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部屋住みの又四郎

参 養子決定

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 若殿様の弔いの後数日は平穏のうちに過ぎた。
 初七日の供養を終えた後、御前様が倒れた。無理もない。若い息子に死なれた父親の悲しみは深く、重いものだった。
 奥方様は中奥の御前様を見舞い、できるだけそばについていた。
 医者が言うには、疲れによるもので命に係わるものではない、よく休めば体調はよくなるとのことだった。
 とはいえ、このままではいけない。表御殿の重臣達は急きょ集まり今後のことを話し合い、できるだけ早く御養子を決めることを第一に動くこととなった。すでに留守居役の桂木佐久右衛門さくえもんは養子の候補を調べて表にまとめていた。
 若い桂木の早い仕事に白髪交じりの髪を頂く江戸家老の高橋弥右衛門やえもんは感心すると同時に、表を一見し、ほおと声を上げた。いずれも優秀と評判の大名家の子息ばかりが並んでいた。さすがはと見る中に、一人思いもかけぬ人物を見つけた。

「この方もか」
「はい。支藩が作られたのは、こういう時のためではありませぬか」

 他の重臣もこれはまずいのではないかと桂木を見た。桂木はその視線を意に介さぬかのように滔々と述べた。

「畏れながら、分家に一万石を与え支藩となされた寛善かんぜん院様は、本家である望月藩に世継ぎのない場合の備えとして支藩月影藩を作られたと聞き及んでおります。かような際に分家から養子を入れぬというのは、寛善院様の御遺志に反することかと存じますが」

 まだ三十半ばにもならぬ桂木だが、この言葉には説得力があった。なにしろ寛善院様といえば、望月藩月野家の中興の祖と言われ、月影藩領内の新田開発以外にも、望月藩の特産品である漆や樟脳の生産を始めさせている。また、藩校を設置し人材育成に努めた。この人なくしては今の望月藩はなかったとまで言われる人物なのである。寛善院様の言葉は今も家中では絶対と言ってよかった。

「養子に行かれた若様のところに男子が二人おるではないか。弟のほうを養子にできぬか」

 反論する者に対し、桂木は残念ですがと前置きした。

「そちらの家の留守居役の話では養子先がすでに内々に決まっているとのことです」
「それでは無理か」

 別の者が異を唱えた。

「嫡男を本家、次男を分家の跡継ぎにすればよいではないか。さる家中でも本家に世継ぎ無き時に、分家の主を本家の世継ぎにし、その弟を分家の主にしたという話がある。長幼の序から言ってもこれはよろしくない」
「長幼の序から言えば、真実年長なのは御次男様ではありませぬか」
「だが、御公儀には長男は若殿様と届け出ておる」
「お言葉ですが、当家の主は代々学問のみ、あるいは武芸のみに偏った方はおいでではありません。寛善院様の生前の言行を集めた『寛善院様伝書つたえがき』によれば、『家の主たる者、常に文武を磨き、広く人と交わり、誠なる者であらねばならぬ』とあります」

 皆、何も言えなくなった。桂木が候補に挙げた人物のほうが寛善院の言葉にふさわしいことを彼らも知っていた。
 さらに桂木は追い打ちをかけた。

「実は、御老中から内々に、田安家の方を養子にせぬかという話がきております」
「なんと」

 皆顔色を変えた。
 まずい。
 田安家は、八代将軍吉宗の次男宗武を祖とする家である。現在の当主は一橋家からの養子だが、一橋家もまた八代将軍吉宗の四男宗尹を祖としている。従って大変な名門であり、一橋家とともに家格は御三家に次いでいる。
 名誉な話と喜ぶ家もあるが、望月藩としては財政状況が厳しいので避けたいところである。持参金が入ってくるといっても、出費はそれ以上に多いのだ。それに、いくら藩のふところ事情が厳しくとも、将軍の血を引く御方に絹以外の衣服を着せたり、麦の混ざった飯を食べさせたりなど出来ぬ話だった。現在のように御前様が率先して質素倹約をうたっていればなおさらである。
 早く決めないと大変なことになる。一同は顔をこわばらせた。

「だが、仮に分家から養子を迎えるとして、分家に持参金が用意できるか」

 上屋敷の勘定を預かる沢村左門は分家の財政事情を察していた。
 だが、桂木は慌てなかった。

「それならばよい考えがあります」

 一同は桂木の言葉に耳を傾けた。





 それは御前様の容体が落ち着き、奥方様が奥に戻った日のことだった。

「姫様、なりません」

 奥方様が足がだるいというので、ふくらはぎを揉んでいた佳穂はその声に顔を上げた。奥方様も顔をしかめ、身体を起こした。
 足音が近づいたかと思うと、明かり障子が開けられ、淑姫が入ってきた。追いかけてきたお園もすぐに入って来た。
 淑姫は座りもせず立ったままであった。

「母上、まことですか」
「何を慌てているのですか」

 佳穂は奥方様の肩に打掛を掛けた。

「養子とわらわを再婚させるのですか」

 怒りの形相に佳穂もさすがに驚いた。

「姫様、まずはお座りください」
「座ってなどいられぬ」

 淑姫はずんずんと奥方様に近づき、やっと座った。奥方様は居住まいを正した。

「その話はまだ聞いておりません。なれど、若殿様亡き後、早く世継ぎを決めねばならぬことは当然のこと。そなたも婿をとるやもしれぬ、覚悟なされ」
「お言葉ですが、わらわは、もう結婚はこりごりです」

 淑姫の顔は真剣だった。どことなく御前様に似ていた。

「姫、我儘を言うてはなりませぬ。そなたは我儘のために、離縁されたのですよ。同じ過ちをしては」
「わらわは我儘ですので、養子と結婚してもまた離縁されましょう。それくらいなら、結婚などしません。嫁入り支度、いえ、婿入りの無駄です」
「わかっているのですか。もし、養子の方が奥方を迎えたら、そなたは小姑。中屋敷においでのうちはいいけれど、跡を継がれ上屋敷に奥方が入ったら、あなたはどこへ行くのですか」
「中屋敷に参ります。小姑結構。結婚などいたしません」

 奥方様はああっと声をあげた。
 佳穂はこれ以上話を続けていたら、奥方様が参ってしまうと思った。

「姫様、奥方様は疲れておいでですので、今日のところはお引き取りくださいませ」

 淑姫はうなずいた。

「わかった。お佳穂、鳴滝にも言うておくれ。養子とは結婚せぬと。養子は自分の好きな相手と結婚すればよいのじゃ。わらわのように、好きでもない者と結婚するなど、愚の骨頂」

 淑姫は言いたいことだけ言って部屋を出た。お園は申し訳ありませんと言って、淑姫を追った。

「あれは誰に似たのか」

 奥方様はつぶやいた。淑姫の母は御前様の国での側室だった。すでに亡くなっているが、大人しい女性だったと佳穂は聞いている。

「奥方様、御前様もお元気になったのですから、養子の件も今すぐというわけでもないでしょう。姫様の気持ちも変わるかもしれません」

 気休めだと思ったが佳穂は言った。淑姫の考えが変わるとは思えなかった。

「それならいいのだけれど」

 奥方様はそう言うと、少し休むと言って寝所に入った。すぐに小姓らが支度をする。佳穂はそのまま部屋に控えた。
 若殿様の死は、今までの穏やかな御前様と奥方様の日常を壊してしまった。御前様は一時に比べ少しお元気になられたが、奥方様の心労はいまだに絶えない。淑姫の今後のこと、養子のこと、あれこれ考えておいでになるさまをそばで見ていると、いたわしかった。
 中屋敷のお志麻の方の件も奥方様を悩ませていた。
 鳴滝や奥方様は、お志麻が若いので、しかるべき者に嫁がせることを考えていた。母親と義理の父親もそれは有難いことと承諾した。だが、お志麻の方はこのまま屋敷で仕えたいと言った。落飾して寺に入ると言ってくれたほうがまだよかった。
 なぜなら、中屋敷には新しい御世継となる養子の方が入ることになるからである。万が一、間違いが起きては困る。もし奥方のある方を養子にした場合でも、そのような間違いは起きうる。
 そこで、上屋敷の奥で中臈として勤めてはと鳴滝が提案した。上屋敷の御前様はもう五十で、新たな側室を持つつもりもない。それなら問題はなかろうと考えたのである。ところが、奥方様がそれに異を唱えた。御前様もまだ男である。万が一のことが起きた場合、息子とも父ともまみえるという人倫にもとることにもなりかねないと危惧したのである。鳴滝もそれを聞けば、簡単に上屋敷にとは言えない。
 お志麻はいまだに中屋敷にとどまっている。母親が時折訪れて説得しているが、若殿様への義理があると言って譲らないらしい。
 佳穂から見れば、お志麻の気持ちもわからないでもない。若殿様が死んだからといって、仕えた期間が短く子がないから知らぬ人のところに嫁に行けというのは理不尽なことではなかろうか。それよりは勤めていた場所で同じように働きたいと思うのは当然のように思う。





 一刻ほど後、奥方様は起きてきた。鳴滝を呼ぶように言われ、佳穂はすぐに年寄の控えの間に行った。鳴滝の部屋子は表御殿においでですと言う。戻って来たら奥方様のところへと言づけて、奥方様の部屋に戻った。

