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お清の中臈
伍 分家の叔母
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翌日、朝から休みをいただき、佳穂は外出した。
外出は年寄の許しを得た上で、帰りは七つ(午後四時頃)までと決まっている。しかも一人ではない。佳穂に仕える部屋子のお三奈が供をしている。
行く先は隣にある月野家分家の月影藩上屋敷である。
隣の屋敷といっても十万石の望月藩月野家本家の上屋敷の面積は七千坪(約二万三千百平方メートル)余り。当然壁も長く、門を出てから隣の月影藩上屋敷の門までは四町(四三六メートル)ほどある。一方、月影藩の屋敷の面積は二千五百坪(約八千二百五十平方メートル)余り。
ちなみに、国土交通省の平成28年度住宅経済関連データによると、平成25年の全国の持家の床面積の平均は一二二・三二平方メートルであるから、平屋として単純計算しても、望月藩は百八十八軒分、月影藩は六十七軒分の住宅が建てられるだけの面積を有していることになる。
しかも中臈という身分なので徒歩ではなく駕籠に乗ってである。歩いて行ける場所なのに、駕籠で行き、さらには門で奥の誰それに面会したいと申し出て、奥に連絡がゆき、面会が許されるまで四半刻(約三十分)。
面倒だが、この手続きをしないと入れない。
佳穂もこの手続きをして奥の玄関から入り目的の人物に面会することとなった。
目的の人物とは、御客応答の川村である。その名からわかるように、佳穂の父川村三右衛門の妹で佳穂の叔母に当たる。
叔母の元の名は千勢といい、結婚せずに月野家分家の奥で働き、小姓、中臈、中年寄を経て御客応答にまでなった、佳穂にとっては理想ともいえる出世をした人である。
けれど、佳穂にとっては苦手な人でもあった。
「まあ、まあ、久しぶりねえ」
丸々と太った叔母はにこにこと笑って佳穂を控えの間に迎えた。甘いような匂いは好んで衣服にたきしめている香のものであろう。
羊羹とお茶がすぐに運ばれて来た。
叔母もまた佳穂と同じ片外しという髪型をしているが、髪を巻き付けている笄はよく見ると鼈甲であった。黒い斑点が多いので最高級ではないものの、佳穂の飾りのない漆塗りのものよりずっと高価なものである。
「御無沙汰しており申し訳ありません」
この前会ったのは今年の正月のことである。
「とうとう、あなたもその気になったのね」
始まった。佳穂はこれで叔母が苦手になったのである。
「ちょうどよいお相手がいますよ。奥方様の妹姫様の嫁ぎ先の御家老が一年前に妻女を亡くされて」
「叔母さま、そのことではございません」
こう言わねば、叔母は延々と縁組話をするのだ。
「他に何の話があると言うのですか。もうあなたも二十一。早くお嫁に行って兄上を安心させなければ」
当然のような顔で叔母は言う。確かに二十一というのは年増と言っていい年齢だった。
「叔母さま、縁組の話は以前もお断りしたはず」
「あの頃は十五。でも、もう今は二十一。早くしないといいお相手がいなくなってしまうのよ」
「殿様のお指図で、調べたいことがございます」
本題を切り出した。叔母はがっかりという顔になった。
「お清の中臈もいいけれど、一人は寂しいものですよ。頼りになるのはお金だけ。殿方を頼りにできるなら、その方がいいのですよ」
「叔母さま、私のこれ、御存知でしょう」
佳穂は額の生え際を指さした。そこには小さなあばたがあった。叔母はため息をついた。
「あなたは少し気にし過ぎですよ」
「あばたのない方でも、ちょっとしたことが気にかかって離縁するという話は世間にはよくあること。ましてや、私の顔を近くで見れば、かようなあばたがございます。最初は気にせぬとおっしゃっても、何かあった時に、気になりだすことでしょう。そんなことになるくらいなら、私は一人でおります」
六年前にも告げた言葉だった。
「まだ、さようなことを」
叔母は大したことではないように言うが、佳穂にとっては重大なことだった。
佳穂が国を出て、江戸に出たのもそのためだった。
十四になった頃から、家老の父の元には佳穂の縁組の話が持ち込まれ始めていた。まだ早いと父は思っていたようだが、継母の春は早い方がいいと佳穂のいる場で父に話したのだった。
『佳穂さんは生え際にあばたが残っていることを気にしているようですが、若いうちなら相手の殿方も気になさることはないでしょう。それに賢い娘ゆえ、相手が年上でもきちんと嫁の勤めを果たせましょう』
まず、生え際のあばたのことを指摘されたのが気分が悪かった。自分でも分かり過ぎるほど分かっているのだ。それをわざわざ取り立てて父に言わなくてもよいものを。その上、賢い娘と言う。佳穂は継母にそう言われ続けて、腹違いの弟や妹の面倒を見ていた。弟と妹の面倒を見たのは、可愛いからであって、別に賢いと言われなくとも、そうしていた。なのに、継母はあなたは賢いからと弟や妹の世話をさせた。そのせいか、継母に賢いと言われると、不愉快になってくるのだった。
継母は決して悪い人ではないと頭ではわかっていても、なんとなくその日以来、佳穂は家にいてはそのうち勝手に嫁ぎ先を決められてしまうのではないかと不安を感じるようになった。
結婚に憧れがないわけではなかった。ただ、鏡を見るたびに化粧でも隠せない生え際のあばたが気になってしょうがなかった。幼い頃にかかった病が残したもので、顔はそこだけだが、頭の中や背中の一部にも残っていた。それを思うと、結婚して初めて会う男性に肌をさらし、あばたから目をそむけられることを想像すると、やりきれなかった。
気にしなくてもいい、あなたはあなたのままでいいと言ってくれた人もいた。けれど、同性であり、遠くに行ってしまった。
どうすれば縁談を受けなくて済むだろうかと考えた時だった。
江戸の屋敷で働く叔母のことを思い出した。元々叔母のような奥勤めには憧れがあった。もしかすると、そこには幼い頃に出会ったあの人もいるかもしれないという淡い期待もあった。それに、江戸の屋敷で働いていれば、縁談の話など聞かずに済むのではないか。何より、喧嘩こそしないが、なんとなく気の合わない継母の顔を見なくて済む。
ちょうど本家の江戸屋敷で淑姫様の話相手をする奥女中を探していると聞き、佳穂は父と兄に相談した。父は心配したが、兄は賛成した。恐らく翌年結婚を予定していた兄は血の繋がりのない姑だけでなく年頃の小姑までいると妻が気を遣うと思ったのであろう。兄に説得され父も承知し、佳穂の江戸行きが決まった。
江戸への長い旅を終え、まず分家の屋敷の奥で働く叔母の川村に挨拶に行った。
その時に、あばたがあるので結婚をせずに一生奉公をしたいと言ったことを、叔母は覚えていたのである。
「叔母さまには些細なことかもしれませんが、殿方は不快に感じられるかもしれません」
「世間はそんな方ばかりではありませんよ。ま、その気になったらいつでも言ってちょうだい。なるべく早くね。ところで、殿様のお指図とはどういうお話ですか」
叔母は切り替えが早かった。たとえ姪でも嫌がる話は長引かせると碌なことにはならないとわかっているらしい。何より、彼女は忙しかった。
「又四郎様ねえ」
本家の奥方様が出戻りの淑姫の再婚相手に部屋住みの又四郎を望んでいるらしいと聞いた奥女中川村は、なにやら顔をしかめていた。
「変わった方なのでしょうか」
「確かに。はあ、なんというか、あの方のお立場は少々微妙で」
「微妙とは」
川村はかいつまんで話をした。
「今のこちらの殿様は次男で、兄である前の殿様が子のないまま亡くなられたので後を継がれたことは知っているでしょう」
「はい」
「それが今から十八年前のこと。その時、殿様は国許で家臣の佐野家の養子として暮らしておられたから急いで江戸においでになった。その間一か月以上、前の殿様が亡くなったことを秘密にしていたから、奥も大変だった。ま、そのことは置いておいて、いろいろな手続きを済ませて殿の養子となった後、前の殿様の訃報が正式に届け出られ、殿様は後をお継ぎになった。それはいいのだけれど、前の殿様のように急に亡くなられては困るから、すぐに瑠璃姫様との縁組が決まった。ところが、殿様には国許にすでに子どもがいた。相手の女性は亡くなっていたけれど、子どもは男子。それが又四郎様。その方も江戸に呼び寄せようと殿様は考えた。でも、縁組相手の家は本家とのつながりもある譜代の家柄。そちらの家の方々が知れば気分を害しかねない。仕方ないので、その子がいることを隠して、殿様は縁組をされた。その一年後に生まれたのが、御世継の亀丸様」
