2 / 13
2話 身に覚えのないもの
しおりを挟む
婚約者の姿かたちすら覚えていないが、何も覚えていない私にほかに当てはなく、彼らに従うしかなかった。
幸い日常生活を送るのに不都合はなかった。歩くことも話すことも食べることもできた。
おそらく、体か、あるいは頭のどこかで覚えていたのだろう。
だが、父と母は私が生きているだけでは不満だったようだ。貴族令嬢らしいふるまいを早く取り戻せというように、朝から晩までマナーやダンスの練習をさせられた。
歩き方、フォークの持ち方、言葉遣い。私のどこにもないそれを一から覚えるのは大変だった。
「ほんとう、お姉さまって何をやっても駄目なのねぇ」
ドレスの裾を踏んで転びかけた私にそう言ったのは、私の妹だと名乗ったセリーヌ。
彼女はただ私の様子を見に来ては失敗するさまを見てくすくすと笑っていた。
「魔法の才能もないのに記憶も失って……しかも死ぬことすら失敗するなんて。お姉さまにできることってあるのかしら」
嘲笑う彼女に返す言葉を私は持ち合わせていなかった。
セリーヌと私がどういう関係だったのかまったくわからなかったからだ。
言い返せばいいのか、へりくだればいいのかすらわからない。
わかるのは、セリーヌが私のことを嫌っているらしいということと、馬鹿にしているということだけだった。
――そうして、なんとか言葉遣いだけは及第点を得た私は、婚約者であるシリル・アヒレスに会うことになったわけだけど。
会ってそうそう睨まれ、悪行をまくしたてられた。
しかも、あのセリーヌを私がいじめていたという内容のものを。婚約者に会えた感慨を感じる暇すらない。
それに、義妹というのはどういうことだ。そんな話を私は聞かされていない。
セリーヌが義妹ということは、養子か――あるいは父と母のどちらかが継親だということになる。
てっきり実の親かと思っていたのに、違ったなんて。
「俺が知っているとは思いもしなかったか」
セリーヌをいじめていたという話よりもそちらに衝撃を受け、ぽかんと呆けていた私に何を思ったのか、シリルが鼻で笑う。
さもしてやったりというような顔で。
「曾祖父の約束さえなければ、お前との婚約など解消するというのに……まったく、忌々しい」
なんでも、私とシリルの婚約は何十年も前に決まったらしい。
エティエンヌ家とアヒレス家の曾祖父同士が仲がよく、年ごろの男女が生まれたら結婚させようと約束したはいいが、彼らの孫の代に生まれたのはどちらも男児だったそうだ。
そうして約束は繰り越され、条件を満たしたのが、私とシリルだった。
私は魔力適性試験の成績が芳しくなかったそうで、約束がなければ絶対に婚約できない相手らしい。
もしもシリルとの婚約が駄目になったら、記憶を失った令嬢など誰も嫁にもらってくれるはずがない。それ相応の魔力があればどこかしら拾ってくれたかもしれないが、私ではその見込みもない。
私を死ぬまで養う余裕はなく、なんとしても、記憶を失ったことは気づかれるな――シリルに会う前、念を押すように父が教えてくれた。
「……記憶以前の問題じゃないかしら」
ここまで嫌われているのなら、記憶を失っていようとなかろうと婚約を解消されるのではないだろうか。
「なんだ」
「いえ、なんでもありません。それよりも……曾祖父の約束など放棄しようとは思わないのですか?」
「できるものならしているに決まっているだろう。だが、いくらお前の性格が悪いからと説いても父上は納得してくださらなかった!」
父親に断られたときのことでも思い出したのか、激高したシリルの手が机を叩く。
それは残念でしたね、と言うと火に油を注ぎそうだ。ここは黙っていることにしよう。
「でなければ誰がお前などと……」
「……どうやら、私はだいぶシリル様に嫌われているようですね」
「お前を好く者などいるものか」
吐き捨てられる言葉に、胸の奥が痛くなる。
私がクラリスだという実感はいまだない。だからといって、面と向かって暴言を吐かれ、憎しみを向けられて、傷つかないわけではない。
「でしたら、今日はこれでお開きとしましょう。失礼いたします」
「ああ、そうだな。そのほうが俺も清々する」
シリルとのお茶会は定期的に開かれているそうだ。婚約者同士の親睦が深まるようにと――曾祖父が残した遺言書に書かれていたらしい。
だから、急いでマナーを身に着けて今日という日に挑むことになった。
その結果がこれとは。もう二度と顔を合わせたくないものだが、きっとそうもいかないのだろう。定期的に開くということは、またしばらくすれば会うことになる。
考えるだけで、今から億劫だ。
記憶を失う前の私は、あの婚約者の態度に何を思っていたのだろう。耐えられていたのだろうか。
いや、耐えられなくなって死のうとしたのかもしれない。
ああ本当に、私にはわからないことだらけだ。
シリルが語った悪行の数々が真実かどうかすら私にはわからない。あのセリーヌをいじめていたとはとうてい思えないけど、それは私が記憶を失っているからそう思っているだけなのかもしれない。
もしかしたら、これまで受けた鬱憤を晴らそうと思って、あんな態度を取ってきたのかもしれない。
わけがわからないまま嫌われ、見下される。私がどういう人間だったのか、何も知らないのに。
だけど両親に私がどういう人だったのか聞いても無駄だろう。実の親でないことすら伏せていたのだから――それが意図したものでなかったとしても、彼らが必要ないと判断した情報は教えてくれない可能性が高い。
クラリスのことを知るのなら、調べるべきは彼女の部屋だろう。
私に与えられた部屋は元はクラリスの部屋だったらしい。ここに何か残されていないかとあさる。
この部屋に覚えもなければ懐かしさもない。だからどこに何があるのかもわからず、ただ手あたり次第に棚の中を引っ張りだし、引き出しをひっくり返す。
クラリスがどういう人間だったのか。嫌われ、見下されるだけの理由があるのかどうか。
何も知らないままでいるよりは、少しでも何か知りたくて、必死に探す。
――そうして出てきた答えは、案外単純なものだった。
幸い日常生活を送るのに不都合はなかった。歩くことも話すことも食べることもできた。
おそらく、体か、あるいは頭のどこかで覚えていたのだろう。
だが、父と母は私が生きているだけでは不満だったようだ。貴族令嬢らしいふるまいを早く取り戻せというように、朝から晩までマナーやダンスの練習をさせられた。
歩き方、フォークの持ち方、言葉遣い。私のどこにもないそれを一から覚えるのは大変だった。
「ほんとう、お姉さまって何をやっても駄目なのねぇ」
ドレスの裾を踏んで転びかけた私にそう言ったのは、私の妹だと名乗ったセリーヌ。
彼女はただ私の様子を見に来ては失敗するさまを見てくすくすと笑っていた。
「魔法の才能もないのに記憶も失って……しかも死ぬことすら失敗するなんて。お姉さまにできることってあるのかしら」
嘲笑う彼女に返す言葉を私は持ち合わせていなかった。
セリーヌと私がどういう関係だったのかまったくわからなかったからだ。
言い返せばいいのか、へりくだればいいのかすらわからない。
わかるのは、セリーヌが私のことを嫌っているらしいということと、馬鹿にしているということだけだった。
――そうして、なんとか言葉遣いだけは及第点を得た私は、婚約者であるシリル・アヒレスに会うことになったわけだけど。
会ってそうそう睨まれ、悪行をまくしたてられた。
しかも、あのセリーヌを私がいじめていたという内容のものを。婚約者に会えた感慨を感じる暇すらない。
それに、義妹というのはどういうことだ。そんな話を私は聞かされていない。
セリーヌが義妹ということは、養子か――あるいは父と母のどちらかが継親だということになる。
てっきり実の親かと思っていたのに、違ったなんて。
「俺が知っているとは思いもしなかったか」
セリーヌをいじめていたという話よりもそちらに衝撃を受け、ぽかんと呆けていた私に何を思ったのか、シリルが鼻で笑う。
さもしてやったりというような顔で。
「曾祖父の約束さえなければ、お前との婚約など解消するというのに……まったく、忌々しい」
なんでも、私とシリルの婚約は何十年も前に決まったらしい。
エティエンヌ家とアヒレス家の曾祖父同士が仲がよく、年ごろの男女が生まれたら結婚させようと約束したはいいが、彼らの孫の代に生まれたのはどちらも男児だったそうだ。
そうして約束は繰り越され、条件を満たしたのが、私とシリルだった。
私は魔力適性試験の成績が芳しくなかったそうで、約束がなければ絶対に婚約できない相手らしい。
もしもシリルとの婚約が駄目になったら、記憶を失った令嬢など誰も嫁にもらってくれるはずがない。それ相応の魔力があればどこかしら拾ってくれたかもしれないが、私ではその見込みもない。
私を死ぬまで養う余裕はなく、なんとしても、記憶を失ったことは気づかれるな――シリルに会う前、念を押すように父が教えてくれた。
「……記憶以前の問題じゃないかしら」
ここまで嫌われているのなら、記憶を失っていようとなかろうと婚約を解消されるのではないだろうか。
「なんだ」
「いえ、なんでもありません。それよりも……曾祖父の約束など放棄しようとは思わないのですか?」
「できるものならしているに決まっているだろう。だが、いくらお前の性格が悪いからと説いても父上は納得してくださらなかった!」
父親に断られたときのことでも思い出したのか、激高したシリルの手が机を叩く。
それは残念でしたね、と言うと火に油を注ぎそうだ。ここは黙っていることにしよう。
「でなければ誰がお前などと……」
「……どうやら、私はだいぶシリル様に嫌われているようですね」
「お前を好く者などいるものか」
吐き捨てられる言葉に、胸の奥が痛くなる。
私がクラリスだという実感はいまだない。だからといって、面と向かって暴言を吐かれ、憎しみを向けられて、傷つかないわけではない。
「でしたら、今日はこれでお開きとしましょう。失礼いたします」
「ああ、そうだな。そのほうが俺も清々する」
シリルとのお茶会は定期的に開かれているそうだ。婚約者同士の親睦が深まるようにと――曾祖父が残した遺言書に書かれていたらしい。
だから、急いでマナーを身に着けて今日という日に挑むことになった。
その結果がこれとは。もう二度と顔を合わせたくないものだが、きっとそうもいかないのだろう。定期的に開くということは、またしばらくすれば会うことになる。
考えるだけで、今から億劫だ。
記憶を失う前の私は、あの婚約者の態度に何を思っていたのだろう。耐えられていたのだろうか。
いや、耐えられなくなって死のうとしたのかもしれない。
ああ本当に、私にはわからないことだらけだ。
シリルが語った悪行の数々が真実かどうかすら私にはわからない。あのセリーヌをいじめていたとはとうてい思えないけど、それは私が記憶を失っているからそう思っているだけなのかもしれない。
もしかしたら、これまで受けた鬱憤を晴らそうと思って、あんな態度を取ってきたのかもしれない。
わけがわからないまま嫌われ、見下される。私がどういう人間だったのか、何も知らないのに。
だけど両親に私がどういう人だったのか聞いても無駄だろう。実の親でないことすら伏せていたのだから――それが意図したものでなかったとしても、彼らが必要ないと判断した情報は教えてくれない可能性が高い。
クラリスのことを知るのなら、調べるべきは彼女の部屋だろう。
私に与えられた部屋は元はクラリスの部屋だったらしい。ここに何か残されていないかとあさる。
この部屋に覚えもなければ懐かしさもない。だからどこに何があるのかもわからず、ただ手あたり次第に棚の中を引っ張りだし、引き出しをひっくり返す。
クラリスがどういう人間だったのか。嫌われ、見下されるだけの理由があるのかどうか。
何も知らないままでいるよりは、少しでも何か知りたくて、必死に探す。
――そうして出てきた答えは、案外単純なものだった。
2
お気に入りに追加
2,084
あなたにおすすめの小説

