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部屋住みの又四郎
伍 宵の灯火
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見舞いと称した弔問を終えて、又四郎が屋敷に戻ったのは夕刻だった。
部屋の前まで行くと、田原十郎右衛門が廊下にかしこまっていた。
「お帰りなさいませ」
いつもと同じ挨拶が、今日ほど嬉しかったことはなかった。
十郎右衛門が襖を開けると、部屋の真ん中に壮年の男が胡坐をかいていた。髪は総髪で痩せており、少しくぼんだ目だけがぎろりと光っているように見えた。
又四郎はその下座に座った。男は驚き、下座に下がろうとしたが、又四郎は制した。
「そのままで」
男は胡坐から正座に足を組み替え、頭を下げた。
「ようこそおいでくださった」
又四郎の言葉に男はははっと声を出した。
「お手をお上げください。長旅の疲れもおありのはず。しばらくはお休みを」
「Hartelijk bedankt voor uw hulp.」(あなたの助けに心から感謝しています)
不意打ちのオランダ語だった。慌てて対応する語を思い出した。
「Graag gedaan.」(どういたしまして)
「さすがですな」
男はニヤリと笑った。
「長岡殿、失礼ではござらぬか。若様にオランダ語で話しかけるとは」
十郎右衛門は思わず怒鳴っていた。まるで又四郎の語学力を試しているかのように思われたのだ。
「十郎右衛門、静かに」
まずいと気づき、十郎右衛門は申し訳ありませんと慌てた。
「この屋敷では、その名ではないほうがよい。仙蔵という名で呼びますが、よろしいですか」
「犬の世話係の仙蔵ですな。あれはプドオという種類か」
「左様」
「賢き犬のようですな」
彼はすでにシロに会ったらしい。
「覚兵衛が驚くほど、懐いておりました」
十郎右衛門が言った。
「そうか。不本意かもしれませぬが、しばしのこと。住まいも長屋しかありませぬが、ご容赦ください」
「なんの。今までの暮らしに比べれば」
男のこれまでの暮らしを又四郎は聞いている。どん底のような暮らしに比べればということであろうが、ここでも意のままにならぬことは多いはずである。
男は光る眼で又四郎を見つめた。
「この書をお貸しください」
それは昨日斉倫から手に入れたオランダの兵法書だった。男は先ほどまでこの部屋でそれを読んでいたらしい。
「紙もいただけませんか。翻訳をしたいと存じます」
「よろしいのですか」
又四郎にとってこれほどありがたいことはなかった。昨夜読んだだけでは意味の通らぬ部分がかなりあったのである。
「はい。それがしはかような書物に飢えておりました。それがここで読めるとは」
他にもオランダ語の書物はあった。又四郎は自分でも訳しているが、難しい用語はどうにもわからなかった。男の訳を学ぶことで新たな知見が得られるのはありがたかった。
「では早速明日にでも用意を」
「かたじけない」
「こちらこそ、先生の翻訳を拝読できるとは。まことに得難いこと」
又四郎は感激を隠さなかった。男はそれにひどく驚いたようだった。
「さように喜んでいただけるとは」
「当たり前です。先生の翻訳を最初に読む栄誉を得ることなど、誰にでもあることではありません」
「あなたはまことに変わった方」
十郎右衛門のもの言いたげな様子を又四郎は目で制した。
「ありがとうございます。それはそれがしにとっては褒め言葉」
「なんと」
男はカカカと乾いた低い声で笑った。
「中田殿に変わった若様と聞いておりましたが、やはり」
「長岡様、いい加減になさいませ」
十郎右衛門はさすがにこれ以上は見逃せぬと思ったようだった。
「十郎右衛門、仙蔵だ」
「はっ」
「どうでもよいではないか。若様、飯は?」
どこ吹く風とばかりに、男は又四郎に尋ねた。
「長屋の隣の部屋の佐野覚兵衛に用意させます」
「それはありがたい」
そこへ覚兵衛が来たので、長屋への案内を頼んだ。
覚兵衛と男はすっかり親しくなったようで、二人はシロの小屋の近くにある長屋へと向かった。
「申し訳ございません。長崎においでの頃はあのようではなかったのですが」
十郎右衛門の言葉は当然であろうと思う。あの男が嘗めて来た辛酸を思えば、学問への情熱が残っていること自体奇跡といえた。いや、その辛酸ゆえの情熱かもしれない。
「それだけの苦労をなさったのだ」
そう言った後、中屋敷のことを伝えた。大勢の見舞客があり長居はできなかったが、お顔を拝見できたと言うと、十郎右衛門はああっと小さく息をついた。
「穏やかなお顔であった」
「まことに、惜しい方を」
十郎右衛門はうつむいた。
誰からも愛され、惜しまれる男だったのだ、斉倫は。
又四郎が長岡の家族が夫の長い留守のため、蓄えも尽き暮らしに困っていると何気なく言ったのを聞いて、それではわずかだが援助しようと斉倫は言い毎月銭を用意してくれた。小判や丁銀では使いにくかろうと銭や豆板銀に分けるという配慮までしてくれた。長岡の顔も知らぬのに、又四郎が尊敬する男ならば、一廉の人物であろうと言って。長岡のやむにやまれぬ所業を知りながらも、家族には罪はないとも言っていた。
あのような懐の深い人物であれば、さぞや名君になったであろうと又四郎は思う。縁組の件がなくとも、彼の死の衝撃は大きかった。
長岡をこの屋敷に匿うのも、斉倫ならばそうしたかもしれないと思うからである。危険なことだが、屋敷の外に出ない限りは安全だった。
問題は鳥見役だった。鳥見役は将軍の鷹狩りのために鳥の生息状況を監視する仕事ということになっているが、その職務のために大名屋敷や旗本屋敷に入ることがあった。御公儀の役人ということで拒むことはできない。もし、それが入って来たとしたら。しかも、御庭番らしい者に又四郎は昨夜つけられている。
「ところで、昨夜のことですが、御庭番と仰せでしたが」
十郎右衛門は何か気になることがあるようだった。
「長岡、いえ仙蔵を元々追っているのは町方ではありませんか。御庭番は公方様直属、仙蔵を追うというのは少々解せないのですが。水野様も失脚し、鳥居も御預けの身、御庭番が町奉行所の領分にまでわざわざ手を広げるとは思えません」
「そういえばそうだな」
「今日、中田先生のところからここまで、さような者がつけてくる気配がなかったのです。中田先生のところにも最近は町方の者の見張りはないようです。無論、それ以外の者がうろつく気配はないとのこと。仙蔵の話では越後から信濃、越前のあたりにいるという噂を人を使って流したので、あちらに人相書きがまわっているとか。江戸にたやすく入れて驚いたと」
又四郎も中屋敷への往復は父や斉陽と違い徒歩であったが、昨夜の気配は感じなかった。
長岡の話が正しければ、現在、町奉行所の者は江戸ではなく越後、信濃、越前で彼を探索しているということになる。彼が江戸に入るなど思ってもいないということだ。
ならば、本家の中屋敷周辺にいる者は誰なのか。昨夜の視線は武芸の心得のある者のように思われた。隙を探るような、さりとて命までは狙っておらぬような。もし、御庭番なら、目的は長岡ではなく、別のことではないのか。一体、何を探っているのか。
「ともあれ、気を付けるに越したことはない」
「かしこまりました」
十郎右衛門は長屋に向かった。
長岡の件は誰にも気づかれなかった。人相書きが回っていると言っても、似顔絵ではなく顔の特徴が箇条書きで書かれているだけだから、少し違えば別人と思われてしまう。それに、屋敷にそのような者が入ってくるはずがないと皆思い込んでいるから、無口な変わった男だとしか見ていない。
斉理もまったく気づいていないようだった。斉理は斉倫が亡くなってから、本家に頻繁に出入りしており、長屋に犬の世話係が一人増えたことなど気にも留めていないようだった。
斉倫の逝去が公に発表され、通夜葬儀を終えても、斉理は本家に顔を出していた。恐らく世継ぎの件であろうなと又四郎は思った。見舞いと称して、それとなく二人の息子の存在を斉尚に意識させようとしているのかもしれない。そう思うと又四郎は、むかついてきた。本家の主の父という立場がそんなに欲しいのかと卑しささえ覚えた。
同じことを斉陽も感じていたようだった。初七日を明日に控えた日に又四郎の部屋に来た。
「又四郎殿、私に本家の世継ぎが務まると思うか。無理だろ、どう考えても。父上はわかっておらぬ。ああ、早う喪が明けぬかの。道場に行って、思い切り打ち合いたいぞ」
罰当たりなことを言う斉陽だが、嫌味がないのが彼のいいところだった。良く言えば己の欲望に正直、悪く言えば子どもっぽいのだ。
