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第2章.『vice versa』アウロニア帝国編

24 動けないマンティス ④

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*mantis (マンティス) mantide

男性名 ギリシャ語 カマキリ(一説によればバッタ、イナゴ)
前足が祈っている様に見える事から預言者を表す虫ともいわれている。

 ******

王弟殿下の嫡男ガウディは勉学・神学・音楽が良く出来た。
専属の家庭教師が邸を訪れて指導し、剣や体術の訓練も卒なくこなした。

そのため学問に充てる時間は直ぐに終わった。

邸宅の庭で自らバッタなどの虫を捕まえてはカマキリの籠に入れ、捕食する様をぼんやりと見ながら、日々の空き時間を潰した。

この虫カマキリは他の虫に喰われないのだな)

その頃には最初の興奮は、既に無くなっていた。

そんな折、酔った父が珍しく邸宅に帰って来た。

「ガウディ、お前に貴重な虫を見せてやろう」

父が取り出したおおきな白い壺の蓋を外し、そこ入っていたのは、大人の掌程もある大きさの手足の長い蜘蛛だった。

細かい体毛が多く鮮やかな斑点があり、見るからに醜悪な大蜘蛛は明らかにアウロニア固有種では無いものだった。

「異国の商人が珍しいからと持ってきてな。毒蜘蛛だから気をつけろ。人間でも刺されれば直ぐ死ぬからな」

父親はそのまま笑ってふらりと部屋を出て、何処かへと姿を消した。

ガウディはその壺に耳を当てた。

滑らかな感触の磁器の中で、カサカサと大蜘蛛が動く音がする。
(この国の蜘蛛では無い。異質の存在だ)

するとどこからか父親がまたガウディのいる部屋へと戻ってきた。
手にはガウディの飼っていたカマキリの竹籠を数個持っている。

「さあ、よく見ておけよ」
「…あ…!」

何が起こるのか理解していなかったガウディは、次の瞬間父親がその手をいきなり竹籠に突っ込むのを見て、珍しく声を上げた。

「この大蜘蛛こそが絶対王者なのだ」

父親はカマキリの胴を無造作に掴むと壺の中に放り入れて蓋をした。

カサカサカサと先程とは明らかに異なる二匹の虫が動く音がして、しばらくすると、しんと静かになった。

そっと蓋を開けて中を覗くと、僅かな隙間から薄暗い壺の底で、大きな蜘蛛に身体を巻きつかれたカマキリが毒牙を刺されて動けなくなっている。

そこには仰向けで横たわり、動けないカマキリの姿があった。

「はは、ガウディよ。見えるか?これがこの世の変わらぬ姿よ」

その言葉は限り無く陳腐かつ重みは無かったが、幼いガウディには初めて捕食するカマキリを見た時と同様の――雷に打たれた様な衝撃が走った。

「全く…、弱いとは、まっこと惨めよ…」
酔って口の回らぬ父は壺を覗きながら、うひゃひゃと笑う。

(そうか、これが真実なのだ)

この世界の中では常に、強いと言われる者の上にも更なる強者は存在し、
負ければあのカマキリの様に横たわり、ただ喰われる立場に成り果てる。

この王宮の庭の世界中での強者を誇ったとて、いつか真の強者に喰われるのだ。

この世の真理の一つを垣間見た瞬間でもあった。

ガウディは、酒をまたあおり、だらしなく笑う父親の横顔をじいっと見つめた。

 *******

「――陛下!その敵国の女狐から離れて下さいませ!」

雷の音が響く廊下に、少し上擦った様な男のキンキンとした大声が聞こえた。

いつの間にかリラ達の待つ辺りからドロレスが髪を振り乱し、衛兵が止めようとする腕を叩いて振り払いながら、こちらに向かって来ようとしている。

「預言者は権力と癒着してはならないと議会で決められております!いくら陛下であっても…」
「五月蝿いぞ、ドロレス」

押し殺した陛下のザラリとした声に潜む僅かな殺気を感じて、わたし達のところに向かって来ようとしたドロレスの身体は、ピタリと止まった。

あの笑みは消え、いつもの完全な無表情に戻った陛下はわたしの肩から手を離すと
「…まあ、今日は止めておこう」
と言って巻き毛の男の方に向き直った。

「ドロレス、お前がレダの預言者を部屋まで送っていけ」
「な、何を仰いますか、陛下!私が何故…」

「お前が余の邪魔をしたのだ。責任を取って、送り届けろ」

そう言うと、陛下はわたしの事も、送り届ける様に命令したドロレスも見ずに、元来た廊下をスタスタと戻って行ってしまった。

慌てて御付きの奴隷等と衛兵が、その後ろ姿を追い掛けて行く。

残されたわたしとドロレスは、唖然としたまま歩き去る陛下の背中を見送った。

「くそ!…なぜこんな女狐を…!」
ドロレスは、でっぷりとした身体を震わせて悔しそうに吐き出した。

次の瞬間、ドロレスはわたしの方を向いて「ふんっ」と馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「お前の預言などあてにならぬものを!散々ゼピウス国で嘘つきと罵られたエセ預言者が!お前のせいでゼピウスは滅びたのだろうが!」

ヒステリックな声で再び喚き出したドロレスは、衛兵の身体を押しのけてこちらに来ようとした。

その途中で衛兵の持つ槍の柄に足を引っかけたらしく、盛大に転んでしまった。
するとうつ伏せになって、廊下に転んだドロレスからわたしの方に向かって、何かが飛んできた。

「…え?」

まじまじと見るとそれは、ドロレスのふさふさとした巻き毛に似た、金髪の毛の塊だ。

わたしは思わず息を吞んだ。

何故ならうつ伏せのまま転んでいるドロレスの頭は、つるっとしていて髪の毛が全く無かったのだった。

いつの間にかあんなに響きわたっていた雷鳴が、聞こえなくなっていた。
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