陛下を捨てた理由
甘糖むい
恋愛
侯爵家の令嬢ジェニエル・フィンガルドには、幼い頃から仲の良い婚約者がいた。数多くの候補者の中でも、ジェニエルは頭一つ抜きんでており、王家に忠実な家臣を父に持つ彼女にとって、セオドール第一王子との結婚は約束されたも同然だった。
年齢差がわずか1歳のジェニエルとセオドールは、幼少期には兄妹のように遊び、成長するにつれて周囲の貴族たちが噂するほどの仲睦まじい関係を築いていた。ジェニエルは自分が王妃になることを信じて疑わなかった。
16歳になると、セオドールは本格的な剣術や戦に赴くようになり、頻繁に会っていた日々は次第に減少し、月に一度会うことができれば幸運という状況になった。ジェニエルは彼のためにハンカチに刺繍をしたり、王妃教育に励んだりと、忙しい日々を送るようになった。いつの間にか、お互いに心から笑い合うこともなくなり、それを悲しむよりも、国の未来について真剣に話し合うようになった。
ジェニエルの努力は実り、20歳でついにセオドールと結婚した。彼女は国で一番の美貌を持ち、才知にも優れ、王妃としての役割を果たすべく尽力した。パーティーでは同性の令嬢たちに憧れられ、異性には称賛される存在となった。
そんな決められた式を終えて3年。
国のよき母であり続けようとしていたジェニエルに一つの噂が立ち始める。
――お世継ぎが生まれないのはジェニエル様に問題があるらしい。

ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。

私は何も知らなかった
まるまる⭐️
恋愛
「ディアーナ、お前との婚約を解消する。恨むんならお前の存在を最後まで認めなかったお前の祖父シナールを恨むんだな」 母を失ったばかりの私は、突然王太子殿下から婚約の解消を告げられた。
失意の中屋敷に戻ると其処には、見知らぬ女性と父によく似た男の子…。「今日からお前の母親となるバーバラと弟のエクメットだ」父は女性の肩を抱きながら、嬉しそうに2人を紹介した。え?まだお母様が亡くなったばかりなのに?お父様とお母様は深く愛し合っていたんじゃ無かったの?だからこそお母様は家族も地位も全てを捨ててお父様と駆け落ちまでしたのに…。
弟の存在から、父が母の存命中から不貞を働いていたのは明らかだ。
生まれて初めて父に反抗し、屋敷を追い出された私は街を彷徨い、そこで見知らぬ男達に攫われる。部屋に閉じ込められ絶望した私の前に現れたのは、私に婚約解消を告げたはずの王太子殿下だった…。

振られたあとに優しくされても困ります
菜花
恋愛
男爵令嬢ミリーは親の縁で公爵家のアルフォンスと婚約を結ぶ。一目惚れしたミリーは好かれようと猛アタックしたものの、彼の氷のような心は解けず半年で婚約解消となった。それから半年後、貴族の通う学園に入学したミリーを待っていたのはアルフォンスからの溺愛だった。ええとごめんなさい。普通に迷惑なんですけど……。カクヨムにも投稿しています。

もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる