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若殿様と中臈

弐 危急存亡の秋

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「当家は、今、御家存続の瀬戸際にございます」

 御前様の執務室である御座の間では若殿又四郎慶温よしはるが真剣な顔で述べていた。

「光信院様が亡くなられ、それがしが養子に入りましたが、もし万が一、それがしの身に何かありましたら、いかがなりましょう。分家は若殿様がまだ妻を娶っておらず、御子もありません。また、下の方は女子。ゆえに、分家から養子をとることはできません」

 御前様は身を乗り出していた。

「そうじゃな、確かに」
「また、他の御家に当たるにしても、淑姫様の件がかなり広まっており、今回のこともたとえ姫様との縁組を条件としなくとも、断りたいと言っている者がかなりいたともれ聞いております」

 御前様が思っていた以上に淑姫の離縁の打撃は大きかった。

「こうなったら、それがしが御世継を儲けねば、月野家は絶えてしまいます。そこで、一つ考えていることがあるのですが」
「なんじゃ、申してみよ」
「畏れながら、奥泊まりの日数が少な過ぎます。御先祖様方を祀るは大切なことですが、忌日とその前日奥泊まりができぬため、現在月のうち二十日ほど奥に泊まれぬことになっております。さらに、女子の都合もあります。そうなると、月のうち泊まることができるのはよくて五日、悪くすると三日もないことになります」
「そんなになるのか」

 御前様はすでに血気盛んな年でもないので、奥泊まりができる日が少なくなっていることをほとんど意識していなかった。言われて初めて気づいたのである。

「はい。そこで、あまりに畏れ多いことながら、遠い御先祖の忌日を一日にまとめるというわけには参りませんでしょうか」
「なんと」

 御前様は考えたこともなかった。

「もし万が一にも、御前様が二日、あるいは三日に亡くなると、奥泊まりの日はさらに二日減ります。そうなれば、月のうち一日、二日しか奥泊まりができぬという事態にもなりかねません。それで子ができなければ、御家は断絶。御先祖様に顔向けのできぬことになるやもしれませぬ」
「うむ、それは……」
「勿論、先代、先々代の忌日はそのままでよいかと存じます。ですが、八十年前、九十年前、それ以前に亡くなった方々の忌日までというのは……。寛善院様の忌日にまとめてしまうのがよろしいのではないでしょうか。それだけで、奥泊まりのできる日数は二十日を越えます」
「家老に相談してみよう」

 御前様は家老の高橋弥右衛門をすぐに呼んだ。家老は思いもよらぬ提案に顔を青ざめさせた。

「寺への参詣はいかがします。それにお食事のこともあります。急に変わっては台所の用意が間に合いません」

 精進日には食事も生臭物抜きの精進料理となるのである。

「寺は従来通りでいいではないか。代参の者が参るのだから。料理も精進でよい」
「さりながら」
「当家の存亡がかかっておるのだぞ」
「まだ、縁組の話も決まっておりませんのに」
「その件ですが、縁組をするつもりはありません」

 御前様も高橋もあんぐりと口を開けたまま、又四郎を見た。

「御前様、高橋殿、光信院様の葬儀や養子、隠居の件でいかほど費用がかかったことか、ご存知のはずです。この上、婚儀などしたら、蔵が空になるのではありませんか。ただでさえ、当家は上方よりも西にあるゆえ、参勤交代の費用もかかります。もし、来年不作になれば、たちゆかなくなるやもしれません。奥方よりも、まずは世継ぎが先、名より実が先です。光信院様の服喪の期間を終えても、当家の蔵が満ちるわけではありません。懸命に相手を探している留守居役らには申し訳ないと思いますが、縁組は今しばらく」

 又四郎の言うような事態になれば、蔵が空になるとまではいかないが、それに近い状態になるのは確かだった。 
 だからといって妻を娶らぬというのは、合点のいかぬ話であった。

「若殿様、いくらなんでも、それは無謀かと」
「なれど、妻を娶れば、また新たに奥女中を増やすことになります。奥の費用もきりつめねばならぬのではないですか」

 御前様は胸の前で腕組みをした。
 亡くなった我が子の考え方はまるで己をなぞるかのようであった。質素倹約を唱え、真面目に祖先の事績を学んでいた。
 新たに養子に入った若者は、思いもよらぬ斬新な考えを持っていた。すべてには賛同できぬが、今が危急存亡のときであるという考えには同意できた。

