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第2章.『vice versa』アウロニア帝国編
20 コダ神の存在
しおりを挟む 設楽月子は幸せだった。そして幸せであることに驚いていた。
半引きこもりだった月子はここ数年、自宅から半径数百メートルの範囲までしか外出していない。そこから先に行くのは恐ろしかった。
しかし今はあっさりとその範囲を越えている。それなのに幸せなのだから驚いていた。
「大丈夫?」
突然声をかけられて、月子の心臓はトクンと跳ね上がった。
いや、跳ね上がったのは突然だったからではないかもしれない。この人の声は来ると分かって聞いても胸がトクンとする。
「う、うん……大丈夫だよ、景君」
そう答えてから、ふと思い出して互いのヘルメットを五回ぶつけた。
二人はバイクのタンデムで国道を走っている。景の住む街から山間部へと向かう道だ。
なぜそうしているのかと言うと、果物狩りをするためだった。
『景君、桃は好き?』
一昨日の夜、月子の母である美空から電話があってそんな質問をされた。
『桃ですか?好きですよ。一番好きな果物かもしれません』
これは高級な桃でもいただけるのかと期待した景だったが、続く言葉は期待とは少し違うものだった。
『良かった。それじゃ、この間のお礼に果物狩りなんてどうかしら?私の姉が果樹園をやってるのよ』
景が最後に果物狩りをしたのは小学校の頃だったか、いまいち曖昧なほど昔のことだ。
ただ何となく楽しかった記憶があるし、何よりお礼ということはタダで食べ放題なのだろう。
桃は結構高い。それがタダで食べ放題というのは魅力的だった。
『ありがとうございます。行きたいです』
そんなこんなで果物狩りをすることになったのだが、景は当然美空と源一郎の夫婦も来るものだと思っていた。
しかし景に同行するのは月子だけだと言う。
『月子ったら、景君に乗せてもらったバイクが気に入っちゃったらしいのよ。あれなら多少遠くても出られそうだって言うから、乗せてあげてくれないかな?』
(……それってつまり、お礼にかこつけて娘の半引きこもりを治療しようってことじゃないか)
景は正確に美空の意図を理解したものの、もはや知らぬ仲でもない月子の治療は断りにくい。
それに何より、やはり桃は食べたかった。
そんなこんなで翌々日、景と月子は二人で果樹園へ向かっているのだった。
ちなみに瑤姫もついて来たがったが、バイクでの外出が今回の主目的なので当然断った。やたら不平を口にしてはいたが。
設楽家を出発する前、遠出する月子が途中で怖くならないか心配ということで、景の方から時々『大丈夫?』と声をかけようという話になった。
もちろん月子の方は大丈夫なら『大丈夫』と答えればいいだけだ。
しかしそこで美空が、
『エンジン音でよく聞こえなかったらいけないし、ダ・イ・ジョ・ウ・ブって意味でヘルメットを五回ぶつけたらいいんじゃない?』
と、なぜか妙にニヤニヤしながら提案してきた。
二人ともニヤニヤの意味は分からなかったものの、別に拒否する理由もない。
それで月子はダ・イ・ジョ・ウ・ブという意味を込めて、後ろからヘルメットを五回ぶつけているのだった。
(月子は本当に大丈夫そうだな……でもなんで急に治ったんだ?そんなにバイクを気に入ったのか?この間もほんのちょっとしか乗ってないのに……)
景は軽く首を傾げながら山道を登っていく。
すでに右を向いても左を向いても周囲は木々ばかりで、空気も街中より澄んでいるように感じられた。
目的地の果樹園は神農神社から三十分ちょっとという割と近いところにある。この立地を利用し、半分は観光農園としてやっているとのことだった。
そこまであと五キロという所から『川中島果樹園』と書かれた看板がいくつか立っていた。
美空の姉の嫁ぎ先がそういう名字の家だったというだけなのだが、景としては看板の横を通り過ぎる度に、
(信玄VS謙信)
などと思ってしまう。
その看板の案内通りに進んで行くと、程なく川中島果樹園に到着した。
観光農園らしく、駐車場が広くて直売所や休憩所の建物はきれいだった。
景はバイクを駐めて、月子が降りるのを手伝ってやった。
「本当に大丈夫なのか?キツかったらすぐ帰るから言うんだぞ」
優しいな、と思いながら月子ははにかんだ。
「あ、ありがとう。自分でもびっくりするくらい平気なの」
「そっか。でも何で急に大丈夫になったんだろうな?」
「な、何でだろうね……」
月子は頬を紅に染め、上目使いに景のことを見た。
人と目を合わせるのが苦手な月子だが、頑張って見つめてみた。上目遣いはポイントが高いと母が教えてくれたのだ。
しかしその甲斐もなく、景はバイクのシートを叩きながら朗らかに笑った。
「きっとそれだけバイクが好きになったってことだな。でも免許を取るんなら気をつけてくれよ?事故ったら大変だからな」
月子はそんな景の鈍感さを少し残念に感じる一方で、どこかホッとしてもいた。
そしてこんな景のどうということもない言葉でも、
(やっぱり優しい)
などと思えるのは、やはり乙女心のなせる業だろう。
ただし、いかに乙女とはいえ月子は歴史の深い半引きこもりだ。
(免許もいいけど、私は二人乗りの後ろがいいな……)
という台詞は思うだけで口からは出てこなかった。
「月子ちゃん!本当にここまで出て来られたんだね!おめでとう!」
そんな明るい声とともに、直売所から中年の女が現れた。
目元は月子や美空に似ているが、ややがっしりした体格の女だ。
「杏香おばさん」
月子がそう呼んだことで、景にもその女が誰かはすぐ分かった。あらかじめ名前を聞いていたからだ。
月子の伯母であり美空の姉、川中島杏香だ。今日は杏香とその娘である桃香が案内してくれるという話だった。
「神社の春祭り以来ねぇ。またうちの果樹園でも会えるようになるなんて本当に嬉しいよ」
杏香も桃香も里帰りという意味を込めて、神社でイベントがある時には顔を出している。
そして半引きこもりだった月子も裏方とはいえ神社で働いていたから、年に数回はこの伯母、そして従姉と顔を合わせていた。軽い対人恐怖症のある月子だが、身内である二人と話すのは苦痛ではない。
しかし果樹園で会うのはもう九年ぶりになる。引きこもる前は毎シーズン来ていたので、久方ぶりの恒例行事といった感じだ。
杏香も月子もどこかノスタルジックな気持ちになり、自然と頬がほころんだ。
「私も嬉しい。思ってたよりもずっと平気だから、これからはいつでも来られそうだよ」
「良かった!じゃあ果樹園本番の秋にもいらっしゃいね!それで、彼が月子ちゃんを連れ出してくれた王子様?」
杏香の恥ずかしい呼び方に、月子の顔は赤くなり景の顔には苦笑が浮かんだ。
「張中景です。今日はよろしくお願いします」
「け、景君はうちの家族によく合う薬を教えてくれたの」
月子も病邪のことは聞いているものの、他人に話すわけにもいかないのでそういうことにしていた。
それにあながち嘘というわけでもない。あれから源一郎は桂枝湯、月子は桂枝加芍薬湯、美空は桂枝加芍薬大黄湯を常備することにしている。
三人とも闘薬術で一時的には良くなってはいるものの、慢性疾患なのでまたいつ調子が悪くなるか分からないのだ。
ちなみに設楽家が原状回復で記憶を消されていないのは、源一郎が病邪を宿しやすいからだ。何かあった時の対応を考えると、家族くらいは事情を知っておいた方が良いだろう。
「私もそのことは美空から電話で聞いてるけど、薬剤師さんの卵なんだよね?」
「ええ、薬学生です」
景は杏香にそう答えながら、今度は『手に職の男を捕まえたわね』くらいのことは言われるのではないかと思った。
というのも、杏香の顔がほてっているように見えたからだ。面白がって興奮しているように感じられる。
しかし続く杏香の言葉はそういったものではなかった。
「もしよかったら、後でうちも相談させてもらえるとありがたいんだけど……」
ほてった顔とは反対に、少し憂うような表情で意外なことを言われた。
ただ、実は薬学生にとってこの手の話は少し困るのだ。
「話を聞くだけは聞けますけど、まだ免許もない学生ですし当てにはしない方がいいですよ。設楽さんちはたまたま上手くいっただけなので……」
これは心からの本音で、知識不足や経験不足で何かやらかしても責任など取れない。
そういう本音が伝わったのか、杏香は観光農園のスタッフらしい愛想の良い笑顔に戻った。
「そうだよね。学生さん相手にいきなり相談とか言って悪かったよ。今日は果物狩りを楽しんでちょうだい」
「すいません、よろしくお願いします」
「妹一家の恩人に一番食べ頃の場所を案内させてもらうよ。ほら、こっち」
歩き出した杏香の後ろを二人でついて行く。
直売所の向こうはすぐ果樹園になっていて、青々とした木々が景達の前に広がっていた。
立てられた園内マップの看板を見るとかなり広いことが分かる。桃の他にも林檎や梨、葡萄、杏、さくらんぼと手広く作っているようだ。
そして今の時期に採れるのは桃とさくらんぼらしい。景はさくらんぼも好きなので内心喜んだ。
「杏香おばさん、今日は桃香ちゃんはいないの?」
月子が前を行く伯母に尋ねた。
久しぶりの従姉だ。会うのを楽しみにしていたし、こうして遠出できるようになったよと伝えたかった。
「いるにはいるんだけど……」
杏香は困ったように笑い、少し言いづらそうに答えた。
「あの子は月のものが重くてねぇ、今日はだいぶしんどいらしいから休憩室で横になってるんだよ」
そう言われ、月子は以前に本人からそんな話をされていたのを思い出した。
「あ。そういえば桃花ちゃん、前にPMSがひどいって言ってたね。のぼせとか頭痛とか肩こりとか……」
言ってから、口を手で押さえて景の方を横目に見た。男である景の前でそういった話は遠慮すべきだったかと思ったのだ。
しかし景は軽く首を横に振る。
「俺のことは気にしなくていいよ。講義で普通に習うことだし、薬学部って半分くらい女だからそういう話は割と聞き慣れてる」
別に気を使っての言葉ではなく、本当のことだった。
なお、PMSとは月経前症候群のことだ。月経前から現れる様々な不調を指す。
杏香も娘からそういった症状を聞いていたのでうんうんとうなずいた。
「あの子は前だけじゃなくて始まってからの生理痛もひどいんだよ。私もそうだったから体質がよく似ちゃったんだろうね」
杏香はため息を吐き、それから自分の頬に手を当てた。
「まぁ私はもう閉経したから生理で困ることはなくなったんだけど、代わりに更年期が始まっちゃったみたいでね。結局ほてりとか頭痛とか肩こりとか、似たような症状に悩まされる毎日よ」
そう言ってまたため息を吐いた杏香は今年で四十七になる。美空の七つ上の姉だ。
閉経年齢の平均は大体五十歳くらいで、四十七というのは早めだが珍しいほど早くはない。
そしてここまで聞いた段階で、景も先ほど相談したいと言われていた内容に察しがついた。
おそらく生理で苦しむ娘、そして更年期が始まった自分の体調について相談したかったのだろう。
「それにしても、手足は冷えるのに顔はほてるのは何でなんだろうね?私も娘もそうなるんだけど、上と下で上手いこと温度を中和してくれればいいのに」
手足が冷えて顔がほてる、というのは『冷えのぼせ』とか『のぼせ冷え』とか呼ばれる症状だ。
これに関しては景も講義で聞いた記憶がある。
「自律神経の乱れなんかで起こるらしいですよ。ストレスとか生活の乱れとかホルモンバランスとか、そういうので自律神経って狂うので」
「ああ、じゃあ私達はまさにホルモンバランスの乱れってことだね」
「そうなんでしょうね」
話の流れで結局は相談を受ける形になってしまった景だったが、これなら治療方法はそう難しくないと思った。
「それなら婦人科にかかってホルモン剤を出してもらえばいいと思いますよ。杏香さんは女性ホルモンの補充療法、桃香さんは超低容量ピルとかになるんじゃないかと思いますけど」
共に更年期や月経の諸問題で一般的に行われている治療だ。
ちゃんと答えられたと思いホッとした景だったが、杏香はうーんと唸ってほてる頬に手を添えた。
「それがねぇ、うちの母が乳がんをやってて」
「えっ」
うちの母というと美空の母、そして月子の祖母でもある。
先日の設楽家の騒ぎの後、月子の祖父母も新農からの労いということで呼び出されたので景も顔を合わせている。
ただ初対面の相手に乳がんの既往など話すわけもなく、当然初耳だった。
そして乳がんは家族歴がリスクファクターの一つであることは景も知っている。
「ごく初期で見つかったから、なんてことはなく治療できたんだけどね」
「そうですか……でもそれだとホルモン剤は避けたくなりますよね。全部が全部じゃないですけど、女性ホルモンで増殖する乳がんは多いですから」
「そうなんだよ。ネットで調べてみたら家族歴は気にしなくていいっていう意見もあるらしいけど」
「むしろ条件によってはいい影響を与えるんじゃないかって考えの医師もいるみたいです。でも患者さんとしては……」
「少しでも不安なものは避けたいって気持ちになるのが普通だろうね。私らもその口だ」
景と杏香が話していた通り、乳がんの家族歴と女性ホルモンの投与に関しては医師によって判断が分かれるところだ。
しかし乳がんのなりやすさには遺伝が関係していることが明らかになっていて、しかも女性ホルモンで増殖する乳がんが多いとなると、避ける医師がいるのは当然のことだろう。
実際に女性ホルモン剤の説明書にも家族歴について注意を促す記述がある。
そしてそんな状況であれば、患者やその家族が不安を覚えてしまうのも当然のことと言えた。
「あと私の知り合いがホルモン補充療法やったんだけど、どうも体に合わなかったみたいでね」
「副作用が出たんですか。どんなのです?」
「確か不正出血と頭痛、吐き気、胸の張りがあってすぐやめたって」
「それ……代表的な副作用がほとんど出てますね」
何もそこまでオンパレードで出なくてもいいだろうに。景はそう思いながら眉を寄せた。
もちろん副作用の出現は個人差が大きいので、杏香や桃香が同じことになるとは限らない。
しかし友人知人の経験談はどうしても印象に残るし、そうでなくとも乳がんの家族歴がある時点で良いイメージは持ちにくいだろう。
「あと血栓のリスクが少しだけど高くなるって話なんかもあるし……」
これも副作用の話だが、ここまでネガティブな情報が並べられる時点で杏香の不安が相当大きいということは分かった。
(杏香さんや桃香さんにホルモン剤は難しいだろうな。でもそうなると、他にどんな治療方が……)
景は講義の記憶を漁った。教官が何か代替療法について話していた気がする。
(……駄目だ。まるで思い出せない)
まだ学生とはいえ、こうなると無力感と悔しさが心に刺さってくる。
いい加減なことも言えず口を閉じていると、胸がズキズキ痛むような気がした。
しかし突然、その痛みが吹き飛んでしまうような声がその耳に飛び込んできた。
あまりにも意外な声だ。
「由紀ちゃん由紀ちゃん、これなんかいいんじゃない!?とっても甘い匂いがするわよ!」
「どれ!?私にも匂わせて!瑤姫ちゃん抱っこ!」
半引きこもりだった月子はここ数年、自宅から半径数百メートルの範囲までしか外出していない。そこから先に行くのは恐ろしかった。
しかし今はあっさりとその範囲を越えている。それなのに幸せなのだから驚いていた。
「大丈夫?」
突然声をかけられて、月子の心臓はトクンと跳ね上がった。
いや、跳ね上がったのは突然だったからではないかもしれない。この人の声は来ると分かって聞いても胸がトクンとする。
「う、うん……大丈夫だよ、景君」
そう答えてから、ふと思い出して互いのヘルメットを五回ぶつけた。
二人はバイクのタンデムで国道を走っている。景の住む街から山間部へと向かう道だ。
なぜそうしているのかと言うと、果物狩りをするためだった。
『景君、桃は好き?』
一昨日の夜、月子の母である美空から電話があってそんな質問をされた。
『桃ですか?好きですよ。一番好きな果物かもしれません』
これは高級な桃でもいただけるのかと期待した景だったが、続く言葉は期待とは少し違うものだった。
『良かった。それじゃ、この間のお礼に果物狩りなんてどうかしら?私の姉が果樹園をやってるのよ』
景が最後に果物狩りをしたのは小学校の頃だったか、いまいち曖昧なほど昔のことだ。
ただ何となく楽しかった記憶があるし、何よりお礼ということはタダで食べ放題なのだろう。
桃は結構高い。それがタダで食べ放題というのは魅力的だった。
『ありがとうございます。行きたいです』
そんなこんなで果物狩りをすることになったのだが、景は当然美空と源一郎の夫婦も来るものだと思っていた。
しかし景に同行するのは月子だけだと言う。
『月子ったら、景君に乗せてもらったバイクが気に入っちゃったらしいのよ。あれなら多少遠くても出られそうだって言うから、乗せてあげてくれないかな?』
(……それってつまり、お礼にかこつけて娘の半引きこもりを治療しようってことじゃないか)
景は正確に美空の意図を理解したものの、もはや知らぬ仲でもない月子の治療は断りにくい。
それに何より、やはり桃は食べたかった。
そんなこんなで翌々日、景と月子は二人で果樹園へ向かっているのだった。
ちなみに瑤姫もついて来たがったが、バイクでの外出が今回の主目的なので当然断った。やたら不平を口にしてはいたが。
設楽家を出発する前、遠出する月子が途中で怖くならないか心配ということで、景の方から時々『大丈夫?』と声をかけようという話になった。
もちろん月子の方は大丈夫なら『大丈夫』と答えればいいだけだ。
しかしそこで美空が、
『エンジン音でよく聞こえなかったらいけないし、ダ・イ・ジョ・ウ・ブって意味でヘルメットを五回ぶつけたらいいんじゃない?』
と、なぜか妙にニヤニヤしながら提案してきた。
二人ともニヤニヤの意味は分からなかったものの、別に拒否する理由もない。
それで月子はダ・イ・ジョ・ウ・ブという意味を込めて、後ろからヘルメットを五回ぶつけているのだった。
(月子は本当に大丈夫そうだな……でもなんで急に治ったんだ?そんなにバイクを気に入ったのか?この間もほんのちょっとしか乗ってないのに……)
景は軽く首を傾げながら山道を登っていく。
すでに右を向いても左を向いても周囲は木々ばかりで、空気も街中より澄んでいるように感じられた。
目的地の果樹園は神農神社から三十分ちょっとという割と近いところにある。この立地を利用し、半分は観光農園としてやっているとのことだった。
そこまであと五キロという所から『川中島果樹園』と書かれた看板がいくつか立っていた。
美空の姉の嫁ぎ先がそういう名字の家だったというだけなのだが、景としては看板の横を通り過ぎる度に、
(信玄VS謙信)
などと思ってしまう。
その看板の案内通りに進んで行くと、程なく川中島果樹園に到着した。
観光農園らしく、駐車場が広くて直売所や休憩所の建物はきれいだった。
景はバイクを駐めて、月子が降りるのを手伝ってやった。
「本当に大丈夫なのか?キツかったらすぐ帰るから言うんだぞ」
優しいな、と思いながら月子ははにかんだ。
「あ、ありがとう。自分でもびっくりするくらい平気なの」
「そっか。でも何で急に大丈夫になったんだろうな?」
「な、何でだろうね……」
月子は頬を紅に染め、上目使いに景のことを見た。
人と目を合わせるのが苦手な月子だが、頑張って見つめてみた。上目遣いはポイントが高いと母が教えてくれたのだ。
しかしその甲斐もなく、景はバイクのシートを叩きながら朗らかに笑った。
「きっとそれだけバイクが好きになったってことだな。でも免許を取るんなら気をつけてくれよ?事故ったら大変だからな」
月子はそんな景の鈍感さを少し残念に感じる一方で、どこかホッとしてもいた。
そしてこんな景のどうということもない言葉でも、
(やっぱり優しい)
などと思えるのは、やはり乙女心のなせる業だろう。
ただし、いかに乙女とはいえ月子は歴史の深い半引きこもりだ。
(免許もいいけど、私は二人乗りの後ろがいいな……)
という台詞は思うだけで口からは出てこなかった。
「月子ちゃん!本当にここまで出て来られたんだね!おめでとう!」
そんな明るい声とともに、直売所から中年の女が現れた。
目元は月子や美空に似ているが、ややがっしりした体格の女だ。
「杏香おばさん」
月子がそう呼んだことで、景にもその女が誰かはすぐ分かった。あらかじめ名前を聞いていたからだ。
月子の伯母であり美空の姉、川中島杏香だ。今日は杏香とその娘である桃香が案内してくれるという話だった。
「神社の春祭り以来ねぇ。またうちの果樹園でも会えるようになるなんて本当に嬉しいよ」
杏香も桃香も里帰りという意味を込めて、神社でイベントがある時には顔を出している。
そして半引きこもりだった月子も裏方とはいえ神社で働いていたから、年に数回はこの伯母、そして従姉と顔を合わせていた。軽い対人恐怖症のある月子だが、身内である二人と話すのは苦痛ではない。
しかし果樹園で会うのはもう九年ぶりになる。引きこもる前は毎シーズン来ていたので、久方ぶりの恒例行事といった感じだ。
杏香も月子もどこかノスタルジックな気持ちになり、自然と頬がほころんだ。
「私も嬉しい。思ってたよりもずっと平気だから、これからはいつでも来られそうだよ」
「良かった!じゃあ果樹園本番の秋にもいらっしゃいね!それで、彼が月子ちゃんを連れ出してくれた王子様?」
杏香の恥ずかしい呼び方に、月子の顔は赤くなり景の顔には苦笑が浮かんだ。
「張中景です。今日はよろしくお願いします」
「け、景君はうちの家族によく合う薬を教えてくれたの」
月子も病邪のことは聞いているものの、他人に話すわけにもいかないのでそういうことにしていた。
それにあながち嘘というわけでもない。あれから源一郎は桂枝湯、月子は桂枝加芍薬湯、美空は桂枝加芍薬大黄湯を常備することにしている。
三人とも闘薬術で一時的には良くなってはいるものの、慢性疾患なのでまたいつ調子が悪くなるか分からないのだ。
ちなみに設楽家が原状回復で記憶を消されていないのは、源一郎が病邪を宿しやすいからだ。何かあった時の対応を考えると、家族くらいは事情を知っておいた方が良いだろう。
「私もそのことは美空から電話で聞いてるけど、薬剤師さんの卵なんだよね?」
「ええ、薬学生です」
景は杏香にそう答えながら、今度は『手に職の男を捕まえたわね』くらいのことは言われるのではないかと思った。
というのも、杏香の顔がほてっているように見えたからだ。面白がって興奮しているように感じられる。
しかし続く杏香の言葉はそういったものではなかった。
「もしよかったら、後でうちも相談させてもらえるとありがたいんだけど……」
ほてった顔とは反対に、少し憂うような表情で意外なことを言われた。
ただ、実は薬学生にとってこの手の話は少し困るのだ。
「話を聞くだけは聞けますけど、まだ免許もない学生ですし当てにはしない方がいいですよ。設楽さんちはたまたま上手くいっただけなので……」
これは心からの本音で、知識不足や経験不足で何かやらかしても責任など取れない。
そういう本音が伝わったのか、杏香は観光農園のスタッフらしい愛想の良い笑顔に戻った。
「そうだよね。学生さん相手にいきなり相談とか言って悪かったよ。今日は果物狩りを楽しんでちょうだい」
「すいません、よろしくお願いします」
「妹一家の恩人に一番食べ頃の場所を案内させてもらうよ。ほら、こっち」
歩き出した杏香の後ろを二人でついて行く。
直売所の向こうはすぐ果樹園になっていて、青々とした木々が景達の前に広がっていた。
立てられた園内マップの看板を見るとかなり広いことが分かる。桃の他にも林檎や梨、葡萄、杏、さくらんぼと手広く作っているようだ。
そして今の時期に採れるのは桃とさくらんぼらしい。景はさくらんぼも好きなので内心喜んだ。
「杏香おばさん、今日は桃香ちゃんはいないの?」
月子が前を行く伯母に尋ねた。
久しぶりの従姉だ。会うのを楽しみにしていたし、こうして遠出できるようになったよと伝えたかった。
「いるにはいるんだけど……」
杏香は困ったように笑い、少し言いづらそうに答えた。
「あの子は月のものが重くてねぇ、今日はだいぶしんどいらしいから休憩室で横になってるんだよ」
そう言われ、月子は以前に本人からそんな話をされていたのを思い出した。
「あ。そういえば桃花ちゃん、前にPMSがひどいって言ってたね。のぼせとか頭痛とか肩こりとか……」
言ってから、口を手で押さえて景の方を横目に見た。男である景の前でそういった話は遠慮すべきだったかと思ったのだ。
しかし景は軽く首を横に振る。
「俺のことは気にしなくていいよ。講義で普通に習うことだし、薬学部って半分くらい女だからそういう話は割と聞き慣れてる」
別に気を使っての言葉ではなく、本当のことだった。
なお、PMSとは月経前症候群のことだ。月経前から現れる様々な不調を指す。
杏香も娘からそういった症状を聞いていたのでうんうんとうなずいた。
「あの子は前だけじゃなくて始まってからの生理痛もひどいんだよ。私もそうだったから体質がよく似ちゃったんだろうね」
杏香はため息を吐き、それから自分の頬に手を当てた。
「まぁ私はもう閉経したから生理で困ることはなくなったんだけど、代わりに更年期が始まっちゃったみたいでね。結局ほてりとか頭痛とか肩こりとか、似たような症状に悩まされる毎日よ」
そう言ってまたため息を吐いた杏香は今年で四十七になる。美空の七つ上の姉だ。
閉経年齢の平均は大体五十歳くらいで、四十七というのは早めだが珍しいほど早くはない。
そしてここまで聞いた段階で、景も先ほど相談したいと言われていた内容に察しがついた。
おそらく生理で苦しむ娘、そして更年期が始まった自分の体調について相談したかったのだろう。
「それにしても、手足は冷えるのに顔はほてるのは何でなんだろうね?私も娘もそうなるんだけど、上と下で上手いこと温度を中和してくれればいいのに」
手足が冷えて顔がほてる、というのは『冷えのぼせ』とか『のぼせ冷え』とか呼ばれる症状だ。
これに関しては景も講義で聞いた記憶がある。
「自律神経の乱れなんかで起こるらしいですよ。ストレスとか生活の乱れとかホルモンバランスとか、そういうので自律神経って狂うので」
「ああ、じゃあ私達はまさにホルモンバランスの乱れってことだね」
「そうなんでしょうね」
話の流れで結局は相談を受ける形になってしまった景だったが、これなら治療方法はそう難しくないと思った。
「それなら婦人科にかかってホルモン剤を出してもらえばいいと思いますよ。杏香さんは女性ホルモンの補充療法、桃香さんは超低容量ピルとかになるんじゃないかと思いますけど」
共に更年期や月経の諸問題で一般的に行われている治療だ。
ちゃんと答えられたと思いホッとした景だったが、杏香はうーんと唸ってほてる頬に手を添えた。
「それがねぇ、うちの母が乳がんをやってて」
「えっ」
うちの母というと美空の母、そして月子の祖母でもある。
先日の設楽家の騒ぎの後、月子の祖父母も新農からの労いということで呼び出されたので景も顔を合わせている。
ただ初対面の相手に乳がんの既往など話すわけもなく、当然初耳だった。
そして乳がんは家族歴がリスクファクターの一つであることは景も知っている。
「ごく初期で見つかったから、なんてことはなく治療できたんだけどね」
「そうですか……でもそれだとホルモン剤は避けたくなりますよね。全部が全部じゃないですけど、女性ホルモンで増殖する乳がんは多いですから」
「そうなんだよ。ネットで調べてみたら家族歴は気にしなくていいっていう意見もあるらしいけど」
「むしろ条件によってはいい影響を与えるんじゃないかって考えの医師もいるみたいです。でも患者さんとしては……」
「少しでも不安なものは避けたいって気持ちになるのが普通だろうね。私らもその口だ」
景と杏香が話していた通り、乳がんの家族歴と女性ホルモンの投与に関しては医師によって判断が分かれるところだ。
しかし乳がんのなりやすさには遺伝が関係していることが明らかになっていて、しかも女性ホルモンで増殖する乳がんが多いとなると、避ける医師がいるのは当然のことだろう。
実際に女性ホルモン剤の説明書にも家族歴について注意を促す記述がある。
そしてそんな状況であれば、患者やその家族が不安を覚えてしまうのも当然のことと言えた。
「あと私の知り合いがホルモン補充療法やったんだけど、どうも体に合わなかったみたいでね」
「副作用が出たんですか。どんなのです?」
「確か不正出血と頭痛、吐き気、胸の張りがあってすぐやめたって」
「それ……代表的な副作用がほとんど出てますね」
何もそこまでオンパレードで出なくてもいいだろうに。景はそう思いながら眉を寄せた。
もちろん副作用の出現は個人差が大きいので、杏香や桃香が同じことになるとは限らない。
しかし友人知人の経験談はどうしても印象に残るし、そうでなくとも乳がんの家族歴がある時点で良いイメージは持ちにくいだろう。
「あと血栓のリスクが少しだけど高くなるって話なんかもあるし……」
これも副作用の話だが、ここまでネガティブな情報が並べられる時点で杏香の不安が相当大きいということは分かった。
(杏香さんや桃香さんにホルモン剤は難しいだろうな。でもそうなると、他にどんな治療方が……)
景は講義の記憶を漁った。教官が何か代替療法について話していた気がする。
(……駄目だ。まるで思い出せない)
まだ学生とはいえ、こうなると無力感と悔しさが心に刺さってくる。
いい加減なことも言えず口を閉じていると、胸がズキズキ痛むような気がした。
しかし突然、その痛みが吹き飛んでしまうような声がその耳に飛び込んできた。
あまりにも意外な声だ。
「由紀ちゃん由紀ちゃん、これなんかいいんじゃない!?とっても甘い匂いがするわよ!」
「どれ!?私にも匂わせて!瑤姫ちゃん抱っこ!」
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