亀丸こと斉陽のことは佳穂も知っている。十八歳の血気盛んな若殿様は本家にもよく遊びに来る。
「結局、亀丸様が生まれて二年後に、国から又四郎様を江戸にお呼びになって弟ということで御公儀に届け出た。従って、公には十七ということになるが、まことは二十五」
世継ぎの後に生まれた次男ということにしたとはいえ、八歳も年齢を誤魔化しているとはと佳穂も驚いた。淑姫の結婚相手はなぜこうも年齢を誤魔化す者が多いのか。
「本家の奥方様は本当のお年をご存知ゆえ、淑姫様のお相手にと考えたのでしょうね。でも」
川村は言った。
「殿は、案じておられる。又四郎様が凡庸な方であればよかったのですけれど、文武に優れておられるゆえ。そのため、江戸屋敷の中では又四郎様を世継ぎにという家臣がいる」
「では、御家騒動に」
佳穂は急に動悸を感じた。大変なことである。もし御公儀に知れたら、ただではすまない。
「いえいえ、まだ、そこまでは」
叔母は佳穂の不安を打ち消すように微笑んだ。
「若殿様もああ見えて賢い御方。又四郎様のことを兄として重んじておいで。殿様もいずれは国許の政務を執らせようと考えておいでのよう。ただ、瑠璃姫様はよい顔をされぬゆえ、殿様もお考えだけで。血の気の多い衆は、殿様は弱腰と思って不満を申しているようで。ゆえに、何かきっかけがあれば事が起きるかもしれません」
「きっかけとは」
「もし淑姫様を娶られたら、又四郎様は分家を作ることになられる。だが当家には、さようなゆとりはない。いやしくも本家の姫様、百石や二百石では、足りぬ。血の気の多い衆はならば又四郎様が分家を継げるようにしようと考えるはず」
その先はさすがに叔母も口にしなかった。佳穂にも想像できる話であったのだ。
「次男」の又四郎が分家を継ぐには、嫡子の斉陽が子どもを儲けぬうちに亡くならねばならぬ。十八歳という意気盛んな年齢の斉陽が病になるのを待っているわけにはいかない。血の気の多い又四郎派の者達がどういう手段をとるかは火を見るよりも明らかだった。
だが、そうなったら、嫡子の生母である瑠璃姫は黙ってはおるまい。
又四郎の立場が微妙というのはそういうことらしい。
「あの方が凡庸な方であればよかったのだが」
川村はつぶやいた。どうやら、淑姫との縁組は分家に危機をもたらしかねないものらしい。
「又四郎殿の存在は危ないものなのですね」
「そういうことになる。聡姫様にはそこのところをわかってもらわねば」
叔母は聡姫と年が近く、嫁入り前まで側近く仕えていた。
「文を書きましょう」
そう言うと、川村は部屋子を呼んで墨を用意させた。
叔母が文を書く間、佳穂は庭を眺めていた。川村の控えの間は庭に面しており、明かり障子を開け放てば、五月雨の合間のさわやかな風が穏やかに吹き渡った。佳穂は青葉の茂る木々を眺めながら、そういえば、こんなふうに静かに景色を見るなど数か月ぶりのことと気づいた。
毎日が慌ただしく、庭の木々の花や葉の色の移り変わりに目を留める暇もなかったのだ。殿様の倹約の呼びかけもあって奥も人を減らされ、仕事が増えたためでもあるのだが、佳穂はついあれこれ気になって小姓達の面倒までみてしまい、自分の時間らしい時間も持てないでいた。そういえば、奥方様付きの小姓の手習いを明日は見ると約束していたと思い出す。明後日は奥方様の歌の師匠が見えるので、歌の用意もしなければならなかった。いくつか覚え書きに書いているが、どうもしっくりとこない。ここで考えてみようかと思った。
ほととぎすの鳴き声でもせぬかと耳を澄ました。
が、聞こえたのは犬の遠吠えだった。
「犬がいるのですか」
「ああ、あれは又四郎様の犬。シロと言うて、毛むくじゃらでな」
「え」
一か月前のことを思い出した。まさか。
「又四郎様は、髭を生やしておいでですか」
「そういえば、少し髭が濃いかもしれませんね。本などに夢中になって三日も部屋に閉じこもっていると月代がなくなり、顔は髭だらけになられますから」