「あいわかった」

 御前様はうなずいた。家老は眉をひそめた。まだ納得できないらしい。

「ただし、縁組はいつかはせねばならぬこと。今年は余も光信院の喪に服さねばならぬから、縁組は次の参勤の再来年以降にするというのはいかがか」
「かしこまりました」

 家老は御前様に従った。再来年ということなら、縁談相手探しに奔走している留守居役も納得するだろう。それまでに相手のことを徹底して調べることもできよう。

「考えをお聞き届けくださり、まことにありがたき幸せ」

 頭を下げた又四郎の表情に笑みがこぼれていたことなど、御前様は知る由もなかった。





 今日のところは若殿様との夜伽はないということで、佳穂は奥方様の部屋へ伺候した。
 部屋には淑姫もおり、いつものように奥方様の趣味の絵の手伝いをと思っていると、鳴滝と御錠口を守るおさよが入って来た。

「大変なことになりました。精進日が減らされるそうにございます」

 鳴滝の知らせに、奥方様は首を傾げた。

「どういうことじゃ。誰がさようなことを決めたのか」
「御前様からの直々のお指図とのことです」

 そう言うのはおさよであった。
 
「明日の妙樹院様の忌日を始め、三代前以前の方々の忌日は寛善院様の忌日にまとめるとのこと。従って、今夜も明日も奥泊まりと夜伽に不都合はないとのこと」

 信じられない。佳穂だけでなく、その場にいた奥方様も淑姫も呆気にとられていた。御先祖の忌日とその前日は奥泊まりはできないことになっているのに。

「これは、養子殿の入れ知恵であろう。父上には考えつくまい」

 淑姫はすぐにそう言った。
 確かに御前様の考えにしては斬新過ぎた。

「あの又四郎殿というのは、存外面白い男かもしれぬな」

 佳穂にとっては面白いでは済まない。この先の人生の予定を壊されてしまったようなものなのだから。

「淑、それなら、そなた、考えを変えて又四郎殿と縁組してはどうじゃ」

 奥方様の言葉を淑姫は一笑した。

「さような戯言はおやめください。大方、又四郎殿は、お佳穂を早う抱きたいのでございましょう。他の女のことしか考えておらぬ男など、わらわには無用」

 あまりに明け透けな物言いだった。

「姫様、はしたのうございます」

 鳴滝が見かねて言った。
 佳穂にとってはとんでもない話だった。早う抱きたいとは、どういうことなのだ。佳穂は抱かれたくなどなかった。男など、父のように心変わりするものなのだ。汚れた方と言われた上に、あばたで心変わりされてしまうかもしれぬと想像するだけで耐えられそうもなかった。
 精進日という二日の猶予、それに、月のものの予定を早めれば、なんとか回避できるかもしれぬと思っていただけに、急に今夜が夜伽とはあんまりである。

「お佳穂、顔色が悪いが、大丈夫か」
「大丈夫です」

 ついそう言ってしまうのは癖のようなものだった。心配させたくなくてそう言うのが当たり前のようになっていた。

「昨夜少々飲み過ごしたからでございましょう。でもよく眠りましたゆえ」

 ああ、あのまま起きずにいればよかった。気分が悪いからと言って休めばよかった。だが、佳穂にはそれができなかった。仕事は何があっても休むべきではないとずっと信じていた。佳穂は今ほど己の性格が呪わしく思われたことはなかった。

「お佳穂は分家の土塀で又四郎殿に会っておるゆえ、きっとその時に見初められたのであろうな」

 奥方様の言葉に佳穂は異議を唱えたかった。見初めた男が、あばたのある顔を見て家老の娘かと尋ねるものだろうか。
 もしそうだとしても、養子を許された翌朝に夜伽の相手に選ぶなど、非常識ではないか。 
 それに、奥の女達にはあばたのない女がたくさんいるではないか。あばたのあるお佳穂を選ぶなど、どういうつもりなのか。

「さようなこと、ありえませぬ」

 奥方様は佳穂の戸惑いを察したのか、尋ねた。

「お佳穂、又四郎殿のこと、嫌いか」

 若殿様のことを嫌いなどと言えるはずもない。何より、佳穂は若殿様のことを知らない。好きとも嫌いとも言えない。いや、主家の方々に好き嫌いの感情を持つなど、許されるわけがない。
 どう答えればいいものかと思っていると、淑姫が言った。

「母上、そんな意地悪な質問をされるとは。お佳穂が困っております」
「意地悪か」
「お佳穂の立場では好きとか嫌いとか答えられるはずがありません。何より急な話。のう、そうであろう」

 佳穂は小さくうなずいた。情けなかった。己が言うべきことを淑姫様に言わせてしまうとは。

「そうか。すまなかった」
「畏れおおうございます」

 奥方様に謝らせるなど、とんでもないことだった。

「さてさて、どうしたものかのう」

 奥方様付きの佳穂の夜伽は、奥方様の許しがなければできない。午前のうちにその返事を中奥に連絡する必要があった。

「お佳穂、わらわは分家にいた頃、そなたの母に世話になった。御前様からの文の返事に書く歌を作るのを手伝ってもらったこともある。その恩に報いるために、そなたを守らねばならぬと思ってきた」

