄の松村が控えている。添い寝役は御前様と側室の寝所に控えるのだが、若殿様も御前様に準じるということで、二人が選ばれたのだった。隣の間に布団を敷き横になり声だけ聞いて事が成ったか確認するのが役目である。
夕刻、早めの夕食をとった後、風呂を浴び身体を清め、髪を洗い、化粧をし、中奥に来て早や半刻。佳穂は眠かった。昨夜の酒が抜けきっていなかった。
あくびをかみ殺した回数も数えきれない。
これだけ待たされると、もう来ないかもしれないという期待もわずかだが、兆してくる。
御前様からの引継ぎの仕事が多いので来られないのではないか、あるいは、夕食を食べた後、酒を飲み過ぎたのではないか。様々なことが想像された。
奥方様には畏まりましたと言ったけれど、やはり気が進まないのは変わらない。
今朝奥方様に返事をした後、佳穂は淑姫の部屋に呼ばれた。
「これを貸す。わらわはもう見飽きたから、すぐに返さなくていい」
そう言って、渡されたのは文箱から出した数枚の絵だった。
絵を包んでいる薄紙を開いたお佳穂は、あっと叫んだ。
「そなたは嫁入りを考えたことがないから見たことがなかろう。これは偃息図。わらわの嫁入りにわざわざ御用絵師に頼んで描いてもらったのだが、今となっては宝の持ち腐れ」
とても、直視できなかった。
淑姫は目をそらす佳穂に呆れたようだった。
「そなた、今宵かようなことをいたすのじゃから、目を背けてはならぬぞ。わらわからすれば羨ましい限りぞ」
「え」
佳穂は淑姫を見上げた。
「わらわはな、殿といっぺんもかようなことをしておらぬ。手を握るくらいはしたが」
淑姫の顔はいつもと変わらない。けれど、その奥に隠された心情を思えば、佳穂は平静ではいられなかった。男女のことがまったくないまま、我儘を理由に離縁されるなど、ひどい話と憤りがこみあげてくる。
「それは、あんまりでは」
「わらわは別に構わぬ。殿が子どもだったのだ。口では一人前のことを言うておられたが、閨ではわらわの胸にすがって眠っておった。なんというか、わらわは母親のようなものであった。要するに、わらわは妻と思われていなかったということ。大方、今頃はもっと年の近い女子がお側に侍っておるであろうよ。それでいいのじゃ。わらわも殿も、別れることで幸せになれたということ。そなたも、お清の身でなくなることで幸せになれるかもしれぬな。幸せというのは、己の望みのままになることではないのかもしれぬ。己の望みを超えたところにあるのやもしれぬ」
幸せは己の望みを越えたところにある。今の佳穂にとって、それは理解しがたい言葉だった。淑姫は離縁されて本当に幸せなのであろうか。
「わかりませぬ。姫様はよろしいのですか」
「よい。少なくとも、手をつないで寝るだけの夫がおらぬだけ、今のほうがずっとましじゃ」
そう言うと、淑姫は絵を持って部屋に戻るように言った。人前で見るのは恥ずかしかろうと。
佳穂は、自室で見たものの、やはり直視できなかった。
男女の裸が描かれているというだけで、目が受け付けないのだ。
なんとか我慢して見たものの、手足がどうなっているのかよくわからないものもあった。ただわかったのは、古の神々の物語のように男の「成り余れる処」を女の「成り合はぬ処」に宛がうということだけだった。
こんなことを今宵まことに行うのか、佳穂には信じられなかった。いや、何より御前様と奥方様がこんなことをしていたとは。それなのに、よく平気でいられるものと不思議で仕方なかった。
両親にしてもそうである。と、父と継母のことを思い、ああっと声をあげてしまった。
家老の家に家政をとりしきる者がいないのは不便なことだからと、母が死んで一年もたたぬのに継母を家に迎えた父を許せぬ気持ちは国を離れて薄らいでいた。けれど、かような行為を継母ともしたのかと思うと、男の浅ましさを今更ながら感じた。
若殿の又四郎も奥方様をいずれ迎えてしまえば、父のように浅ましい男となるのかもしれず、気がめいってくる。
そんな気持ちを払いのけることもできぬうちに、鳴滝から呼ばれ夜伽の支度となったのである。
もう来ないかもしれぬ、奥へ戻ってよいか松村に尋ねてみようかと思った時だった。近づく足音が聞こえた。
「すまぬ、遅くなった」
赤い顔で額に汗をにじませた又四郎はそう言って、佳穂の前に胡坐をかいた。突然のことに佳穂は頭を下げるのも忘れていた。
「シロが小屋を抜け出してしまって、それを追いかけておった。手足は洗ったゆえ、泥はついておらぬと思うが」
犬を追いかけていたというのはまことらしい。寝間着の裾にわずかに泥はねらしいものが付いていた。それに犬の白い毛が寝間着からわずかだが落ちたのにも気付いた。
「どうも、前いた屋敷に戻りたかったようで。犬は賢いゆえ、匂いでわかるのだ。しばらくは気を付けねばならぬ。なにしろ力があってのう。おかげで、寅左衛門の手までわずらわしてしまった」
「とらざえもんとは」
佳穂はつい尋ねてしまった。若殿様に質問などしてはならないことに気付いたが遅かった。だが、又四郎は咎めるどころか、平然とした顔で答えた。
「分家からついて来た用人だ。益永寅左衛門というて、月輪郷の代官の息子だ」
益永という姓には覚えがあった。母方の石森家の祖母は代官の益永家の出だった。
「益永というのは祖母の実家です」
「ああ、そうか。そなたの母は石森であったな。では寅左衛門とはいとこ、いやはとこになるのか」
「はい、恐らくは」
母の実家の名もすでに調べているらしい。いとこならともかく、はとこの名までは佳穂も知らなかった。だが、犬の話と益永の名を聞いたことで、少しだけ緊張が緩んだ。
「今度、シロに会わせよう。また重くなったゆえ、おぶることなどできぬぞ」
又四郎は笑った。その歯の白さが行灯の灯火でも眩しく見えた。思わず、佳穂も笑ってしまった。
が、ふとこれは失礼な振舞なのではないかと思い、頭を下げようとした時だった。又四郎は言った。
「犬はドッグというのじゃ、英吉利では」
唐突な話に佳穂の頭は混乱した。なぜ、英吉利などという異国の話になるのだ。
「あの、犬と英吉利にいかなる関わりがあるのでしょうか」
「あ、すまぬ。最近、英吉利の言葉を学んでおるゆえ」
阿蘭陀の言葉ならともかく、何故、英吉利の言葉など学んでおいでなのか。まことに変わった方と佳穂は思った。
又四郎は少し身を乗り出した。佳穂は身構えるように姿勢を正した。
「英吉利という国は、阿蘭陀より大きく、自国の他に領地を広げておるのだ。庚子の年に、英吉利は清と戦い、勝っておるのだ。清にだぞ」
「まことでございますか」
「まことのことじゃ」
佳穂にとって、それは初めて聞く話であった。庚子の年とは天保十一年、西暦一八四〇年のことである。その年に清はイギリスとアヘン戦争となり、二年後に南京条約が結ばれ終結した。
すでに日本にはオランダや清の商人を通じて清の敗戦が伝えられ、幕府もまたこれを重視し、異国船に対する政策も変化していた。それまでは漂流民を日本に送り届けた船を追い返していたのが、薪や水を与えるという方針に変わったのである。
だが、殿様たちはともかく、奥の女達にとってそれは遠い話であった。佳穂もまた英吉利や仏蘭西という国が阿蘭陀の他にもあるらしいとは知っていたが、清との戦争のことなどまったく知らなかったのである。
だが、知ってしまえば好奇心がもたげてくる。佳穂も武家の娘だから源平の戦の話くらいは知っている。江戸に出てくる時に、鵯越の近くを通ったこともある。
当然、大国である清が遠い西の国の英吉利に敗れたと聞けば、なぜという疑問が浮かぶ。ここで英吉利と清の戦のことを尋ねていいものだろうかと迷ったものの、又四郎はゆったりと構えており、佳穂の言葉を咎めだてするような雰囲気ではなかった。佳穂は思い切って口を開いた。
