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とある狐の呟き
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「君の好きにするといいよ」
そんな言葉が口癖である我が主は、変わった方だ。
まず、そのお姿からして非常に奇異な方であると、今でも思う。
神であるからして、高貴で神聖な雰囲気を常に纏っておいでであるのだが、いつも着ている衣装はどこか着崩れておられる。基本的には何色にも染まらぬ白をお好みであるのだが、時折黒を纏われたり、奇抜な色も時には着こなしておいでだ。
ただ、「きっちりと着るのは面倒だ」と常におっしゃるだけはあり、襟が崩れておられるのは日常茶飯事。
時には雪白の御肌をさらしておいでなので、僭越ながら私が改めてきっちりと身だしなみを整えさせて頂いたりする。
元はただの畜生の身。しかしながら、衣類に頓着せず、時折訪れるご友人の神々にからかわれるのを僕としては我慢できず、我は主の身だしなみのために必死で人化を覚えた。そのまま、主の身だしなみの最終確認をすべく、人族の着付けに詳しくなってしまったのは副産物と言うべきか。
主は、常に面を被っておいでだ。我は現在主の一の僕ではあるが、主のお住まいに立ち入ることはしない。完全なる個人住居部に立ち入ることを拒むその性は、おそらく獣であった頃からのものであろう。我はその頃、人に忌み嫌われ、寝所を追われ、その果てに命尽きたゆえか、人に対する嫌悪感だけは拭えなかった。
おそらく主は気まぐれに、人間に狩られてしまった哀れな老狐を哀れんで拾っただけであろう。主は時折、人間に住処を追われて命尽きた獣達を時折保護しては、我のように慈しんでくださった。そのほとんどは、すでに彼岸へと旅立ってしまったのだが、それでも数年おきくらいに、今でも主は気まぐれに獣を連れてこられる。
「私は豊穣を司ってはいるけれど…別に、人のためだけのものが豊穣とは思っては居ないからね、ミノリ」
「はい、主様」
「そういうわけで、この子を頼むよ。山火事で命数が尽きてしまったようで、どうにも気になってしまったからね、コガネ」
「はい、主様」
…そして、主様は我の名前を気分しだいで変えなさる。まぁ名前等獣時代には無かったものであるし、今となってはどこと無く名前に関連性が見出せるので、我はいちいち名前等には頓着しないのだ。
「…この子の名前は、醍醐にしよう。そう呼んでやってくれ、イナホ」
「はい、主様」
主様の命名センスが微妙なことは…今更なのだ。主様は偉大で強大な神の一柱。不得意な分野の一つや二つあるところで、その偉大さは少しも翳る事は無いのだ。…多分。
襲い来る火炎から逃げ惑い、そして力尽きた小さなネズミの身体を主より賜り、我はその御霊を癒すために御前を辞した。
此方と彼岸の狭間にある神域。そこが我が主の住まいだ。現世のほうには、小さな社を通じて繋がっているものの、基本的には神域に立ち入る生身のものはいない。霊格が高くなければ存在できぬこの空間。主に認められている魂以外は入れぬ、閉じた空間だ。
我は掌の中で身じろぎもしない魂を抱えたまま、屋敷の外れに有る泉のふちへと歩み寄る。ここは常に清浄な水が湧き出ており、穢れを祓うには最適な場所だ。潔斎のための簡素な東屋に礼をして立ち入り、我は衣類を脱いで潔斎用の衣類に着替え、小さな御霊を抱いて禊をした。
我が主より賜った力とともに、力ある言霊を紡いで、傷ついた御霊への慰めと、癒しを願う。
我はあくまで主の僕、我自体に力があるなどとは思っておらぬ。すべては主より賜りしかりそめの力。
気まぐれでありながらも、主はこのように弱きものに御慈悲を下さる。
その偶然に出会うことが出来た幸福と、主の行いに少しでも力を尽くすことが出来る喜びをこめて、我は泉の中でひたすら主をたたえるのだ。
そんな御慈悲を下さる主に仕えていたからなのか。
僭越ながらこの畜生の身でも、救える命があるならば力を傾けたい、と言う欲求が日ごとに高まっていったのは自明の理だったのか…
とある日、下界の様子を知るべく水鏡を用いて探っていたとき、幼い人の子が大人数の大人に寄ってたかって暴行を受けている場面を見てしまった。
身分の低い奉公人の子であろうか、その子が纏う衣類もぼろぼろで、覗く素肌には赤いものがびっしりとこびりついていて、すでに赤黒く変色し、乾いてしまったものも見受けられた。
我は眉をひそめた。弱きものを数の多さで蹂躙する姿を見るのは、何も珍しいものではない。しかし、この日はたまたま獣の生を終えた日の出来事を夢に見ていた日だった。主に救っていただいた幸運な獣である我でも、やはりその命数が尽きた瞬間を忘れたわけではない。
同胞を奪われ、番も奪われ、子も奪われ。住む山を追われ、その果てにわが身をも失ったその記憶は、そう簡単に薄れるものではない。
人間などろくなものではない、そうわかってはいたものの、我には一人だけ、気がかりな人間がいたのだ。
「すまんなぁ、すまんなぁ…」
罠にかかって身動きを封じられ、命の終わりを悟りつつも、やすやすと終わりを受け入れるのは自らの矜持にかけて受け入れがたく、牙をむいて唸る我をその幼き眼窩から涙滴をこぼしながら。
「おらはな、山の獣をすべて殺すなんて、神様に申し訳なくでできねぇって、みなにいうんだが」
だめなんだ、だめなんだ。
そう、我に向かって滂沱の涙を流しながら、幼子は我を縛り付ける忌まわしき金環に手をかける。
「おらのことばじゃ、だめなんだ…おらが、ちんめぇから。」
でも、そう続ける稚児の瞳は、涙に濡れてはいるものの、強き光を放っていた。
「人間だけの都合で、山の獣を全て殺しちまうなんて、間違ってる。…だから、逃げてくれ。お前の仲間達も、この山から逃げてくれ。」
おらが、時間を稼いで見せる。
そういって、その幼子は我を縛る金属から我が足を解き放った。
「こんな…勝手なこと、山神様が、許すわけねえだ。…さ、逃げろ。」
足を引きずりながら、我は慌ててその場から走り去った。
「人を、憎んでもいい。だけど、生きてくれ。山は、人間だけのものじゃねえだ…」
そう、呟く幼子の声は、確かに我が耳に届いていた。
結局、あの後程なくして我はその命を失ったけれど。
人は嫌いだけれど、あのような…幼きものは、どうにも嫌いになれなかった。
水鏡の向こうで、力あるものに虐げられる幼く、か弱きもの。
確かに力なきものは生きられない、その定めだけれども。
一方的になぶられるその光景に気を取られていたのか、背後からかけられた声に我は文字通り飛び上がった。
「力なきものは死ぬ定め、されどお前にはこの光景は許しがたいようだね?」
「…あるじ、さま…」
いつものように衣を着崩し、面をつけたそのいでたちのまま、主様はこてんと首を傾げつつ、我の覗く水鏡の風景を覗いてこられた。
面の後ろを絹紐で結んで居られて、その表情は常のようにうかがうことは出来ない。しかし、長い年月が、主の戸惑いと落胆を感じさせてくれた。
「まぁ、こんな風景は特段珍しいものではないね。力なきものが虐げられないためには、力をつけるほか無い。…しかし、この子はもうもたないだろうね」
「…はい…」
いたぶられる幼子の体には、無数の傷跡がついている。先程から動きが鈍っているし、反応が薄いようだ。なぶっている大人たちは興奮が醒めないのか、その様子には気づいていないが。無礼とはわかっているが失われ行く命にどうにも言い表せないやるせなさを感じていると、主は薄く微笑んだようだった。
「君の好きにすればいいんだよ」
「…あるじ、さま…?」
「僕は君には自由に生きて欲しいんだ。自由に振舞う、君が見たい。だから、君に力を与えたんだ」
こつり、と沓音を響かせながら、主は水辺に座り込む我の頭を屈んで撫でてくださった。
「僕は、君が居なくても生きていける。でも、おそらくこの子は君が助けなければそのまま、煉獄行きだろうね」
だって、この子の親は大罪人なんだよ。水鏡を眺める主の声色には、何の色もにじんでは居なかった。
「親でもまかないきれない業が、この子には負わされている。仕方ないんだよ、そういう定めの子なんだから。」
…でも。
「お前には、納得できないのだろう?」
――我が神使、心優しき『稲穂』よ。
そう、主が紡いだ言葉には、大きな力が込められていた。
――さあ、お前の好きにしなさい。心の赴くままに。
そうして、私は、時折虐げられた魂を救済するという仕事を始めたのだった…
------------------------------------------------------------
「お前も、性格が悪いことだな」
時折彼の僕がいない折に、かの神の友人の神の一柱はかの神の元を訪れ、共に酒を嗜んでいた。
「なんのことだい?」
白い杯に僅かに黄金の色彩が宿る馥郁とした液体を上機嫌で愉しみながら、かの神は口角をあげた。
緩く結い上げた黒檀のごとき髪が一房、首をかしげた拍子にはらりとその肩に落ちる。形のよい唇に吸い込まれた液体が鼻へと抜けていく香りを愉しみながら、かの神の瞳は愉快げに細められていた。
「お前、仕事を一つ、僕に丸投げしただろう。…弱った魂の救済は、お前の仕事の一つだったろうが」
「はてさて、それはいかがなものかな。…あれは、自分からやりたいというから仕方なく、あれに任せただけだよ」
「良く言うぜ。仕事を任せられそうな魂をずっと探していたくせに。…うまいこと真面目に育ってくれて、良かったなあ?」
もう一杯、と友人の神は空になった杯をかの神に目前にずいっと押し付けると、かの神はからからと笑いながら彼にお代わりを注いだ。
「君は人聞きの悪いことを言うなあ。…たまたま、あの子が真面目ないい子だっただけだよ」
「はっ!聖人君子みたいな顔して、やることなすこと全て計算ずくの腹黒野郎の言うことは違うな!」
「何事もあけすけな君には、理解できないことかもしれないねえ」
そういって笑った二柱の神。彼らは昔なじみの酒友達だった。このときだけは、全てのしがらみから解き放たれる。下界の憂きことも、神界のしがらみからも自由になるその時間を、二人はことのほか愛していた。
「…まあ、でも、今回はことがうまく運んだからいいとして、あの子が真面目に役割を果たせなかったらどうするつもりだったんだ?」
杯を傾けながら、友人の神がぽつりと問いかけると、稲穂の主はにっこりと笑って告げた。
「そうなったら――、また一から探すだけだよ」
まったく、腹黒なことだ。
そう友人は笑った。そうだね、とかの神は微笑んで、くるくると杯を回してその香りを愉しんだ。
------------------------------------------------------------
ネタが尽きたので、一応ここで完結といたします。また、どこかでモフモフネタが降りてきたら、ちょこちょこ書くかも知れません。
もともと動物が好きで、彼らの生きている姿を見るのが好きだったので出来たお話です。
稲穂君は、最初の話から出ていました。コールセンターの彼です。長い年月を経て、彼は彼なりの現世への干渉法として、『いのちの電話』のような形で傷ついた霊魂への救済をしています。
長年の神様への真面目な勤労態度と、当人の努力もあり、様々なコネクションを得るにいたった彼。主である神様の目論見どおり、ただひたすらに、真摯にお役目を果たし続けています。主様が元より役目から逃げたくて自分をそう仕向けたであろうことは薄々とは気づいていますが、それでも、救ってくれた主様のことは慕っている、いい子です。主様も、そんな稲穂さんのことは特に気に入っているようです。
全ての霊魂を救うことは出来ません。ですが、稲穂さんは少しでも多くの魂を救うべく、今でも努力を続けています。
神様の設定などはぼんやりとしていますので、細かい粗があることはお許しください。
ただし、稲穂さんはお狐様ですので、もちろん救済には代償を要求しています。とても、優しい代償ですが。
その辺は皆様のご想像にお任せいたします…作中匂わせては居ります。
今年初めて、この様なところに投稿しはじめ、自分の作品を読んでいただけるのはとても良い体験となりました。
来年も、どこかでご縁がありますように。
そんな言葉が口癖である我が主は、変わった方だ。
まず、そのお姿からして非常に奇異な方であると、今でも思う。
神であるからして、高貴で神聖な雰囲気を常に纏っておいでであるのだが、いつも着ている衣装はどこか着崩れておられる。基本的には何色にも染まらぬ白をお好みであるのだが、時折黒を纏われたり、奇抜な色も時には着こなしておいでだ。
ただ、「きっちりと着るのは面倒だ」と常におっしゃるだけはあり、襟が崩れておられるのは日常茶飯事。
時には雪白の御肌をさらしておいでなので、僭越ながら私が改めてきっちりと身だしなみを整えさせて頂いたりする。
元はただの畜生の身。しかしながら、衣類に頓着せず、時折訪れるご友人の神々にからかわれるのを僕としては我慢できず、我は主の身だしなみのために必死で人化を覚えた。そのまま、主の身だしなみの最終確認をすべく、人族の着付けに詳しくなってしまったのは副産物と言うべきか。
主は、常に面を被っておいでだ。我は現在主の一の僕ではあるが、主のお住まいに立ち入ることはしない。完全なる個人住居部に立ち入ることを拒むその性は、おそらく獣であった頃からのものであろう。我はその頃、人に忌み嫌われ、寝所を追われ、その果てに命尽きたゆえか、人に対する嫌悪感だけは拭えなかった。
おそらく主は気まぐれに、人間に狩られてしまった哀れな老狐を哀れんで拾っただけであろう。主は時折、人間に住処を追われて命尽きた獣達を時折保護しては、我のように慈しんでくださった。そのほとんどは、すでに彼岸へと旅立ってしまったのだが、それでも数年おきくらいに、今でも主は気まぐれに獣を連れてこられる。
「私は豊穣を司ってはいるけれど…別に、人のためだけのものが豊穣とは思っては居ないからね、ミノリ」
「はい、主様」
「そういうわけで、この子を頼むよ。山火事で命数が尽きてしまったようで、どうにも気になってしまったからね、コガネ」
「はい、主様」
…そして、主様は我の名前を気分しだいで変えなさる。まぁ名前等獣時代には無かったものであるし、今となってはどこと無く名前に関連性が見出せるので、我はいちいち名前等には頓着しないのだ。
「…この子の名前は、醍醐にしよう。そう呼んでやってくれ、イナホ」
「はい、主様」
主様の命名センスが微妙なことは…今更なのだ。主様は偉大で強大な神の一柱。不得意な分野の一つや二つあるところで、その偉大さは少しも翳る事は無いのだ。…多分。
襲い来る火炎から逃げ惑い、そして力尽きた小さなネズミの身体を主より賜り、我はその御霊を癒すために御前を辞した。
此方と彼岸の狭間にある神域。そこが我が主の住まいだ。現世のほうには、小さな社を通じて繋がっているものの、基本的には神域に立ち入る生身のものはいない。霊格が高くなければ存在できぬこの空間。主に認められている魂以外は入れぬ、閉じた空間だ。
我は掌の中で身じろぎもしない魂を抱えたまま、屋敷の外れに有る泉のふちへと歩み寄る。ここは常に清浄な水が湧き出ており、穢れを祓うには最適な場所だ。潔斎のための簡素な東屋に礼をして立ち入り、我は衣類を脱いで潔斎用の衣類に着替え、小さな御霊を抱いて禊をした。
我が主より賜った力とともに、力ある言霊を紡いで、傷ついた御霊への慰めと、癒しを願う。
我はあくまで主の僕、我自体に力があるなどとは思っておらぬ。すべては主より賜りしかりそめの力。
気まぐれでありながらも、主はこのように弱きものに御慈悲を下さる。
その偶然に出会うことが出来た幸福と、主の行いに少しでも力を尽くすことが出来る喜びをこめて、我は泉の中でひたすら主をたたえるのだ。
そんな御慈悲を下さる主に仕えていたからなのか。
僭越ながらこの畜生の身でも、救える命があるならば力を傾けたい、と言う欲求が日ごとに高まっていったのは自明の理だったのか…
とある日、下界の様子を知るべく水鏡を用いて探っていたとき、幼い人の子が大人数の大人に寄ってたかって暴行を受けている場面を見てしまった。
身分の低い奉公人の子であろうか、その子が纏う衣類もぼろぼろで、覗く素肌には赤いものがびっしりとこびりついていて、すでに赤黒く変色し、乾いてしまったものも見受けられた。
我は眉をひそめた。弱きものを数の多さで蹂躙する姿を見るのは、何も珍しいものではない。しかし、この日はたまたま獣の生を終えた日の出来事を夢に見ていた日だった。主に救っていただいた幸運な獣である我でも、やはりその命数が尽きた瞬間を忘れたわけではない。
同胞を奪われ、番も奪われ、子も奪われ。住む山を追われ、その果てにわが身をも失ったその記憶は、そう簡単に薄れるものではない。
人間などろくなものではない、そうわかってはいたものの、我には一人だけ、気がかりな人間がいたのだ。
「すまんなぁ、すまんなぁ…」
罠にかかって身動きを封じられ、命の終わりを悟りつつも、やすやすと終わりを受け入れるのは自らの矜持にかけて受け入れがたく、牙をむいて唸る我をその幼き眼窩から涙滴をこぼしながら。
「おらはな、山の獣をすべて殺すなんて、神様に申し訳なくでできねぇって、みなにいうんだが」
だめなんだ、だめなんだ。
そう、我に向かって滂沱の涙を流しながら、幼子は我を縛り付ける忌まわしき金環に手をかける。
「おらのことばじゃ、だめなんだ…おらが、ちんめぇから。」
でも、そう続ける稚児の瞳は、涙に濡れてはいるものの、強き光を放っていた。
「人間だけの都合で、山の獣を全て殺しちまうなんて、間違ってる。…だから、逃げてくれ。お前の仲間達も、この山から逃げてくれ。」
おらが、時間を稼いで見せる。
そういって、その幼子は我を縛る金属から我が足を解き放った。
「こんな…勝手なこと、山神様が、許すわけねえだ。…さ、逃げろ。」
足を引きずりながら、我は慌ててその場から走り去った。
「人を、憎んでもいい。だけど、生きてくれ。山は、人間だけのものじゃねえだ…」
そう、呟く幼子の声は、確かに我が耳に届いていた。
結局、あの後程なくして我はその命を失ったけれど。
人は嫌いだけれど、あのような…幼きものは、どうにも嫌いになれなかった。
水鏡の向こうで、力あるものに虐げられる幼く、か弱きもの。
確かに力なきものは生きられない、その定めだけれども。
一方的になぶられるその光景に気を取られていたのか、背後からかけられた声に我は文字通り飛び上がった。
「力なきものは死ぬ定め、されどお前にはこの光景は許しがたいようだね?」
「…あるじ、さま…」
いつものように衣を着崩し、面をつけたそのいでたちのまま、主様はこてんと首を傾げつつ、我の覗く水鏡の風景を覗いてこられた。
面の後ろを絹紐で結んで居られて、その表情は常のようにうかがうことは出来ない。しかし、長い年月が、主の戸惑いと落胆を感じさせてくれた。
「まぁ、こんな風景は特段珍しいものではないね。力なきものが虐げられないためには、力をつけるほか無い。…しかし、この子はもうもたないだろうね」
「…はい…」
いたぶられる幼子の体には、無数の傷跡がついている。先程から動きが鈍っているし、反応が薄いようだ。なぶっている大人たちは興奮が醒めないのか、その様子には気づいていないが。無礼とはわかっているが失われ行く命にどうにも言い表せないやるせなさを感じていると、主は薄く微笑んだようだった。
「君の好きにすればいいんだよ」
「…あるじ、さま…?」
「僕は君には自由に生きて欲しいんだ。自由に振舞う、君が見たい。だから、君に力を与えたんだ」
こつり、と沓音を響かせながら、主は水辺に座り込む我の頭を屈んで撫でてくださった。
「僕は、君が居なくても生きていける。でも、おそらくこの子は君が助けなければそのまま、煉獄行きだろうね」
だって、この子の親は大罪人なんだよ。水鏡を眺める主の声色には、何の色もにじんでは居なかった。
「親でもまかないきれない業が、この子には負わされている。仕方ないんだよ、そういう定めの子なんだから。」
…でも。
「お前には、納得できないのだろう?」
――我が神使、心優しき『稲穂』よ。
そう、主が紡いだ言葉には、大きな力が込められていた。
――さあ、お前の好きにしなさい。心の赴くままに。
そうして、私は、時折虐げられた魂を救済するという仕事を始めたのだった…
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「お前も、性格が悪いことだな」
時折彼の僕がいない折に、かの神の友人の神の一柱はかの神の元を訪れ、共に酒を嗜んでいた。
「なんのことだい?」
白い杯に僅かに黄金の色彩が宿る馥郁とした液体を上機嫌で愉しみながら、かの神は口角をあげた。
緩く結い上げた黒檀のごとき髪が一房、首をかしげた拍子にはらりとその肩に落ちる。形のよい唇に吸い込まれた液体が鼻へと抜けていく香りを愉しみながら、かの神の瞳は愉快げに細められていた。
「お前、仕事を一つ、僕に丸投げしただろう。…弱った魂の救済は、お前の仕事の一つだったろうが」
「はてさて、それはいかがなものかな。…あれは、自分からやりたいというから仕方なく、あれに任せただけだよ」
「良く言うぜ。仕事を任せられそうな魂をずっと探していたくせに。…うまいこと真面目に育ってくれて、良かったなあ?」
もう一杯、と友人の神は空になった杯をかの神に目前にずいっと押し付けると、かの神はからからと笑いながら彼にお代わりを注いだ。
「君は人聞きの悪いことを言うなあ。…たまたま、あの子が真面目ないい子だっただけだよ」
「はっ!聖人君子みたいな顔して、やることなすこと全て計算ずくの腹黒野郎の言うことは違うな!」
「何事もあけすけな君には、理解できないことかもしれないねえ」
そういって笑った二柱の神。彼らは昔なじみの酒友達だった。このときだけは、全てのしがらみから解き放たれる。下界の憂きことも、神界のしがらみからも自由になるその時間を、二人はことのほか愛していた。
「…まあ、でも、今回はことがうまく運んだからいいとして、あの子が真面目に役割を果たせなかったらどうするつもりだったんだ?」
杯を傾けながら、友人の神がぽつりと問いかけると、稲穂の主はにっこりと笑って告げた。
「そうなったら――、また一から探すだけだよ」
まったく、腹黒なことだ。
そう友人は笑った。そうだね、とかの神は微笑んで、くるくると杯を回してその香りを愉しんだ。
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ネタが尽きたので、一応ここで完結といたします。また、どこかでモフモフネタが降りてきたら、ちょこちょこ書くかも知れません。
もともと動物が好きで、彼らの生きている姿を見るのが好きだったので出来たお話です。
稲穂君は、最初の話から出ていました。コールセンターの彼です。長い年月を経て、彼は彼なりの現世への干渉法として、『いのちの電話』のような形で傷ついた霊魂への救済をしています。
長年の神様への真面目な勤労態度と、当人の努力もあり、様々なコネクションを得るにいたった彼。主である神様の目論見どおり、ただひたすらに、真摯にお役目を果たし続けています。主様が元より役目から逃げたくて自分をそう仕向けたであろうことは薄々とは気づいていますが、それでも、救ってくれた主様のことは慕っている、いい子です。主様も、そんな稲穂さんのことは特に気に入っているようです。
全ての霊魂を救うことは出来ません。ですが、稲穂さんは少しでも多くの魂を救うべく、今でも努力を続けています。
神様の設定などはぼんやりとしていますので、細かい粗があることはお許しください。
ただし、稲穂さんはお狐様ですので、もちろん救済には代償を要求しています。とても、優しい代償ですが。
その辺は皆様のご想像にお任せいたします…作中匂わせては居ります。
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