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若殿様と中臈

壱 お召し

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 分家月野家の次男又四郎の養子の件はいったん決まると、話はとんとん拍子に進んだ。
 親戚に挨拶し、幕府の役人と相談の上、届けを出した。留守居役が養子の件で話のあった老中にお詫びの品を贈ったのは言うまでもない。老中の御機嫌をそこねるわけにはいかない。
 公方様のお許しを得て、又四郎が城に御目見えの挨拶をしたのは、七月のことであった。ちょうど若殿様の四十九日の次の日のことである。これによって又四郎は望月藩月野家の嫡子と公式に認められた。
 又四郎は公方様から慶温よしはるといういみなを賜った。諱とは実名で、主君や親が使い、目下の者からその名で呼ばれることはない。また、家督を受け継げば又四郎は月野家代々が名乗る官名丹後守を使用できるようになる。従って、今は屋敷の中では若殿様と呼ばれ、家督を継げば御前様、丹後守様と呼ばれるようになる。
 一方、御前様の隠居の手続きも並行して行われた。病による隠居ということで、出入りの医者以外の医者からも診察を受け、書類を幕府に提出した。手続きに際しては親戚の大名にあれこれ助言を受けたので、そちらへのお礼もした。後は公方様のお許しを得て、慶温本人と御前様の代理の大名が登城し、隠居の許しを得た後に家督相続の挨拶をするばかりとなった。
 奥に御前様が隠居の手続きをしていることを知らせたのは、慶温が御目見えの挨拶をした当日の朝のことであった。
 意外にも奥方様も淑姫も驚かなかった。
 奥方様にしてみれば、隠居すれば御前様は参勤交代の必要がなくなり、江戸にこの先ずっと住むのであるから、かえって心強いのだった。
 淑姫との縁組は又四郎が受け入れる気がなく、淑姫にもその気がないというのであれば、諦めるしかなかった。
 一時は又四郎の縁組遠慮を聞いてのぼせるほど気が動転した奥方様だったが、考えてみれば縁組は淑姫のように当人同士の気持ちが合わなければ、うまくいかないのである。奥方様は又四郎と淑姫の縁組を諦め、留守居役に又四郎の縁組相手を探すように命じた。
 淑姫は父親が隠居して暇になると、口うるさくあれこれ言われると少々不満であったようだが、父の気力の衰えを見ていれば、仕方ないと納得したようだった。
 この日の夕刻、又四郎改め慶温が本家上屋敷に入った。本来なら跡継ぎは中屋敷に住むのだが、御前様の仕事の引継ぎがあるので上屋敷に入れたのである。
 御目見えをしたということで表御殿では親戚や重臣が集まり、祝宴が行なわれた。
 奥では、本人不在だが、奥方様が主催して新しい御世継を祝う宴がささやかながら行われた。
 佳穂は家督の相続が成れば、奥方様に従い中屋敷に行くことになるので、上屋敷での宴はこれが最後と思った。隠居ともなればお付きの小姓も減らされるから、別れる者もいるはずで、それを思うと名残り惜しく感じられた。
 同じことを思ったのは小姓らも同様で、お佳穂様どうぞとお酌する者が列をなした。
 佳穂は久しぶりの酒で、宴が終わった時には少々足元がふらついてしまった。見苦しいことにならぬように、奥方様がお休みになるまではと頑張って起きていたものの、仕事が終わり自室に戻るとおきたが延べていた床に倒れ込んでしまった。





「お佳穂様、起きてくださいませ」

 はっとして目を開けると、いつもより外が明るい。

「大丈夫ですか」

 お三奈とお喜多が心配そうに顔を覗き込んでいる。

「御加減が悪いのですか」

 しまった、寝過ごした。この明るさからすると、いつもは奥方様の部屋に伺候している頃である。

「すまぬ」

 慌てて起き上がり、着ていた物を脱いだ。お喜多に化粧を落とされ、お三奈が用意していた装束に着替えた。
 なんたる不心得、このような朝にこそいつも通り起きてお仕えしなければならないのにと佳穂は恥ずかしかった。これでは小姓らにも示しがつかない。
 お喜多が朝早いうちに奥方様の小姓を通じて、おつむが痛いので支度に時間がかかると伝えてくれたとはいっても、限度があるというものである。
 乱れた髪を整え化粧をして、座敷に急いだ。もう皆集まっているはずである。今朝は仏間に礼拝した御前様が養子の若殿様を連れて来る手筈になっているのだ。こんな大事な日に遅れるわけにはいかない。
 佳穂が座敷に入った時、まだ奥方様も御前様も若殿様もいなかった。淑姫様も仏間に行ったのか姿がない。いるのは御目見え以上の奥女中達である。いつもより皆華やかな色目の打掛を着ている。化粧も濃いような気がする。
 佳穂は自分の座る二列目に膝行で進んだ。

