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第1章.嘘つき預言者の目覚め
50 レダの預言者 ①
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ニキアスは半身だけ起き上がった。
ほの昏いテントの中で細い手首を掴まれたマヤが驚いた表情をしている。
(彼女が一体なぜにここにいるのだ?)
わざわざ第三部隊から、ここまで来たのか。
今は彼女に会ってはいけない。
折角何事も無い風を装っているのに。
ニキアスは、またも自分の気持ちが混乱していくのを感じた。
『彼女に会いたいのか、会いたくないのか』
アウロニアへ帰国するという、何より大事な使命を必ず遂行することが一番大事である筈なのに。
何故こんなに彼女の事を考えてしまうのか――自分でも訳が分からない。
これは恋愛感情とやらではない。
(きっと幼い頃の記憶を美化したい自分がいるのだ)
…愚かな執着にすぎない。
『だからなのだ』とニキアスは自分に言い聞かせた。
その時、マヤが柔らかそうな桜色の唇を開いて言った。
「ニキアス様、起こしてしまってごめんなさい。あの…ご体調は大丈夫ですか?」
「た…体調?」
ニキアスは掴んでいた彼女の手首を離し、マヤの言葉を鸚鵡の様に繰り返した。
「はい。ナラがニキアス様のお顔が赤かったと言っていました。お風邪を引かれましたか?昨夜はテントでお休みになりませんでしたし、その前はハルケ山に行く強行軍でしたから大変お疲れになっていたのではないかと――」
マヤは憂いを帯びた碧い瞳でニキアスを見上げた。
「お身体を壊して熱でも出たのではないかと心配で…」
ニキアスは自分でも固い口調になっている事が分かっていた。
「心配?適当な事を言うな、マヤ王女…何故今更君が俺の心配をする?」
*******
(え?…どうしよう)
また嘘をついていると思われているのかしら。
(ニキアスの口調が凄く冷たい気がするわ)
「あの…それは…」
「それは?何だ」
(い…言わなくちゃ)
ごくりとわたしの喉が鳴ってしまった。
ニキアスが怪訝そうな表情をしてわたしを見つめている。
「わ…わたくしが…ニキアス様の事がとても大事だから…です」
言ってから、自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。
(だってこれは嘘じゃないもの…)
拗れに拗れていたけれど本当はマヤはニキアスの事が好きだったし、何ならもしかして処刑される寸前までそうだったかもしれない。
(激しい愛情は憎しみにも変わりやすいというし)
わたし自身も今はニキアスの身体がとても心配で、彼に好感も持っている。
だからこのままニキアスには殺されたくないし、彼にも不幸になって欲しくない。
――すると。
「――嘘だ」
ニキアスは吐き捨てるようにひとことだけ言った。
(...え?やだ、信じてもらえてないわ)
「出て行け――自分のテントへ戻れ」
ニキアスは無表情のまま氷のような声音でわたしへと告げた。
「う…嘘じゃありません!信じてください…」
わたしは思わずニキアスへ縋るように言った。
「ハルケ山の件は別にしてもその言葉は信じられない。
君は過去一度ならず二度目も俺を拒絶した。悪いがもう三度目はごめんだ。
それにきみの父、母、姉を殺したのは俺だ――俺の指示だ」
ニキアスが務めて大きな声を出さないように、自分の感情をコントロールしているのは握りしめている彼の手を見れば明らかだった。
「帰国して俺が望めば戦勝の褒美として君をもらい受けることも出来る。もう今度は君がどんなに俺を拒絶しても、だ」
ニキアスはわたしを見ながら仄暗く笑った。
「――どうだ?俺ごときに純潔を奪われたくないと思うか?それならやはり自ら死を選ぶか?最早それでも構わない。どちらを選んでも結局君も俺のものにはならない…」
ニキアスの言葉はどんどん小さくなり、最後は独り言の様だった。
(そうか…)
それを聞いてわたしは分かったのだ。
(そうだったんだわ)
――こうやってニキアスは闇に堕ちて行くんだ。
ニキアスが恐れてるのは絶望だ。
彼に繰り返し訪れ落とされる失意と落胆。
『何故自分に普通の幸福すら訪れないのか』
『何故こんなに全てが上手くいかないのか』
叩き落とされ、なんとか立ち上がってもまた無残に落とされる。
小説『亡国の皇子』の中の悪役として設定されている中で、どうしてもニキアスは強制的に簒奪者にならざるを得ない状況が作られるといった所なのだろう。
神聖なる預言者を穢しアウロニア帝国の皇位を卑しい方法で無碍に奪う『悪の存在』として仕立て上げるために。
蝋燭の炎だけで照らされたテントの中、ニキアスの回りに黒い濃い影が落ちている。
そのディティ―ルはまるで、これから彼に訪れる不幸や不吉の予兆の様にも見えた。
********
『けれど彼をそんな風にはさせないわ。影はただの影に過ぎないのだから』
一瞬、誰かの声が頭に響いた気がした。
(――これは誰の声?)
この間聞いた女性の声では無い気がするわ。
(待って…待って、今そんな事を考えている場合では無いんだわ)
わたしはプルプルと少し頭を振るとニキアスへと言った。
「あの…分かりました。でも折角の褒美として皇帝陛下にお願いするのに、わたくしごときで宜しいのでしょうか?」
「何…?」
「わたくしごときです。もっとお美しい方や貴重なお品を賜る事も出来るでしょう。ですからわたくしで本当に良いのか、ニキアス様が後悔なさらないかと心配になりました」
「――君は何を言っているんだ?」
ニキアスはわたしの返答に信じられないといった感じで、わたしの顔を見つめている。
「では…全てニキアス様の望む様にして頂いて良いです」
「何?…」
ニキアスは拒絶か罵倒か軽蔑のどれかか、もしくはわたしが嘆くかだと思ったのだろう。
わたしの言葉を今一つ飲み込めていない様だった。
「ただ一つ…お願いがあります」
わたしの言葉に眉を顰めてニキアスは尋ねた。
「…お願い?なんだそれは」
「――はい。失礼いたしますニキアス様」
わたしはニキアスの前で膝を折り、両腕を胸の前で交差して自分の頭を深く下げた。
これは神殿での――神へ祈りと供物をささげる姿勢だ。
そして――預言者であるわたし自身が神へと全てを捧げる祈りの姿勢だった。
(おかしいわ?…何故わたしがそれを知っているのだろう?)
尤もな疑問が一瞬わたしの頭に浮かんだけれど、直ぐにそれは消えてしまった。
(女神はきっとお許しになってくださる。レダ神様…これはニキアスに奪わせない為に必要な事なのです)
「…マヤ。一体何をやっている…?」
わたしの祈りの姿に唖然とするニキアスへと、わたしは静かに言った。
「わたくし…ゼピウス国第二王女、そしてレダの預言者であるマヤは――アウロニア帝国将軍ニキウス=レオス様へわたくしの全てを捧げます。どうぞ…お受け取りください」
それからわたしはレダ神に捧げるが如く、深く頭を垂れて地面へぴたりと平服したのだった。
*******
その瞬間また頭の中で声が聞こえた。
今度はこの間の――(『奪われてはなりません』の)女性の声だ。
『でかした。今回は良くやったぞマヤ王女』
聴こえた彼女の声は――とても満足そうに響いたのだった。
ほの昏いテントの中で細い手首を掴まれたマヤが驚いた表情をしている。
(彼女が一体なぜにここにいるのだ?)
わざわざ第三部隊から、ここまで来たのか。
今は彼女に会ってはいけない。
折角何事も無い風を装っているのに。
ニキアスは、またも自分の気持ちが混乱していくのを感じた。
『彼女に会いたいのか、会いたくないのか』
アウロニアへ帰国するという、何より大事な使命を必ず遂行することが一番大事である筈なのに。
何故こんなに彼女の事を考えてしまうのか――自分でも訳が分からない。
これは恋愛感情とやらではない。
(きっと幼い頃の記憶を美化したい自分がいるのだ)
…愚かな執着にすぎない。
『だからなのだ』とニキアスは自分に言い聞かせた。
その時、マヤが柔らかそうな桜色の唇を開いて言った。
「ニキアス様、起こしてしまってごめんなさい。あの…ご体調は大丈夫ですか?」
「た…体調?」
ニキアスは掴んでいた彼女の手首を離し、マヤの言葉を鸚鵡の様に繰り返した。
「はい。ナラがニキアス様のお顔が赤かったと言っていました。お風邪を引かれましたか?昨夜はテントでお休みになりませんでしたし、その前はハルケ山に行く強行軍でしたから大変お疲れになっていたのではないかと――」
マヤは憂いを帯びた碧い瞳でニキアスを見上げた。
「お身体を壊して熱でも出たのではないかと心配で…」
ニキアスは自分でも固い口調になっている事が分かっていた。
「心配?適当な事を言うな、マヤ王女…何故今更君が俺の心配をする?」
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(え?…どうしよう)
また嘘をついていると思われているのかしら。
(ニキアスの口調が凄く冷たい気がするわ)
「あの…それは…」
「それは?何だ」
(い…言わなくちゃ)
ごくりとわたしの喉が鳴ってしまった。
ニキアスが怪訝そうな表情をしてわたしを見つめている。
「わ…わたくしが…ニキアス様の事がとても大事だから…です」
言ってから、自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。
(だってこれは嘘じゃないもの…)
拗れに拗れていたけれど本当はマヤはニキアスの事が好きだったし、何ならもしかして処刑される寸前までそうだったかもしれない。
(激しい愛情は憎しみにも変わりやすいというし)
わたし自身も今はニキアスの身体がとても心配で、彼に好感も持っている。
だからこのままニキアスには殺されたくないし、彼にも不幸になって欲しくない。
――すると。
「――嘘だ」
ニキアスは吐き捨てるようにひとことだけ言った。
(...え?やだ、信じてもらえてないわ)
「出て行け――自分のテントへ戻れ」
ニキアスは無表情のまま氷のような声音でわたしへと告げた。
「う…嘘じゃありません!信じてください…」
わたしは思わずニキアスへ縋るように言った。
「ハルケ山の件は別にしてもその言葉は信じられない。
君は過去一度ならず二度目も俺を拒絶した。悪いがもう三度目はごめんだ。
それにきみの父、母、姉を殺したのは俺だ――俺の指示だ」
ニキアスが務めて大きな声を出さないように、自分の感情をコントロールしているのは握りしめている彼の手を見れば明らかだった。
「帰国して俺が望めば戦勝の褒美として君をもらい受けることも出来る。もう今度は君がどんなに俺を拒絶しても、だ」
ニキアスはわたしを見ながら仄暗く笑った。
「――どうだ?俺ごときに純潔を奪われたくないと思うか?それならやはり自ら死を選ぶか?最早それでも構わない。どちらを選んでも結局君も俺のものにはならない…」
ニキアスの言葉はどんどん小さくなり、最後は独り言の様だった。
(そうか…)
それを聞いてわたしは分かったのだ。
(そうだったんだわ)
――こうやってニキアスは闇に堕ちて行くんだ。
ニキアスが恐れてるのは絶望だ。
彼に繰り返し訪れ落とされる失意と落胆。
『何故自分に普通の幸福すら訪れないのか』
『何故こんなに全てが上手くいかないのか』
叩き落とされ、なんとか立ち上がってもまた無残に落とされる。
小説『亡国の皇子』の中の悪役として設定されている中で、どうしてもニキアスは強制的に簒奪者にならざるを得ない状況が作られるといった所なのだろう。
神聖なる預言者を穢しアウロニア帝国の皇位を卑しい方法で無碍に奪う『悪の存在』として仕立て上げるために。
蝋燭の炎だけで照らされたテントの中、ニキアスの回りに黒い濃い影が落ちている。
そのディティ―ルはまるで、これから彼に訪れる不幸や不吉の予兆の様にも見えた。
********
『けれど彼をそんな風にはさせないわ。影はただの影に過ぎないのだから』
一瞬、誰かの声が頭に響いた気がした。
(――これは誰の声?)
この間聞いた女性の声では無い気がするわ。
(待って…待って、今そんな事を考えている場合では無いんだわ)
わたしはプルプルと少し頭を振るとニキアスへと言った。
「あの…分かりました。でも折角の褒美として皇帝陛下にお願いするのに、わたくしごときで宜しいのでしょうか?」
「何…?」
「わたくしごときです。もっとお美しい方や貴重なお品を賜る事も出来るでしょう。ですからわたくしで本当に良いのか、ニキアス様が後悔なさらないかと心配になりました」
「――君は何を言っているんだ?」
ニキアスはわたしの返答に信じられないといった感じで、わたしの顔を見つめている。
「では…全てニキアス様の望む様にして頂いて良いです」
「何?…」
ニキアスは拒絶か罵倒か軽蔑のどれかか、もしくはわたしが嘆くかだと思ったのだろう。
わたしの言葉を今一つ飲み込めていない様だった。
「ただ一つ…お願いがあります」
わたしの言葉に眉を顰めてニキアスは尋ねた。
「…お願い?なんだそれは」
「――はい。失礼いたしますニキアス様」
わたしはニキアスの前で膝を折り、両腕を胸の前で交差して自分の頭を深く下げた。
これは神殿での――神へ祈りと供物をささげる姿勢だ。
そして――預言者であるわたし自身が神へと全てを捧げる祈りの姿勢だった。
(おかしいわ?…何故わたしがそれを知っているのだろう?)
尤もな疑問が一瞬わたしの頭に浮かんだけれど、直ぐにそれは消えてしまった。
(女神はきっとお許しになってくださる。レダ神様…これはニキアスに奪わせない為に必要な事なのです)
「…マヤ。一体何をやっている…?」
わたしの祈りの姿に唖然とするニキアスへと、わたしは静かに言った。
「わたくし…ゼピウス国第二王女、そしてレダの預言者であるマヤは――アウロニア帝国将軍ニキウス=レオス様へわたくしの全てを捧げます。どうぞ…お受け取りください」
それからわたしはレダ神に捧げるが如く、深く頭を垂れて地面へぴたりと平服したのだった。
*******
その瞬間また頭の中で声が聞こえた。
今度はこの間の――(『奪われてはなりません』の)女性の声だ。
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