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 「暑いから水場に行きたい」
 
 「…なんだ、いきなり」
 
 まだ朝一の授業が終わったばかりだというのに、目を灼くじりじりとした初夏の日差しにうんざりとしていた裕貴の耳に飛び込んできたのは、隣で涼しい顔で朝からカキ氷バーをかじっていた加奈子の、唐突な要望だった。
 
 「…私じゃないわ。かぁちゃんよ。あの子、暑いの嫌いなの。さっきから脳内で暑い暑い暑い暑いってずっと喋ってる…」
 
 うんざりとした顔で頭をしきりに横に振るのは、カキ氷バーの冷たさだけではないらしい。そういえば彼女の手にあるアイスは、加奈子はあまり食べるタイプのものではなかったな、と裕貴は思い至る。
 
 「そっか、かぁちゃんたちはまだ子供だもんなあ…」
 
 「私はこのくらいの暑さは別にどうもないんだけど。あの子にはちょっときついみたいで」
 
 だから好きでもないのに朝っぱらからこんなもの食べてるの、と加奈子はため息をついている。今日は朝一の授業のあと、昼まで時間が空いていたので、加奈子に借りていた本を返すつもりで生協前で待ち合わせをしていた。
 授業が少々長引いて、慌てて裕貴が待ち合わせ場所の生協前の木陰付近のベンチに行ってみれば、カキ氷バーを片手に、扇子を片手に鷹揚に自身を扇ぐ加奈子を発見したのだ。
 
 「みんなのおかげで、少しずつお互いに話し合える機会は多くもててると思ってる」
 
 裕貴が加奈子から借りていた本を背中のリュックから取り出していると、カキ氷バーをかじり終わって、包装紙の中にバーをしまいこみつつ、加奈子は近況を伝えてきた。このところ、通う学部も違うし、夏も近づき専門分野も出始めているので、二人はあまり大学内でも出会うことが少なかった。
 裕貴は家庭教師のバイトに忙しくなってきているし、加奈子は加奈子で何かしらの用事があるようで、このところ二人はメールでのやり取りが主であった。ちなみに加奈子は某SNSを利用していない。なぜかと裕貴が問うと、
 
 「宗教上の理由です」
 
 …と、口角を上げて人の悪い笑みを浮かべた。…単純に、やり取りをする知人が少ないのだと、認める気はないようだった。
 
 裕貴が借りていた本を加奈子に手渡すと、加奈子はありがと、と小さくうなずいて、軽くページを一通りめくった後、うんと頷いて座席においていたサブバッグにしまいこんだ。
 代わりにとばかりに食べたばかりのアイスのごみを手渡され、裕貴は苦笑いして受け取って、近くにあったダストボックスに放り込んだ。
 
 「あいかわらず人使いが荒いな~」
 
 「…ならあげない」
 
 「いえいえ、ぜひとも私めにおだちんをお恵みください」
 
 「…許す」
 
 軽く笑いあって、加奈子は裕貴に駄菓子の入った紙袋を渡した。人使いは荒いものの、加奈子はただで人を使うことはしない。ちゃんと、いつも謝礼がついてくるからこそ、裕貴はいつも笑って雑用を引き受けていた。
 
 「…最近、私もこういうお菓子が美味しいかも、って思うようになって来て困るよ」
 
 小腹が空いたので早速と駄菓子の袋を開けて口に放り込む裕貴を頬杖をついて眺めつつ、加奈子はぽつりともらした。
 
 「…怖いか?」
 
 裕貴の問いに、加奈子は答えない。向かい合う裕貴の、更に向こうの白い雲が浮かぶ青空を眩しそうに目を細め、ここ数日ですっかり夏を知らせるようになった蝉の声に耳を澄ましていた。
 
 裕貴も返答がないことにさして気にする風もなく、リュックに入れて持ってきていた水筒をもちだし、駄菓子で乾いた喉に流し込む。加奈子が沈黙するのは長考の兆し。加奈子はふざけているときはともかく、基本的には思考中は人の話を聞いていない。
 現在はカナたちとの接触もあるので、唐突に黙り込むことがままあった。心を許す人間だけに見せる、彼女が他人に配慮しない時間。裕貴は長年の付き合いでその受け流し方を熟知していた。
 