「畏れながら、清といえば古より我が国に多くの文物を伝えた大国ではありませぬか。それがなぜ英吉利などという遠い国に負けたのですか。遠い国からいかにして武器や侍を運んだのですか。戦をするなら兵糧も運ばねばならないではありませんか」
又四郎の目の色が変わった。
「そなた、なかなか面白いことを。清がなぜ負けたかということより、英吉利がなぜ勝ったかから話そう。英吉利では蒸気機関というものが発明されてな」
面白い、まさかそう言われるとは思わず、佳穂は胸の鼓動が早まるのを感じた。ついでだからとさらに尋ねた。
「じょうききかんとは何ですか」
「水を薬缶で湧かすと、湯気がたってやがて蓋が持ち上がるであろう」
「はい」
「その力を使うからくりを蒸気機関という。その力で清は勝ったようなものだ」
佳穂にとっては信じられない話だった。水を沸かす力で戦に勝つとは。
「それでは一体、水は何石いるのでしょうか。薪もいかほど必要とするのでしょうか」
「それは、私も不勉強でわからぬ。とにかく、蒸気機関の力で鉄の車を走らせたり、鉄の船を動かしたりするのだ。船の漕ぎ手がおらずとも船が動くのだ」
「なんということ。それでは、その船で英吉利は清まで行ったのですね」
「そうだ。しかも途中には英吉利の領地がある。その港で兵糧を調達すれば船に乗った武士や足軽の兵糧の心配もない」
途方もない話であった。
「英吉利という国は大したものなのですね」
「しかも英吉利の王は女子だということだ」
「なんと」
「ビクトリアという名で二十にならぬうちに位についたそうだ」
「びくとりあ」
この世には不思議な国があるものとお佳穂は思った。女の王がいる国があるとは。しかもその国が男の皇帝の国である清に戦で勝ってしまうとは。
「この世には知らないことがたくさんあるのですね」
「そうだな。だから私も様々な人から学ぶのが楽しい」
又四郎はそう言うと、改めて佳穂を見た。己の目に狂いはなかったと。
本当は別の話を切り出すつもりだった。だが、直前になってシロが小屋を抜け出してしまった。世話係の覚兵衛が外出していたので、寅左衛門と二人がかりで捕まえた。小屋に戻して手足を洗って小座敷に急いだ。
待っている佳穂に謝るうちに、予定の話を切り出すべき時を見失ってしまった。寅左衛門の話などするつもりはなかったのだ。どうしてお佳穂と同じ部屋にいて他の男の話などせねばならぬのか。
どうしたものかと思い、英吉利語の犬のことを持ち出したのは成功だった。まさかここまで自分の話に興味を持ってもらえるとは思っていなかった。
あの日、偶然奥に入り込んだ犬のシロを背負った姿に、又四郎は、彼女は只者ではないと思った。普通の女子は犬を抱く事はあっても背負うことはない。しかも御末のように梯子を使うとは。
はしたない奥女中と思う者もいるかもしれぬが、時に応じて必要なことならば己の身を使って働くというのは、誰にでもできることではない。この先、世の中が大きく変わるかもしれぬのだ。その時に旧態依然とした考えにとらわれていては、男であろうが女であろうが対処しきれぬ。行動的な上に、新しい知識に目を輝かせるお佳穂は又四郎を喜ばせた。
何より、又四郎にとって、あの出会いは僥倖と言うより他なかった。会えるはずがないと思っていたのだ。その話がきっかけで斉倫が縁組をと言ってくれた。斉倫の死で一度は諦めていたのだが、どういう巡り合わせか己は本家の養嗣子となった。
今ここに二人いるのは、黄泉の斉倫のおかげと言ってよいかもしれぬ。
この好機を生かさねば、斉倫に申し訳ない。
「ところで、お佳穂、そなた、何故、ここに来たかわかっているのか」
又四郎から切り出され。佳穂ははっとした。そうだった。又四郎の話が面白くて、肝心のことを忘れていた。
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