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第一章 影が薄い騎士団長
愚者たちの献身と盲目
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各地で誘拐事件が起きていた頃。シュタール王都より西南の地、キンスキー家が治める小都市シャッテンは、変わらぬ賑わいを見せていた。
「国外からお越しの方は、入国の際に受け取った書類をお見せください。英雄ゆかりの地を――」
溌剌とした通る声の主は、出入りの激しい都門付近で同じ文言を叫び続けている。
「これで安心ね。シャッテンのお守りには国と我が子のために戦った英雄様のご加護が込められているもの」
「英雄様の令息も、若くして騎士団長になられたとか。立派だなぁ」
「魔法で姿を消して戦うせいか、勇姿を拝見できないのは残念だけれど、噂では精悍な顔立ちの……」
そんな観光客の流れより少し外れた所で、黒緑の髪の女性が様子を窺うように立っていた。
「色々知って改めて思ったけど、ヘリオス様が味方で良かったよな。姿の見えない敵なんて恐ろしい」
「アルマースに対する良い抑止力だよな。しかし、今年はあの国の姫様がやって来るから王都は荒れそうだが」
「ラソワとの関係は大事だとは思うけど、姫のように治癒魔法を使える人間なんてもう大勢いるのにな。治す早さが違うとか?」
「王家の血を引く人間は、親の魔法が遺伝しないらしい」
「なるほど……珍しい魔法を使う子供を……。お偉方の考えることは理解できん。もっと国のために頭を使ってほしいもんだ」
「違いない。加えて誘拐は国も身分も関係ないときた」
「とは言ってもお偉方には護衛が付く。俺たちはただでさえない金を出して、お守りに縋る始末」
行き交う人々の声に耳を傾けながら、矢狭間が等間隔に並ぶ真新しい石壁を見上げ、トリポテは表情を曇らせる。
――随分と景気が良いようで。おかげさまで、私の気分は最悪ですが。王都で得た情報通りなら、私が始末すべきは……。
トリポテが重い足を一本踏み出そうとした時、後ろから不安げに揺れる声に呼び止められた。
「突然、申し訳ございません。貴方は、国外の方ですよね? ずっとここに立っていらっしゃるのが気になってしまって」
「はい、観光でこちらに――」
振り返り、トリポテは目を見張る。
立派な馬車を背に、眉を下げて彼女を見る凜とした佇まいの女性。装飾の控えめなドレスを纏ってはいるが、立ち姿だけで彼女が立場のある人間であることが窺えた。
「英雄様を利用してお金儲けなんて……驚かれたでしょう? 大体、過去にあんなことをしておいて――」
「お嬢様!」
慌てて御者の男がこちらに駆け寄ってきて彼女の言葉を遮る。
「突然馬車を降りられては困ります。貴方様に何かあれば」
「でも、この方の後姿を見ていたら、放っておけなくて。気落ちなさっているように見えたから」
「だからといって、こんな時に寄り道など」
「エルツさんが言っていたの。目の前で困っている人を助けられない人間が、国を護れるはずがないって。だからね、私は」
言ったきり、彼女は考え込むように黙ってしまった。
「……お嬢様。でしたら」
御者の男は心配そうに言い、途中でトリポテの存在を思い出したのか、困った様子でこちらを見守る彼女に向き直る。
「ご婦人、呼び止めてしまい申し訳ございません」
「いえ。私のような異邦人へのお気遣い、感謝致します」
頭を下げる彼に、彼女は柔らかく微笑んだ。
――言動からして、キンスキー家について知っているようですね。商談というよりは、詰問しそうな勢い……。となると、当時逆らったのは内務大臣だけだったそうですから、辺境伯となったあの家の人間でしょうか?
予想通りならば、城で得た情報に関して答え合わせが出来る。しかし、目立っていたとはいえ、わざわざ声を掛けてきたことがトリポテには疑わしくもあった。
辺境伯領は軍事上重要な地。侵略を続けるアルマース帝国には特に注意を払うに違いない。
先代皇帝の孫であるのを知りながら近づいてきたのだとすれば、彼女にとって何をされるかわからぬ状況は好ましくない。
――男の方は、早くこの場を去りたいようですが、お嬢様が何を考えているのやら。
男の足を擦る音を聞きながら、トリポテは言葉を待つ。
「気遣いだなんて。お嬢様はご自身の不安を紛らわそうとしていただけかと。ですので、お気になさらず観光を――」
すっかり静かになってしまった主人を横目に、男が話を切り上げようとした時だった。
「貴方、もしかして先代の……?」
彼女の言葉に、トリポテは二人から咄嗟に距離を取ろうとするが、それよりも早く御者の男に手首を掴まれる。馬車の方へ引き摺る彼に抗おうと踏ん張るも、地面に二本の線を描くばかりだった。
トリポテの目的はあくまでセリニを護ること。式典まで衆目を集めるわけにはいかず、空いた片手で脱出を試みる。しかし敵うわけもなく、致し方なく腰の短剣へと手を伸ばし、魔力を込める。しかし、
――魔法が、使えない。……指輪か。自身に影響のないよう魔封石を。
ならばあえて距離を詰めて斬りつけようとしたところで、男の腕が鉄色へと変色した。
――刃は通らないと……。こうなったら敷地内に連れ込まれる前に国外の観光客もいるこの場で騒ぎを起こした方が良い。
彼女はこちらの異変に気付き始めた観光客たちがいる方を振り返る。焦った様子のご令嬢が映ったが、気に留めることもなく叫ぼうと大きく息を吸った。ただ、ご令嬢の方が判断が早かった。
「パスカルッ! 彼女は確かに仕事を放り出して逃げてしまいましたが、そんな乱暴はいけません!」
彼女の言葉にざわついていた観光客たちが、呆れたように笑いながら再び歩き始める。
パスカルと呼ばれた男は、馬車の手前で歩みを止めた。
「しかし! この女は距離を取ろうと。何か疚しいことがあるに違いありま……っ!」
トリポテは掴まれた腕と同じ方の足で大きく一歩、パスカルとの距離を詰めた。
掴まれた腕の肘を大きく振り上げると同時に、短剣を宙に投げ、その手で変色した彼の首を掴む。そのまま彼の後ろへと回り込み、首の形を変えてしまおうと掴んだ手に魔力を込める。
危険を察知したのか肌色に戻った首に、代わりに掴まれていた手に握った短剣を突きつけた。そして、驚きのあまり立ち竦むご令嬢と相対する。
「何が目的なのか存じませんが、私の邪魔をするなら許しません。先代キンスキー家当主は、我が恩人の仇。私の十年を、無駄にするわけにはいきません」
二人にだけ聞こえる声量でトリポテは冷たく言い放った。
「仇……? まさかティア様を? でしたら、同じです。何か誤解させてしまったようですが、私たちと貴方は――」
「ちょっとちょっと! 困りますよ。くだらないことで喧嘩を始められたら。他のお客さんに迷惑です」
彼女とトリポテの間に都門付近で同じ文言を叫び続けていた男が割り込む。
「使用人のお姉さんは武器なんて使っちゃって、どれだけ仕事嫌だったのさ。でもお兄さんもさ、理由も聞かずに乱暴は良くないと思うよ。ほら、無茶な仕事押し付けてたかもしれないじゃない。えーっと…」
「オーニュクスですわ。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
困った様子でこちらを向いた男に、ヘルマは一礼した。
「オーニュクス……? どこかで聞いたような? 兎にも角にも、オーニュクス嬢。苦労なさっているのですね」
「えぇ。ですが、毎日賑やかですわ」
「それは何よりでございます。しかし、門前で騒がれては」
「二人には厳しく言って聞かせるので、どうか」
「頭をお上げください。使用人の方々も反省なさっているようですし」
武器を下ろし、こちらを睨むトリポテに少々怯えながら男は言った。
――事実であるならば、オーニュクスは確かバヴィエール家が治める東端の地。このパスカルという男は、私が不審な動きをしたが故に、咄嗟に利き手と思われる腕を掴んだと。私がアルマースの人間であるとは知らずに。
トリポテは導き出した結論に呆れたように大きく息を吐き、男とご令嬢の会話が終わるのを待つ。
商談でやって来たと嘘を言った彼女に、男は貴族用の馬車ごと入場出来る都門を教え、持ち場へと戻っていった。
「あそこを曲がって北に行けばいいんですって。それにしても、平民の方々は馬車でやって来ても、ここに停めておかなければならないのね」
「それなりの広さがあるというのに、平民からも都内での馬車の利用料を巻き上げるつもりなのでしょうかね」
パスカルは言って、黙ったままの隣に立つ女を睥睨した。
その視線を慣れたものだと気に留めることもなく、トリポテは口を開く。
「この地は国外の人間も多く訪れる。もし、馬車に魔道具や爆発物の類が積まれていたら最悪の事態を招きかねない。貴族のように人に知られる立場であるなら身元を調べられますが、平民となると難しい。入場の際に馬車を確認するにも、如何せん人の出入りが激しいようですから難しいのでしょう。安全優先、ついでに儲ける。一定の額を支払えば、シャッテンを出るまで乗用馬車には何度でも乗れるそうなので、上手くやったものです」
「まぁ、そうなのね。平民の方々のことは疎くって。勉強になったわ。エルツさんは知っているのかしら」
「お嬢様! このような素性のわからぬ者に」
「素性はわかっているわ。貴方は勘違いしてしまったようだけれど、きっと私よりずっと苦労なさった方よ。生まれる家は、選べないものね」
悲しげな彼女の声に、パスカルはトリポテの横顔をまじまじと見つめる。整った目鼻立ちに、黒緑の艶やかな髪。そして、首へと使われそうになった魔法。答えに辿り着いて、唖然たる面持ちで主人を見遣る。
「選べるのなら、どれだけ良かったことでしょう。生まれる家も、親も」
「私は、返す言葉を持ち合わせていないけれど……。でもね、貴方が生きていることにきっと意味がある。この間読んだ神話の女神様も、全ての命に意味があるって仰っているもの」
彼女の言葉にトリポテの脳内で乾いた笑い声が響く。
『優しいね。書物でしか地獄を知ることのないこの国に生まれたかったな。そうすれば優しい嘘吐きになれたのに。父の首が投げ捨てられても、母が娼館送りになっても、国のために尽くしますなんて言わずに済んだ』
――私たちも愚か者ではありますが、知った気になって、自身の実力に見合わぬ行動をしてしまう彼女の蛮勇。私は嫌いじゃありませんよ。だって、こんな人間がいないと変わらない現実が多いことは、身に染みているでしょう?
『……。何であれ、行動出来るだけ立派ではあると思う。私は、逃げる勇気もなかった』
拗ねたように言い放って、彼女は口を閉ざした。
黙って俯くトリポテを、心配そうに二人が覗き込む。
「ごめんなさい。偉そうなことを言ってしまいましたね。気に障ったのなら謝罪します」
「違うのです。生を肯定されたことが嬉しくて……いらぬ心労をお掛けしました。こちらこそ、謝罪させてください。勘違いとはいえ、従者の方への狼藉。許されるものではありません」
頭を下げる彼女が行動とは真逆のことを考えているのも知らず、パスカルは神妙な面持ちで言葉を選んでいた。
「謝罪は、致しません。私はお嬢様を護ることを第一としております。不遇な人であるからと信用すれば、付け入られる」
「パスカルったら。素直にやりすぎたって言いなさい!」
「構いません。御尤もなご意見です。ところで、先ほど何を仰ろうと? 役人が割り込んできて聞き取れなかったのですが」
「あぁ! そのことは馬車内で話しましょう。パスカル、場所を移しましょう。彼女とお話をしてから、向かうことにするわ」
「承知いたしました」
憂いを滲ませながら、パスカルは一礼した。
「私などがご一緒しても?」
「もちろんよ。このまま観光するにも目立ってしまったから都合が悪いでしょうし、貴方を我が家の使用人と言ってしまった責任は取らないと。さぁ、乗って」
パスカルの手を取って、二人が馬車に乗り込む。間もなくして、ガタガタと馬車が揺れ始めた。
車輪と蹄鉄の音を聞きながら、目の前に座るご令嬢のドレスの裾から、トリポテは窓の外へと視線を逃がそうとした。しかし、思わぬ言葉に顔を上げる。
「私は、ヘルマ・バヴィエール」
当たりを付けていたものの、彼女が姓を名乗ったことにトリポテは驚いた。出会ったばかりの、ましてやアルマース帝国の人間にあっさり情報を漏らすこと自体が想定外で、思わず表情が崩れる。
「よかった。一人でシャッテンに来るくらいだもの。色々と下調べはしているはずだから、貴方はきっと私が名乗ったことに驚いているのよね? 馬鹿だなって」
ヘルマはクスクスと笑いながら言った。そして、愛しいものを見るように目を細め
「私、平民出の騎士様と結婚するの。家のために結婚出来ない馬鹿だし、盲目的って言っていいくらい彼が大好き。だから、彼が護る国は彼が護るに相応しいものであってほしい。彼が尊敬する騎士団長様にこれ以上苦しまないでほしい。付き合わせてしまったパスカルには申し訳ないけれど、私は会うことの出来る人間だから。彼が命を懸けているんだもの、私だって平和な国を目指す手伝いがしたい」
ヘルマは右手をトリポテへと差し出す。
「だから、少しでも何か知ってそうな貴方だって利用するの。トリポテ様」
愛国心でも偽善めいた正義感でもなく、たった一人の男のためにやって来た愚かな女に、トリポテは取り繕ったような笑みをわざと浮かべて、手を握った。
「では、私もヘルマ様を利用させていただきます。恩人であるティア様のために」
トリポテの中にいるもう一人は、泣いていた。思っていたよりも強かなようで、馬鹿みたいにお人好しだと悪態をつきながら。
「国外からお越しの方は、入国の際に受け取った書類をお見せください。英雄ゆかりの地を――」
溌剌とした通る声の主は、出入りの激しい都門付近で同じ文言を叫び続けている。
「これで安心ね。シャッテンのお守りには国と我が子のために戦った英雄様のご加護が込められているもの」
「英雄様の令息も、若くして騎士団長になられたとか。立派だなぁ」
「魔法で姿を消して戦うせいか、勇姿を拝見できないのは残念だけれど、噂では精悍な顔立ちの……」
そんな観光客の流れより少し外れた所で、黒緑の髪の女性が様子を窺うように立っていた。
「色々知って改めて思ったけど、ヘリオス様が味方で良かったよな。姿の見えない敵なんて恐ろしい」
「アルマースに対する良い抑止力だよな。しかし、今年はあの国の姫様がやって来るから王都は荒れそうだが」
「ラソワとの関係は大事だとは思うけど、姫のように治癒魔法を使える人間なんてもう大勢いるのにな。治す早さが違うとか?」
「王家の血を引く人間は、親の魔法が遺伝しないらしい」
「なるほど……珍しい魔法を使う子供を……。お偉方の考えることは理解できん。もっと国のために頭を使ってほしいもんだ」
「違いない。加えて誘拐は国も身分も関係ないときた」
「とは言ってもお偉方には護衛が付く。俺たちはただでさえない金を出して、お守りに縋る始末」
行き交う人々の声に耳を傾けながら、矢狭間が等間隔に並ぶ真新しい石壁を見上げ、トリポテは表情を曇らせる。
――随分と景気が良いようで。おかげさまで、私の気分は最悪ですが。王都で得た情報通りなら、私が始末すべきは……。
トリポテが重い足を一本踏み出そうとした時、後ろから不安げに揺れる声に呼び止められた。
「突然、申し訳ございません。貴方は、国外の方ですよね? ずっとここに立っていらっしゃるのが気になってしまって」
「はい、観光でこちらに――」
振り返り、トリポテは目を見張る。
立派な馬車を背に、眉を下げて彼女を見る凜とした佇まいの女性。装飾の控えめなドレスを纏ってはいるが、立ち姿だけで彼女が立場のある人間であることが窺えた。
「英雄様を利用してお金儲けなんて……驚かれたでしょう? 大体、過去にあんなことをしておいて――」
「お嬢様!」
慌てて御者の男がこちらに駆け寄ってきて彼女の言葉を遮る。
「突然馬車を降りられては困ります。貴方様に何かあれば」
「でも、この方の後姿を見ていたら、放っておけなくて。気落ちなさっているように見えたから」
「だからといって、こんな時に寄り道など」
「エルツさんが言っていたの。目の前で困っている人を助けられない人間が、国を護れるはずがないって。だからね、私は」
言ったきり、彼女は考え込むように黙ってしまった。
「……お嬢様。でしたら」
御者の男は心配そうに言い、途中でトリポテの存在を思い出したのか、困った様子でこちらを見守る彼女に向き直る。
「ご婦人、呼び止めてしまい申し訳ございません」
「いえ。私のような異邦人へのお気遣い、感謝致します」
頭を下げる彼に、彼女は柔らかく微笑んだ。
――言動からして、キンスキー家について知っているようですね。商談というよりは、詰問しそうな勢い……。となると、当時逆らったのは内務大臣だけだったそうですから、辺境伯となったあの家の人間でしょうか?
予想通りならば、城で得た情報に関して答え合わせが出来る。しかし、目立っていたとはいえ、わざわざ声を掛けてきたことがトリポテには疑わしくもあった。
辺境伯領は軍事上重要な地。侵略を続けるアルマース帝国には特に注意を払うに違いない。
先代皇帝の孫であるのを知りながら近づいてきたのだとすれば、彼女にとって何をされるかわからぬ状況は好ましくない。
――男の方は、早くこの場を去りたいようですが、お嬢様が何を考えているのやら。
男の足を擦る音を聞きながら、トリポテは言葉を待つ。
「気遣いだなんて。お嬢様はご自身の不安を紛らわそうとしていただけかと。ですので、お気になさらず観光を――」
すっかり静かになってしまった主人を横目に、男が話を切り上げようとした時だった。
「貴方、もしかして先代の……?」
彼女の言葉に、トリポテは二人から咄嗟に距離を取ろうとするが、それよりも早く御者の男に手首を掴まれる。馬車の方へ引き摺る彼に抗おうと踏ん張るも、地面に二本の線を描くばかりだった。
トリポテの目的はあくまでセリニを護ること。式典まで衆目を集めるわけにはいかず、空いた片手で脱出を試みる。しかし敵うわけもなく、致し方なく腰の短剣へと手を伸ばし、魔力を込める。しかし、
――魔法が、使えない。……指輪か。自身に影響のないよう魔封石を。
ならばあえて距離を詰めて斬りつけようとしたところで、男の腕が鉄色へと変色した。
――刃は通らないと……。こうなったら敷地内に連れ込まれる前に国外の観光客もいるこの場で騒ぎを起こした方が良い。
彼女はこちらの異変に気付き始めた観光客たちがいる方を振り返る。焦った様子のご令嬢が映ったが、気に留めることもなく叫ぼうと大きく息を吸った。ただ、ご令嬢の方が判断が早かった。
「パスカルッ! 彼女は確かに仕事を放り出して逃げてしまいましたが、そんな乱暴はいけません!」
彼女の言葉にざわついていた観光客たちが、呆れたように笑いながら再び歩き始める。
パスカルと呼ばれた男は、馬車の手前で歩みを止めた。
「しかし! この女は距離を取ろうと。何か疚しいことがあるに違いありま……っ!」
トリポテは掴まれた腕と同じ方の足で大きく一歩、パスカルとの距離を詰めた。
掴まれた腕の肘を大きく振り上げると同時に、短剣を宙に投げ、その手で変色した彼の首を掴む。そのまま彼の後ろへと回り込み、首の形を変えてしまおうと掴んだ手に魔力を込める。
危険を察知したのか肌色に戻った首に、代わりに掴まれていた手に握った短剣を突きつけた。そして、驚きのあまり立ち竦むご令嬢と相対する。
「何が目的なのか存じませんが、私の邪魔をするなら許しません。先代キンスキー家当主は、我が恩人の仇。私の十年を、無駄にするわけにはいきません」
二人にだけ聞こえる声量でトリポテは冷たく言い放った。
「仇……? まさかティア様を? でしたら、同じです。何か誤解させてしまったようですが、私たちと貴方は――」
「ちょっとちょっと! 困りますよ。くだらないことで喧嘩を始められたら。他のお客さんに迷惑です」
彼女とトリポテの間に都門付近で同じ文言を叫び続けていた男が割り込む。
「使用人のお姉さんは武器なんて使っちゃって、どれだけ仕事嫌だったのさ。でもお兄さんもさ、理由も聞かずに乱暴は良くないと思うよ。ほら、無茶な仕事押し付けてたかもしれないじゃない。えーっと…」
「オーニュクスですわ。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
困った様子でこちらを向いた男に、ヘルマは一礼した。
「オーニュクス……? どこかで聞いたような? 兎にも角にも、オーニュクス嬢。苦労なさっているのですね」
「えぇ。ですが、毎日賑やかですわ」
「それは何よりでございます。しかし、門前で騒がれては」
「二人には厳しく言って聞かせるので、どうか」
「頭をお上げください。使用人の方々も反省なさっているようですし」
武器を下ろし、こちらを睨むトリポテに少々怯えながら男は言った。
――事実であるならば、オーニュクスは確かバヴィエール家が治める東端の地。このパスカルという男は、私が不審な動きをしたが故に、咄嗟に利き手と思われる腕を掴んだと。私がアルマースの人間であるとは知らずに。
トリポテは導き出した結論に呆れたように大きく息を吐き、男とご令嬢の会話が終わるのを待つ。
商談でやって来たと嘘を言った彼女に、男は貴族用の馬車ごと入場出来る都門を教え、持ち場へと戻っていった。
「あそこを曲がって北に行けばいいんですって。それにしても、平民の方々は馬車でやって来ても、ここに停めておかなければならないのね」
「それなりの広さがあるというのに、平民からも都内での馬車の利用料を巻き上げるつもりなのでしょうかね」
パスカルは言って、黙ったままの隣に立つ女を睥睨した。
その視線を慣れたものだと気に留めることもなく、トリポテは口を開く。
「この地は国外の人間も多く訪れる。もし、馬車に魔道具や爆発物の類が積まれていたら最悪の事態を招きかねない。貴族のように人に知られる立場であるなら身元を調べられますが、平民となると難しい。入場の際に馬車を確認するにも、如何せん人の出入りが激しいようですから難しいのでしょう。安全優先、ついでに儲ける。一定の額を支払えば、シャッテンを出るまで乗用馬車には何度でも乗れるそうなので、上手くやったものです」
「まぁ、そうなのね。平民の方々のことは疎くって。勉強になったわ。エルツさんは知っているのかしら」
「お嬢様! このような素性のわからぬ者に」
「素性はわかっているわ。貴方は勘違いしてしまったようだけれど、きっと私よりずっと苦労なさった方よ。生まれる家は、選べないものね」
悲しげな彼女の声に、パスカルはトリポテの横顔をまじまじと見つめる。整った目鼻立ちに、黒緑の艶やかな髪。そして、首へと使われそうになった魔法。答えに辿り着いて、唖然たる面持ちで主人を見遣る。
「選べるのなら、どれだけ良かったことでしょう。生まれる家も、親も」
「私は、返す言葉を持ち合わせていないけれど……。でもね、貴方が生きていることにきっと意味がある。この間読んだ神話の女神様も、全ての命に意味があるって仰っているもの」
彼女の言葉にトリポテの脳内で乾いた笑い声が響く。
『優しいね。書物でしか地獄を知ることのないこの国に生まれたかったな。そうすれば優しい嘘吐きになれたのに。父の首が投げ捨てられても、母が娼館送りになっても、国のために尽くしますなんて言わずに済んだ』
――私たちも愚か者ではありますが、知った気になって、自身の実力に見合わぬ行動をしてしまう彼女の蛮勇。私は嫌いじゃありませんよ。だって、こんな人間がいないと変わらない現実が多いことは、身に染みているでしょう?
『……。何であれ、行動出来るだけ立派ではあると思う。私は、逃げる勇気もなかった』
拗ねたように言い放って、彼女は口を閉ざした。
黙って俯くトリポテを、心配そうに二人が覗き込む。
「ごめんなさい。偉そうなことを言ってしまいましたね。気に障ったのなら謝罪します」
「違うのです。生を肯定されたことが嬉しくて……いらぬ心労をお掛けしました。こちらこそ、謝罪させてください。勘違いとはいえ、従者の方への狼藉。許されるものではありません」
頭を下げる彼女が行動とは真逆のことを考えているのも知らず、パスカルは神妙な面持ちで言葉を選んでいた。
「謝罪は、致しません。私はお嬢様を護ることを第一としております。不遇な人であるからと信用すれば、付け入られる」
「パスカルったら。素直にやりすぎたって言いなさい!」
「構いません。御尤もなご意見です。ところで、先ほど何を仰ろうと? 役人が割り込んできて聞き取れなかったのですが」
「あぁ! そのことは馬車内で話しましょう。パスカル、場所を移しましょう。彼女とお話をしてから、向かうことにするわ」
「承知いたしました」
憂いを滲ませながら、パスカルは一礼した。
「私などがご一緒しても?」
「もちろんよ。このまま観光するにも目立ってしまったから都合が悪いでしょうし、貴方を我が家の使用人と言ってしまった責任は取らないと。さぁ、乗って」
パスカルの手を取って、二人が馬車に乗り込む。間もなくして、ガタガタと馬車が揺れ始めた。
車輪と蹄鉄の音を聞きながら、目の前に座るご令嬢のドレスの裾から、トリポテは窓の外へと視線を逃がそうとした。しかし、思わぬ言葉に顔を上げる。
「私は、ヘルマ・バヴィエール」
当たりを付けていたものの、彼女が姓を名乗ったことにトリポテは驚いた。出会ったばかりの、ましてやアルマース帝国の人間にあっさり情報を漏らすこと自体が想定外で、思わず表情が崩れる。
「よかった。一人でシャッテンに来るくらいだもの。色々と下調べはしているはずだから、貴方はきっと私が名乗ったことに驚いているのよね? 馬鹿だなって」
ヘルマはクスクスと笑いながら言った。そして、愛しいものを見るように目を細め
「私、平民出の騎士様と結婚するの。家のために結婚出来ない馬鹿だし、盲目的って言っていいくらい彼が大好き。だから、彼が護る国は彼が護るに相応しいものであってほしい。彼が尊敬する騎士団長様にこれ以上苦しまないでほしい。付き合わせてしまったパスカルには申し訳ないけれど、私は会うことの出来る人間だから。彼が命を懸けているんだもの、私だって平和な国を目指す手伝いがしたい」
ヘルマは右手をトリポテへと差し出す。
「だから、少しでも何か知ってそうな貴方だって利用するの。トリポテ様」
愛国心でも偽善めいた正義感でもなく、たった一人の男のためにやって来た愚かな女に、トリポテは取り繕ったような笑みをわざと浮かべて、手を握った。
「では、私もヘルマ様を利用させていただきます。恩人であるティア様のために」
トリポテの中にいるもう一人は、泣いていた。思っていたよりも強かなようで、馬鹿みたいにお人好しだと悪態をつきながら。
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