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第1章.嘘つき預言者の目覚め
51 レダの預言者 ②
しおりを挟むニキアスは寝台より起き上がった。
「マヤ…止めろ。君は誇り高い王女で預言者のはずだろう?」
その声にはマヤの行動への困惑が混じっていた。
マヤは地面に平服したまま無言で動かないままだ。。
「マヤ…頭を上げろ。俺に…そんな事をしてはいけない」
ニキアスは戸惑った様にマヤへ言った。
マヤは平服したままの姿勢で少し震える様な小声でニキアスへ尋ねた。
「…何故ですか?」
「預言者が頭を下げるのは神だけだろう」
マヤは頑なに頭を床につけ、平服したままの姿勢を続けている。
「…マヤ?」
ニキアスはマヤの近くに座り片膝をついて、彼女を覗き込んだ。
『ニキアス…貴方を助けたいの。わたくしが望むのはそれだけ…』
マヤはゆっくり顔を上げたが、その頬は何故か流れる涙に濡れていた。
そして、その声は今までのマヤ王女とは異なる女の声の様にニキアスには聞こえたのだ。
『…貴方に身も心も捧げてよいと思ったから頭を垂れたの...わたくしの愛する人だから』
*****
目の前にいるニキアスの身体がわたしの言葉を聞いて一瞬グラっと揺れた。
不思議な感覚だった。
わたしとわたしでない誰かが、このマヤ王女の中に同時にいる感覚だ。
あの外側から映画を観るような感覚がわたしを包んでいる。
何故ならたった今、唇を動かしてニキアスへ喋ったのは『本来のマヤ王女』に他ならなかった。
******
(――一体…何が起こっているんだ?)
ニキアスは戸惑っていた。
『わたくしが身も心も捧げてよいと思ったから頭を垂れたの…』
マヤの涙を見てその言葉を聞いた瞬間、ニキアス自身の視界と身体は思い切り何か揺さぶられた感覚に襲わた。
そのまま思わず倒れそうになるのを、ニキアスは堪えた。
一瞬の事だったが――かつて体感した事の無い、不思議な感覚だ。
ふとマヤを見ると、何故か彼女は安堵した様に微笑んでいる。
『良かった。これでひとつ…メサダによって歪んでしまった運命を変えられるわ』
(――メサダ神?)
何故ここでいきなりメサダ神が出てきたのかが分からない。
しかしマヤ王女は、今まで見た事がない程穏やかな微笑みを浮かべていた。
『ニキアス…これで貴方を助けられるわ』
碧い瞳に涙を浮かべたまま、マヤは手を伸ばしニキアスの左目を覆う面布にそっと触れた。
『…ごめんなさい…』
「――うッ!?」
いきなりマヤが触れた場所の面布が燃えるように熱くなり、ニキアスが思わず手でそれをはぎ取った瞬間――。
何故かマヤがそのまま地面に倒れた。
******
白い大きな親子犬がニキアスのテントの前で鎮座している。
その姿はまるでニキアス将軍のテントの番人の様だ。
ユリウスがニキアスのテントの方に近づくと、親犬がほんの少しだが牙を剝いて唸った。
「何だよ…入っちゃいけないのか?」
ユリウスが文句を言うと、今度は子犬が足元に走ってきて構ってくれと言わんばかりにじゃれついて来た。
「な…なんだよ、分かったよ」
子犬と遊んでいる間にも、白い親犬がニキアス将軍のテントを気にして何度も見やっているのを、ユリウスは見逃さなかった。
よく観察すれば、あの犬が聞き耳を立てているようにも見える。
(一体、中で何が行われているんだ…)
考えてふと思い当たるとユリウスは少し赤くなった。
「いやいや…そうか。そうだよな、お邪魔か…」
とその時テントの中から
「――マヤッ!」
と王女の名前を呼ぶニキアスの鋭い声が聴こえた。
「ニキアス様!」
ユリウスはテントの入口方向へと走った。
今度ばかりは、あの白い親犬がユリウスを遮ることはなかった。
*******
――目の前で炎が燃え盛っている。
黒い煙、熱風は私の短く切られた髪を焦がし後ろ手と両足を縛る縄で、立ち上がる事すらできない――。
「...だめだわ。…何度見ても変わらない」
マヤは寝台に起き上がり顔を覆った。
(レダ神様…この未来をどうやったら変えられるのでしょうか)
変えられなければ、マヤもニキアスも終わりなのに。
ゼピウスの首都がアウロニア帝国軍に包囲されて数週間が経つ。
マヤは幽閉されていた塔の頂上からそれを眺めていた。
父王は自分達の籠城分は確保し、城壁内に立てこもっている様だ。
王城の周りから次々と煙が上がり、父王達に確実に迫っているのが分かる。
昨日塔へ最後の食料を運んできた兵らが言っていた。
「申し訳ありません…姫様。オレたちもそれぞれに分かれて逃げる事にします。もうここには誰もこないでしょう」
マヤは軽く頷いて言った。
「わかったわ。今までご苦労様でした…道中気をつけて」
その言葉を聞いた兵らは顔を見合わせてから、出しにくそうにマヤへ絹の布で作られた袋を渡した。
「姫様…宜しければこれをお使いください」
兵が渡してくれたのは、布に包まれた一振りの短刀だった。
これは戦い用では無く――自害する為の物だろう。
アウロニア帝国の兵に穢される前に、王女の矜持をもって自ら死を選べと言うか。
マヤは暫く短刀を見つめていたが、それを仕舞って絹袋を兵へ返すと
「これは使わないから持って行ってちょうだい。あなた方が必要になる事もあるでしょうから」
「わたしはレダ神の御心にお任せします」
そう言うとマヤはまた数ヶ所で煙をあげる王宮の方を見つめた。
*****
「…剣でついたら痛いじゃないの」
マヤは呟いた。
自分は非力なのだ。
突きどころが悪かったら死ぬどころか長く苦しまなければならないかもしれない。
兵達の姿が消えると同時にマヤは机の引き出しを開けた。
(そんなものを使わなくても死ねる)
引き出しの中には小袋が入っていた。
その中から黒く丸い丸薬を手の平に取り出し、また袋の中で戻した。
数年前神殿から塔へ移される際、神官長に自らの純潔を守る為にも『痛みや苦しみが無いように自決する方法』を教えて欲しいとお願いしておいた。
数か月後神官長が贈ってきたのが、引き出しの中に置いてある小袋だった。
『一生目覚めぬ眠りに入れます』
とだけレダの神殿で使っていた蝋板に書いてあった。
(神殿では預言者は基本的に自ら死を選ぶことは許されてないから)
薄々この国の行く末を知っていた神官長なりの、精一杯の遺憾の現れだったのかもしれない。
削られた蝋板の文字を指でぎゅうと押して平らにならすと、八歳の誕生日の事を思い出しながらそれを撫でた。
思い出せば、あれがマヤの生涯の中で一番嬉しかった日だったのかもしれない。
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