「表御殿に。そうか」

 奥方様はそう言うと、何事か考えているかのようであった。
 ややあって、鳴滝が入って来た。小姓達を人払いし、佳穂を同席させ、鳴滝は御前様よりの言伝を伝えた。

「若殿様ご逝去を受けて、養子を迎えることが決まりました。分家月野家の次男又四郎様です」

 あの髭もじゃの。あの白い犬を連れて来るのであろうかと佳穂は漠然と思った。

「なんと。兄上はお許しになったのか」
「はい。留守居役からじかに聞きました。斉陽殿はそのまま分家を継がれるとのこと」

 又四郎を分家の主にと考えている家臣がいるという叔母の話を佳穂は思い出した。彼らはこの決定をどう思ったのであろうか。分家は一万石、本家は十万石。石高といい、家格といい、又四郎のほうが「次男」でありながら長男の斉陽よりも格上になるのだ。恐らく彼らは喜ぶだろう。だが、逆の立場、斉陽の周囲から見れば、不満が出るのではないか。
 これは後々にまで尾を引く問題になるのではないか。
 奥方様の顔も喜んでいるようには見えなかった。

「なぜに。厄介なことになるやもと御前様にもお話ししたのに」
「それが、御老中から田安家の方を養子にと内々の打診があり、急ぎ世継ぎを決めねばならなくなったとかで。一番最初に分家に話をしたところ、下野守様がすぐに承諾なされた由」
「兄上が」

 奥方様は驚きのせいか、顔を真っ赤にしていた。

「奥方様、のぼせではありませんか」

 佳穂は奥方様が時々のぼせることがあるので、声をかけた。

「大事ない。して、淑のことは」

 奥方は身を乗り出していた。

「姫様との縁組はご遠慮したいと。もしどうしてもしなければならぬのなら、側室を持つことをお許し願いたいと」
「なんと」

 奥方だけでなく佳穂も驚いた。そんな話は聞いたことがなかった。何より、側室を持つ許しなど淑姫が承諾するわけがなかった。

「それは兄上が仰せか」
「いえ、又四郎様ご本人だそうです」

 奥方様の顔が赤い。佳穂はいよいよいけないと思った。

「奥方様、少しお休みになられては。のぼせの薬を用意させます」
「すまぬ。そうしておくれ」

 小姓を呼んで、表御殿に控えている医師に連絡させた。その間に奥方様は床に入った。
 残された佳穂は鳴滝に、淑姫が言っていたことを話した。鳴滝はうんうんとうなずき言った。

「ならば、問題はないのう。姫様も又四郎様との再婚を望んでおいでではないのだから。ただ、姫様にはどちらにしろ中屋敷に行ってもらわねばなるまいな」

 中屋敷は世継ぎや隠居が住む場所である。姫は殿の娘であるから中屋敷に行く必要はないのだが。

「中屋敷にでございますか」
「奥方様の御体調ゆえ話せなんだが」

 鳴滝は声を低めた。

「御前様は、養子の手続きが終わったら隠居されるそうじゃ」
「まことにございますか」
「御心が弱っておいでのようで。来年の国許への旅に耐えきれるかご心配のようじゃ」

 大名の家督相続は藩主の死亡、あるいは隠居による。死亡した場合、喪が明けるまで次の藩主は城に行って将軍に挨拶することもできない。喪が明けて将軍に家督相続の挨拶をすることで正式に相続が認められる。前藩主の死と次の藩主が認められるまでの間、権力に空白が生まれる。
 隠居は手続きさえすめば藩政に空白を作ることなく次の藩主に権力を移譲できる。
 つまり御前様は速やかに、又四郎に藩主の座を譲りたいということなのだろう。若殿様の死の衝撃が御前様の気力を奪ってしまったらしい。
 御前様が隠居すれば必然的に奥方様も淑姫も中屋敷に移るということになる。佳穂もまた奥方様に従い中屋敷に移るのだ。もうあばたのことを強く意識させた又四郎に会うことはなかろう。あばたのことで心乱れることがなくなるのだと思うと、少しだけほっとした。
 上屋敷には新たに御前様となった又四郎が入る。側室を持つ許しを得たいということは、今現在分家にそのような立場の女性がいるのかもしれない。その女性を伴い上屋敷に入るということだろう。
 あんな髭もじゃでも親しい女性がいるというのが不思議だが、人は見かけではない。留守居役の桂木が養子に選んだということはやはり文武に優れておいでなのかもしれなかった。魅力を感じる女子おなごもいるのであろう。
 そうなると上屋敷もずいぶん雰囲気が変わるかもしれない。白い犬ばかりでなく、奥には部屋住みの身の又四郎と親しい女性が入るのかと思うと、なぜか、胸がきゅっとしめつけられるように感じられた。
 自分も奥方様のようにのぼせでもあるのではないか。不安を覚えた佳穂だった。




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