9 / 14
9 水面に映る精霊の魔法
しおりを挟む(――え!?)
温かく柔らかい唇の感触。
これって…。
ナイジェル様がわたしにキスしたのだ。
ナイジェル様が?
――わたしに!?
「キャ――ッ!!」
両隣の令嬢達からいままでの数倍は大きい耳をつんざくような悲鳴が聞こえて、わたしはハッと我に返った。
「ん、な――…!」
慌ててわたしは自分の肩を抑えて唇から顔を引きはがす。
見下ろしたナイジェル様は何故かまだ怒った表情をしている。
(ええ!?…キスされた方なのがわたしなのになんでナイジェル様が怒っているの?)
「¥%&$#!はしたないわ!!&%#¥…なんて事を――!!」
真っ赤になった伯爵令嬢達はこのまま卒倒するんじゃないかと心配に成るほどの甲高い声で、わたしを批難した。
言葉の内容の半ばが何を言っているのか聞き取れない位だ。
口論が気になって外で待機していたギャラリー達も、令嬢の声で野次馬の如くわざわざパウダールームへ集結して、その場は一時騒然となってしまった。
お父様が今までとは違う厳しい声でソファに座るナイジェル様を見下ろした。
「よくも事態を更に大きくしてくれましたな。さあ、急いでここを離れますよ。ナイジェル様」
わたしは慌ててナイジェル様の身体を抱え上げてさっきよりもずっと騒がしくなったパウダールームを後にしたのだった。
+++++
ここは魔術師団団長であるお父様の執務室である。
パウダールームを這う這うの体でやっと抜け出したわたし達は、王宮魔術師団にあるお父様の仕事場兼研究所へと逃れたのだった。
お父様の仕事場は『実は物置になっているだけでは?』と疑いたくなるほど、ガラクタや怪しげな魔法の道具があちらこちらに雑然と並べられている。
「何だ、これ?男ものの靴下か?何故半分しか無いんだ?」
「…あら?このお鍋、すごく不思議…。取っ手の部分に固まっているのはノームだわ…」
「…そこいらの物に勝手に触らんといてください、ナイジェル様。それは『呪いの靴下』ですよ」
(ナイジェル様は慌てて靴下から手を離した)
「――ソフィア、お前もだ。ノームの魔法が強制発動したらどうする。鍋が勝手に動くぞ」
お父様は興味半分で魔法や呪いの物品を触ったり持ち上げていたナイジェル様とわたしを注意した。
「…申し訳ない」
「はあい…ごめんなさい」
「全く二人とも落ち着かんですな。そこの椅子にでも座っていてください」
わたし達は古びたソファに座って大人しく待つ様に指示されてしまった。
+++++
わたしは並んで隣に座るナイジェル様の表情が見た。
先程から憮然としてわたしの方を見ないのがとても気になってしまう。
(何故かしら…ずっとナイジェル様の機嫌が悪いわ)
あの逢い引き現場を見たからと言えばそれまでなのだけど。
やはりそれ程セリーヌ嬢の事が気にかかっているのだろうか。
(と言うよりも…)
あのパウダールームでの一件以降――機嫌が悪い気がする。
(でもそれは…そうなってしまうのかも)
ナイジェル様のお話を聞けば、もともと一方的にどんどんと距離を詰めて来られる女性が苦手な様子だったから。
パウダールームでも両隣から超音波並みの女性の金切り声を浴びせられてしまった為に不機嫌になっても仕方がないのかもしれない。
ふとわたしはさっきのナイジェル様からのキスをいきなり思い出してしまった。
かあっと顔が熱を帯びるのが分かる。
(お、落ち着いてソフィア…舞い上がってはいけないわ。ナイジェル様の事だからまた『売られた喧嘩だから受けて立った』位のお気持ちだったのよ、きっと…)
『婚約破棄』をする相手にそんな気持ちなんてある訳がない。
期待をしてはいけないのだ。
(さっきのキスの事は忘れよう…)
わたしは顔をふるふると横に振った。
「――ナ、ナイジェル様…あの、まだ怒っていらっしゃいますか?」
暗に御令嬢の件を尋ねるとナイジェル様はきっぱりと首を横に振った。
「いや違う。あの令嬢達の事はもう気にしていない。自分の不甲斐なさに腹を立てている…ただの自己嫌悪だ」
「まあ……」
(ではやはりセリーヌ様の事で思う事がおありなんだわ)
『婚約の破棄』――その事を考えるとわたしの気持ちもまた落ち込んできてしまった。
「おっと、ようやく見つけましたぞ。ちと彼女に尋ねてみる事にしましょう」
声に振り返ると、丁度お父様は無造作に積まれた魔法の道具から銀色の水盆と小さな鐘を取り出していた。
銀色の水盆は細かい精霊文字が美しい細工模様で刻まれている代物だ。
お父様は息で積もっていた埃をふうっと吹いてそれを月の光が当たる窓辺へと持って行く。
そしてピッチャーからゆっくりと水盆へ水を注いだ後――。
水面に片手を翳して月の精霊の呪文を唱え始めた。
+++++
揺れる水面に一緒に満月も揺れながら映っている。
お父様の月の精霊の詠唱は続く。
お父様が呪文を小さく唱えながら時折鐘を振り、リーン…という澄んだ音を鳴らした。
すると水盆に張ってある水に映る満月から銀色に輝く小さな人影のようなものが現れて、ふるふると揺れながらリーンと鳴る鐘の音に合わせて、そのシルエットが伸びたり縮んだりしている。
その光景をわたしとナイジェル様も息を詰めながら見守っていた。
魔法陣の描かれた銀の水盆に手で翳しながら、お父様はわたし達の方に向かって説明を始めた。
「――やはり原因は月の精霊の…彼女の魔法の様ですな」
「な、何?…一体何故そんな事を?」
ナイジェル様は訳が分からないと混乱した様にお父様へと尋ねた。
確かに月の精霊がわざわざ何故そんな魔法をかけた(発動させた?)のか意味が分からない。
しかも『婚約破棄』の――宣言の、あのタイミングで。
「まあ…それも含めて後で彼女に尋ねてみましょう」
お父様は水盆に映っている月の真ん中で伸び縮みをする銀色の人影と、会話をしている様に見えた。
「そもそもこの魔法の効力は短く、眠ってしまえば翌朝はお互いの身体に戻っている程度のものらしいですぞ。まあ本当に一晩限りですな」
そしてわたしとナイジェル様の顔を交互に見てから、また水盆の方を見やった。
「しかし…色々と混乱するような事態が起こっているようなので。今すぐ彼女に魔法は解除して貰いましょう。いいですね?ナイジェル様、ソフィア」
「あ、ああ、そうだな」
「ええ…分かりましたわ」
「では二人共良く鐘の音を聞いて集中して。どんなに音が大きくなっても耳を塞いだりしてはいけません」
そう言うと、お父様はまた呪文を唱えながら鐘を振り始めた。
澄んだ鐘の音が徐々に大きくなっていく。
…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…。
徐々に鐘の音が耳の中で鳴り響き、耐えられなくなるぐらいの音になると同時に頭痛と眩暈が起こり始めて、わたしはこめかみをぐっと押さえた。
薄目で見れば、隣に座るナイジェル様も苦痛の表情をされている。
…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…リーン…。
そして急に――その音が消えた。
12
お気に入りに追加
661
あなたにおすすめの小説
始まりはよくある婚約破棄のように
喜楽直人
恋愛
「ミリア・ファネス公爵令嬢! 婚約者として10年も長きに渡り傍にいたが、もう我慢ならない! 父上に何度も相談した。母上からも考え直せと言われた。しかし、僕はもう決めたんだ。ミリア、キミとの婚約は今日で終わりだ!」
学園の卒業パーティで、第二王子がその婚約者の名前を呼んで叫び、周囲は固唾を呑んでその成り行きを見守った。
ポンコツ王子から一方的な溺愛を受ける真面目令嬢が涙目になりながらも立ち向い、けれども少しずつ絆されていくお話。
第一章「婚約者編」
第二章「お見合い編(過去)」
第三章「結婚編」
第四章「出産・育児編」
第五章「ミリアの知らないオレファンの過去編」連載開始

婚約破棄された私の結婚相手は殿下限定!?
satomi
恋愛
私は公爵家の末っ子です。お兄様にもお姉さまにも可愛がられて育ちました。我儘っこじゃありません!
ある日、いきなり「真実の愛を見つけた」と婚約破棄されました。
憤慨したのが、お兄様とお姉さまです。
お兄様は今にも突撃しそうだったし、お姉さまは家門を潰そうと画策しているようです。
しかし、2人の議論は私の結婚相手に!お兄様はイケメンなので、イケメンを見て育った私は、かなりのメンクイです。
お姉さまはすごく賢くそのように賢い人でないと私は魅力を感じません。
婚約破棄されても痛くもかゆくもなかったのです。イケメンでもなければ、かしこくもなかったから。
そんなお兄様とお姉さまが導き出した私の結婚相手が殿下。
いきなりビックネーム過ぎませんか?

【完結】傷跡に咲く薔薇の令嬢は、辺境伯の優しい手に救われる。
朝日みらい
恋愛
セリーヌ・アルヴィスは完璧な貴婦人として社交界で輝いていたが、ある晩、馬車で帰宅途中に盗賊に襲われ、顔に深い傷を負う。
傷が癒えた後、婚約者アルトゥールに再会するも、彼は彼女の外見の変化を理由に婚約を破棄する。
家族も彼女を冷遇し、かつての華やかな生活は一転し、孤独と疎外感に包まれる。
最終的に、家族に決められた新たな婚約相手は、社交界で「醜い」と噂されるラウル・ヴァレールだった―――。

【完結】溺愛される意味が分かりません!?
もわゆぬ
恋愛
正義感強め、口調も強め、見た目はクールな侯爵令嬢
ルルーシュア=メライーブス
王太子の婚約者でありながら、何故か何年も王太子には会えていない。
学園に通い、それが終われば王妃教育という淡々とした毎日。
趣味はといえば可愛らしい淑女を観察する事位だ。
有るきっかけと共に王太子が再び私の前に現れ、彼は私を「愛しいルルーシュア」と言う。
正直、意味が分からない。
さっぱり系令嬢と腹黒王太子は無事に結ばれる事が出来るのか?
☆カダール王国シリーズ 短編☆

婚約者に「愛することはない」と言われたその日にたまたま出会った隣国の皇帝から溺愛されることになります。~捨てる王あれば拾う王ありですわ。
松ノ木るな
恋愛
純真無垢な心の侯爵令嬢レヴィーナは、国の次期王であるフィリベールと固い絆で結ばれる未来を夢みていた。しかし王太子はそのような意思を持つ彼女を生意気と見なして疎み、気まぐれに婚約破棄を言い渡す。
伴侶と寄り添う心穏やかな人生を諦めた彼女は悲観し、井戸に身を投げたのだった。
あの世だと思って辿りついた先は、小さな貴族の家の、こじんまりとした食堂。そこには呑めもしないのに酒を舐め、身分社会に恨み節を唱える美しい青年がいた。
どこの家の出の、どの立場とも知らぬふたりが、一目で恋に落ちたなら。
たまたま出会って離れていてもその存在を支えとする、そんなふたりが再会して結ばれる初恋ストーリーです。

婚姻破棄された私は第一王子にめとられる。
さくしゃ
恋愛
「エルナ・シュバイツ! 貴様との婚姻を破棄する!」
突然言い渡された夫ーーヴァス・シュバイツ侯爵からの離縁要求。
彼との間にもうけた息子ーーウィリアムは2歳を迎えたばかり。
そんな私とウィリアムを嘲笑うヴァスと彼の側室であるヒメル。
しかし、いつかこんな日が来るであろう事を予感していたエルナはウィリアムに別れを告げて屋敷を出て行こうとするが、そんなエルナに向かって「行かないで」と泣き叫ぶウィリアム。
(私と一緒に連れて行ったら絶対にしなくて良い苦労をさせてしまう)
ドレスの裾を握りしめ、歩みを進めるエルナだったが……
「その耳障りな物も一緒に摘み出せ。耳障りで仕方ない」
我が子に対しても容赦のないヴァス。
その後もウィリアムについて罵詈雑言を浴びせ続ける。
悔しい……言い返そうとするが、言葉が喉で詰まりうまく発せられず涙を流すエルナ。そんな彼女を心配してなくウィリアム。
ヴァスに長年付き従う家老も見ていられず顔を逸らす。
誰も止めるものはおらず、ただただ罵詈雑言に耐えるエルナ達のもとに救いの手が差し伸べられる。
「もう大丈夫」
その人物は幼馴染で6年ぶりの再会となるオーフェン王国第一王子ーーゼルリス・オーフェンその人だった。
婚姻破棄をきっかけに始まるエルナとゼルリスによるラブストーリー。

悪役令嬢は断罪イベントから逃げ出してのんびり暮らしたい
花見 有
恋愛
乙女ゲームの断罪エンドしかない悪役令嬢リスティアに転生してしまった。どうにか断罪イベントを回避すべく努力したが、それも無駄でどうやら断罪イベントは決行される模様。
仕方がないので最終手段として断罪イベントから逃げ出します!

喋ることができなくなった行き遅れ令嬢ですが、幸せです。
加藤ラスク
恋愛
セシル = マクラグレンは昔とある事件のせいで喋ることができなくなっていた。今は王室内事務局で働いており、真面目で誠実だと評判だ。しかし後輩のラーラからは、行き遅れ令嬢などと嫌味を言われる日々。
そんなセシルの密かな喜びは、今大人気のイケメン騎士団長クレイグ = エヴェレストに会えること。クレイグはなぜか毎日事務局に顔を出し、要件がある時は必ずセシルを指名していた。そんなある日、重要な書類が紛失する事件が起きて……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる