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35 アレクサンドラの告白

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 エルンストがアレクサンドラに礼を言えたのは舞踏会の三日後の午後のことだった。
 それまで招待された外国の賓客の帰国の世話をする外務省や宮内省の役人の補助に駆り出され、アレクサンドラの顔を見ることすらできなかったのだ。
 ラグランドのフランク王の帰国の挨拶の場にも立ち会った。フランク王は舞踏会の時同様に堂々としていた。

「貴国では様々な経験ができた。貴国の益々の繁栄を祈る」
「ありがとう。また会える日を楽しみにしています」

 一見するとごく普通の君主同士の挨拶だが、エルンストだけでなく他の役人たちもひやひやしながら立ち会っていた。彼らは王の醜態の噂をすでに耳にしていた。無論、それを計らったのがアレクサンドラであることなど知らないが。
 「様々な経験」という婉曲的な表現に含まれる事々はあのことだろうと皆想像していた。エルンストだけがアレクサンドラに痛めつけられた経験であるとわかっていた。

「また会える日……結婚式か」

 フランク王はすでに結婚しているから、グスタフの事であるのは明白である。
 フランク王はその時だけニヤリと笑った。

「いかなる妃を迎えるか楽しみにしておる。猛獣か、それとも」

 フランク王はちらりとエルンストの方に視線を向けた。
 周囲の人々にはまったく意味不明だった。猛獣のような妃を迎えるとは少々失礼ではないかと後で怒る侍従もいた。
 一人エルンストだけが背筋に冷たい汗をかいていた。グスタフにも意味はわかったものの、知らぬ顔で微笑んでいるしかなかった。

「次は妃殿下もともにおいでを」

 フランク王の妃は第二子を懐妊中で今回は来訪できなかった。帰国後、醜態を知った妃が王に激怒し一時別居することになるのだが、それはまた別の話である。
 それはともかく、エルンストは多忙だった。そしてアレクサンドラもまた女性の賓客への対応で多忙だった。



 他国からの賓客たちがすべて帰国した翌日、エルンストはやっと本来の仕事に戻れた。国王からの文書を各省に運ぶ仕事である。戴冠の諸行事のため、たまっていた書類の入った箱をいくつも持って宮殿の中を小走りに移動していると、不意に背後から声を掛けられた。

「フィンケ秘書官補佐」

 振り返るとシュターデン公爵令嬢アレクサンドラだった。舞踏会の時とは違い、他の女官同様の質素な衣服である。
 身体ごと向きを変えて目を伏せた。

「おそれいります。この通りの姿ですので、正式の礼をとれません。御容赦を願います。先日はどうもありがとうございました」
「どういたしまして。ところで少しお話ししたいことがありますので、私のつぼねにおいで願えませんか」
「これを内務省に持っていかねばならないのですが」
「時間はとらせません」

 公爵令嬢にそう言われたら逆らうわけにはいかない。エルンストは貴族どころか騎士でもない。召使にも等しい身分なのだ。
 アレクサンドラの局は思ったより広くはなかった。公爵令嬢という身分や元女官長見習いという立場を考えれば広くてもおかしくない。ただ、置かれてある椅子、机、テーブル、ソファ等は地味に見えるが国内の一流の工房で作らせたものだった。
 エルンストをソファに座らせると、すぐにエラが茶を持って来た。

「先日はありがとうございました」

 エルンストが礼を言うとエラはどういたしましてとにっこりと微笑んだ。愛嬌のある顔だった。
 エラを下がらせるとアレクサンドラは向かい側に腰かけた。エルンストは立ち上がった。

「改めて先日の御礼を申し上げます。おかげさまで何の怪我もなく緑の宮殿を出ることができました」
「座って頂戴。私こそ久しぶりに暴れられて楽しかったわ」

 エルンストはその言葉の意味がわからず、立ったままだった。暴れるという言葉と公爵令嬢が結び付けられなかった。

「どうしたの? まあ、座って。これでは話ができないでしょ」

 エルンストは書類箱の存在を思い出した。早く話を終わらせなければならない。座ると背の高い令嬢と視線が合った。慌てて目を伏せた。

「失礼しました」
「失礼じゃないわ。私を見てください。話をするには目を合わせなくてはね」

 そんなことを言う貴族はいなかった。秘書官補佐であるエルンストは直接彼らと目を合わせることは許されなかった。宮殿に来てからエルンストは公爵領とは違う振舞をせねばならなかった。

「おそれいります」

 エルンストは顔を上げた。そこには真摯なまなざしの一人の女性がいた。

「話というのは、陛下のこと、それからあなたのこと」

 嫌な予感がしてエルンストはその場を立ち去りたくなった。
 舞踏会の夜のことを思い出す。
 フランク王の側近たちに囲まれて広間から連れ出され、緑の宮殿の奥の寝室で屈辱的な姿で縛られた。賓客である王に逆らえばグスタフがどんな言いがかりをつけられるか、あるいは国同士の関係にひびが入るのではないか、そう思うと逆らえなかった。今思えば小役人のエルンストごときで国が揺らぐはずもないのだが。
 いよいよ王が服を脱ぎ、下半身が下着だけになった時、アレクサンドラが入って来た。王はアレクサンドラの前でエルンストに狼藉を働こうとした。悪夢のようだった。が、彼女は何も言わずに王を投げ飛ばした。彼女よりも大きな王を、である。続いて側近まで投げ飛ばしてしまった。見たこともない早わざだった。彼女はエルンストの姿を一顧だにせずグスタフをそこに残して去った。もしや自分とグスタフの関係に気付いたのではないか。だとしたら、それを咎められるのではあるまいか、エルンストは不安におののいていた。
 アレクサンドラは茶を口にすると意を決したように口を開いた。

「私、あなたと陛下が正直羨ましいの」

 またも予想を外れた言葉が出てきて、エルンストは困惑した。なんと言えばいいのだろうか。

「あ、ごめんなさいね。結論から先に言って。陛下はあなたが大広間からいなくなったことを伝えたら物凄くうろたえていたの。今まで見たことがないくらい。緑の宮殿でも、フランク王に対して怒っていた。一生懸命怒りを抑えてはいたけれど、私にはわかった。あなたも陛下のために身を投げ出そうとしていた。あなたたち二人のことが私、羨ましくて。だって私にはまだそういう相手が見つからないの。ずっと探しているのに」

 美しいアレクサンドラにならいくらでも立派な男性が求婚してもおかしくはないだろう。既婚者のフランク王でさえダンスの相手にと所望したのだから。

「おそれながら、あなた様ならば、多くの殿方が」
「それが問題。私は殿方には用がない」
「え?」
「あなたたちのように命を懸けて愛し合える相手を探したくて女官になったのに……」

 エルンストはしばし言葉を発することができなかった。




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