「遅くなるとは珍しいことね」

 お園がささやいた。
 その時だった。中年寄の松村の声が響いた。

「御前様、若殿様のおーなーりー」 

 皆一斉に頭を下げた。佳穂も起きて間がないためにまだあまり回らぬ頭で反射的に頭を下げていた。
 やがて衣擦れの音が聞こえた。足音がいつもより多い。

「面を上げよ」

 御前様の声とともに、皆顔を上げた。無論、上座の人々の顔をまじまじと見るという不作法な者はいない。胸のあたりを見るだけである。だが、この朝は御前様でも奥方様でも淑姫でもない人物の襟元を皆注視していた。

「皆の者の力添えで、先日、光信院の四十九日法要が無事営まれた。礼を言う。昨日、城にて公方様に御目見えしたこの又四郎慶温を新たな世継ぎとしてこれからは仕えて欲しい」

 皆、院号を聞き、若殿様が帰らぬ人となったことを改めて認識し悲しみを覚えた。
 御前様に続いて若殿となった又四郎慶温がゆっくりと口を開いた。

「母上様、奥の皆様、縁あって月野家本家の養子となった又四郎にございます。よろしくお願いします」

 優し気な語り口は佳穂が犬を返した時と同じだった。髭もじゃの顔を思い出した。髭を剃って一体どのようになっているのか気になり、わずかに視線を上げ、気づかれぬようにお顔を見た。

「え」

 思わず声が漏れた。
 髭は当然なかった。月代もきれいに剃られていた。そこにいたのは、驚くほど端正な顔の、貴公子と言っても大袈裟ではない男性だった。
 つい見とれてしまいそうになり、慌てて視線を下げた瞬間だった。

「そこの浅緑の帷子かたびらに芙蓉の花の打掛の方、そなたの名は」

 佳穂は反射的に顔を上げていた。今日着ているのは確かに浅緑の帷子に芙蓉の花の刺繍の入った打掛である。打掛を腰に巻き、袖は横に張り出した堤帯さげおびの先に引っ掛けたこの季節の着付けで特に他と変わったところはない。
 御前様と奥方様が顔を見合わせたのに気付いた。鳴滝の表情が微妙に動いた。それに隣のお園もちらっとこちらを見ているが、その表情には明らかに驚愕の色が見えた。
 他の女達も顔を上げ若殿の顔と佳穂の顔を代わる代わる見た。女達の表情が変わった。亡くなった若殿様のことなど、瞬時に忘れてしまったかのようだった。
 まずい。これは非常にまずい。
 奥女中は奥方様に仕えているが、御前様やその家族もまた仕える対象である。だから、奥方様以外の方の指図にも従わねばならない。建前上は奥方様優先だが、一番はやはり御前様、次は若殿様である。
 当然、この場合、若殿様の質問に答えなければならない。だが、それが意味することを佳穂も知っていた。江戸屋敷に仕える際に、分家に仕える叔母川村が言っていたのだ。

『ありえないと思っているかもしれないけれど、御前様や若殿様から名を問われたら、それは夜伽のお誘いです。決して断ってはなりませんよ』

 父親のような御前様、兄のような若殿様はさすがにそんなことはしなかった。佳穂が一生奉公するつもりだということを知っていたからである。佳穂自身、自分にそのようなことが起きるとは思ってもいなかった。何より、お清の身体のままで奉公しようと誓っていたのだ。それなのに。
 これはもしや悪夢ではなかろうか。酔って見ている夢ではないか。飲み過ぎたせいでこんなおかしな夢を見ているのかもしれない。
 だが、夢ではなかった。

「早う答えよ。若殿様のお言葉ぞ」

 鳴滝の声で我に返った。奥をべる年寄の命令は絶対である。

「佳穂にございます」

 答えてしまった。もう取り返しがつかない。

「佳穂、か」

 その後、奥方様や鳴滝からの話があったが、佳穂の耳を素通りするばかりであった。
 やがて、御前様と若殿様が退出した。
 奥方様と淑姫も下がった。本来なら奥方様に従って佳穂も退出するのだが、鳴滝が来るようにと言ったので、そのまま年寄の控えの間に入った。

「ああ、なんという」

 部屋に入るなり鳴滝は大きくため息をついた。

「そなたには、いずれ年寄になってもらおうと思っていたのに」

 こんな時でなければ嬉しい言葉だった。けれど、夢はついえてしまった。

「申し訳ございません」

 思わずそう言った佳穂だった。

「謝る必要はない」

 鳴滝はきっぱりと言った。

「こうなっては致し方ない。できる範囲で最善を尽くすのみ」

 鳴滝はさすがに長く勤めるだけあって、頭の切り替えが早かった。
 だが、佳穂には切り替えができそうもなかった。

「最善ですか」

 どう考えても最悪の事態としか思えなかった。お清の中臈からやがては年寄になるという先々の見込みが消えたのだ。その上、自分のあばたを見て家老の娘と気づくような男である。又四郎のことを思い出すと、あばたのことがついて離れないのだ。
 それに何より、側室を持つ許しを得ようとしたことが気になる。すでにそのような立場の女性がいるのではないかとお佳穂は思っている。それなのに、なぜ自分の名など尋ねたのか。

「鳴滝様、若殿様には御手付きの方がおいでなのではありませんか。なぜに私を」
「はて、聞いたことがないが」
「姫様との縁組の話が出た際に、側室を持つ許しを得たいとおっしゃったのでは」
「そうであったな。だが、そのような方がおいでとは伺っておらぬ。屋敷について来たのも、側に仕える者三人だけじゃ。それも皆男ぞ」

 それではいないというのであろうか。

「他に誰もついてきていないのですか」
「元々部屋住みの方ゆえ。あ、そうであった」

 鳴滝は思い出したという顔になった。

「犬じゃ。毛むくじゃらの白い犬。南蛮犬の血を引くらしい」

 あの犬だ。

「ご自分で作った犬小屋も持っておいでで。しかも小屋と犬を荷車に乗せて自分で引いておいでになったとか」
「ご自分で」
「小屋は壁や屋根を外して荷車に載せることができるとかで、中奥で組みなおしたそうな」

 想像もつかなかった。やはり、変わったお人なのだ。
 その変わったお人が自分の名を尋ねた。
 もう、佳穂にはわけがわからなかった。これはまことなのであろうか。悪い夢なのではないか。

「もし、さような女子がおれば、分家の年寄の梅枝うめがえから話があるはず。だが、さような話は聞いておらぬ。それはともかく、段取りをせねばな」

 そう言って鳴滝は覚え書きを開いた。なにしろ、この奥で奥女中が若殿様の寵愛を受けるのはこの十年以上なかったことなのである。
 そんな鳴滝の姿を見ながら、佳穂は言い知れぬ不安を感じていた。
 側室にするような女性がいないというのは、恐らくまことであろう。鳴滝は偽りを言わぬ人である。いたらいたで、佳穂に気にする必要はないと言うはずである。
 だが、なぜ、自分なのか。
 先日の犬の件でたまたま顔を覚えていて、それで自分に気付いたのだろうか。なにしろ、生え際にあばたがある。あばたの目印を見つけて、知った顔があったから尋ねたのか。だとすると、軽率過ぎる。奥女中の名まえを尋ねることがどういう意味を持つか知らぬはずはない。

「まずは奥方様のお許しを得なければならぬ。そなたは奥方様付きゆえな」
「はい」
「お許しを得た後は……日を決めねばならぬな。今日は十一日と。ん、明日は妙樹みょうじゅ院様の忌日ではないか。となると、今夜も明日も無理」

 奥泊まりは御先祖様の命日前日と命日は精進日ということで行わないことになっている。妙樹院様は八十年ほど前に亡くなった四代前の御前様である。佳穂はひとまず安堵した。この二日の間になんとか夜伽を回避する手立てを考えねばならない。
 一番いいのは月のものがくることだが、すでに先月末に来ている。予定が狂ったことにしてしまおうか。以前、お園から聞いたことがあった。同じ部屋の者に月のものがくると、それがうつることがあると。もし、本当にそうなるなら、月のものの来た誰かの部屋に泊めてもらえばよいかもしれぬ。小姓のおちさが昨日から月のもので休んでいるから、おちさの部屋に泊めてもらえばよかろう。
 もし明日から月のものになれば、終わるのは寛善院様の命日の前である。十日ほどは先延ばしできる。その間に、又四郎が他の女子に目移りすれば、佳穂のことを忘れてくれるかもしれぬ。
 若殿様に声を掛けられたのに夜伽の相手にならなかったとあれば物笑いになるかもしれぬが、恥をかくのは一時のこと。中屋敷の大殿様や大奥様の元に行けば、皆じきに忘れてしまうだろう。
 佳穂はおちさの好物の菓子をお喜多に訊いてみることにした。





 だが、その頃、表御殿では佳穂の目論見を吹き飛ばす決定がなされていた。



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