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部屋住みの又四郎

弐 われてもすゑに

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 眠れぬまま時は七つ(午前四時頃)となった。佳穂は起き上がった。いつもより早いが、ここで眠ってしまえば朝寝をする恐れがあった。
 誰かが廊下を小走りにゆく音が聞こえた。
 なんだろうと思い、寝間着のまま襖を少し開けて廊下の音に耳を澄ませた。雨戸が閉められているので真っ暗な中、人の声が遠くで聞こえた。こんな時間に一体何があったのか。  
 襖を閉めて、とりあえずお喜多が起こしに来るのを待つことにした。自分が起きたことに気付けば、お喜多は眠くても起きなければならなくなるので、音を立てぬようにじっとしていた。
 床の上に起き上がったまま、日の出を待とうと思っていると、また足音が聞こえた。こちらに近づいてくる。
 戸を遠慮がちに叩く音がした。

「お佳穂様、奥方様のところへ今すぐに」

 奥方様の小姓のおゆみだった。不寝番だったはずである。

「すぐに参ります」

 急いでいるようなので、寝間着に打掛を羽織り部屋を出て足音を忍ばせて奥方様の居室に向かった。
 灯りが漏れているのを頼りに部屋の前まで来た。

「佳穂参りました」
「入れ」

 鳴滝の声だった。いつになく硬い声だった。
 緊張をはらんだ部屋の襖を開けると、すでに奥方様は上座に座っていた。
 入ってすぐに戸を閉めて膝行した。恐らく緊急の話であり、秘密のことかと思われた。大きな声で話すようなことではないと判断し、いつもより奥方様の近くに寄った。
 有明行灯あんどんのほの暗い光が照らす奥方様の顔は、こわばっていた。自分と同じように寝間着に打掛を羽織っており、髪は少し乱れていた。床から起き上がってそのまま、上座に座ったのだろう。
 奥方様の近くに控える鳴滝は化粧もせぬまま起きてきたらしく、いつもは化粧に隠れて見えない小さな皺が目尻に見えた。よほど慌てていたのだろう。ふと、佳穂は今いる奥女中で鳴滝の素顔を見たのは自分が初めてかもしれぬと思った。

「母上、入ります」

 淑姫の珍しく小さな声が聞こえて、戸が開いた。お園が背後に控えており、すぐに戸が閉じられた。佳穂は淑姫に席を譲り、お園の隣に座った。
 鳴滝が大きく息を吸う音が聞こえた。

「先ほど中屋敷より急ぎの知らせが入った」
 
 何の話であろうか。佳穂もお園も淑姫も聞き洩らすまいと耳を傾けた。

「若殿様が急の御不例で、八つ(午前二時頃)過ぎに、御隠れあそばされた」

 若殿様が死んだ。

「嘘でしょう」

 淑姫がつぶやいた。

「嘘ではない」

 奥方様は唇を震わせてそう言うと、顔を伏せた。
 佳穂もお園も信じられず、何の言葉も発せられなかった。若殿斉倫は二十八である。持病もなく、堂々とした体格の持ち主である。来月には某家の姫と婚約が調うはずであった。
 一体、なぜ。
 その場にいる者は口にこそださなかったが、皆そう思っていた。





