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今日も今日とて、暑さに辟易しながら大学に通ってきた加奈子は、昼休みに待ち合わせていた裕貴に珍妙な冊子を渡された。
 
 「…なあに、これ?」
 
 ぴらぴらと、裕貴に渡された冊子を揺らしながら怪訝な目で眺める加奈子に、裕貴は少しはれぼったい目をしたまま、あくびをかみ殺しながら答えた。
 
 「今週末の予定だよ。たまには修学旅行の乗りで、楽しくやろうと思ってなー。」
 
 くぁぁ、と裕貴はあくびをかみ殺しつつ、缶コーヒーをちびちびと飲んでいる。
 
 「念のため、雨天の際の予定も書いているからな。ちゃんと読んで、しっかり準備してくるように」
 
 加奈子の手の中の小冊子は、パソコンで自作したと思しきフリーイラストつきのパンフレットだ。ご丁寧に『~初夏の近所の小旅行~』というタイトル付である。
 
 「用意するものは、水筒、帽子、日よけの羽織物、…何これ、おやつは三百円までって、ちょっとふざけすぎじゃないの?」
 
 「…荷物はリュックに入れたほうがいいぞ…」
 
 眠気のあまりに、裕貴はすでに目の前で机に突っ伏してしまっていた。
 
 「…ちょっと!」
 
 確か裕貴は午後一に授業があったはず、と加奈子が焦ると、裕貴は机に突っ伏したまま、くぐもった声で「今日の次の授業は教授が教授会に出てて休講~…だから寝る、じゃあおやすみ…」
 
 と答えたきり、動かなくなってしまった。
 
 「はぁ!?」
 

 結局、加奈子は午後の授業もなかったので、裕貴が起きるまで一時間近く、待ち合わせ場所の自販機までのテーブル席で、裕貴の目覚めを待つ羽目になってしまった。その後、そんなふらふらになるまで夜更かしするんじゃないと説教して、お前が言うなよなーと反撃されて。
 
 言葉に詰まったところに、急に頭を撫でられて、そんな加奈子さんも可愛いよと不意打ちでほめられて、恥ずかしさのあまり思わず向かいの裕貴の足を踏んづけたことは、無罪だと加奈子は思った。
 
 足を踏んづけられて、痛みに顔をしかめたものの、裕貴はまだ柔らかな笑顔を浮かべたままで、加奈子は直感でコイツヤバイわと感じ、裕貴をまずは裕貴の自宅前まで引きずって帰宅を促した。
 
 その際、「加奈子さんの添い寝サービスがあるとよく眠れそうですけど」なんて寝言を言われ、いよいよ貞節の危機を感じた加奈子は、裕貴をさっさと自宅に押し込んで帰宅した。
 
 疲労と眠気が臨界点を突破した裕貴は色々とヤバイと学習した加奈子だった。
 
 帰宅して、ちょっとだけ、加奈子はしっかりとパンフレットを熟読した。
 
 週末の予定だ。
 
 「…覚えててくれたんだ」
 
 自然と笑顔になってしまう。加奈子はこのところ、気が緩むと感情のゆれが出てくるのを感じていた。感情の制御が出来ていないようで、奇妙な感じがしていたが、葵をはじめ、裕貴も、両親もそれはいいことだと皆が言うので、加奈子はそれを受け入れようとしているところだ。
 
 この間、裕貴が言っていた『涼しいところに行こう』という提案。何だか場所を指定したり、何かをしたいと願うことに抵抗があった加奈子は、それ以降一切そのことを口にはしていなかったのだが、幼馴染は自分のそんな思いはお見通しだったらしい。なんとも気が利く奴である。
 
 近場とは言っても、予定地は山沿いの渓流だ。そこは車がなければいけないところだったのだが、なんとあの幼馴染はこの期間に免許を取得したようだった。小冊子には、『免許取立てのため、運転に関する苦情はおいかねます』なんていうコメントまでついていて、加奈子は苦笑いを浮かべた。
 
 「…私には、何にも言ってなかったのに」
 
 あいつは、何もかも、お見通しらしい。旅の冊子には、道中に寄る予定のお店の詳細まで書いてあった。山間の渓流が目的地で、そこで昼食予定だということ。そこでは水の美しい渓流を利用して、川魚の釣堀があるようだ。
 
 裕貴はそこで釣りをして、つれた魚を食べようという目論見らしい。帰り道には道の駅によることも明記されていて、『ご家族へのお土産は此方で』なんて注意書きもあって、加奈子はくすりと笑ってしまった。ここではさっぱり目のソフトクリームが名物らしい。
 
 一応、目安の予定時刻までご丁寧に明記されて居り、至れり尽くせりの中々の完成度だった。ちゃんと地図までついている。
 
 こんなものを、毎日夜更かししながら作っていたのだと思うと、加奈子は心が温かくなるのを感じた。
 
 ここのところ、感情の動くままに、動いてみようとリハビリ中なのだ。まずは人目のないときに、表情が変わることを受け入れてみた。いつも、人を食ったような表情を浮かべるのではなくて、悲しいときは悲しい顔を。嬉しいときは嬉しいと笑えるように。
 
 今までは心のどこかで、ストッパーのようなものをつくって感情を食い止めていた。そのつっぱりを、少しずつなくしてみようとしている。
 
 今まで制御していた感情があふれ出て、自分の手に負えなくなるのでは、と怖い思いもあるが。
 
 そうじゃないよ、と彼女の周りはそんな彼女の背中を押してくれる。まだまだまともな声を出すことのない朱里も、加奈子が笑うとそれはそれは嬉しそうに笑ってくれるのだ。近頃、加奈子はカナとかぁちゃんとの明確な境目のようなものが、あやふやになってきているのを感じていた。
 
 いつも、朱里と遊んでいるときの記憶はカナたちがメインで持っていたので、記憶になかったのだが、近頃はぼんやりとだが何をしたのか記憶できているのだ。この間の積み木は楽しかった、とか朱里ちゃんがよんでいたご本は綺麗な絵がついていたなとか、自分の感情ではないのになんとなく記憶しているものがあった。
 
 そして、それを自然に受け入れ始めている自分にも気づいていた。
 
 そんな変化が、怖くもあり、楽しくもあり…
 
 今まで白黒だった世界に、少しずつ様々な色彩が加わるのを感じている。葵の色は、黄色。裕貴の色は、緑。朱里ちゃんは、オレンジ。父さんは、青。母さんは、ピンク色。…そんな感じに。
 
 裕貴。ただの、癒し系だと思っていたのになあ…
 
 そう思いながら、加奈子は貰った小冊子の文字をなぞった。大学生と言う忙しい日々の合間に、自分のためにと作ってくれた小冊子は、なぜかとても暖かく感じた。思わず弧を描いた自分の表情を恥じることもせず、彼女は微笑みながら小冊子をしばし読みふけっていた。
 
 その晩、加奈子は夢の中で大きな川魚を沢山釣って、裕貴を悔しがらせる夢を見て、翌日の寝起きはとても良かった。そのとおりになると良いなと思いながら、加奈子は週末に着て行く洋服を毎日取り替えつつ悩むことを日課にしていた。
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