あのお人は犬の世話係ではなく又四郎様であったのか。佳穂は慌ただしい出会いの中で失礼なことを言わなかったか思い返していた。
外出は年寄の許しを得た上で、帰りは七つ(午後四時頃)までと決まっている。しかも一人ではない。佳穂に仕える部屋子のお三奈が供をしている。
行く先は隣にある月野家分家の月影藩上屋敷である。
隣の屋敷といっても十万石の望月藩月野家本家の上屋敷の面積は七千坪(約二万三千百平方メートル)余り。当然壁も長く、門を出てから隣の月影藩上屋敷の門までは四町(四三六メートル)ほどある。一方、月影藩の屋敷の面積は二千五百坪(約八千二百五十平方メートル)余り。
ちなみに、国土交通省の平成28年度住宅経済関連データによると、平成25年の全国の持家の床面積の平均は一二二・三二平方メートルであるから、平屋として単純計算しても、望月藩は百八十八軒分、月影藩は六十七軒分の住宅が建てられるだけの面積を有していることになる。
しかも中臈という身分なので徒歩ではなく駕籠に乗ってである。歩いて行ける場所なのに、駕籠で行き、さらには門で奥の誰それに面会したいと申し出て、奥に連絡がゆき、面会が許されるまで四半刻(約三十分)。
面倒だが、この手続きをしないと入れない。
佳穂もこの手続きをして奥の玄関から入り目的の人物に面会することとなった。
目的の人物とは、御客応答の川村である。その名からわかるように、佳穂の父川村三右衛門の妹で佳穂の叔母に当たる。
叔母の元の名は千勢といい、結婚せずに月野家分家の奥で働き、小姓、中臈、中年寄を経て御客応答にまでなった、佳穂にとっては理想ともいえる出世をした人である。
けれど、佳穂にとっては苦手な人でもあった。
「まあ、まあ、久しぶりねえ」
丸々と太った叔母はにこにこと笑って佳穂を控えの間に迎えた。甘いような匂いは好んで衣服にたきしめている香のものであろう。
羊羹とお茶がすぐに運ばれて来た。
叔母もまた佳穂と同じ片外しという髪型をしているが、髪を巻き付けている笄はよく見ると鼈甲であった。黒い斑点が多いので最高級ではないものの、佳穂の飾りのない漆塗りのものよりずっと高価なものである。
「御無沙汰しており申し訳ありません」
この前会ったのは今年の正月のことである。
「とうとう、あなたもその気になったのね」
始まった。佳穂はこれで叔母が苦手になったのである。
「ちょうどよいお相手がいますよ。奥方様の妹姫様の嫁ぎ先の御家老が一年前に妻女を亡くされて」
「叔母さま、そのことではございません」
こう言わねば、叔母は延々と縁組話をするのだ。
「他に何の話があると言うのですか。もうあなたも二十一。早くお嫁に行って兄上を安心させなければ」
当然のような顔で叔母は言う。確かに二十一というのは年増と言っていい年齢だった。
「叔母さま、縁組の話は以前もお断りしたはず」
「あの頃は十五。でも、もう今は二十一。早くしないといいお相手がいなくなってしまうのよ」
「殿様のお指図で、調べたいことがございます」
本題を切り出した。叔母はがっかりという顔になった。
「お清の中臈もいいけれど、一人は寂しいものですよ。頼りになるのはお金だけ。殿方を頼りにできるなら、その方がいいのですよ」
「叔母さま、私のこれ、御存知でしょう」
佳穂は額の生え際を指さした。そこには小さなあばたがあった。叔母はため息をついた。
「あなたは少し気にし過ぎですよ」
「あばたのない方でも、ちょっとしたことが気にかかって離縁するという話は世間にはよくあること。ましてや、私の顔を近くで見れば、かようなあばたがございます。最初は気にせぬとおっしゃっても、何かあった時に、気になりだすことでしょう。そんなことになるくらいなら、私は一人でおります」
六年前にも告げた言葉だった。
「まだ、さようなことを」
叔母は大したことではないように言うが、佳穂にとっては重大なことだった。
佳穂が国を出て、江戸に出たのもそのためだった。
十四になった頃から、家老の父の元には佳穂の縁組の話が持ち込まれ始めていた。まだ早いと父は思っていたようだが、継母の春は早い方がいいと佳穂のいる場で父に話したのだった。
『佳穂さんは生え際にあばたが残っていることを気にしているようですが、若いうちなら相手の殿方も気になさることはないでしょう。それに賢い娘ゆえ、相手が年上でもきちんと嫁の勤めを果たせましょう』
まず、生え際のあばたのことを指摘されたのが気分が悪かった。自分でも分かり過ぎるほど分かっているのだ。それをわざわざ取り立てて父に言わなくてもよいものを。その上、賢い娘と言う。佳穂は継母にそう言われ続けて、腹違いの弟や妹の面倒を見ていた。弟と妹の面倒を見たのは、可愛いからであって、別に賢いと言われなくとも、そうしていた。なのに、継母はあなたは賢いからと弟や妹の世話をさせた。そのせいか、継母に賢いと言われると、不愉快になってくるのだった。
継母は決して悪い人ではないと頭ではわかっていても、なんとなくその日以来、佳穂は家にいてはそのうち勝手に嫁ぎ先を決められてしまうのではないかと不安を感じるようになった。
結婚に憧れがないわけではなかった。ただ、鏡を見るたびに化粧でも隠せない生え際のあばたが気になってしょうがなかった。幼い頃にかかった病が残したもので、顔はそこだけだが、頭の中や背中の一部にも残っていた。それを思うと、結婚して初めて会う男性に肌をさらし、あばたから目をそむけられることを想像すると、やりきれなかった。
気にしなくてもいい、あなたはあなたのままでいいと言ってくれた人もいた。けれど、同性であり、遠くに行ってしまった。
どうすれば縁談を受けなくて済むだろうかと考えた時だった。
江戸の屋敷で働く叔母のことを思い出した。元々叔母のような奥勤めには憧れがあった。もしかすると、そこには幼い頃に出会ったあの人もいるかもしれないという淡い期待もあった。それに、江戸の屋敷で働いていれば、縁談の話など聞かずに済むのではないか。何より、喧嘩こそしないが、なんとなく気の合わない継母の顔を見なくて済む。
ちょうど本家の江戸屋敷で淑姫様の話相手をする奥女中を探していると聞き、佳穂は父と兄に相談した。父は心配したが、兄は賛成した。恐らく翌年結婚を予定していた兄は血の繋がりのない姑だけでなく年頃の小姑までいると妻が気を遣うと思ったのであろう。兄に説得され父も承知し、佳穂の江戸行きが決まった。
江戸への長い旅を終え、まず分家の屋敷の奥で働く叔母の川村に挨拶に行った。
その時に、あばたがあるので結婚をせずに一生奉公をしたいと言ったことを、叔母は覚えていたのである。
「叔母さまには些細なことかもしれませんが、殿方は不快に感じられるかもしれません」
「世間はそんな方ばかりではありませんよ。ま、その気になったらいつでも言ってちょうだい。なるべく早くね。ところで、殿様のお指図とはどういうお話ですか」
叔母は切り替えが早かった。たとえ姪でも嫌がる話は長引かせると碌なことにはならないとわかっているらしい。何より、彼女は忙しかった。
「又四郎様ねえ」
本家の奥方様が出戻りの淑姫の再婚相手に部屋住みの又四郎を望んでいるらしいと聞いた奥女中川村は、なにやら顔をしかめていた。
「変わった方なのでしょうか」
「確かに。はあ、なんというか、あの方のお立場は少々微妙で」
「微妙とは」
川村はかいつまんで話をした。
「今のこちらの殿様は次男で、兄である前の殿様が子のないまま亡くなられたので後を継がれたことは知っているでしょう」
「はい」
「それが今から十八年前のこと。その時、殿様は国許で家臣の佐野家の養子として暮らしておられたから急いで江戸においでになった。その間一か月以上、前の殿様が亡くなったことを秘密にしていたから、奥も大変だった。ま、そのことは置いておいて、いろいろな手続きを済ませて殿の養子となった後、前の殿様の訃報が正式に届け出られ、殿様は後をお継ぎになった。それはいいのだけれど、前の殿様のように急に亡くなられては困るから、すぐに瑠璃姫様との縁組が決まった。ところが、殿様には国許にすでに子どもがいた。相手の女性は亡くなっていたけれど、子どもは男子。それが又四郎様。その方も江戸に呼び寄せようと殿様は考えた。でも、縁組相手の家は本家とのつながりもある譜代の家柄。そちらの家の方々が知れば気分を害しかねない。仕方ないので、その子がいることを隠して、殿様は縁組をされた。その一年後に生まれたのが、御世継の亀丸様」