 夜が明けた。若殿様が亡くなったというのに、皆黙々と通常通りの仕事をしていた。
 赤坂の中屋敷の者の話によれば、いつも通り四つ(午後十時)頃に一人で就寝した若殿は、夜半過ぎに小用のために起きた。小姓が付き添い厠に行った後、部屋に戻った際には特に異常はなかった。だが、それからしばらくして、寝ずの番をしていた小姓が寝息が止まったことに気付いた。若殿様はいびきをかくことが多く、妙に静かなのが気になり近寄ったところ、寝息が聞こえなかったのである。不審に思い仮眠をとっていたもう一人の小姓を起こして確認したが、やはり息がない。慌てて中屋敷の用人梶田仁右衛門を呼んだ。仁右衛門はすぐに医師を呼びにやった。中屋敷には医師が常駐していないので、出入りの医師の一人で溜池に住む岸田東斎を呼んだ。
 東斎が若殿様を診た時にはもう完全に息が絶えていたということだった。
 東斎の見立てによると死因は心の臓の病ということだった。眠っている時に、心の臓が急に働きをやめた故に息が止まるというのは、ごく稀に起きることで、若者でも決してないわけではないと医者は言った。また別の医師も同じ見立てだった。だが、原因がわかったところで、悲しみが癒えるはずもなかった。
 なにしろ、堂々とした体格は貫禄があり、とても突然に命の灯火が消えてしまうようには見えない方であった。知らせを聞いた上屋敷の者は皆狐につままれたような顔になった。
 さて、急死となると毒殺ではないかとあらぬ噂が立たぬとも限らない。念のために世間には病と公表し、数日後弔いの支度が整ったところで死去を公表することとなった。
 夜明け前、奥方様の部屋で訃報を知らされた佳穂とお園も外部に漏らさぬようにせよと鳴滝に命じられた。朝になると鳴滝は小姓や部屋子らを集め若殿様御病気と通達したのだった。御目通りを許されぬ者達にはそれぞれの職の頭から同じく御病気と知らされた。
 大名屋敷では主の一家の訃報がすぐには公表されぬということはよくあるので、皆、恐らくはお亡くなりになっているのだろうと察して、口をつぐみ通常通りに仕事をしたのだった。
 公表まで中屋敷には若殿様の病気見舞いと称して一日一回御前様と奥方様、淑姫が向かうということになる。見舞客の応対をするため、上屋敷の用人らも中屋敷に詰めた。老中からの見舞いの使者に対しても不備のないように、皆気を引き締めてことに当たった。
 表御殿では家老や留守居役が幕府への報告の準備や葬儀の支度をすることとなった。また国許へ急ぎの飛脚を送った。早ければ十日のうちに国許に知らせが届くはずである。
 奥では、若殿様の棺に納める品々を準備した。
 佳穂は他の中臈とともに小姓や呉服所、お次の者、その他口の堅い者らに密かに指示して、帷子の支度をしたり、棺に納める写経を若殿様の病気平癒のため奉納すると言って用意した。
 夕刻には中屋敷から戻って来た奥方様に付き添い、あれこれと話を聞いた。

「松丸は、ほんに賢い子であった。わらわには勿体ないほどのいい子であった。わらわが松丸の弟を生後すぐに亡くした時は、まだ五つであったというのに、枕元に来て我も悲しいと言うてともに泣いてくれた。それなのに、松丸までも……」

 子を亡くした母親はいくら泣いても語っても、心は晴れぬようで、そばにいるだけで佳穂も涙ぐまれてくるのだった。
 けれど周囲では、着々と葬儀の支度が進んでいく。それは傍目には活気があるようにも見えた。
 二日後、若殿の死が公表されると、親戚以外の大名からの見舞いや幕府からの使者、手続きで世話になっている旗本の使いなど来客がある。奥でも他家の奥向きからの悔やみの使者が来て、御客応答だけでなく、佳穂やお園も応対に追われた。
 こうして悲しみの中にも不思議な活気があふれていた屋敷であったが通夜・葬儀などの儀式が終わると、日常の静けさが戻ってくる。
 佳穂もひととき悲しみの中にあったが、葬儀が終われば、明日からは日常の仕事があるので、部屋で休息をとりながら明日からの段取りを考えていた。
 そこへお園がやって来た。お園も疲れがあるようで、目の下に隈ができていた。

「疲れておいでではないの」
「あなたも大変だったでしょう。奥方様に夜ずっとついていて」
「それは大丈夫。小姓達が疲れているようだったし。それにあまり眠れなかったから」
「まさか、若殿様がこんなことになるとはね。中屋敷のお志麻しまの方は気丈になさっていたということだけれど、どうするのかしら」
「鳴滝様のことだから、悪いようにはなさらないでしょう」

 若殿様の手付きの中臈お志麻の方はつい先日月のものがあったと聞いているので、懐妊していないことは明らかだった。まだ十九で子どものいない奥女中を尼にするなど不憫と奥方様と鳴滝は考えているようだった。

「せめて若殿様に御子がおいでだったら」
「そのことだけれど、御養子を迎えるとかいう話よ」

 早過ぎるのではないかと佳穂は思った。深い悲しみの底にいる御前様や奥方様の気持ちを思えば、とても御養子など言いだせるものではなかろうに。

「留守居役の桂木様が、養子になれそうな方を探しておいでらしいわ」

 お園はどこで聞きつけたのか、表御殿に勤める留守居役の話を始めた。
 家を継げない次男以下の男子はたいていの大名家に存在する。ただ、家を継ぐだけの器量があるかどうかが問題だった。養子に迎えたら、遊女に入れあげて幕府から隠居を命じられ国替えになった、養子が実は女嫌いで世継ぎが生まれなかったなどと、問題が起きることがある。逆に優秀な養子を迎え、藩の財政改革が成功した、老中にまで出世したなどということもある。養子の選定は御家の行く末にも関わることだった。
 そういうわけで、どの家に養子に迎えるにふさわしい男子がいるか、留守居役が調査するのである。
 元々留守居役は御前様が国に戻っている間の江戸屋敷の管理をする役目があるのだが、実際の仕事は幕府や他家との交渉や情報収集である。いわば藩の外交官といっていい。千代田の城にも留守居役が控える蘇鉄の間という部屋があるくらいである。また、他家の留守居役との情報交換のため、頻繁に会合を行なっている。秘密を守るために藩の屋敷ではなく、料理屋や吉原などで会合が行われることもあり、交際費を派手に使うので勘定方はあまりいい顔をしない。だが、留守居役がいなければ、大名の子女の縁組などが進まない。勘定方は苦々しく思いながらも目をつぶっていたのだった。

「桂木様なら、きっとよい方を選ぶわね。なにしろ、姫様のお相手ができないといけないわけだし。生半可な御方では無理というもの。こう言ってはなんだけれど、姫様のような方を御すことができれば、まつりごとの心配もない」

 桂木は昨年の前留守居役の隠居に伴い、添役そえやくという補助の役目から昇格して留守居役になっていた。淑姫の結婚は前留守居役の最後の大仕事だったのである。
 だが、淑姫は離縁となった。前の留守居役がもう少しいい相手を選んでくれたならという思いが奥女中達にはあった。桂木はやり手らしいという噂もあり、佳穂は期待していたのだった。養子が姫様と再婚してくれれば、世継ぎの問題と淑姫の件が同時に解決するのだから。

「そうかもねえ。ま、姫様が御養子と再婚する気になるかどうかはわからないけれど」

 お園がそう言うのもわかるが、奥方様や御前様の心労を思えば淑姫が養子と結婚するのが一番いいように佳穂には思える。
 ふと分家の又四郎殿のことを思い出した。
 若殿様の件があったので、又四郎殿と淑姫の件はうやむやになっている。恐らく叔母の川村の手紙を読んだ奥方様も又四郎殿の分家での立場を知れば、話はなくなるであろう。淑姫が他家からの養子と結婚すれば、又四郎殿を担ぎ出そうとする者も騒ぐまい。
 そう思った時、なぜか佳穂は白い犬を抱いた髭もじゃの又四郎の顔を思い出していた。恐らくあの犬を行火あんかの代わりにして本を読んで部屋住みとして過ごす暮らしをのんびりと送るのであろう。御家騒動に巻き込まれることもなく。それがあの方の幸せかもしれぬと思えた。

「……というわけで、豊前守様のところの三男は駄目らしいの。聞いてる、お佳穂さん」
「え。ええ」

 お園の話をつい聞き逃していた。今までこんなことはなかったのだが。

「あなた、やっぱり疲れてるわ。もう、私も寝るから」

 お園はそう言って部屋を出た。
 確かに疲れている。けれど、先ほど聞き逃してしまったのは、それだけが理由ではない。なぜ、又四郎殿の顔など思い出したのか。佳穂は妙な気がして、なかなか寝付けなかった。あばたのことを久しぶりに強く意識させた男なのに。あまり思い出したくないことなのに。





