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お清の中臈

壱 月野家の人々

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 年明けて弘化二年(一八四五年)四月。すでに桜は散り、青葉の季節。
 ここは江戸の西にある白金しろかねの望月藩月野家十万石の下屋敷。
 殿様夫妻が住み多くの藩士が勤めている外桜田の上屋敷、跡継ぎの若殿様の住む赤坂の中屋敷と違い、郊外にある下屋敷は敷地も広く景色もよい。
 天気のよい日なら屋敷の西側にある富士見の間から富士の山がくっきりと見えた。
 この日、富士見の間では、先日国許くにもとである望月の地から参勤した殿様月野丹後守たんごのかみ斉尚なりひさ五十歳の無事の江戸入りを祝っての内々の宴が行なわれていた。
 出席しているのは、斉尚の嫡子で若殿様と呼ばれる斉倫なりみち二十八歳、その母のさと姫四十七歳、月野家の分家で支藩月影藩一万石の藩主月野下野守しもつけのかみ斉理なりまさ四十九歳、その奥方様の瑠璃るり姫四十歳、嫡子の斉陽なりあき十八歳、その妹で十三歳の登美姫。なお、聡姫は斉理の異母妹にあたる。
 皆一族ということで、さほど堅苦しくない宴であった。
 残念ながら西の方向には雲が広がり富士は見えなかったが、それぞれの家から奥女中らが出て琴を弾いたり、踊ったりと宴を盛り上げていた。
 下野守斉理も酔って興に乗ったのか、謡を口ずさみ、主賓の丹後守斉尚もそれに合わせて舞い始めた。
 控えている小姓らも思わず見とれてしまうほどの見事な舞であった。
 二人の奥方様は夫が無事にこうして宴に出られ、子どもらが健康で共に安らかに暮らせる幸せをしみじみと感じていた。
 ことに聡姫は二年前に嫁いだ娘のよし姫が嫁ぎ先の花尾家で無事に過ごしているようで、安堵していた。夫の播磨守はりまのかみ斉靖なりやすとの間にまだ子はないが、嫁ぎ先から特に何も言ってこないのはうまくいっていることであろうと思っていた。淑姫は多少我は強いが、根はまっすぐな気性なのだ。

「父上、私も一差し舞いましょう」

 斉倫が立ち上がった。背丈は六尺(約一八〇センチメートル)にわずかに足らぬが、堂々とした体躯は見るからに頼もしい。
 末広を持って舞ったのは「安宅あたか」の弁慶の延年の舞である。

「鳴るは滝の水」

 舞に合わせて謡うのは斉倫に仕える用人の梶田仁右衛門にえもんだった。

「日は照るとも 絶えずとうたり 絶えずとうたりとくとく立てや、手束弓の 心許すな関守の人人 暇申してさらばよとて 笈をおつ取り 肩に打ちかけ 虎の尾を踏み毒蛇の口を 遁れたる心地して 陸奥の国へぞ 下りける」
 
 皆舞と謡の見事さにやんやの拍手である。

「いやはや、御家は安泰ですな」

 斉理は斉尚と酒を酌み交わしながら言った。

「斉陽殿もしっかりしておいでではないか」
「いやいや、まだ子どもで。ところで、若殿のご縁組は」
「なんとかまとまりそうで」
「それはよかった。前の縁組は結納前にあのようなことになったゆえ、心配しておったが」
「仕方あるまい。人の命はわからぬもの」」

 斉倫は数年前にさる家の姫との縁組の話がまとまったのだが、結納前に相手が病死していた。以来、縁組に気が進まぬというのを、今回やっと話をまとめ、本人もその気になってきたところであった。恐らく六月の初めには御公儀のお許しも得られよう。

「それにしても一年おきの参勤、まことにお疲れであろう。わしなど、楽をさせてもらって申し訳ない」
「楽とはまた。下野守殿が江戸においでゆえ、余は安心して国に戻れるのだ」

 二人は共に大名だが、分家の月影藩月野家は参勤交代を免除されている。一万石という石高でも参勤交代をしている家はたくさんあるのだが、斉理は江戸常府である。領地に城もなく陣屋で政務が行なわれている。

「ところで」

 斉尚は声を低めた。瑠璃姫に聞こえぬように配慮したのである。

「部屋住みの方は今日はいかがした」

 斉理はため息をついた。

高輪たかなわじゃ」
「高輪とは」
「ほれ、蘭癖らんぺきの」
「ああ」

 斉尚は蘭癖があると言われている高輪に屋敷を持つ南国の大名の跡継ぎの名を思い出した。とうに三十を越えているのに、父である藩主がなかなか隠居せぬため、藩主になれぬ若殿は蘭学を好む大名家の者らと親しく交際していた。

「今日は船の話を聞くとか申してな」
「船?」
「よくわからぬが、鉄で造った船があるそうだ。そんな物が浮くのであろうかの。だが、恐らくは奥に遠慮したのであろう。とはいえ挨拶もせず失礼の段、申し訳ない」
「いやいや、気にすることはない」
「困ったものよ。奥に遠慮せずともよいものを」

 斉理の悩みの種の部屋住みの方とは瑠璃姫と結婚する以前に儲けた男子である。斉尚もこの年になれば、どこの家にも様々な事情があるとわかってはいるが、二十五歳の長男のはずなのに、なぜか十七歳の次男として幕府に届けられている部屋住みの者には同情を禁じえなかった。正室の瑠璃姫に遠慮して、このような内々の宴にも顔を出さぬとは。

「高輪の方の引き立てがあれば、どこぞに養子の口も見つかるやもしれぬ。かような席に出るよりはよいかもしれぬ」
「確かにあの方は顔が広い」
「ところで、水野様の話だが」

 斉尚は国にいる間、江戸からの書簡でしか知ることのできなかった江戸城内の政争について、斉理に尋ねた。
 天保の改革の失敗で二年前の閏九月に罷免された水野忠邦が昨年六月再任され、この二月に老中を辞したのである。一体何があったのか。

「あの方はちとやり過ぎたのだ。確かに土井様がお辞めになった後の首座が二十五歳の阿部様では頼りないが、水野様にもう一度というのは無理な話。阿部様も牧野様も御立腹で、登城なさらぬこともあったのだ」
「水野様も針の筵であったのだな」

 斉理の話を斉尚はうなずきながら聞いていた。
 昨年五月の江戸城本丸火災後、その復興に大名・旗本から上納金を集めるという案を老中首座の土井利位としつらが出した。だが、猛反対を受け、土井はその責任をとって引きこもってしまった。それをきっかけに六月に水野忠邦が再任されたのだが、彼は以前の強硬な改革であまりに多くの敵を作り過ぎていた。改革の失敗の責任をとって罷免された者がまた復職するとはと、同じ老中の阿部正弘も牧野忠雅も欠勤して不満をあらわにしたのである。さしもの水野も老中の座に居座ることはできなかった。
 斉理はさらに声を低めた。

「だが、これだけでは済むまいよ」
「どういうことだ」
「在職中のまいないの件があるらしい。調べが入ってるとか」

 確かにありそうな話だった。水野忠邦が幕閣に賄賂を贈って出世してきたというのは公然の秘密だった。出世して贈られる立場になれば受け取らないわけがない。
 それにしても斉理殿はよくもそのような話を知っているものと斉尚は思う。江戸常府であるとはいえ、斉理は幕府の上層部の話に詳しかった。奥方の瑠璃姫の実家の伝手とばかりは言えないような情報も知っている。一体、いかなる人脈があるのか。





 一方、奥方同士も話が弾んでいた。

「聡様、殿様の無事のお帰りまことにめでたいことで」
「ありがとうございます。瑠璃様も姫様の御縁談が決まり、めでたいこと」
「おかげさまで。後は若殿様のこと。なれど、まだまだ剣や弓が楽しいようで」
「お若いのですもの」
「本家の若殿様を見習い、風流な嗜みをと言うのですけれど。謡など異国の者を打ち払うのに何の役に立とうかと」
「まあ、勇ましいこと」

 聡姫は微笑んだ。だが、心のうちでは不安を感じた。御公儀は異国船打払いの方針を変えて薪や水を与えてもよいという方針に変わったと漏れ聞いている。次代を担う斉陽が異国を打ち払うことを考えているというのは、果たして先々の家中にとって吉と出るか、凶と出るか。

「当家のような家は武功を立てるくらいしか、名誉を得ることはできませんもの」

 瑠璃姫はそう言うと声をひそめた。

「部屋住みの弟が、蘭癖というのか、妙に南蛮や紅毛の文物にかぶれて困ったもの。近頃は南蛮のおかしな生き物まで飼い始めて」

 聡姫はまた始まったと思った。血のつながらぬ部屋住みの「次男」のことをあれこれと吹聴するのは、恐らく若殿に比べ困った者と言いたいのであろうが、瑠璃姫の継子に対する悪意しか感じ取れない。

「まあ、それは。鸚鵡ですか、それとも孔雀」

 少々聡姫は嫌味を込めて言った。瑠璃姫の打掛の孔雀の刺繍が少々派手すぎるように思えたのである。一万石の家でかような衣裳を仕立てるのはかなり無理があるのではないか。常日頃、斉尚は家臣だけでなく家族にも質素倹約を言い、今日の聡姫の打掛も一昨年の宴の時と同じものである。
 だが、瑠璃姫は嫌味に気付かないようで、ホホホと笑った。

「それが犬なのですけれど。毛むくじゃらで犬にはとても見えませぬ」
「まあ、面白い」

 聡姫は笑いながらも、なぜこのような方を奥方にしてしまったのかと兄に同情を禁じえなかった。





 屋敷の別の部屋では奥女中達も仕事を離れ、宴を楽しんでいた。
 上屋敷や中屋敷と違い、下屋敷は広く景色もいい。空気も違うように感じられ、いつもは倹約ということで乏しい食事も今日だけは三の膳まである贅沢なものだった。
 しかも菓子もあり、甘い羊羹に女達の幸福は絶頂に達したようだった。
 いつもは堅苦しい本家望月藩月野家上屋敷の奥を仕切る年寄鳴滝も分家の年寄梅枝うめがえと食事がてら互いの家の情報を交換していた。
 分家の梅枝は声を低めて尋ねた。

「ところで、お志麻しまの方は何故おいでにならなかったのか」
「それが、己のような身の上の者がかような華々しき席に顔を出すのは憚られると」
「ずいぶんとつつしみ深いこと。それならば、若殿様が御正室をお迎えになられても、悋気などに悩まされることはありませぬな」

 お志麻の方とは本家の若殿様斉倫の御手付きの中臈である。若殿様の住む赤坂の中屋敷にともに住んでいる。
 元々口入屋からの紹介で中屋敷の御末として勤めていたところを、昨年、若殿様の目に留まり御手付きになったのであった。父親は亡くなっており、母親は大工の親方と再婚し、そちらには年の離れた弟と妹がいる。
 町人出で教養があるわけではないが、寵愛を笠に着ることもないので、中屋敷だけでなく上屋敷の女達もお志麻を疎ましく思うことなどなかった。
 それなのに、身内だけの集まりにさえ来ないというのは、つつしみにもほどがあると鳴滝は内心思っている。御手付きの中臈は殿様の家族ではないが、家臣として仕える立場である。場を華やかにするために、このような場に出ることも家臣としての仕事だと鳴滝は思っている。
 だが、そんなことはおくびにも出さず、ただ微笑んでいた。
 彼女達のいる部屋の隣の部屋から歓声が聞こえた。若い奥女中らは少々羽目を外しているようだった。
 鳴滝は立ち上がり、襖を開けた。

「声が大きい、気を緩めてはなりませぬぞ」

 女達は一斉に静まり、姿勢を整えた。
 中年寄の松村がそこへ現れ、指示をした。

「そろそろお帰りの支度じゃ。膳を片づけ、掃除を。小姓は奥方様の御手水ちょうずの支度じゃ。おたか、留守居の者への持ち帰りの菓子の数を確かめておくれ。分家の方々も頼みますぞ」

 楽しい時間はあっと言う間に終わってしまう。それでもいつもと違う場所でおいしい物を食べた女達はにこやかな顔でそれぞれの持ち場についた。
 鳴滝は今年もどうやら無事に宴を終えられそうだと安堵していた。

「御年寄様、よろしいですか」

 声が襖の外から聞こえた。下屋敷の用人頭だった。

「いかがした」

 襖を開けた白髪の用人頭はさっと中に入り封書を差し出した。

「上屋敷より急ぎの知らせが参りました」

 上屋敷から急ぎの知らせというのは初めてだった。何事かと開封し一目見るなり鳴滝は立ち上がり、殿様達のいる富士見の間へ向かった。
 一大事だった。




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