 
 裕貴が駄菓子を食べ終わり、生協に入っていく学生達をぼんやりと眺めていると、加奈子はぽつり、と話し始めた。
 
 「…怖い、といえば怖い。自分が、今までの自分ではなくなっている。…それが、いいものなのかどうかわからない…」
 
 右手でゆっくりと自らを扇ぎながら、加奈子の視線はどこでもないどこかを見つめていた。
 
 裕貴は頬杖をついて、加奈子を直接見ないようにしながら、生協の出入り口を眺める。
 
 蝉の声が、だんだんと大きくなってきている。日差しの眩しさに、裕貴は少し身じろぎをして、横に少し移動した。
 
 「…」
 
 「…あの子達は、何と言ってる?」
 
 先程から加奈子が口を開きかけては、閉ざしているのを繰り返しているのを見つけて、裕貴はさりげなく話題を出した。
 
 「…何も。…向こうも、私と同じで怖いのかも、とは思っている…」
 
 「ふうん」
 
 「…このやり方で、いいのだろうかって、思う」
 
 「…いいんじゃねえの。どうせ、正解なんてないんだろうしさ」
 
 加奈子がふとこちらを見たのを認めて、裕貴はへらりと笑いかけた。
 
 「ヒトの心なんて、だーれもわかりっこないさ。数学の世界みたいに、これが正解だ!なんて模範解答はないだろうよ」
 
 「…それは、そうだけど」
 
 加奈子が口ごもるのを、裕貴は懐かしいものを見る目で見つめた。加奈子は裕貴の生暖かい視線に耐え切れなかったようで、ふいと目を逸らして、口を尖らせた。
 
 「…なんか、あんたに色々諭されてしまうなんて。負けた気がするわ…」
 
 「俺も少しは成長したってことで、素直に認めてくれないもんかねぇ、加奈子さんは…」
 
 「ふん」
 
 加奈子は躍起になって、裕貴のほうを見ようとはしなかった。しかし、ほんのりと耳の辺りが赤らんだのを、裕貴は見逃さなかった。
 
 「俺はほめたら伸びるタイプだと思うんだ~」
 
 「…今度、絶対、やり返す」
 
 裕貴が視線を逸らす加奈子をニヤニヤしながら眺めているのに気づいているのか、加奈子の声色は酷く不穏な色を帯びてきた。
 
 「新作で。絶対おもちゃにしてやるんだから…!!」
 
 きぃ、と悔しげに吐き捨てる加奈子の姿を見て、裕貴はとうとう声を上げて笑い出した。
 
 「…お前、いつもそういって俺を脅すけど、それやったことは一度もないもんな。…そういうとこ、何だかんだ優しくて俺は好きだなあ」
 
 「んなぁっ!?」
 
 言われなれぬあからさまな好意の言葉を投げかけられて、加奈子はとうとう顔を逸らすのをやめ、顔面一面を真っ赤にしながら裕貴を睨み据えた。羞恥心が限界突破して、加奈子はもう涙目だ。
 
 そんな加奈子を、裕貴は穏やかな瞳で見守っていた。
 
 「…どんなお前だろうと、お前はお前だろうよ。…皆も、そう思ってると思うぞ。いいんじゃないか、キャラじゃない自分でも。…ギャップ萌えって、言うんだろう?」
 
 「~~~…、こっちは一生懸命、悩んでるって言うのに…!」
 
 「大丈夫、大丈夫。お前がかーなり、かわりもんでひねくれてるってのは、もう皆知ってるからさ。ちょっとくらい違うキャラが出てきたくらいで、皆お前を変に思ったりしないよ。…大丈夫だ」
 
 ―ー変わることを恐れるなよ。
 
 付け加えた一言に、加奈子はぐっと声を詰まらせた。そうして、大きく息を吸い込んでから。
 
 「――たしかに、あんたも変わったもんね」
 
 「――別に、だからって何も変える気ないだろう?」
 
 「…うん、…うん。…そう、だね…」
 
 そうそう、と裕貴は笑いながら席を立ち上がり、出入り口付近にあった自販機でウーロン茶をかってきて、ペットボトルを加奈子の頬にぺたりと寄せた。
 
 「つめたっ」
 
 「…お前、授業の前に一度帰ったほうが良いぞ。少し体調悪いだろう」
 
 「…そういえば、ちょっとだるいかな…って、何で知ってんの?」
 
 「昨日夜更かししてたんだろう?おばさん心配してたぞ」
 
 「…アンタのそういうオカン属性は、相変わらずだって思うわ…」
 
 加奈子が呆れてジト目で裕貴を見上げると、裕貴はからからと笑った。
 
 「俺は気が利くから嫁に良いって言ってたのは、どこのどなたでしたかねえ…?」
 
 「…ったくもう、あー、わかりましたよ、わかりました!わたしですー!」
 
 「おう、ちゃんと寝とけよ~!…週末、どっか涼しいところに行こうか。考えとくから、お前も案を出してくれよ」
 
 裕貴は加奈子の頭をくしゃりと撫でて、じゃあなと片手をあげて荷物を抱えてさっさと教育棟のほうへと消えていった。
 
 「…変わって、いいのかなあ…」
 
 ベンチに一人残された加奈子は、冷えたウーロン茶のペットボトルを頬に当てながら、日差しが強くなってきた初夏の空を見上げた。
 
 蝉の声が、更に大きくなってきていた。
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