 奥方様の話はずいぶん前にも聞いたことがあった。母を亡くした佳穂は以来、この方を心の母と思って仕えてきた。

「そなたがここへ参った頃はここで奉公するのが、そなたの幸いではないかと思った。だが、又四郎殿の寵を受けてみるのもよいかもしれぬ」

 そんなと声が出そうになったが、堪えた。奥方様が懸命に考えての言葉なのだ。

「わらわはさほど長く又四郎殿と話をしたわけではないが、これまで長きにわたり部屋住みとして暮らしながら、学問も武術も修めておいでのようじゃ。つらい境遇に耐えて、己を磨くというのは、なかなかできぬもの。水が低きに流れるように、人は易きに流れやすいもの。なれど、又四郎殿という川は高きに流れている。さような方はまことに得難いと思う。さような方とこの世で巡り合うことは滅多にないもの。そなたにとって、決して悪い話ではないと思う。今宵一夜ともにしてはどうか。それで、どうしても嫌なら、国に帰るなり、分家の川村の元に戻り、そちらに仕えるなりすればよい。又四郎殿にはわらわから話して諦めてもらうゆえ」

 どうせなら今話して諦めさせてほしかった。
 だが、これが奥方様の精一杯の佳穂への情なのだろう。本来なら問答無用で、御前様や若殿様の希望に沿うようにするのが奥というものなのだ。佳穂の気持ちを尋ねてくれるだけでも有難いことだった。

「かしこまりました」

 佳穂には結局それしか言えない。

「わかってくれたか。鳴滝、御錠口へ」
「はい」

 鳴滝はおさよに言伝を伝えた。おさよはすぐに部屋を出て御錠口に向かった。御錠口の向こうでは、若殿様付きの小姓が返事を今か今かと待っているはずである。





 だが、返事を一番待っていたのは又四郎だった。
 今朝、奥の座敷に入ってすぐに佳穂の姿がわかった。大勢の女達の中で佳穂だけが光り輝いていた。
 やはり、彼女でなければと思った。
 脂粉の匂いの濃い奥で佳穂の立居振舞は凛としていた。
 シロを背負って梯子を上ったありさまも印象的だが、楚々としたさまで控えている姿は水仙の花を思い起こさせた。初めて会った日も水仙が咲いていたと思い出す。
 名を問うことは決めていた。けれど、いざとなるとなかなか声が出ない。ふと、彼女の視線を感じた。その瞬間、今しかないのだと思った。これを逃せば機会はない。
 涼やかな声での名乗りを聞くまでの長かったことよ。
 名まえを聞いてほっとしたものの、その後なおさら物思いが募った。
 もし、奥方様のお許しが出なかったら。ありえない話だが、奥方は佳穂のことを可愛がっていると聞いているから、佳穂の意志を優先するかもしれなかった。
 なにしろお清の中臈として仕えているのだから、最初から又四郎の言いなりになるはずがないのだ。今朝も鳴滝が催促するまで名を答えなかったのだ。恐らくお佳穂は嫌でたまらないに違いない。そこから好意を持たれるようにするというのは至難の業に思われた。
 とにかく、まず顔を合わせ話をするところからである。そのためには寝所に呼ばねばならないというのが、奥向きの難しいところである。最初は昼間一緒に茶を飲みながら話をして、次は名所に行き昼飯を食べ、その次は夕餉をともにしと、段階を踏むようなことはありえない。気に入ったらその夜には即寝所へ。良くも悪くもそれが奥だった。大体正式な結婚である縁組からして、顔を合わせるのは祝言の席でその夜早速床を共にするのだから、身体を交える前に互いの気持ちを育むということなど言ってられないのである。
 だが、又四郎はそれを寝所でやってみようと思っている。
 いきなりではなく、ゆっくりとお佳穂の心に己を刻みつけてゆきたかった。無論、身体も欲しいが、それ以上に心をまずは捕まえておきたかった。贅沢な望みかもしれない。けれど、身体だけの女子などいらなかった。互いを理解し合った上で愛情を交わし合いたかった。
 奥からの返事を小姓が伝えに来た時、やっと始まるのだと思った。素直に嬉しかった。けれど、もし嫌われてしまったらと不安が胸をよぎる。
 本当の己をさらけ出し、もし嫌われたら。
 彼女の本当の気持ちを知るのも怖いが、受け止める努力ならいくらでもしたかった。
 けれど、己のことは受け止めてもらえるだろうか。それだけが又四郎を悩ませる。




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