「若殿様、務まるではなく、務まるように努めることではありませんか。若殿様は剣も弓もよく修練されておいで、世継ぎの修練もこれと同じようになさればいいだけのこと」
「そういうものかの」
そう言った斉陽は犬を触らせてくれと言った。
「新しい犬の世話係が来たそうだな」
「よくご存知で」
「小姓が、愛想が悪いが、犬はよう言うことをきくと言っておった」
仙蔵のことが斉陽の耳に入っているなら、斉理の耳に届くのもじきだろうと思った。斉理に問われた際には中田先生の紹介で入れたと言うつもりであった。
とりあえずシロの小屋まで行くと、覚兵衛がいた。仙蔵は風邪気味ということであった。斉陽はそうかと言っただけで、覚兵衛に小屋から連れ出されたシロの背を撫でた。シロは文句も言わずじっとしている。
「そなたはいいのう。飯を食って散歩をして寝て。詩を作らずともよいのだから」
どうやら漢学の師に漢詩の課題を出されたらしい。
ひとしきり犬を撫でまわした斉陽は言った。
「又四郎殿、頼む。明後日の漢学の課題なのだが、明日は寺に参らねばならぬし」
「畏まりました」
「ああ、助かった」
又四郎は明日の初七日法要に招かれていない。斉陽の詩や歌の代作も小遣い稼ぎだった。
風邪気味だという仙蔵の長屋の部屋に行くと、彼は起きていた。それどころか、熱心に紙に何事かを記していた。
「これは若様、わざわざ」
居住まいを正した仙蔵、いや長岡は言った。
「風邪気味というのは仮病。今日中にこれを終わらせたく」
「次の書を用意しましょう」
「それには及ばぬ。それがし、これが終わりましたら、家族の元へ参る」
又四郎は突然のことになぜと尋ねることもできなかった。
「ご家族は町方に住まいを知られておるはず」
「中田殿のお仲間が別の住まいを用意してくださった。家族と住めるようにと」
追われる身の長岡が家族と合流するなど危険過ぎた。妻と子どもは逃亡の足手まといになるではないか。
「それがし、江戸へ戻ったのは家族に会いたいがため。故郷に戻り母に会って参ったが、ともに暮らすは妻子。それゆえ、様々に噂を流し、江戸へ戻ったのだ。仕事は中田殿が斡旋してくれると申しておるゆえ、毎月の援助の心配は御無用。これまでの妻子への温情まことにかたじけない」
危険を冒して妻子とともに暮らしたいなど、又四郎には理解しがたかった。
「長岡様、よろしいのですか」
「ここにいれば我が身は無事かもしれぬが、家族とともに暮らしたいというのは人情。若様もいつかおわかりになりましょう。恋しい方を知れば」
恋しい方。あきらめたはずの面影が甦った。
長岡はその翌日、白昼堂々屋敷を出た。母親が倒れたので田舎に帰るという仙蔵を見送るためという理由で覚兵衛もついて行った。
実際は覚兵衛が目黒から他の場所に移った長岡の妻子の待つ家まで彼を警護したのだが。
屋敷に戻った覚兵衛の報告を聞きながら、又四郎は小さな家のことを思った。
長い間離れていた夫を待つ妻。赤子の頃に別れた父親の顔など忘れてしまった子ども。そこへやつれた夫が戻って来る。恐らく妻は涙を流しているだろう。子どもは誰であろうかわからず最初は怯えているかもしれぬ。長岡はそんな二人を抱きかかえてひとまず安堵しているのだろう。
危うい中にもひととき幸せを感じる家族。今宵、灯火を中心にして一体どのような言葉を交わすのか。
果たしてそれが幸せなのかわからない。けれど、長岡が安全な屋敷よりもそちらを選んだということにはそれなりの意味があるのだろう。
ホームという言葉を思い出した。
長岡はホームを選んだのかもしれない。心の安らぎを彼は望んだのだ。
これまで長岡の身を羨ましいと思ったことなどなかった。優秀な蘭学者が罠にはまり獄に落とされ、そこから抜け出し逃亡の旅を続けるなど悲運でしかなかった。
だが、今、なぜか、又四郎は彼が羨ましかった。悲運の中にあっても彼には家庭があった。危険を冒してもともにいたい人がいる。これこそ幸いではないか。
己にはそのような存在がいない。長岡の選択はそのことを又四郎に思い知らせた。
その夜、又四郎は故郷の夢を見た。お佳穂がいる夢だった。
目覚めた時、会いたいと思った。会ってどうこうしたいというのではない。ただただ会いたかった。
数日後、又四郎は父の居室に呼ばれた。
先ほどまで来客がいたようで、茶碗を盆に載せた小姓が部屋を出るのと入れ替わりだった。
「犬の世話係は田舎に帰ったそうだが、まだ戻らぬか」
父は気付いている。又四郎はぞっとしたが、平穏を装った。
「はい。佐野に訊いたところでは、母親の病が相当重いようで」
「では、戻ってこぬかもしれぬな」
「そうなるかもしれません」
「それは結構」
そう言った後で脈絡もなく父は言った。
「本家の世継ぎが決まった。そなただ。近々、丹後守様は隠居なさる。ゆえにそなたは今年のうちに本家の当主となる」
なぜ己が。斉陽がいるではないか。
「斉陽とそなたの名が挙がったが、重臣ら全員がそなたの名を挙げたと留守居役が申していた」
意外だった。が、これは斉理が本家の留守居役に働きかけたのかもしれなかった。父ならそれくらいはやるだろう。
「もう遊んではおられぬぞ。お尋ね者を匿うなど、狂気の沙汰ぞ」
「遊んでいるわけではございません」
「そなたはまこと……」
父の表情に怒りは感じられなかった。
「私に似ておるな」
どこが似ているのだろうか。又四郎にはわからない。
父はその後何もそれについては言わなかった。ただ、連れて行く家臣や支度のことを語った。
「犬も連れて参ります」
これだけは言っておかねばならなかった。
「そうしてくれ。あの犬の鳴き声はうるさくてかなわぬ」
父と話した後、別室で本家の留守居役の桂木佐久右衛門と対面した。まだ本家に帰っていなかったとはと又四郎は驚きつつ、切れ者と言われる男と対峙した。
本家に入る心構えでも説くのであろうかと思っていると、声をひそめて問われた。
「当家に養子縁組するにあたり、淑姫様との縁組をお考えくださらぬか」
花尾家から出戻って来たばかりの姫の名を聞き、さすがに驚いた。淑姫本人が承知するはずがないことは想像できた。幼い頃の淑姫に数度会ったことがあるが、我の強い姫だった。家臣らの噂では嫁ぎ先で問題を起こしたとのことで、戻ってからは結婚はこりごりと公言しているとのことだった。
「姫様との縁組は遠慮させていただきたい」
はっきりと言った。曖昧に言うと言質をとられかねない。桂木は顔色を変えなかった。
「もし、どうしても姫と縁組せねば養子にせぬと言ったらいかがなさる」
不意にお佳穂の顔が思い浮かんだ。シロを背負って梯子を上って来た時の生き生きとした表情。お佳穂の近くにいながら何もできぬのは耐えられそうになかった。だが、淑姫はそれを許すはずがない。ならば、淑姫が縁談を断るようなことを言うしかない。それで養子縁組がなくなっても仕方ない。
「では、側室を持つことをお許し願いたい」
側室を持つのは別に珍しい話ではない。正室の許しがあれば問題は起きない。だが、婚儀の前から側室前提で縁組の話をするというのは、相手の姫にとっては不快な話である。ましてや淑姫である。彼女がそれを許すはずがなかった。
「要するに、姫様がお嫌ということか」
桂木の笑みに又四郎は驚いた。
「嫌いではない。姉上となる方として尊敬している」
「いや、正直で結構。承りました。さように御前様にはお伝えしましょう。奥方様については、改めて他の家の方をあたってみましょう。ご希望はございますか」
桂木は意外と話のわかる男らしかった。
「正室の話は、若殿様、いえ光信院様の喪が明けるまでは」
斉倫の院号は光信院。死後はこの名で呼ばれることになる。
又四郎の常識的な答えに桂木はうなずいた。
「かしこまりました」
無論、その間にこの男のことだから他家から年頃の正室候補を調べあげるに違いなかった。
自室に戻ると、田原十郎右衛門、佐野覚兵衛、益永寅左衛門が待ち構えていた。
「おめでとうございます」
三人の声で、やっと又四郎は現実に戻った気がした。
父や桂木との話は半分夢の中のように思われた。だが、三人の嬉し気な顔を見れば、やはり現実だったのだと思う。
本家の養子になることを簡潔に伝えた後、最後に言った。
「光信院様の喪中ゆえ、騒いではならぬ」
それは三人もわかっていた。三人もまた又四郎の供でたびたび中屋敷に行き、斉倫と面識があった。
三人を下がらせた後、又四郎は一人部屋で腕を組んだ。
本家の主になる。その使命の重さはわかっていたが、お佳穂のそばにいられることばかりが頭を占めていた。
斉倫の死であきらめていたお佳穂との関わりだった。今また養子になることで近づける。黄泉の斉倫が何か細工をしているのではないか。二人の縁が切れぬように。
ならば、この縁を大事にしたかった。
宵闇にともされたただ一つの灯火が胸に浮かぶ。
長岡もそれを求めていたのだ。ならば、己もそれを求めてもいいのではないのか。
ホームの灯火の下でお佳穂と二人生きていくために、己は何をなすべきか。
部屋の前まで行くと、田原十郎右衛門が廊下にかしこまっていた。
「お帰りなさいませ」
いつもと同じ挨拶が、今日ほど嬉しかったことはなかった。
十郎右衛門が襖を開けると、部屋の真ん中に壮年の男が胡坐をかいていた。髪は総髪で痩せており、少しくぼんだ目だけがぎろりと光っているように見えた。
又四郎はその下座に座った。男は驚き、下座に下がろうとしたが、又四郎は制した。
「そのままで」
男は胡坐から正座に足を組み替え、頭を下げた。
「ようこそおいでくださった」
又四郎の言葉に男はははっと声を出した。
「お手をお上げください。長旅の疲れもおありのはず。しばらくはお休みを」
「Hartelijk bedankt voor uw hulp.」(あなたの助けに心から感謝しています)
不意打ちのオランダ語だった。慌てて対応する語を思い出した。
「Graag gedaan.」(どういたしまして)
「さすがですな」
男はニヤリと笑った。
「長岡殿、失礼ではござらぬか。若様にオランダ語で話しかけるとは」
十郎右衛門は思わず怒鳴っていた。まるで又四郎の語学力を試しているかのように思われたのだ。
「十郎右衛門、静かに」
まずいと気づき、十郎右衛門は申し訳ありませんと慌てた。
「この屋敷では、その名ではないほうがよい。仙蔵という名で呼びますが、よろしいですか」
「犬の世話係の仙蔵ですな。あれはプドオという種類か」
「左様」
「賢き犬のようですな」
彼はすでにシロに会ったらしい。
「覚兵衛が驚くほど、懐いておりました」
十郎右衛門が言った。
「そうか。不本意かもしれませぬが、しばしのこと。住まいも長屋しかありませぬが、ご容赦ください」
「なんの。今までの暮らしに比べれば」
男のこれまでの暮らしを又四郎は聞いている。どん底のような暮らしに比べればということであろうが、ここでも意のままにならぬことは多いはずである。
男は光る眼で又四郎を見つめた。
「この書をお貸しください」
それは昨日斉倫から手に入れたオランダの兵法書だった。男は先ほどまでこの部屋でそれを読んでいたらしい。
「紙もいただけませんか。翻訳をしたいと存じます」
「よろしいのですか」
又四郎にとってこれほどありがたいことはなかった。昨夜読んだだけでは意味の通らぬ部分がかなりあったのである。
「はい。それがしはかような書物に飢えておりました。それがここで読めるとは」
他にもオランダ語の書物はあった。又四郎は自分でも訳しているが、難しい用語はどうにもわからなかった。男の訳を学ぶことで新たな知見が得られるのはありがたかった。
「では早速明日にでも用意を」
「かたじけない」
「こちらこそ、先生の翻訳を拝読できるとは。まことに得難いこと」
又四郎は感激を隠さなかった。男はそれにひどく驚いたようだった。
「さように喜んでいただけるとは」
「当たり前です。先生の翻訳を最初に読む栄誉を得ることなど、誰にでもあることではありません」
「あなたはまことに変わった方」
十郎右衛門のもの言いたげな様子を又四郎は目で制した。
「ありがとうございます。それはそれがしにとっては褒め言葉」
「なんと」
男はカカカと乾いた低い声で笑った。
「中田殿に変わった若様と聞いておりましたが、やはり」
「長岡様、いい加減になさいませ」
十郎右衛門はさすがにこれ以上は見逃せぬと思ったようだった。
「十郎右衛門、仙蔵だ」
「はっ」
「どうでもよいではないか。若様、飯は?」
どこ吹く風とばかりに、男は又四郎に尋ねた。
「長屋の隣の部屋の佐野覚兵衛に用意させます」
「それはありがたい」
そこへ覚兵衛が来たので、長屋への案内を頼んだ。
覚兵衛と男はすっかり親しくなったようで、二人はシロの小屋の近くにある長屋へと向かった。
「申し訳ございません。長崎においでの頃はあのようではなかったのですが」
十郎右衛門の言葉は当然であろうと思う。あの男が嘗めて来た辛酸を思えば、学問への情熱が残っていること自体奇跡といえた。いや、その辛酸ゆえの情熱かもしれない。
「それだけの苦労をなさったのだ」
そう言った後、中屋敷のことを伝えた。大勢の見舞客があり長居はできなかったが、お顔を拝見できたと言うと、十郎右衛門はああっと小さく息をついた。
「穏やかなお顔であった」
「まことに、惜しい方を」
十郎右衛門はうつむいた。
誰からも愛され、惜しまれる男だったのだ、斉倫は。
又四郎が長岡の家族が夫の長い留守のため、蓄えも尽き暮らしに困っていると何気なく言ったのを聞いて、それではわずかだが援助しようと斉倫は言い毎月銭を用意してくれた。小判や丁銀では使いにくかろうと銭や豆板銀に分けるという配慮までしてくれた。長岡の顔も知らぬのに、又四郎が尊敬する男ならば、一廉の人物であろうと言って。長岡のやむにやまれぬ所業を知りながらも、家族には罪はないとも言っていた。
あのような懐の深い人物であれば、さぞや名君になったであろうと又四郎は思う。縁組の件がなくとも、彼の死の衝撃は大きかった。
長岡をこの屋敷に匿うのも、斉倫ならばそうしたかもしれないと思うからである。危険なことだが、屋敷の外に出ない限りは安全だった。
問題は鳥見役だった。鳥見役は将軍の鷹狩りのために鳥の生息状況を監視する仕事ということになっているが、その職務のために大名屋敷や旗本屋敷に入ることがあった。御公儀の役人ということで拒むことはできない。もし、それが入って来たとしたら。しかも、御庭番らしい者に又四郎は昨夜つけられている。
「ところで、昨夜のことですが、御庭番と仰せでしたが」
十郎右衛門は何か気になることがあるようだった。
「長岡、いえ仙蔵を元々追っているのは町方ではありませんか。御庭番は公方様直属、仙蔵を追うというのは少々解せないのですが。水野様も失脚し、鳥居も御預けの身、御庭番が町奉行所の領分にまでわざわざ手を広げるとは思えません」
「そういえばそうだな」
「今日、中田先生のところからここまで、さような者がつけてくる気配がなかったのです。中田先生のところにも最近は町方の者の見張りはないようです。無論、それ以外の者がうろつく気配はないとのこと。仙蔵の話では越後から信濃、越前のあたりにいるという噂を人を使って流したので、あちらに人相書きがまわっているとか。江戸にたやすく入れて驚いたと」
又四郎も中屋敷への往復は父や斉陽と違い徒歩であったが、昨夜の気配は感じなかった。
長岡の話が正しければ、現在、町奉行所の者は江戸ではなく越後、信濃、越前で彼を探索しているということになる。彼が江戸に入るなど思ってもいないということだ。
ならば、本家の中屋敷周辺にいる者は誰なのか。昨夜の視線は武芸の心得のある者のように思われた。隙を探るような、さりとて命までは狙っておらぬような。もし、御庭番なら、目的は長岡ではなく、別のことではないのか。一体、何を探っているのか。
「ともあれ、気を付けるに越したことはない」
「かしこまりました」
十郎右衛門は長屋に向かった。
長岡の件は誰にも気づかれなかった。人相書きが回っていると言っても、似顔絵ではなく顔の特徴が箇条書きで書かれているだけだから、少し違えば別人と思われてしまう。それに、屋敷にそのような者が入ってくるはずがないと皆思い込んでいるから、無口な変わった男だとしか見ていない。
斉理もまったく気づいていないようだった。斉理は斉倫が亡くなってから、本家に頻繁に出入りしており、長屋に犬の世話係が一人増えたことなど気にも留めていないようだった。
斉倫の逝去が公に発表され、通夜葬儀を終えても、斉理は本家に顔を出していた。恐らく世継ぎの件であろうなと又四郎は思った。見舞いと称して、それとなく二人の息子の存在を斉尚に意識させようとしているのかもしれない。そう思うと又四郎は、むかついてきた。本家の主の父という立場がそんなに欲しいのかと卑しささえ覚えた。
同じことを斉陽も感じていたようだった。初七日を明日に控えた日に又四郎の部屋に来た。
「又四郎殿、私に本家の世継ぎが務まると思うか。無理だろ、どう考えても。父上はわかっておらぬ。ああ、早う喪が明けぬかの。道場に行って、思い切り打ち合いたいぞ」
罰当たりなことを言う斉陽だが、嫌味がないのが彼のいいところだった。良く言えば己の欲望に正直、悪く言えば子どもっぽいのだ。
「若殿様、務まるではなく、務まるように努めることではありませんか。若殿様は剣も弓もよく修練されておいで、世継ぎの修練もこれと同じようになさればいいだけのこと」
「そういうものかの」
そう言った斉陽は犬を触らせてくれと言った。
「新しい犬の世話係が来たそうだな」
「よくご存知で」
「小姓が、愛想が悪いが、犬はよう言うことをきくと言っておった」
仙蔵のことが斉陽の耳に入っているなら、斉理の耳に届くのもじきだろうと思った。斉理に問われた際には中田先生の紹介で入れたと言うつもりであった。
とりあえずシロの小屋まで行くと、覚兵衛がいた。仙蔵は風邪気味ということであった。斉陽はそうかと言っただけで、覚兵衛に小屋から連れ出されたシロの背を撫でた。シロは文句も言わずじっとしている。
「そなたはいいのう。飯を食って散歩をして寝て。詩を作らずともよいのだから」
どうやら漢学の師に漢詩の課題を出されたらしい。
ひとしきり犬を撫でまわした斉陽は言った。
「又四郎殿、頼む。明後日の漢学の課題なのだが、明日は寺に参らねばならぬし」
「畏まりました」
「ああ、助かった」
又四郎は明日の初七日法要に招かれていない。斉陽の詩や歌の代作も小遣い稼ぎだった。
風邪気味だという仙蔵の長屋の部屋に行くと、彼は起きていた。それどころか、熱心に紙に何事かを記していた。
「これは若様、わざわざ」
居住まいを正した仙蔵、いや長岡は言った。
「風邪気味というのは仮病。今日中にこれを終わらせたく」
「次の書を用意しましょう」
「それには及ばぬ。それがし、これが終わりましたら、家族の元へ参る」
又四郎は突然のことになぜと尋ねることもできなかった。
「ご家族は町方に住まいを知られておるはず」
「中田殿のお仲間が別の住まいを用意してくださった。家族と住めるようにと」
追われる身の長岡が家族と合流するなど危険過ぎた。妻と子どもは逃亡の足手まといになるではないか。
「それがし、江戸へ戻ったのは家族に会いたいがため。故郷に戻り母に会って参ったが、ともに暮らすは妻子。それゆえ、様々に噂を流し、江戸へ戻ったのだ。仕事は中田殿が斡旋してくれると申しておるゆえ、毎月の援助の心配は御無用。これまでの妻子への温情まことにかたじけない」
危険を冒して妻子とともに暮らしたいなど、又四郎には理解しがたかった。
「長岡様、よろしいのですか」
「ここにいれば我が身は無事かもしれぬが、家族とともに暮らしたいというのは人情。若様もいつかおわかりになりましょう。恋しい方を知れば」
恋しい方。あきらめたはずの面影が甦った。
長岡はその翌日、白昼堂々屋敷を出た。母親が倒れたので田舎に帰るという仙蔵を見送るためという理由で覚兵衛もついて行った。
実際は覚兵衛が目黒から他の場所に移った長岡の妻子の待つ家まで彼を警護したのだが。
屋敷に戻った覚兵衛の報告を聞きながら、又四郎は小さな家のことを思った。
長い間離れていた夫を待つ妻。赤子の頃に別れた父親の顔など忘れてしまった子ども。そこへやつれた夫が戻って来る。恐らく妻は涙を流しているだろう。子どもは誰であろうかわからず最初は怯えているかもしれぬ。長岡はそんな二人を抱きかかえてひとまず安堵しているのだろう。
危うい中にもひととき幸せを感じる家族。今宵、灯火を中心にして一体どのような言葉を交わすのか。
果たしてそれが幸せなのかわからない。けれど、長岡が安全な屋敷よりもそちらを選んだということにはそれなりの意味があるのだろう。
ホームという言葉を思い出した。
長岡はホームを選んだのかもしれない。心の安らぎを彼は望んだのだ。
これまで長岡の身を羨ましいと思ったことなどなかった。優秀な蘭学者が罠にはまり獄に落とされ、そこから抜け出し逃亡の旅を続けるなど悲運でしかなかった。
だが、今、なぜか、又四郎は彼が羨ましかった。悲運の中にあっても彼には家庭があった。危険を冒してもともにいたい人がいる。これこそ幸いではないか。
己にはそのような存在がいない。長岡の選択はそのことを又四郎に思い知らせた。
その夜、又四郎は故郷の夢を見た。お佳穂がいる夢だった。
目覚めた時、会いたいと思った。会ってどうこうしたいというのではない。ただただ会いたかった。
数日後、又四郎は父の居室に呼ばれた。
先ほどまで来客がいたようで、茶碗を盆に載せた小姓が部屋を出るのと入れ替わりだった。
「犬の世話係は田舎に帰ったそうだが、まだ戻らぬか」
父は気付いている。又四郎はぞっとしたが、平穏を装った。
「はい。佐野に訊いたところでは、母親の病が相当重いようで」
「では、戻ってこぬかもしれぬな」
「そうなるかもしれません」
「それは結構」
そう言った後で脈絡もなく父は言った。
「本家の世継ぎが決まった。そなただ。近々、丹後守様は隠居なさる。ゆえにそなたは今年のうちに本家の当主となる」
なぜ己が。斉陽がいるではないか。
「斉陽とそなたの名が挙がったが、重臣ら全員がそなたの名を挙げたと留守居役が申していた」
意外だった。が、これは斉理が本家の留守居役に働きかけたのかもしれなかった。父ならそれくらいはやるだろう。
「もう遊んではおられぬぞ。お尋ね者を匿うなど、狂気の沙汰ぞ」
「遊んでいるわけではございません」
「そなたはまこと……」
父の表情に怒りは感じられなかった。
「私に似ておるな」
どこが似ているのだろうか。又四郎にはわからない。
父はその後何もそれについては言わなかった。ただ、連れて行く家臣や支度のことを語った。
「犬も連れて参ります」
これだけは言っておかねばならなかった。
「そうしてくれ。あの犬の鳴き声はうるさくてかなわぬ」
父と話した後、別室で本家の留守居役の桂木佐久右衛門と対面した。まだ本家に帰っていなかったとはと又四郎は驚きつつ、切れ者と言われる男と対峙した。
本家に入る心構えでも説くのであろうかと思っていると、声をひそめて問われた。
「当家に養子縁組するにあたり、淑姫様との縁組をお考えくださらぬか」
花尾家から出戻って来たばかりの姫の名を聞き、さすがに驚いた。淑姫本人が承知するはずがないことは想像できた。幼い頃の淑姫に数度会ったことがあるが、我の強い姫だった。家臣らの噂では嫁ぎ先で問題を起こしたとのことで、戻ってからは結婚はこりごりと公言しているとのことだった。
「姫様との縁組は遠慮させていただきたい」
はっきりと言った。曖昧に言うと言質をとられかねない。桂木は顔色を変えなかった。
「もし、どうしても姫と縁組せねば養子にせぬと言ったらいかがなさる」
不意にお佳穂の顔が思い浮かんだ。シロを背負って梯子を上って来た時の生き生きとした表情。お佳穂の近くにいながら何もできぬのは耐えられそうになかった。だが、淑姫はそれを許すはずがない。ならば、淑姫が縁談を断るようなことを言うしかない。それで養子縁組がなくなっても仕方ない。
「では、側室を持つことをお許し願いたい」
側室を持つのは別に珍しい話ではない。正室の許しがあれば問題は起きない。だが、婚儀の前から側室前提で縁組の話をするというのは、相手の姫にとっては不快な話である。ましてや淑姫である。彼女がそれを許すはずがなかった。
「要するに、姫様がお嫌ということか」
桂木の笑みに又四郎は驚いた。
「嫌いではない。姉上となる方として尊敬している」
「いや、正直で結構。承りました。さように御前様にはお伝えしましょう。奥方様については、改めて他の家の方をあたってみましょう。ご希望はございますか」
桂木は意外と話のわかる男らしかった。
「正室の話は、若殿様、いえ光信院様の喪が明けるまでは」
斉倫の院号は光信院。死後はこの名で呼ばれることになる。
又四郎の常識的な答えに桂木はうなずいた。
「かしこまりました」
無論、その間にこの男のことだから他家から年頃の正室候補を調べあげるに違いなかった。
自室に戻ると、田原十郎右衛門、佐野覚兵衛、益永寅左衛門が待ち構えていた。
「おめでとうございます」
三人の声で、やっと又四郎は現実に戻った気がした。
父や桂木との話は半分夢の中のように思われた。だが、三人の嬉し気な顔を見れば、やはり現実だったのだと思う。
本家の養子になることを簡潔に伝えた後、最後に言った。
「光信院様の喪中ゆえ、騒いではならぬ」
それは三人もわかっていた。三人もまた又四郎の供でたびたび中屋敷に行き、斉倫と面識があった。
三人を下がらせた後、又四郎は一人部屋で腕を組んだ。
本家の主になる。その使命の重さはわかっていたが、お佳穂のそばにいられることばかりが頭を占めていた。
斉倫の死であきらめていたお佳穂との関わりだった。今また養子になることで近づける。黄泉の斉倫が何か細工をしているのではないか。二人の縁が切れぬように。
ならば、この縁を大事にしたかった。
宵闇にともされたただ一つの灯火が胸に浮かぶ。
長岡もそれを求めていたのだ。ならば、己もそれを求めてもいいのではないのか。
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