亀丸こと斉陽のことは佳穂も知っている。十八歳の血気盛んな若殿様は本家にもよく遊びに来る。
「結局、亀丸様が生まれて二年後に、国から又四郎様を江戸にお呼びになって弟ということで御公儀に届け出た。従って、公には十七ということになるが、まことは二十五」
世継ぎの後に生まれた次男ということにしたとはいえ、八歳も年齢を誤魔化しているとはと佳穂も驚いた。淑姫の結婚相手はなぜこうも年齢を誤魔化す者が多いのか。
「本家の奥方様は本当のお年をご存知ゆえ、淑姫様のお相手にと考えたのでしょうね。でも」
川村は言った。
「殿は、案じておられる。又四郎様が凡庸な方であればよかったのですけれど、文武に優れておられるゆえ。そのため、江戸屋敷の中では又四郎様を世継ぎにという家臣がいる」
「では、御家騒動に」
佳穂は急に動悸を感じた。大変なことである。もし御公儀に知れたら、ただではすまない。
「いえいえ、まだ、そこまでは」
叔母は佳穂の不安を打ち消すように微笑んだ。
「若殿様もああ見えて賢い御方。又四郎様のことを兄として重んじておいで。殿様もいずれは国許の政務を執らせようと考えておいでのよう。ただ、瑠璃姫様はよい顔をされぬゆえ、殿様もお考えだけで。血の気の多い衆は、殿様は弱腰と思って不満を申しているようで。ゆえに、何かきっかけがあれば事が起きるかもしれません」
「きっかけとは」
「もし淑姫様を娶られたら、又四郎様は分家を作ることになられる。だが当家には、さようなゆとりはない。いやしくも本家の姫様、百石や二百石では、足りぬ。血の気の多い衆はならば又四郎様が分家を継げるようにしようと考えるはず」
その先はさすがに叔母も口にしなかった。佳穂にも想像できる話であったのだ。
「次男」の又四郎が分家を継ぐには、嫡子の斉陽が子どもを儲けぬうちに亡くならねばならぬ。十八歳という意気盛んな年齢の斉陽が病になるのを待っているわけにはいかない。血の気の多い又四郎派の者達がどういう手段をとるかは火を見るよりも明らかだった。
だが、そうなったら、嫡子の生母である瑠璃姫は黙ってはおるまい。
又四郎の立場が微妙というのはそういうことらしい。
「あの方が凡庸な方であればよかったのだが」
川村はつぶやいた。どうやら、淑姫との縁組は分家に危機をもたらしかねないものらしい。
「又四郎殿の存在は危ないものなのですね」
「そういうことになる。聡姫様にはそこのところをわかってもらわねば」
叔母は聡姫と年が近く、嫁入り前まで側近く仕えていた。
「文を書きましょう」
そう言うと、川村は部屋子を呼んで墨を用意させた。
叔母が文を書く間、佳穂は庭を眺めていた。川村の控えの間は庭に面しており、明かり障子を開け放てば、五月雨の合間のさわやかな風が穏やかに吹き渡った。佳穂は青葉の茂る木々を眺めながら、そういえば、こんなふうに静かに景色を見るなど数か月ぶりのことと気づいた。
毎日が慌ただしく、庭の木々の花や葉の色の移り変わりに目を留める暇もなかったのだ。殿様の倹約の呼びかけもあって奥も人を減らされ、仕事が増えたためでもあるのだが、佳穂はついあれこれ気になって小姓達の面倒までみてしまい、自分の時間らしい時間も持てないでいた。そういえば、奥方様付きの小姓の手習いを明日は見ると約束していたと思い出す。明後日は奥方様の歌の師匠が見えるので、歌の用意もしなければならなかった。いくつか覚え書きに書いているが、どうもしっくりとこない。ここで考えてみようかと思った。
ほととぎすの鳴き声でもせぬかと耳を澄ました。
が、聞こえたのは犬の遠吠えだった。
「犬がいるのですか」
「ああ、あれは又四郎様の犬。シロと言うて、毛むくじゃらでな」
「え」
一か月前のことを思い出した。まさか。
「又四郎様は、髭を生やしておいでですか」
「そういえば、少し髭が濃いかもしれませんね。本などに夢中になって三日も部屋に閉じこもっていると月代がなくなり、顔は髭だらけになられますから」
あのお人は犬の世話係ではなく又四郎様であったのか。佳穂は慌ただしい出会いの中で失礼なことを言わなかったか思い返していた。
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