『あばたなんか、気にしなくていい。そなたはそなたのままでいい』
『このあばたはそなたが病に打ち勝った証。誇るべきもの』

 この声は千代だ。だが姿がない。
 椿屋敷に住んでいる千代。
 そこは椿屋敷の千代の部屋の前の庭だった。椿の木に花はすでになく、実が生っていた。

『千代ねえさま、どこにおいでなの』

 庭を探し回っても、千代の姿はどこにもない。不意に一陣の風が吹き、佳穂の足元に細長い短冊が舞い落ちた。

『われてもすゑにあはむとぞ思ふ』

 そうだ、千代はこれだけを佳穂に残して、ある日突然いなくなってしまったのだ。

『千代ねえさま』

 叫んだところで、目が覚めた。
 目尻からこぼれる涙に気付き、佳穂はまだ暗い部屋の天井を見上げた。
 なぜ、こんな夢を見たのか。きっとここ数日忙しくて疲れているからだろう。
 千代という少女との交流は今思えばずいぶん短い間だった。
 はやり病を避けて、母とともに母の実家石森家のある村に移った直後、佳穂は発病した。母や乳母の懸命の看護で佳穂は命を取り留めた。だが、母も同じ病に倒れ、あっという間にみまかった。
 佳穂が起き上がれるようになった時には弔いは終わっていた。
 自分のせいで母が死んだのだと己を責めていた頃に出会ったのが、椿屋敷に住む千代という年上の少女だった。
 優しく気高い千代もまた幼い頃に母を亡くしたと言い、佳穂が屋敷に来ればともに遊んだ。
 その中で、千代は母の死で己を責めることはない、あばたを気にすることはないと繰り返し言っていた。佳穂にとって、それは今思えば救いだったのかもしれない。周囲の大人は誰も佳穂にそんなことを言わなかった。恐らく大人たちは母を亡くした佳穂を思いやって、そっとしていてくれたのだと思うが、自分を心の中で責めていた佳穂の気持ちにまでは気付いていなかったのだろう。
 佳穂は病の後の身体と心を、初めてできた年上の友との交流の中で癒していった。
 知り合って十日ほどたった頃、椿屋敷に行くと、千代はいなかった。ただ一人残っていた留守番の老人は頼まれたと佳穂に短冊を渡した。そこに「われてもすゑにあはむとぞ思ふ」の句が書かれていたのだった。
 崇徳院の「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ」の下の句である。
 川の瀬の流れが速いので、岩にせきとめられた急流が二つに分かれたとしても、いつかまた一つになるように、愛しい人と再会したいと思うという、再会を願う歌の下の句だと乳母に教えられた。
 いつかまた会える。幼い佳穂はそう思って再会を願った。
 けれど会えなかった。
 数日後、父が迎えに来て、佳穂は家に戻った。父に椿屋敷の千代のことを尋ねたが、知らないと言われた。他の者にも聞いたが誰も知らなかった。乳母が千代のことを知っていたので尋ねたが、行方はわからないと言われた。
 そのうち、家に若い女性がやってきて、父から新しい母のお春だと紹介された。翌年には弟が生まれた。数年後には妹も生まれた。
 賑やかになった家の中で父はまるで死んだ母のことを忘れたかのように新しい母とともに幼い弟や妹を可愛がっていた。佳穂はなんとなく父を疎ましく感じるようになった。男というのは、なんと移り気なものか。母の人生は何だったのかと思うと結婚とは虚しいものかもしれぬと感じられた。
 この頃から、佳穂は結婚などしないほうがいいと思うようになっていった。あばたのこともあった。
 叔母が結婚せずに江戸で奥勤めをしていることを知ったのもその頃だった。その時、ふと思い出したのは千代のことだった。千代のような美しい女性なら、奥で勤めているかもしれない。江戸のお屋敷に行けばひょっとしたら会えるかもしれない。夢のような話だが。
 佳穂の江戸行きには叔母だけでなく千代のことも影響していたのである。わずか十日ほどの交流しかなかったのに。
 けれど、千代にはいまだに会えない。佳人薄命という言葉もある。優秀な若殿様が二十八でみまかられたように、千代もまたすでにこの世の人ではないのかもしれない。
 再び、目尻から涙が枕にこぼれ落ちた。





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