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ポピーの花咲く呪われし館
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森の中で道に迷った。花が見たいと言い出した幼馴染の久美のために朝からドライブにいくつもりだった。
もうすっかり夜だ。車内のデジタル時計を見る。20時を回っていた。
ドアを開け車から降りると生暖かい風が湿っぽい土のような臭いを運んできた。数歩進んだところに一突きで刺せるような門があり、両脇には羽のついたモンスターの銅像がある。その奥には――なにかあるのだが暗雲が立ちこもりよく見えなかった。
「出てきてもいいよ」
と呼びかけると、助手席側のドアが開き、黒いリボンつきのエナメルの靴を履いた足がにょきっと出てくる。ピンク色のプリーツスカートに花柄のブラウスを着た久美が車から降りてきた。さらさらの黒髪にツンとしたさくらんぼ色の唇をしている。美人だがいつも顔を向けるとき鼻と唇を突き出すので、どちらかというと小動物的な可愛らしさがある。
こわいから帰ろうよといってくれるのを半分期待したが―
「うわ~。遊園地のお化け屋敷みたい。則作、早くはいろうよ」
手を合わせアーモンドのような目をキラキラさせている。 映画をみるときでも彼女があれみたいと指さすのはいつもホラー映画で、効果音と恐ろしい映像が出るたびに心臓が飛び上がる。そこに記憶の空白ができ気がつくとクレジットロールが流れていた。思わず今も踵を返したくなる。
「お、面白そうだね。中に入ってみようか」
とは言ってみるが門の奥で何が出てくるかわからない。ふるえる脚で僕が先頭になって門に近づいた。
ひび割れたような鉄の門は青錆が絡みついてくっついてしまっているのか押しても引いても全く動かない。
「ねぇ。開かないよ。だっ誰も住んでいなさそうだしさ~そっそれに、こんな所に入ったってなにもないと思うよ」
だからやめとこうよと言いかけたが――
「えーなにいってんの。つべこべ言わずに早く開けてよー。あっ、もしかして恐いんだ~根性なし~」
久美が腕を組みながら口を尖らせ薄笑いを浮かべた。なんかムカっとしてきた、クソッ こうなったら絶対に開けてやる
ふーん ! ギリギリギリ・・・・
渾身の力を込めて頑張ったお蔭で鈍い音を立てて扉は開いていった。
「はぁ はぁ お入りください お姫様」
息がかなり上がって苦しく、顔も多分真っ赤だとわかったが久美に気づかれないようにした。開いたのが奇跡と思うほど重かったのだ。
「フン やりゃあ出来るじゃないの」
どこまでも意地の悪い久美と一緒に扉から一歩踏み入った瞬間、左側向こうの一角に何かを見つけた。その場所に近づき、目に飛び込んできたのは赤黒い血の海? いや、暗く見えるだけでたぶん、赤い花畑だ・・・
「あー可愛いお花がいっぱい!」
久美が赤い花畑を指さして駆けていったあと、両手を膝の上において目を閉じ花の匂いを吸い込むようにかいでた。
「それはね、たぶんポピーという花だよ」
久美に近づいて言った。
「あっ、これがポピーっていう花なんだー名前は聞いたことあるわーへー」上から撫でるしぐさをした。昔から花が好きで動物と同じように育てるところがある。
あれ、そういえば花が植えられている。ということはこの館には誰か住んでいる人がいるのかな。手を顎に添える。真っ暗で今引き返しても帰る時間が夜中になるだろうし、薄気味悪い館でもできたら泊めてもらいたいと思った。これから車で安全運転できる自信がない。散々森の中で迷い疲れきったのだから。
今日は遅いから泊めてもらおうか、と久美に聞くとうんと快く返事をしてくれた。
門と同じく鉄で出来た扉は、これもまた容易に開けられる気がしない。
「誰か住んでいるのかな、このドアを見るかぎり廃屋にしか思えないよ」
辺りは暗く建物も暗い。ドアの横にある窓には分厚いカーテンでも掛かっているのか光が全く漏れていない。
「そんなことないよーこんなに綺麗なポピー畑があるんだもの。人が住んでないわけないじゃない」花畑を振り返りながら久美がうっとりとした声を出す。
チャイムくらいはあるだろう・・・こんな鉄のドアなんか叩いても音が出るかどうか・・
ドア付近を捜していると、右上あたりに馬の蹄鉄のような輪があるのを発見した。鉄の輪をつかむ。
ガンガンガン!「誰かいませんかー?」
大きく音を立て叫んだあと、中の気配を探ろうと息を殺す。
・・・・・・・・・・・・・
「何も聞こえないわねえ」久美がつぶやいた。
「うーん。そうだね」
やはり車に戻って引き返すかと思ったその時、とてつもなく鈍い音がしてドアが開いた。
ピカーっ ゴロゴロ!
「うわぁっ!」
僕は大きな雷の音に驚き、猫のように飛びのいた。その後、ザーっと雨が降ってきた。
ドアの向こうにはうっすらとしか見えないが小柄で骨ばった老人がいた。顔の半分が影に覆われているせいか酷く陰険に見える。正装しているところを見ると執事だろうか。
「あの、すみません。道に迷ってしまいました。もしできたら今晩だけでもこちらに泊まらせていただきたいのですが―」
執事は僕たちを静かに見ているだけだった。断られるのかなと思ったが
「どうぞ」とドアを大きく開けた。
「ありがとうございます。それでは」
助かったと、館に足を踏み入れた瞬間 体が凍りついた。
館のなかはひんやりとしていた。艶々とした重厚感のある壁と備えつけの机とソファー。正面は二階へと続く大きな階段があり、真っ赤な長い舌のように敷かれている。洒落たシャンデリアの灯りが階段にあたり不気味さを醸し出す。壁沿いには兜を被った騎士の像が立ち並んでいるが迫力があり今にも襲いかかってきそうだ。あまり広くない館に物を置きすぎているから余計にそう感じるのだろう。床はもともとの色が分からないほど何度も踏みつけた後のような黒い絨毯が敷かれている。足の震えが止まらない。
とんでもない所に来てしまった――中の様子を見ずに泊まろうよと軽はずみに言ってしまった自分に後悔をした。
館の不気味さなんかを気にせずに久美は天井が高―いと子供のようにくるくる回り、ソファーにもたれかけ靴を脱ぎ足を投げ出した。そういえば僕もずっと運転し続けて精神もクタクタだ。思ったことを素直に言える彼女の性格が羨ましかったが、執事が嫌な顔をしていないか横目でみた。すると彼女をまじまじと見て非常に驚いている様子だった。
え――なぜ、と零したのを聞き逃さなかった。
「あのぅ。なにか」と聞いてみた。
「あ、いえ、すみません。あまりにも知っている人によく似ていらしたのでつい」片眼鏡をくいっとあげた。
「ご覧いただきたい物がございます。ついてきていただけませんか」
一刻も早くこの館から出たいと思ったが久美に似ていることも気になる。彼女にいくよ、と声をかけた。ソファーの上でゴロゴロしている彼女に呼びかけると大きな欠伸をして腕をいっぱい伸ばし、すくりと立ち上がって駆けてくる。僕たちは執事の後に続いて正面の階段を上がっていった。
しかしこの階段はやはり巨大な舌のようで、一段一段のぼって口の中に飲み込まれるみたいだ。館全体がモンスターのようでまるで生きているみたいだ。思わず生唾をのみ込んだ。
二階につき左に向いた。右側に泊まり部屋が五つと突き当たりに浴室があり、左側に油絵で描かれた複数の風景画が飾られていた。その中に一枚の婦人画が目に飛び込む。執事は足を止め、絵が見えるように脇に移動しご覧くださいと指先をそろえて示した。
「ほんとだ。久美そっくり―」
思わず口をおさえる。そっくり以上にクローンがいるみたいだ。黒髪がシャンデリアのように盛り上がり、何枚もののフリルが長袖についている。大きく開いた白い胸元が見え久美よりも非常に落ち着いているがどこか笑っても寂しげな表情をしている。
「うわー双子みたい。ねぇねぇ。私とこの絵、どっちがきれい?」
いきなり絵の前にえくぼに人さし指を押し当てた久美が出現した。待ってるように目をパチパチさせてたが執事の手前あえて無視を決めこんだ。唇をすぼめ、ぷいっと横へいったときに久美の頭で隠れていたもう一人の絵が描きこまれていた。
大きなリボンを頭につけ、提灯袖のピンクのドレスを着た少女を膝の上にちょこんと乗せている。当時は画家に見られて描かれたのか強張った表情をしている。後ろには鏡台と陶器に挿したポピーの花束が飾られていた。
「こちらは館の主の奥様と長女様の肖像画です。二十年以上前に描かれた絵でございます」
「あっ、そうでしたか。すいません、勝手にあがりこんで。その人たちにご挨拶をしたいので会わせていただきたいのですが」
「いいえ。もうこの館には誰も住んでおりません。私一人だけでございます」
「そうですか」
なんで誰も住んでいないのかを聞きたかったが、そこまで立ち入ったことは聞けなかった。一挙に重々しい空気になった。
僕は彼におずおずと聞いてみた。
「わざわざ絵を見せていただきありがとうございました。あのう、そろそろ帰りたいので、すみませんが電話をお借りしてもよろしいでしょうか」
携帯電話を忘れてしまった。久美もメールしか使わないといって持ってきていない。館にいることを両親に電話をしようとしたが、電話は故障中なのでご使用できません。とあっさり言われてしまった。
「もう外は暗いですし今夜は泊まられてはいかがでしょうか。簡単な食事でしたらお出しできますよ。お部屋と浴室の場所もお教えしますのでどうぞ」
執事が部屋と浴室の案内をしてくれた。浴室はともかく、部屋は思っていたよりも綺麗にセットされていた。少し色あせてはいるがクリーム色の花模様の壁紙に焦げ茶色の大きな丸テーブル、ソファーの上にはパッチワークのクッションが二つ、光を完全に遮断できそうなサーモンピンク色のカーテンにダブルベッド、その脇にはランプと白ウサギのぬいぐるみがある落ち着いた温かみのある部屋だった。久美はベッドに飛び乗り可愛い、とぬいぐるみを抱きあげる。もうすっかりこの館を気に入ったようだが、未だに僕は馴染めずちっとも落ち着かない。
「ごゆっくりどうぞ。後にお食事をお持ちします」執事が一礼をしドアをそっと静かに閉めた。
一気に緊張感がほぐれた。ソファーに身を預ける。疲れすぎて思わず眠ってしまいそうだ。瞼に手を置くとひんやりとして気持ちいい。
「凄い雨だね、則作くん。これじゃあ帰れないわ」
指のすき間から横目で見るといつのまにか久美は窓辺にいた。
「そうだね。とんだドライブになっちゃったね。ごめんよ久美」
「ううん、別にいいの。お母さんたちは今お仕事だし」
久美の両親は外交関係の仕事をしており、家に帰っても彼女は一人ぼっちなのだ。
カリカリ。
ん?ドアの向こうで掻いている音がする。気のせいかなと思ったがやはりまた音がした。
「はい」ドアを開けると、犬がハッハッと尻尾を揺らし中に入ってきた。
「あ、ワンちゃんだ」
よしよし~と久美は犬に近づく。彼女は花、動物が好きだ。もちろん僕も好きで昔柴犬を飼っていた。犬は久美にもたれかかりホッペを舐める。彼女もくすぐったいよーと大きな頭を撫でている。大きさといい毛の長さといいたぶん種類はゴールデンレトリバーだと思った。執事が飼っているのかそれとも他に客人がいて飼っているのか―いやいや。泊まり客は僕たちしかいない様子だったといろいろ考えていると、犬の顔が豹変したことに気がついた。
眼球がぐりんとひっくりかえって血を流し、異常な長さの舌をべーとこちらを見て挑発している。悪夢でも見ているのかと何度も目を擦ったが以前と変わらない。犬は嫌らしく笑みを浮かべ首を捻じきり頭を一周した。犬の純粋無垢さのかけらもなくなっている。恐怖というより酷く馬鹿にされた気分だ。彼女の肩に腕を回し首筋から口元にかけてべっとり舐めてなんかいやがる。なんて汚らわしい犬なんだ。その犬は身を乗り出し、さくらんぼ色の唇を舐めようとした。
「久美から離れろこの化け物ー!」衝動的に犬を突き飛ばすと悲痛な声を発し床に倒れこんだ。
「なんてことをするのよ則作。ひどいじゃない!」
そばに駆けつけ、ごめんねごめんねと犬の全身を撫でている。犬は苦痛と怯える表情をしていた。あれ、もとに戻ってる。自分が責められているようでバツが悪い。
「その犬、変だったんだよ。変な顔をして襲うように見えたんだ」
「どこがよ。そういう嫌らしく見えた則作の目がおかしいんじゃない」
完全に久美は怒っている。
「ごめん。僕がおかしかったよ。何もしない犬に酷い事をしてごめん」
倒れている犬にも頭を撫でてごめんなと言った。機嫌が直ったかむくりと立ち上がりワンと鳴いて部屋から出ていった。やっぱり車の運転で疲れていたんだな。軽く両頬を叩く。
「よしよし。よく出来ました則作くん。きっと仲が良かった私たちにやきもちを妬いてくれたのね」
唇を突出し、額をツンと指でつかれた。「お食事をおもちしました」と執事の声が聞こえ、ドアを開けてこちらに運んできた。
ソファーの前にある大きな丸テーブルに取り皿2枚と両側にナイフ、フォーク、スプーンを並べ、前菜とスープから始め和洋折衷の料理を次々と運んできた。香ばしい湯気が立ち上り、ささくれた心が包み込むように癒された。簡単なものでしたらお出しできますといってたのに凄いご馳走じゃないか。テーブルの上が案の定いっぱいになってしまったがそれでもなんとか皿が落ちずにおさまっている。「ごゆっくりどうぞ」と言い残し執事は立ち去った。そういえば朝飯を食べたきりで空腹すぎて気持ち悪い。森の中に入ってから休憩所が見当たらなく昼飯を食べ損ねてしまった。助手席に座っていた久美はといえばリュックサックの中からプリッツやポテチ、クッキーを出してポリポリと食べていた。早く目的地に着きたい一心で、いる?と勧められても一切食べなかった。
血の滴るステーキを皿に取り入れナイフで切り、フォークを刺して口へと運ぶ。ああ、やわらかく塩とコショウの効いた肉の旨味が広がり、まったりとした脂が舌に絡み付いてとろけそうだ。あっという間に肉がなくなり、気がつくと豚の角煮、、フカヒレスープ、フォアグラ、ローストビーフ、頭のついたオマール海老を皿にとって貪るように食べ尽くしていた。きっとはしたない食べ方になっているに違いないがそんな事を気にしていられないぐらいに獣のように食べる。久美はそれを見て別に咎めることはなく、口に出しながらオムレツに…パスタ…トマト…お野菜に…果物と間隔をあけてお皿に盛りつけ、ご飯がつかないように髪の毛を持ち上げて口の中へと入れる。目をパチパチさせてうん。凄く美味しい~と笑って食べていた。
「やっぱり久美は食べ方も上品だね。親は外交の仕事をしててお金持ちだし。それに比べて僕って庶民的で、食べ方も下品」
下の歯をむき出しわざと原住民のようにかぶりつく。それを見た彼女はもーやだーと手を振り大笑いした。
食事は終わり執事がお皿を下げに来て、代わりにワインとグラス二つを置いて出ていった。お互いのグラスに注いで乾杯をする。久美は僕よりも先にぐびぐびと飲みほす。
「ぷはーピクニックもいいけどこういう館も結構いいわね。ディナーにご招待された気分だわん」彼女は足を組み頬を火照らせ、ワインを揺らすように回した。
「そうだね。あとで請求書がきちゃったりして」えーうそー、彼女は大下座にのけぞった。
ただ道に迷って今晩だけ泊めさせてくれと言っただけなのにこんなにたくさんご馳走をしてくれるなんて申し訳ない気がする。もし請求書がきたとしても別に電車ではなく車で来ているのだから、すっからかんになっても代金だけは支払うつもりだ。それが当然の礼儀だろう。
「則作。飲みすぎて酔っちゃったわ。シャワーを浴びてくるわね」スカートをふんわりさせてふらふら~と立ち上がった。
「歯ブラシとか歯磨き粉、タオル類を忘れるなよ。まあ、呼んでくれたら取ってきてやってもいいけどな、うっしっし」
「もー。覗こうというんでしょ。ダメよ。シャワーノズルで頭をカチ割るわよ」
「おーこわい。そういえばシャンプーとかトリートメントってあったっけ?」
「うん。執事さんが事前にボディーシャンプーとかも備え付けてあると言ってたわよ」
タオルの中に歯ブラシと歯磨き粉をいれてくるみ、その上に見覚えのない紫色の風呂敷をのせた。
「ん?なにその風呂敷」
「ああ、これ。私がトイレにいったときに執事さんと会ってね。この風呂敷の中に昔、奥様が着ていたドレスが入っているから一度着て見せて欲しいとお願いされたの。お風呂あがりにでも着ようと思ってね」
「へぇ~。着たら僕にも見せてね。きっと似合うと思うよ」
「うん。どこかのお城のお姫様になるからびっくりするかもね」
ぺろっと舌を出した。いってくるわね、と言い残し久美は部屋から出ていった。
どんなドレスだろう。一回り大きめのクッション並みに大きい風呂敷だったから、丈の長い上等なドレスが入っているんだろうなあ。さて、とうとう一人になってしまった。テレビどころか雑誌もなくトランプも荷物になるのでもってきていない。さっきも部屋から出てドアから顔を出した久美に、絶対にお風呂を覗きにきたりしないでよと念押しされているし。はあーつまんないなー。気にならなかった雨音も聞こえだし、留守番をさせられた子犬のようになった。
コチコチ、グラグラと柱時計の秒針と振り子の音ばかりが聞こえる。十五分ほど待ったが退屈だったので部屋から出て廊下のあたりを散歩することにした。
突き当たりの浴室からシャワーが体に当たる音と曖昧な鼻歌が聞こえる。ふうーと一息つき壁にたくさん掛けられている絵画を絵心が全くないが暇つぶしで見ていくことにした。
果物とグラスの静物画、庭で駆け回る犬の絵、ポピー花畑のある館の絵…その中に異質な絵画が二枚あった。
一枚目は抽象画らしい。全体的に暗い絵で凸凹の床の上にコンクリートが積みあがっており、赤黒い空から無数の手が出ている。今にも亡者の叫び声が聞こえてきそうだ。ひどく恐ろしさを感じた。
二枚目は髪をオールバックにした館の主人らしき肖像画だ。白いスカーフを胸につけ勲章をつけ貫禄さは出ているがどことなく不気味さも醸し出している。黒から赤へのグラデーション背景だがこの男が血に染まっているようで背筋がぞくぞくしてきた。そのすぐ執事が見せてくれた奥さんと娘さんの絵がかけられている。
「すべて館のご主人様が描いた絵でして、私もこの絵をときどき見るのですがなにかとてつもない哀しみを感じるのです」
肩の後ろから執事が現れ、思わず変な声が出た。二枚の肖像画を見上げ遠い目をしている。しばらく気まずい雰囲気が流れ部屋に戻ろうとしたときに執事が口を開いた。
「二十年以上も昔の話になりますが、当時は十ほど歳の離れたご主人様と奥様が結婚をなされ先祖代々伝わる館に住んでおりました。結婚してもなかなか子供に恵まれず肩を落としていましたが一年後にやっと長女様がお生まれになられ、そりゃあもうご主人様は大喜び。お祝いに素朴で可憐な奥様を例えてポピーの花畑をプレゼントされました。町の人たちからもご主人様は大変親切でお優しい方だと評判があり、仕事から帰るといつも奥様には大きな花束を、長女様にはオモチャと人形をプレゼントし喜ばせるような大変家族想いの人だと伺っております…」
執事の言葉が途切れ、片眼鏡の下からきらっと光ったような気がした。何か声をかけたかったが黙って聞くことにした。
「それからしばらくして持病もちだった奥様がお若くして亡くなられました。大っぴらにせず内々でお葬式をあげましたがご主人様は未だに奥様の死を受け入れられずに再婚を勧められても絶対にしませんでした。それからご主人様はまるで別人のように豹変なされ館の中が無茶苦茶になってしまいました。周囲からお慕いして下さった人たちも避けるように離れてしまい、とうとう発狂をなされ首を吊って自殺をしてしまいました。その後の長女様のご消息はわかりません。親戚に預けられたのではないかと聞いております。」
熱で曇った片眼鏡を外し、ハンカチでふく。
「そうでしたか。この館にとても悲しい出来事があったんですね」
話題を変えようと思い、庭で駆け回る犬の絵に指さした。
「大きくて可愛いワンちゃんですね。さっきも見かけましたがこちらで飼われているのでしょうか」
「はい。奥様が亡くなられてからご主人様が寂しさを紛らわすために犬を飼いました」
「種類はゴールデンレトリバーですよね。今日部屋にも来ましたよ」
「はい。ゴールデンレトリバーだったと思います。はて、館に犬がいましたとは。もう死んで居ない筈ですが」
「えっ、死んでしまったのですか」
「ええ。ご主人様は我が息子のように可愛がられておりましたが、数年後に犬のご飯に毒を盛り殺したあとに自殺をしてしまいました…」
「えっ、犬も殺しちゃったのですか。可哀想に」
「はい。たぶん、一人で死にたくなかったのではないのでしょうか。私の憶測ですが」
そうか…あれは別の犬なのか。じゃあどこから入ってきたんだろう。こんな森の中に一匹で入り込んだのだろうか。変な話だ。執事は一呼吸をおいて話を戻した。
「それから子孫を残すこともなくとうとう館には人が住まわなくなり空家として売られるようになりましたが、館内で自殺したことが漏れてしまい次に住む人がいつまで経っても決まりませんでした。だからこうして私は、館内の清掃をしたりポピーの花畑の水やりや手入れなどをして次に住まわれる方のために管理をしています」
「お一人で広い館の管理とは大変ですね。早く買い手が決まるといいですね」
適当な言葉をいって僕は部屋に戻ることにした。散歩のつもりで廊下に出たのにとてつもなく重苦しい気持ちになった。
何度もため息を深くついてみたが胸の中のよどんだ空気がまだ吐き出されない状態だ。しばらくドアノブを握ったままじっとしていた。
あれ?この部屋にも絵がかけられている。しかも傾いているぞ。
ドアから見て右側の壁にかけられた額を正面に掛け直そうとした。その時、後ろの紐が切れストンと落ちた。あらーどうしよう。壊れてたりしたら弁償だ。ん?何か黒い点があるぞ。そこに直径1cmほどの小さな穴があることに気がついた。もしかして館によくあるという定番の覗き穴というやつなのか?――誰もいないな。よし。周りを見渡してから額を壁にくっつき小さな穴を覗きこんだ。部屋の中は大体今いる所と同じ配置だ。あれ。ドアが開いた音がしたぞ。聞き覚えのある声が聞こえてくる。左脇から久美が鼻歌を歌って出現した。あれ、浴室にいた筈なのになんでここに―
と思った瞬間、腰の横のチャックを下し、すとんとスカートが花が開いたように落ちた。ブラウスボタンも丁寧に外し上もパサッと脱ぎ、あっという間に下着姿になった。わっ、見ちゃいけないっ。でも視線を逸らすことができず思わず唇を撫でてしまってた。日頃一緒にいて子供っぽい仕草と服装はしているがスタイルは悪くない方だとなんとなく思っていた。小花を散りばめた透けてみえるベビードールを着ていた。少し屈みこみ、下から執事から受け取ったドレスを持ち上げる。背中のファスナーを開け、足を一本ずつ入れ上に持ち上げようとするが、きついわーと言って足を抜きドレスを脱いだ。すると今度はベビードールをパサリと脱いだ。なんだか気分はストリップ小屋を見ているようだ。心拍数が高くなっている。白いつき立ての餅のようにふっくらとした二つの胸がカップに包まれていた。今にも零れ落ちそうなぐらいにとても柔らかそうだ。久美はもう一度ドレスの中に足を入れ上に持ち上げ胸に合せようとするが、やだーまだきついわー食べ過ぎたのかしらとファスナーを下そうとする。今度はブラか!ブラを脱ぐんだな!彼女がドレスを脱ぐのを待っていた――が、
やだ、どうしよう。ドレスをかんじゃった。と後ろ手でバタバタさせている。あーじれったい!目の前にいたらゆっくり降ろしてあげるのに。興奮のあまりに両手が上向き鷲づかみになっていることに気がついた。しばらく彼女はじーっと考えこみ、突っ張ったドレスをもう片方の手で軽く引っ張りながらチャックを下すことに成功した。ドレスがパサリと落ち、雌鳥が大事に育てていた卵のように豊満な胸が出てきた。久美は少し体を傾けて後ろ手で外そうとした。
よし、ホックだ。ホックを外せ!彼女はホックに手をかけ、糸も簡単に紐がするりと落ちた。
ついにやった!僕は男でブラはつけないが、心臓がシャツから飛び出してしまいそうで血管の中の血流が早くなっていると思った。さぞかし今の己の姿をビデオカメラで写していたら完全に痴漢のように見えるだろう。だが、もうここまで来たんだ。もう後戻りはしないぞ。壁に吸い寄せられるようにべたーっとくっつき、いつのまにか自分の鼻息が荒くなっていることに気がついた。
突然久美の様子が変わった。下から真っ白なドレスを胸に抑えたじろぐ。久美が青ざめ恐ろしい物を見るようにじわりじわりと視界から消えた。すると右脇から帽子を深被りした黒いロングコートを着た大柄の男が現れた。肩から息をしており人間離れしているようだ。さっきまで興奮していたが一気に血の気をひいてしまった。胸の辺りから鈍く光る筒状のものが見えた。もしや、あれは銃――脅迫されているのでは!僕は反射的に部屋から飛び出した。そのとき――
キャー!
裂くような悲鳴が廊下中に轟いた。久美だ!
(お願い、殺さないで!)
急いで駆けつきドアノブに手をかけたが鍵がかかっている。
「すいません。鍵ありますか。中に連れがいるんです」
「わかりました。今すぐに一階から取ってきます」まだ絵画を見ていた執事が早足で階段を駆けていった。
「久美!大丈夫か!返事をしてくれ」何度もドアを叩く。
(いやーなにするのよ!)
久美の悲鳴がまた聞こえる。畜生、もう間に合わない。こうなったらぶち破るしか手はない。
「まってろ!危ないからドアから離れてくれ」
大きく息を吸い、勢いよく体当たりをした。見事に開いた。しかし着ていた服とウェディングドレスが虚しく落ちているだけでそこに久美の姿はない。
しまった――連れ去らわれてしまった。犯人は久美を連れてこの館のどこかに逃げているはず。上から執事を呼びかけ、玄関から逃げださないように見張りを頼んだ。
「久美、どこにいるんだ。返事をしてくれ。」
奴はこの浴室と五つの部屋のどこかに隠れてしまったのだろうか。二階の窓から飛び降りて逃げる可能性もある。片っ端から部屋のドアを次々と開けていった。一つ一つ確認をしたがどれも窓が開け放たれていない。ということは窓から逃げてはいないんだ。久美が連れ去らわれた部屋も見てみたが窓は開いていなかった。
「よし、この部屋で最後か」
五番目のドアまでたどり着いた。何かこの部屋だけは物々しい気配がする。生唾を飲みこんだ。この感覚は、中に化け物がいると分かっているが恐ろしくてすぐに開けられないのと似ていた。だが躊躇している時間などない。
「えーい!久美を助けるんだー!」
思い切って最後のドアを開けてみた。するととんでもない光景が目に飛び込んだ。
無機質のコンクリートブロックがいくつもあり所々積み重なっているところもある。床は凸凹。果てには何も身に着けていない露わになった姿で気絶した久美を抱いて逃げようとする厳つい後姿を見つけた。
「待てー!」
追いかけようとするがつるっと滑りこけた。その瞬間に上から巨大ブロックが鼻元すれすれで落下し、反動で体が浮いた。あと一歩進んでいたらお陀仏になっていたところだ。
「いてて…なんだ、この黄色い汁は?」
手にねっとりとついてきた。落ちてきたブロックの端から汁のついたご飯粒みたいな何かが無数にはみ出てぶつ切りになった所もある。
上からボタボタと落ちてきた。
見上げると天井がなくなり赤黒い雲に覆われている。真ん中にぽっかりと渦を巻いた大きく黒い穴が開き亡者らしき奇妙な呻きと叫び声が聞こえてくる。その中からまたボタボタと白い粒が足元に落ちてきた。
幼虫?いや――死体から湧き出る蛆虫だ。
落ちた反動で死んでいる蛆虫もいれば、低い所に落ちて噴水のように湧く蛆虫もいる。
凄まじい光景と強烈な腐臭に、思わず僕はゲーーっと吐いてしまった。
今度は向こうの穴ぼこにブロックが落下した。相変わらず酷い振動だ。大きな音で耳が痛い。なんだこの部屋は、とてつもなく広くなっているし上から次々と落下してくるとはどうなっているんだ。袖で口を拭った。
この光景をどこかで見た――そうだ、あのときの廊下に掛けられていた抽象画と全く同じだ。ということはここは、館の主が描いた絵の中なのか。雲からスッと巨大ブロックが出現し、また穴ぼこに嵌まるように落ちる。床に落ちた蛆虫がブチュッと音を立てた。げー気持ち悪い。二度吐きかけたが口を押えた。
あれ、これはもしやテトリスのように落ちてくる仕組みではないか。そういえば一定の時間で五秒ごとに落下するようになっている。そうか、穴ぼこを避けて進めればいいんだ。
男は積みあがっているブロックを要領よく駆けあがり上の黒い穴にむかっているようだ。これは早く追いつかないと取り返しのつかないことになるぞ。一つのブロックは高さ一Mほどあり、黄色い汁をできるだけ避けるように一段一段駆けあがろうとした――が、ブロックが落下するたびにずり落ちそうになる。階段をあがるみたい容易にはいかないがなんとか落とされずにブロックに足を乗せ、振動のリズムに合わせて駆け上がることができた。
勉強はそこそこだが運動神経はかなり良い方だ。通信簿十段階で九か十をとっているぐらいだ。ブロックが落下するタイミングと足の乗せ方のコツを掴むことができた。それでも男との距離がなかなか縮まらない。振り落とされずに足に力を入れて上りつめていく。残り二十段…十九段…十八段………
息切れを起こした。神社の長い階段を思い出したほど、とてつもなくしんどい。しかし奴はもう、黒い穴の近くまで来ている。負けるもんか。十五段………十段………五段………
奴との距離がやっと縮まってきた。えーい、勢いだ。四、三、二、一と駆け上がっていった。呼吸を止めてたせいか息遣いも荒くなっている。心臓がおかしくなりそうだ
ついに頂上まで辿りついた。他の凸凹階段とは違い、一番平らになっているところだ。
「はっ はっ とっ止まれ―!」
なんとか男に向かって叫ぶことができた。
バキューーーーン!!
男の背中から爆発音と光が放った。一瞬何事かと思ったが右足の太腿が急に熱くなり転げまわるほど激しい痛みに見舞われた。見ると銃弾が太腿に当たり貫通してしまっている。奴は後ろ手で撃ったらしい。みるみると血が広がるように溢れ出てきた。
「ぐふぅ…なんのこれしき…!」
気力で立ち上がろうとしたが蛆虫から出た汁のせいで滑り上手く立ち上がれない。つるっつるっと滑る自分にもどかしさを感じる。ブロックがたちまちビルのように積みあがり、とうとう今いる平らなところにも頭上から巨大ブロックが落ちてきた。
くっ…もはやこれまでか…
目を固く閉じ観念した。
隕石のようにびゅーーーと真上から落ちてきた。大きく影ができる。
その時、落ちてくるはずのブロックが頭からわずか一cmで止まってしまった。
周りも静かになり灰だけが舞い上がっている。
痛みを必死に堪えながら見上げると、そこには一階で玄関の見張り番をしていたはずの執事が険しい顔でいた。執事の体は光に包まれ、眩しすぎてうっすらとしか見えなかったが黒髪のドレスを着た夫人に変身した。あのときの肖像画の久美にそっくりだった奥さんではないか。しかし久美よりもはるかに現実離れをしており、まるで聖母マリアを見ているようだ。着ているものも脱ぎ捨てられたウェディングドレスと同じだ。長袖のレースがつき花模様がついた美しい純白のドレスだった。
久美をさらった男の顔をはっきりと見ることが出来た。なんと彼女を襲おうとしたあの時のゲス犬ではないか。白目を剥き異常な長さの舌を出している。首つり自殺をしたときのようだ。犬の様子も変わりだした。目の辺りから無数の線がミミズのように走り全身にマス目ができる。そこから一枚剥がれ落ちた途端、パズルのピースのようになってバラバラと下に零れ落ちた。すると怯えきった老犬のように目の下と頬の肉が垂れ下がり眼球も零れ落ちそうで目の回りが赤くなった男が見えた。毛も真っ白になり変わり果てたが紛れもなく肖像画に描かれている館の主人だとわかった。胸ポケットに未練たらしく赤いポピーの花を挿している。
「なっ、なぜ妻が二人もいるんだ」
主人は久美と奥さんの顔を交互に見て狼狽えている。奥さんは落ち着いた声で男を指刺した。
「もう逃げたりなんかしない。ここで決着をつけましょう。お父様」
お父様?奥さんなのに…娘なのか?
「決着?なにを言ってる。なんでこんなことをしないといけないんだ。ポピーの花畑をプレゼントした上に仕事よりもお前たちを優先にしてきた。祝い事は欠かさずにした。もちろん誕生日も。なぜだ。なぜ私から逃げる。みんななぜ私から逃げるのだ」
父親は泣き崩れ、地面を何度も拳で叩く。帽子も脱げた。久美が床に倒れ、そして何かがカラリと落ちる音がした。
「あなたは母の葬式をあげてから気が狂ってしまったのです。見境いがつかないぐらいにね。私のことを母親と重ねてしまい、その上無理やり花嫁衣裳を着せました。何度説得をしてもお父様は私の話を一向に聞かず暴力をふるった。おまえは今日から俺の妻だ、言うことを聞け、さもなくば殺す、とあなたは何度も脅しましたね。私は毎日怯えておりました。狂気じみたあなたに耐えらなくなり結婚式の当日、とうとう海に身を投げ出しました。私のことをまだ母だとお思いですか。それは違います。私はあなたの娘です。それにその人は無関係です。今すぐこちらに渡しなさい」
非常に落ち着いた声をしているが、髪の毛が天井に向かって上がる。燃え盛る青い炎のように見えた。
「ふはは。馬鹿を言うな。私は悪くないぞ。この際どっちでもいいわ。今までおまえらに散々尽くしてきたんだ。見返りがあって当然だろ。大体おまえが妻に似ているのが悪いんだ。ガキのくせに偉そうな口を叩くな!」父親は目をひん剥き大声で叫んだ。
そのとき黒い穴が父親に近づき、痣や皮膚がめくれ腐りかけた腕が伸びてきた。そこから湧いて出てきた蛆虫をぼとぼと落とし、呻きと叫びを発して男を中へと引きずり込んでいく。
「なっ、なにをする!」肩から足にかけて無数の腕が絡み付いている。大量の蛆虫も移動して男に寄生した。
「お父様。少しは望みがありましたがあなたの心まで変わり果ててしまったとは――もはや手遅れです」
首を横に振り冷ややかな目で見る。父親は手で宙をかき抵抗をしていた。
「助けてくれー。一人にはなりたくない。本当は寂しかったんだ。一緒に来てくれ。一人はい――」
男の言葉が詰まる。激しい爆発音とともに父親の胸に挿したポピーの花びらが散った。娘さんは落ちた銃を手に取り父親の胸に目がけて打ったのだ。火薬の匂いが立ちこもっている。瞬きもせず有らぬ方向を見ている父親は口をぱくぱくとさせたままそのまま飲み込まれるようにして穴ごと消えていった。
ピカー!ドォーーーン!
「うわぁ!」
耳をつんざくような激しい雷が鳴り、辺りが真っ黒になった。僕は反射的に頭を隠してしまう。
何か降ってくるのかと思いきや、温かい光を感じそろりと上を見上げ手を離す。
雲の割れ目から天使の梯子がいくつも出現し暗闇を照らしている。丁度僕らにも真っ直ぐ光が当たってきた。落ちてくるはずのブロックはいつのまにか消え、大量の蛆虫も、潰れて出た体液も綺麗に消えている。今座っているブロックの隙間からぺんぺん草がすくすくと生えてきた。
父親の最期を見届けしばらくしてから、娘さんは気絶した久美を羽を拾い上げるように抱きかかえた。よくみると久美の背中と娘さんの腕に隙間があった。まさか抱きかかえているのではなく何かしらのパワーで持ち上げているのか。それにしてもまるでクローンが二人もいるみたいで服装も同じだったら全く見分けがつかない。
こちらに向かい どうぞ、と淡々と久美を渡してくれた。
「ありがとうございます」
久美を受け取り、急いでパーカーを脱いで彼女の肩に羽織らせた。
「ちょっと」
娘さんは少し屈み、腕を僕の足に伸ばしてきた。一瞬何をされるのかと身構えたが傷を負った右足の太腿の上にそっと手を置かれた。日だまりのような温かさを感じる。すると出血がとまりジーパンの破れ目から見える傷口がみるみると閉じるように消えた。激しい痛みも徐々に消えすっかり元通りだ。目の前で起きていることが信じられなくて思わず口が開いた。
「あなたは――」
何かを聞きたかったが急に言葉を詰まらせてしまった。娘さんの手が離れすくりと立ち上がった。僕たちを見下ろしている。逆光になって顔が暗く表情が読み取りにくかった。
「私も父もこの呪われた館に縛られ成仏できずにいました」淡々と話しだした。
「私は父が大好きだった。あんなに優しくてみんなからも尊敬されていたのになぜ……変わり果てた父親の姿に驚きと恐怖と憎しみが入りまじり、私の精神はもうぐじゃぐじゃでした。ショックでした。いつのまにか大好きから大嫌いに変わり、父に殺意までもってしまいました、でも私は殺す勇気もなく父の狂気じみた暴力から逃げつづけ海に飛びこんでしまいました。苦しくて海は暗くとても冷たかったです。でも海の底から思い続けておりました。幽霊に化けてでも父親をこの手で葬りたいと――」
背中を向けた。ドレスを引きずりながら進み、落ちた花びらを何枚も拾い上げ両手にのせてじっと見つめた。
「やっとこの手で父を葬りました。でもこれで本当に良かったのでしょうか。昔は優しくて良い父親でした。それなのに母の気持ちも考えずに地獄へ送ってしまった。私のしたことは許されない事だからきっと私も地獄いきなのでしょうね」
もった花びらをふーと吹き飛ばし、父親が消えた場所にひらひら落ちるのをじっと見つめている。娘さんが地獄いきだなんて――そんなことが決してあってはならない。反射的に体が動いた。
「そんなことはないです。例え精神的におかしくなってもあなたに暴力をふるった父親ではありませんか。あなたの一生を台無しにしたんです。あなたは無実だ。絶対地獄いきなんかにならない筈ですよ」
娘さんは振りむいた。部外者なのに余計な口出しをしたかもしれない。でも、例え愛する妻を亡くし気が狂っても我が子には絶対に手を出してはいけないんだ。反射的に久美を横におき立ち上がった。自分でも腹を立ててしまったと思った。しかし―
「うふふ。あなたって、とても良い青年なんですね」
娘さんは手をおさえてくすくす笑っている。あれ、おかしいことを言ったかな。頭を掻いてしまった。
「天国の母はどうしているのでしょうね。私なんかは地獄にいっても構いませんが、せめて父親を地獄に送ったことを伝えたいです。父を愛していた母に申し訳ないから」
穏やかになった彼女の足元から光が湧き出て薄くなってきていることに気がついた。
「もうすぐしたら私はこの世から完全に消えますが、その前に一つだけ教えておきますね。そこに眠っていらっしゃる彼女さんですが、私の叔母の娘にあたります」
「えっ。つまりあなたにとって姪ということでしょうか」
彼女は目を閉じ、静かにうなずいた。
「館に来たときから気づいておりました。きっと私もまともに結婚をして子供を産んだらこのぐらいの歳の子がいたんでしょうね。羨ましい。元気な姿が見られて本当に良かったです」
涙を零しながら久美を見た。僕もそれにつられ久美を見る。淡い光が顔半分にあたり眠っている。天使のような寝顔だ。視線を戻した。さっき足元だけ薄くなっていたのが下半身がすっかりなくなり胸から首にかけて薄くなってきている。
「館の呪いを解いてくれてありがとう」と床に熱い雫を落とした彼女は空を突き抜けるようにして消え去った――
疲れきってしまい眠り込んでしまった。目が覚めるといつのまにか大量のブロックの山はもうなくなっている。見慣れた古い館の部屋に戻っていた。雨は止み朝日は昇りつつある。久美はうっすらと目を開けた。
「気がついたんだね。大丈夫かい久美」
「…則作」
両目から涙があふれ彼女はしがみ付いてきた。
「こわかった…こわかったよ。きっと助けにきてくれるとおもってた」
頭を胸の中に埋め、何度もこすり付けてくる。久美は右足の滲んだ血に気づいたらしく顔を上げた。
「血が出てるじゃない。早く手当てをしなくっちゃ」彼女の手を止める。
「銃で撃たれたけどもう血が止まってるんだ。ほら、この通りさ」ジーパンの破れ目を広げ見せると まあ、と久美は口を押えた。
「奇跡ね。もう治っちゃってる」
「へへ。こんな傷、大したことねーやい」鼻を擦った。
「則作、最高だよ。私を助けにきてくれてありがとう」
むぎゅうと抱きしめてきた。生きてくれてよかった。何度も彼女の髪の毛を撫でおろし抱きしめた。
「ああ。どんな時でも助けにくるよ。君のためだったら僕がこの身を捨ててでも一生守る」
「嬉しい。則作。大好き」
「僕もだよ。久美大好き」
日は完全にのぼりきったが手と足の震えが止まらない。穏やかな光は冷えきった僕たちを温かく包み込んでくれた。
それから後、僕たちは車で引き返し無事家に辿り着くことができた。この話を家族友人に話したが誰もまともに信じてくれなかったが、仕事から帰ってきた久美の母親から腹違いの妹がいたことを聞かされた。今までずっと話そうとしていたらしいが、久美自身のショックの大きさも考え、なかなか言い出せなかったらしい。
館の方は取り壊しが決まったと近所の噂で知った。もう執事はいないのにずっとポピーの花畑は枯れずに咲いていたらしい。館の主人は地獄へいったが娘に手を挙げた罰だ。当然の報いだろう。過去は優しかったと聞いていたがそんなことは知ったこっちゃない。我が子に暴力を振るうこと自体が尊敬できない父親で絶対にあってはならないことだ。
娘さんは天国までいき母親と無事再会することができたのだろうか。そして、僕たちは偶然あの館に来たのではなく、救ってほしいと呼び寄せられたのではないか。そんなことを学校の授業を受けながらふと思う。僕と久美だけにしか知らない奇妙な館での出来事だった。
(完)
もうすっかり夜だ。車内のデジタル時計を見る。20時を回っていた。
ドアを開け車から降りると生暖かい風が湿っぽい土のような臭いを運んできた。数歩進んだところに一突きで刺せるような門があり、両脇には羽のついたモンスターの銅像がある。その奥には――なにかあるのだが暗雲が立ちこもりよく見えなかった。
「出てきてもいいよ」
と呼びかけると、助手席側のドアが開き、黒いリボンつきのエナメルの靴を履いた足がにょきっと出てくる。ピンク色のプリーツスカートに花柄のブラウスを着た久美が車から降りてきた。さらさらの黒髪にツンとしたさくらんぼ色の唇をしている。美人だがいつも顔を向けるとき鼻と唇を突き出すので、どちらかというと小動物的な可愛らしさがある。
こわいから帰ろうよといってくれるのを半分期待したが―
「うわ~。遊園地のお化け屋敷みたい。則作、早くはいろうよ」
手を合わせアーモンドのような目をキラキラさせている。 映画をみるときでも彼女があれみたいと指さすのはいつもホラー映画で、効果音と恐ろしい映像が出るたびに心臓が飛び上がる。そこに記憶の空白ができ気がつくとクレジットロールが流れていた。思わず今も踵を返したくなる。
「お、面白そうだね。中に入ってみようか」
とは言ってみるが門の奥で何が出てくるかわからない。ふるえる脚で僕が先頭になって門に近づいた。
ひび割れたような鉄の門は青錆が絡みついてくっついてしまっているのか押しても引いても全く動かない。
「ねぇ。開かないよ。だっ誰も住んでいなさそうだしさ~そっそれに、こんな所に入ったってなにもないと思うよ」
だからやめとこうよと言いかけたが――
「えーなにいってんの。つべこべ言わずに早く開けてよー。あっ、もしかして恐いんだ~根性なし~」
久美が腕を組みながら口を尖らせ薄笑いを浮かべた。なんかムカっとしてきた、クソッ こうなったら絶対に開けてやる
ふーん ! ギリギリギリ・・・・
渾身の力を込めて頑張ったお蔭で鈍い音を立てて扉は開いていった。
「はぁ はぁ お入りください お姫様」
息がかなり上がって苦しく、顔も多分真っ赤だとわかったが久美に気づかれないようにした。開いたのが奇跡と思うほど重かったのだ。
「フン やりゃあ出来るじゃないの」
どこまでも意地の悪い久美と一緒に扉から一歩踏み入った瞬間、左側向こうの一角に何かを見つけた。その場所に近づき、目に飛び込んできたのは赤黒い血の海? いや、暗く見えるだけでたぶん、赤い花畑だ・・・
「あー可愛いお花がいっぱい!」
久美が赤い花畑を指さして駆けていったあと、両手を膝の上において目を閉じ花の匂いを吸い込むようにかいでた。
「それはね、たぶんポピーという花だよ」
久美に近づいて言った。
「あっ、これがポピーっていう花なんだー名前は聞いたことあるわーへー」上から撫でるしぐさをした。昔から花が好きで動物と同じように育てるところがある。
あれ、そういえば花が植えられている。ということはこの館には誰か住んでいる人がいるのかな。手を顎に添える。真っ暗で今引き返しても帰る時間が夜中になるだろうし、薄気味悪い館でもできたら泊めてもらいたいと思った。これから車で安全運転できる自信がない。散々森の中で迷い疲れきったのだから。
今日は遅いから泊めてもらおうか、と久美に聞くとうんと快く返事をしてくれた。
門と同じく鉄で出来た扉は、これもまた容易に開けられる気がしない。
「誰か住んでいるのかな、このドアを見るかぎり廃屋にしか思えないよ」
辺りは暗く建物も暗い。ドアの横にある窓には分厚いカーテンでも掛かっているのか光が全く漏れていない。
「そんなことないよーこんなに綺麗なポピー畑があるんだもの。人が住んでないわけないじゃない」花畑を振り返りながら久美がうっとりとした声を出す。
チャイムくらいはあるだろう・・・こんな鉄のドアなんか叩いても音が出るかどうか・・
ドア付近を捜していると、右上あたりに馬の蹄鉄のような輪があるのを発見した。鉄の輪をつかむ。
ガンガンガン!「誰かいませんかー?」
大きく音を立て叫んだあと、中の気配を探ろうと息を殺す。
・・・・・・・・・・・・・
「何も聞こえないわねえ」久美がつぶやいた。
「うーん。そうだね」
やはり車に戻って引き返すかと思ったその時、とてつもなく鈍い音がしてドアが開いた。
ピカーっ ゴロゴロ!
「うわぁっ!」
僕は大きな雷の音に驚き、猫のように飛びのいた。その後、ザーっと雨が降ってきた。
ドアの向こうにはうっすらとしか見えないが小柄で骨ばった老人がいた。顔の半分が影に覆われているせいか酷く陰険に見える。正装しているところを見ると執事だろうか。
「あの、すみません。道に迷ってしまいました。もしできたら今晩だけでもこちらに泊まらせていただきたいのですが―」
執事は僕たちを静かに見ているだけだった。断られるのかなと思ったが
「どうぞ」とドアを大きく開けた。
「ありがとうございます。それでは」
助かったと、館に足を踏み入れた瞬間 体が凍りついた。
館のなかはひんやりとしていた。艶々とした重厚感のある壁と備えつけの机とソファー。正面は二階へと続く大きな階段があり、真っ赤な長い舌のように敷かれている。洒落たシャンデリアの灯りが階段にあたり不気味さを醸し出す。壁沿いには兜を被った騎士の像が立ち並んでいるが迫力があり今にも襲いかかってきそうだ。あまり広くない館に物を置きすぎているから余計にそう感じるのだろう。床はもともとの色が分からないほど何度も踏みつけた後のような黒い絨毯が敷かれている。足の震えが止まらない。
とんでもない所に来てしまった――中の様子を見ずに泊まろうよと軽はずみに言ってしまった自分に後悔をした。
館の不気味さなんかを気にせずに久美は天井が高―いと子供のようにくるくる回り、ソファーにもたれかけ靴を脱ぎ足を投げ出した。そういえば僕もずっと運転し続けて精神もクタクタだ。思ったことを素直に言える彼女の性格が羨ましかったが、執事が嫌な顔をしていないか横目でみた。すると彼女をまじまじと見て非常に驚いている様子だった。
え――なぜ、と零したのを聞き逃さなかった。
「あのぅ。なにか」と聞いてみた。
「あ、いえ、すみません。あまりにも知っている人によく似ていらしたのでつい」片眼鏡をくいっとあげた。
「ご覧いただきたい物がございます。ついてきていただけませんか」
一刻も早くこの館から出たいと思ったが久美に似ていることも気になる。彼女にいくよ、と声をかけた。ソファーの上でゴロゴロしている彼女に呼びかけると大きな欠伸をして腕をいっぱい伸ばし、すくりと立ち上がって駆けてくる。僕たちは執事の後に続いて正面の階段を上がっていった。
しかしこの階段はやはり巨大な舌のようで、一段一段のぼって口の中に飲み込まれるみたいだ。館全体がモンスターのようでまるで生きているみたいだ。思わず生唾をのみ込んだ。
二階につき左に向いた。右側に泊まり部屋が五つと突き当たりに浴室があり、左側に油絵で描かれた複数の風景画が飾られていた。その中に一枚の婦人画が目に飛び込む。執事は足を止め、絵が見えるように脇に移動しご覧くださいと指先をそろえて示した。
「ほんとだ。久美そっくり―」
思わず口をおさえる。そっくり以上にクローンがいるみたいだ。黒髪がシャンデリアのように盛り上がり、何枚もののフリルが長袖についている。大きく開いた白い胸元が見え久美よりも非常に落ち着いているがどこか笑っても寂しげな表情をしている。
「うわー双子みたい。ねぇねぇ。私とこの絵、どっちがきれい?」
いきなり絵の前にえくぼに人さし指を押し当てた久美が出現した。待ってるように目をパチパチさせてたが執事の手前あえて無視を決めこんだ。唇をすぼめ、ぷいっと横へいったときに久美の頭で隠れていたもう一人の絵が描きこまれていた。
大きなリボンを頭につけ、提灯袖のピンクのドレスを着た少女を膝の上にちょこんと乗せている。当時は画家に見られて描かれたのか強張った表情をしている。後ろには鏡台と陶器に挿したポピーの花束が飾られていた。
「こちらは館の主の奥様と長女様の肖像画です。二十年以上前に描かれた絵でございます」
「あっ、そうでしたか。すいません、勝手にあがりこんで。その人たちにご挨拶をしたいので会わせていただきたいのですが」
「いいえ。もうこの館には誰も住んでおりません。私一人だけでございます」
「そうですか」
なんで誰も住んでいないのかを聞きたかったが、そこまで立ち入ったことは聞けなかった。一挙に重々しい空気になった。
僕は彼におずおずと聞いてみた。
「わざわざ絵を見せていただきありがとうございました。あのう、そろそろ帰りたいので、すみませんが電話をお借りしてもよろしいでしょうか」
携帯電話を忘れてしまった。久美もメールしか使わないといって持ってきていない。館にいることを両親に電話をしようとしたが、電話は故障中なのでご使用できません。とあっさり言われてしまった。
「もう外は暗いですし今夜は泊まられてはいかがでしょうか。簡単な食事でしたらお出しできますよ。お部屋と浴室の場所もお教えしますのでどうぞ」
執事が部屋と浴室の案内をしてくれた。浴室はともかく、部屋は思っていたよりも綺麗にセットされていた。少し色あせてはいるがクリーム色の花模様の壁紙に焦げ茶色の大きな丸テーブル、ソファーの上にはパッチワークのクッションが二つ、光を完全に遮断できそうなサーモンピンク色のカーテンにダブルベッド、その脇にはランプと白ウサギのぬいぐるみがある落ち着いた温かみのある部屋だった。久美はベッドに飛び乗り可愛い、とぬいぐるみを抱きあげる。もうすっかりこの館を気に入ったようだが、未だに僕は馴染めずちっとも落ち着かない。
「ごゆっくりどうぞ。後にお食事をお持ちします」執事が一礼をしドアをそっと静かに閉めた。
一気に緊張感がほぐれた。ソファーに身を預ける。疲れすぎて思わず眠ってしまいそうだ。瞼に手を置くとひんやりとして気持ちいい。
「凄い雨だね、則作くん。これじゃあ帰れないわ」
指のすき間から横目で見るといつのまにか久美は窓辺にいた。
「そうだね。とんだドライブになっちゃったね。ごめんよ久美」
「ううん、別にいいの。お母さんたちは今お仕事だし」
久美の両親は外交関係の仕事をしており、家に帰っても彼女は一人ぼっちなのだ。
カリカリ。
ん?ドアの向こうで掻いている音がする。気のせいかなと思ったがやはりまた音がした。
「はい」ドアを開けると、犬がハッハッと尻尾を揺らし中に入ってきた。
「あ、ワンちゃんだ」
よしよし~と久美は犬に近づく。彼女は花、動物が好きだ。もちろん僕も好きで昔柴犬を飼っていた。犬は久美にもたれかかりホッペを舐める。彼女もくすぐったいよーと大きな頭を撫でている。大きさといい毛の長さといいたぶん種類はゴールデンレトリバーだと思った。執事が飼っているのかそれとも他に客人がいて飼っているのか―いやいや。泊まり客は僕たちしかいない様子だったといろいろ考えていると、犬の顔が豹変したことに気がついた。
眼球がぐりんとひっくりかえって血を流し、異常な長さの舌をべーとこちらを見て挑発している。悪夢でも見ているのかと何度も目を擦ったが以前と変わらない。犬は嫌らしく笑みを浮かべ首を捻じきり頭を一周した。犬の純粋無垢さのかけらもなくなっている。恐怖というより酷く馬鹿にされた気分だ。彼女の肩に腕を回し首筋から口元にかけてべっとり舐めてなんかいやがる。なんて汚らわしい犬なんだ。その犬は身を乗り出し、さくらんぼ色の唇を舐めようとした。
「久美から離れろこの化け物ー!」衝動的に犬を突き飛ばすと悲痛な声を発し床に倒れこんだ。
「なんてことをするのよ則作。ひどいじゃない!」
そばに駆けつけ、ごめんねごめんねと犬の全身を撫でている。犬は苦痛と怯える表情をしていた。あれ、もとに戻ってる。自分が責められているようでバツが悪い。
「その犬、変だったんだよ。変な顔をして襲うように見えたんだ」
「どこがよ。そういう嫌らしく見えた則作の目がおかしいんじゃない」
完全に久美は怒っている。
「ごめん。僕がおかしかったよ。何もしない犬に酷い事をしてごめん」
倒れている犬にも頭を撫でてごめんなと言った。機嫌が直ったかむくりと立ち上がりワンと鳴いて部屋から出ていった。やっぱり車の運転で疲れていたんだな。軽く両頬を叩く。
「よしよし。よく出来ました則作くん。きっと仲が良かった私たちにやきもちを妬いてくれたのね」
唇を突出し、額をツンと指でつかれた。「お食事をおもちしました」と執事の声が聞こえ、ドアを開けてこちらに運んできた。
ソファーの前にある大きな丸テーブルに取り皿2枚と両側にナイフ、フォーク、スプーンを並べ、前菜とスープから始め和洋折衷の料理を次々と運んできた。香ばしい湯気が立ち上り、ささくれた心が包み込むように癒された。簡単なものでしたらお出しできますといってたのに凄いご馳走じゃないか。テーブルの上が案の定いっぱいになってしまったがそれでもなんとか皿が落ちずにおさまっている。「ごゆっくりどうぞ」と言い残し執事は立ち去った。そういえば朝飯を食べたきりで空腹すぎて気持ち悪い。森の中に入ってから休憩所が見当たらなく昼飯を食べ損ねてしまった。助手席に座っていた久美はといえばリュックサックの中からプリッツやポテチ、クッキーを出してポリポリと食べていた。早く目的地に着きたい一心で、いる?と勧められても一切食べなかった。
血の滴るステーキを皿に取り入れナイフで切り、フォークを刺して口へと運ぶ。ああ、やわらかく塩とコショウの効いた肉の旨味が広がり、まったりとした脂が舌に絡み付いてとろけそうだ。あっという間に肉がなくなり、気がつくと豚の角煮、、フカヒレスープ、フォアグラ、ローストビーフ、頭のついたオマール海老を皿にとって貪るように食べ尽くしていた。きっとはしたない食べ方になっているに違いないがそんな事を気にしていられないぐらいに獣のように食べる。久美はそれを見て別に咎めることはなく、口に出しながらオムレツに…パスタ…トマト…お野菜に…果物と間隔をあけてお皿に盛りつけ、ご飯がつかないように髪の毛を持ち上げて口の中へと入れる。目をパチパチさせてうん。凄く美味しい~と笑って食べていた。
「やっぱり久美は食べ方も上品だね。親は外交の仕事をしててお金持ちだし。それに比べて僕って庶民的で、食べ方も下品」
下の歯をむき出しわざと原住民のようにかぶりつく。それを見た彼女はもーやだーと手を振り大笑いした。
食事は終わり執事がお皿を下げに来て、代わりにワインとグラス二つを置いて出ていった。お互いのグラスに注いで乾杯をする。久美は僕よりも先にぐびぐびと飲みほす。
「ぷはーピクニックもいいけどこういう館も結構いいわね。ディナーにご招待された気分だわん」彼女は足を組み頬を火照らせ、ワインを揺らすように回した。
「そうだね。あとで請求書がきちゃったりして」えーうそー、彼女は大下座にのけぞった。
ただ道に迷って今晩だけ泊めさせてくれと言っただけなのにこんなにたくさんご馳走をしてくれるなんて申し訳ない気がする。もし請求書がきたとしても別に電車ではなく車で来ているのだから、すっからかんになっても代金だけは支払うつもりだ。それが当然の礼儀だろう。
「則作。飲みすぎて酔っちゃったわ。シャワーを浴びてくるわね」スカートをふんわりさせてふらふら~と立ち上がった。
「歯ブラシとか歯磨き粉、タオル類を忘れるなよ。まあ、呼んでくれたら取ってきてやってもいいけどな、うっしっし」
「もー。覗こうというんでしょ。ダメよ。シャワーノズルで頭をカチ割るわよ」
「おーこわい。そういえばシャンプーとかトリートメントってあったっけ?」
「うん。執事さんが事前にボディーシャンプーとかも備え付けてあると言ってたわよ」
タオルの中に歯ブラシと歯磨き粉をいれてくるみ、その上に見覚えのない紫色の風呂敷をのせた。
「ん?なにその風呂敷」
「ああ、これ。私がトイレにいったときに執事さんと会ってね。この風呂敷の中に昔、奥様が着ていたドレスが入っているから一度着て見せて欲しいとお願いされたの。お風呂あがりにでも着ようと思ってね」
「へぇ~。着たら僕にも見せてね。きっと似合うと思うよ」
「うん。どこかのお城のお姫様になるからびっくりするかもね」
ぺろっと舌を出した。いってくるわね、と言い残し久美は部屋から出ていった。
どんなドレスだろう。一回り大きめのクッション並みに大きい風呂敷だったから、丈の長い上等なドレスが入っているんだろうなあ。さて、とうとう一人になってしまった。テレビどころか雑誌もなくトランプも荷物になるのでもってきていない。さっきも部屋から出てドアから顔を出した久美に、絶対にお風呂を覗きにきたりしないでよと念押しされているし。はあーつまんないなー。気にならなかった雨音も聞こえだし、留守番をさせられた子犬のようになった。
コチコチ、グラグラと柱時計の秒針と振り子の音ばかりが聞こえる。十五分ほど待ったが退屈だったので部屋から出て廊下のあたりを散歩することにした。
突き当たりの浴室からシャワーが体に当たる音と曖昧な鼻歌が聞こえる。ふうーと一息つき壁にたくさん掛けられている絵画を絵心が全くないが暇つぶしで見ていくことにした。
果物とグラスの静物画、庭で駆け回る犬の絵、ポピー花畑のある館の絵…その中に異質な絵画が二枚あった。
一枚目は抽象画らしい。全体的に暗い絵で凸凹の床の上にコンクリートが積みあがっており、赤黒い空から無数の手が出ている。今にも亡者の叫び声が聞こえてきそうだ。ひどく恐ろしさを感じた。
二枚目は髪をオールバックにした館の主人らしき肖像画だ。白いスカーフを胸につけ勲章をつけ貫禄さは出ているがどことなく不気味さも醸し出している。黒から赤へのグラデーション背景だがこの男が血に染まっているようで背筋がぞくぞくしてきた。そのすぐ執事が見せてくれた奥さんと娘さんの絵がかけられている。
「すべて館のご主人様が描いた絵でして、私もこの絵をときどき見るのですがなにかとてつもない哀しみを感じるのです」
肩の後ろから執事が現れ、思わず変な声が出た。二枚の肖像画を見上げ遠い目をしている。しばらく気まずい雰囲気が流れ部屋に戻ろうとしたときに執事が口を開いた。
「二十年以上も昔の話になりますが、当時は十ほど歳の離れたご主人様と奥様が結婚をなされ先祖代々伝わる館に住んでおりました。結婚してもなかなか子供に恵まれず肩を落としていましたが一年後にやっと長女様がお生まれになられ、そりゃあもうご主人様は大喜び。お祝いに素朴で可憐な奥様を例えてポピーの花畑をプレゼントされました。町の人たちからもご主人様は大変親切でお優しい方だと評判があり、仕事から帰るといつも奥様には大きな花束を、長女様にはオモチャと人形をプレゼントし喜ばせるような大変家族想いの人だと伺っております…」
執事の言葉が途切れ、片眼鏡の下からきらっと光ったような気がした。何か声をかけたかったが黙って聞くことにした。
「それからしばらくして持病もちだった奥様がお若くして亡くなられました。大っぴらにせず内々でお葬式をあげましたがご主人様は未だに奥様の死を受け入れられずに再婚を勧められても絶対にしませんでした。それからご主人様はまるで別人のように豹変なされ館の中が無茶苦茶になってしまいました。周囲からお慕いして下さった人たちも避けるように離れてしまい、とうとう発狂をなされ首を吊って自殺をしてしまいました。その後の長女様のご消息はわかりません。親戚に預けられたのではないかと聞いております。」
熱で曇った片眼鏡を外し、ハンカチでふく。
「そうでしたか。この館にとても悲しい出来事があったんですね」
話題を変えようと思い、庭で駆け回る犬の絵に指さした。
「大きくて可愛いワンちゃんですね。さっきも見かけましたがこちらで飼われているのでしょうか」
「はい。奥様が亡くなられてからご主人様が寂しさを紛らわすために犬を飼いました」
「種類はゴールデンレトリバーですよね。今日部屋にも来ましたよ」
「はい。ゴールデンレトリバーだったと思います。はて、館に犬がいましたとは。もう死んで居ない筈ですが」
「えっ、死んでしまったのですか」
「ええ。ご主人様は我が息子のように可愛がられておりましたが、数年後に犬のご飯に毒を盛り殺したあとに自殺をしてしまいました…」
「えっ、犬も殺しちゃったのですか。可哀想に」
「はい。たぶん、一人で死にたくなかったのではないのでしょうか。私の憶測ですが」
そうか…あれは別の犬なのか。じゃあどこから入ってきたんだろう。こんな森の中に一匹で入り込んだのだろうか。変な話だ。執事は一呼吸をおいて話を戻した。
「それから子孫を残すこともなくとうとう館には人が住まわなくなり空家として売られるようになりましたが、館内で自殺したことが漏れてしまい次に住む人がいつまで経っても決まりませんでした。だからこうして私は、館内の清掃をしたりポピーの花畑の水やりや手入れなどをして次に住まわれる方のために管理をしています」
「お一人で広い館の管理とは大変ですね。早く買い手が決まるといいですね」
適当な言葉をいって僕は部屋に戻ることにした。散歩のつもりで廊下に出たのにとてつもなく重苦しい気持ちになった。
何度もため息を深くついてみたが胸の中のよどんだ空気がまだ吐き出されない状態だ。しばらくドアノブを握ったままじっとしていた。
あれ?この部屋にも絵がかけられている。しかも傾いているぞ。
ドアから見て右側の壁にかけられた額を正面に掛け直そうとした。その時、後ろの紐が切れストンと落ちた。あらーどうしよう。壊れてたりしたら弁償だ。ん?何か黒い点があるぞ。そこに直径1cmほどの小さな穴があることに気がついた。もしかして館によくあるという定番の覗き穴というやつなのか?――誰もいないな。よし。周りを見渡してから額を壁にくっつき小さな穴を覗きこんだ。部屋の中は大体今いる所と同じ配置だ。あれ。ドアが開いた音がしたぞ。聞き覚えのある声が聞こえてくる。左脇から久美が鼻歌を歌って出現した。あれ、浴室にいた筈なのになんでここに―
と思った瞬間、腰の横のチャックを下し、すとんとスカートが花が開いたように落ちた。ブラウスボタンも丁寧に外し上もパサッと脱ぎ、あっという間に下着姿になった。わっ、見ちゃいけないっ。でも視線を逸らすことができず思わず唇を撫でてしまってた。日頃一緒にいて子供っぽい仕草と服装はしているがスタイルは悪くない方だとなんとなく思っていた。小花を散りばめた透けてみえるベビードールを着ていた。少し屈みこみ、下から執事から受け取ったドレスを持ち上げる。背中のファスナーを開け、足を一本ずつ入れ上に持ち上げようとするが、きついわーと言って足を抜きドレスを脱いだ。すると今度はベビードールをパサリと脱いだ。なんだか気分はストリップ小屋を見ているようだ。心拍数が高くなっている。白いつき立ての餅のようにふっくらとした二つの胸がカップに包まれていた。今にも零れ落ちそうなぐらいにとても柔らかそうだ。久美はもう一度ドレスの中に足を入れ上に持ち上げ胸に合せようとするが、やだーまだきついわー食べ過ぎたのかしらとファスナーを下そうとする。今度はブラか!ブラを脱ぐんだな!彼女がドレスを脱ぐのを待っていた――が、
やだ、どうしよう。ドレスをかんじゃった。と後ろ手でバタバタさせている。あーじれったい!目の前にいたらゆっくり降ろしてあげるのに。興奮のあまりに両手が上向き鷲づかみになっていることに気がついた。しばらく彼女はじーっと考えこみ、突っ張ったドレスをもう片方の手で軽く引っ張りながらチャックを下すことに成功した。ドレスがパサリと落ち、雌鳥が大事に育てていた卵のように豊満な胸が出てきた。久美は少し体を傾けて後ろ手で外そうとした。
よし、ホックだ。ホックを外せ!彼女はホックに手をかけ、糸も簡単に紐がするりと落ちた。
ついにやった!僕は男でブラはつけないが、心臓がシャツから飛び出してしまいそうで血管の中の血流が早くなっていると思った。さぞかし今の己の姿をビデオカメラで写していたら完全に痴漢のように見えるだろう。だが、もうここまで来たんだ。もう後戻りはしないぞ。壁に吸い寄せられるようにべたーっとくっつき、いつのまにか自分の鼻息が荒くなっていることに気がついた。
突然久美の様子が変わった。下から真っ白なドレスを胸に抑えたじろぐ。久美が青ざめ恐ろしい物を見るようにじわりじわりと視界から消えた。すると右脇から帽子を深被りした黒いロングコートを着た大柄の男が現れた。肩から息をしており人間離れしているようだ。さっきまで興奮していたが一気に血の気をひいてしまった。胸の辺りから鈍く光る筒状のものが見えた。もしや、あれは銃――脅迫されているのでは!僕は反射的に部屋から飛び出した。そのとき――
キャー!
裂くような悲鳴が廊下中に轟いた。久美だ!
(お願い、殺さないで!)
急いで駆けつきドアノブに手をかけたが鍵がかかっている。
「すいません。鍵ありますか。中に連れがいるんです」
「わかりました。今すぐに一階から取ってきます」まだ絵画を見ていた執事が早足で階段を駆けていった。
「久美!大丈夫か!返事をしてくれ」何度もドアを叩く。
(いやーなにするのよ!)
久美の悲鳴がまた聞こえる。畜生、もう間に合わない。こうなったらぶち破るしか手はない。
「まってろ!危ないからドアから離れてくれ」
大きく息を吸い、勢いよく体当たりをした。見事に開いた。しかし着ていた服とウェディングドレスが虚しく落ちているだけでそこに久美の姿はない。
しまった――連れ去らわれてしまった。犯人は久美を連れてこの館のどこかに逃げているはず。上から執事を呼びかけ、玄関から逃げださないように見張りを頼んだ。
「久美、どこにいるんだ。返事をしてくれ。」
奴はこの浴室と五つの部屋のどこかに隠れてしまったのだろうか。二階の窓から飛び降りて逃げる可能性もある。片っ端から部屋のドアを次々と開けていった。一つ一つ確認をしたがどれも窓が開け放たれていない。ということは窓から逃げてはいないんだ。久美が連れ去らわれた部屋も見てみたが窓は開いていなかった。
「よし、この部屋で最後か」
五番目のドアまでたどり着いた。何かこの部屋だけは物々しい気配がする。生唾を飲みこんだ。この感覚は、中に化け物がいると分かっているが恐ろしくてすぐに開けられないのと似ていた。だが躊躇している時間などない。
「えーい!久美を助けるんだー!」
思い切って最後のドアを開けてみた。するととんでもない光景が目に飛び込んだ。
無機質のコンクリートブロックがいくつもあり所々積み重なっているところもある。床は凸凹。果てには何も身に着けていない露わになった姿で気絶した久美を抱いて逃げようとする厳つい後姿を見つけた。
「待てー!」
追いかけようとするがつるっと滑りこけた。その瞬間に上から巨大ブロックが鼻元すれすれで落下し、反動で体が浮いた。あと一歩進んでいたらお陀仏になっていたところだ。
「いてて…なんだ、この黄色い汁は?」
手にねっとりとついてきた。落ちてきたブロックの端から汁のついたご飯粒みたいな何かが無数にはみ出てぶつ切りになった所もある。
上からボタボタと落ちてきた。
見上げると天井がなくなり赤黒い雲に覆われている。真ん中にぽっかりと渦を巻いた大きく黒い穴が開き亡者らしき奇妙な呻きと叫び声が聞こえてくる。その中からまたボタボタと白い粒が足元に落ちてきた。
幼虫?いや――死体から湧き出る蛆虫だ。
落ちた反動で死んでいる蛆虫もいれば、低い所に落ちて噴水のように湧く蛆虫もいる。
凄まじい光景と強烈な腐臭に、思わず僕はゲーーっと吐いてしまった。
今度は向こうの穴ぼこにブロックが落下した。相変わらず酷い振動だ。大きな音で耳が痛い。なんだこの部屋は、とてつもなく広くなっているし上から次々と落下してくるとはどうなっているんだ。袖で口を拭った。
この光景をどこかで見た――そうだ、あのときの廊下に掛けられていた抽象画と全く同じだ。ということはここは、館の主が描いた絵の中なのか。雲からスッと巨大ブロックが出現し、また穴ぼこに嵌まるように落ちる。床に落ちた蛆虫がブチュッと音を立てた。げー気持ち悪い。二度吐きかけたが口を押えた。
あれ、これはもしやテトリスのように落ちてくる仕組みではないか。そういえば一定の時間で五秒ごとに落下するようになっている。そうか、穴ぼこを避けて進めればいいんだ。
男は積みあがっているブロックを要領よく駆けあがり上の黒い穴にむかっているようだ。これは早く追いつかないと取り返しのつかないことになるぞ。一つのブロックは高さ一Mほどあり、黄色い汁をできるだけ避けるように一段一段駆けあがろうとした――が、ブロックが落下するたびにずり落ちそうになる。階段をあがるみたい容易にはいかないがなんとか落とされずにブロックに足を乗せ、振動のリズムに合わせて駆け上がることができた。
勉強はそこそこだが運動神経はかなり良い方だ。通信簿十段階で九か十をとっているぐらいだ。ブロックが落下するタイミングと足の乗せ方のコツを掴むことができた。それでも男との距離がなかなか縮まらない。振り落とされずに足に力を入れて上りつめていく。残り二十段…十九段…十八段………
息切れを起こした。神社の長い階段を思い出したほど、とてつもなくしんどい。しかし奴はもう、黒い穴の近くまで来ている。負けるもんか。十五段………十段………五段………
奴との距離がやっと縮まってきた。えーい、勢いだ。四、三、二、一と駆け上がっていった。呼吸を止めてたせいか息遣いも荒くなっている。心臓がおかしくなりそうだ
ついに頂上まで辿りついた。他の凸凹階段とは違い、一番平らになっているところだ。
「はっ はっ とっ止まれ―!」
なんとか男に向かって叫ぶことができた。
バキューーーーン!!
男の背中から爆発音と光が放った。一瞬何事かと思ったが右足の太腿が急に熱くなり転げまわるほど激しい痛みに見舞われた。見ると銃弾が太腿に当たり貫通してしまっている。奴は後ろ手で撃ったらしい。みるみると血が広がるように溢れ出てきた。
「ぐふぅ…なんのこれしき…!」
気力で立ち上がろうとしたが蛆虫から出た汁のせいで滑り上手く立ち上がれない。つるっつるっと滑る自分にもどかしさを感じる。ブロックがたちまちビルのように積みあがり、とうとう今いる平らなところにも頭上から巨大ブロックが落ちてきた。
くっ…もはやこれまでか…
目を固く閉じ観念した。
隕石のようにびゅーーーと真上から落ちてきた。大きく影ができる。
その時、落ちてくるはずのブロックが頭からわずか一cmで止まってしまった。
周りも静かになり灰だけが舞い上がっている。
痛みを必死に堪えながら見上げると、そこには一階で玄関の見張り番をしていたはずの執事が険しい顔でいた。執事の体は光に包まれ、眩しすぎてうっすらとしか見えなかったが黒髪のドレスを着た夫人に変身した。あのときの肖像画の久美にそっくりだった奥さんではないか。しかし久美よりもはるかに現実離れをしており、まるで聖母マリアを見ているようだ。着ているものも脱ぎ捨てられたウェディングドレスと同じだ。長袖のレースがつき花模様がついた美しい純白のドレスだった。
久美をさらった男の顔をはっきりと見ることが出来た。なんと彼女を襲おうとしたあの時のゲス犬ではないか。白目を剥き異常な長さの舌を出している。首つり自殺をしたときのようだ。犬の様子も変わりだした。目の辺りから無数の線がミミズのように走り全身にマス目ができる。そこから一枚剥がれ落ちた途端、パズルのピースのようになってバラバラと下に零れ落ちた。すると怯えきった老犬のように目の下と頬の肉が垂れ下がり眼球も零れ落ちそうで目の回りが赤くなった男が見えた。毛も真っ白になり変わり果てたが紛れもなく肖像画に描かれている館の主人だとわかった。胸ポケットに未練たらしく赤いポピーの花を挿している。
「なっ、なぜ妻が二人もいるんだ」
主人は久美と奥さんの顔を交互に見て狼狽えている。奥さんは落ち着いた声で男を指刺した。
「もう逃げたりなんかしない。ここで決着をつけましょう。お父様」
お父様?奥さんなのに…娘なのか?
「決着?なにを言ってる。なんでこんなことをしないといけないんだ。ポピーの花畑をプレゼントした上に仕事よりもお前たちを優先にしてきた。祝い事は欠かさずにした。もちろん誕生日も。なぜだ。なぜ私から逃げる。みんななぜ私から逃げるのだ」
父親は泣き崩れ、地面を何度も拳で叩く。帽子も脱げた。久美が床に倒れ、そして何かがカラリと落ちる音がした。
「あなたは母の葬式をあげてから気が狂ってしまったのです。見境いがつかないぐらいにね。私のことを母親と重ねてしまい、その上無理やり花嫁衣裳を着せました。何度説得をしてもお父様は私の話を一向に聞かず暴力をふるった。おまえは今日から俺の妻だ、言うことを聞け、さもなくば殺す、とあなたは何度も脅しましたね。私は毎日怯えておりました。狂気じみたあなたに耐えらなくなり結婚式の当日、とうとう海に身を投げ出しました。私のことをまだ母だとお思いですか。それは違います。私はあなたの娘です。それにその人は無関係です。今すぐこちらに渡しなさい」
非常に落ち着いた声をしているが、髪の毛が天井に向かって上がる。燃え盛る青い炎のように見えた。
「ふはは。馬鹿を言うな。私は悪くないぞ。この際どっちでもいいわ。今までおまえらに散々尽くしてきたんだ。見返りがあって当然だろ。大体おまえが妻に似ているのが悪いんだ。ガキのくせに偉そうな口を叩くな!」父親は目をひん剥き大声で叫んだ。
そのとき黒い穴が父親に近づき、痣や皮膚がめくれ腐りかけた腕が伸びてきた。そこから湧いて出てきた蛆虫をぼとぼと落とし、呻きと叫びを発して男を中へと引きずり込んでいく。
「なっ、なにをする!」肩から足にかけて無数の腕が絡み付いている。大量の蛆虫も移動して男に寄生した。
「お父様。少しは望みがありましたがあなたの心まで変わり果ててしまったとは――もはや手遅れです」
首を横に振り冷ややかな目で見る。父親は手で宙をかき抵抗をしていた。
「助けてくれー。一人にはなりたくない。本当は寂しかったんだ。一緒に来てくれ。一人はい――」
男の言葉が詰まる。激しい爆発音とともに父親の胸に挿したポピーの花びらが散った。娘さんは落ちた銃を手に取り父親の胸に目がけて打ったのだ。火薬の匂いが立ちこもっている。瞬きもせず有らぬ方向を見ている父親は口をぱくぱくとさせたままそのまま飲み込まれるようにして穴ごと消えていった。
ピカー!ドォーーーン!
「うわぁ!」
耳をつんざくような激しい雷が鳴り、辺りが真っ黒になった。僕は反射的に頭を隠してしまう。
何か降ってくるのかと思いきや、温かい光を感じそろりと上を見上げ手を離す。
雲の割れ目から天使の梯子がいくつも出現し暗闇を照らしている。丁度僕らにも真っ直ぐ光が当たってきた。落ちてくるはずのブロックはいつのまにか消え、大量の蛆虫も、潰れて出た体液も綺麗に消えている。今座っているブロックの隙間からぺんぺん草がすくすくと生えてきた。
父親の最期を見届けしばらくしてから、娘さんは気絶した久美を羽を拾い上げるように抱きかかえた。よくみると久美の背中と娘さんの腕に隙間があった。まさか抱きかかえているのではなく何かしらのパワーで持ち上げているのか。それにしてもまるでクローンが二人もいるみたいで服装も同じだったら全く見分けがつかない。
こちらに向かい どうぞ、と淡々と久美を渡してくれた。
「ありがとうございます」
久美を受け取り、急いでパーカーを脱いで彼女の肩に羽織らせた。
「ちょっと」
娘さんは少し屈み、腕を僕の足に伸ばしてきた。一瞬何をされるのかと身構えたが傷を負った右足の太腿の上にそっと手を置かれた。日だまりのような温かさを感じる。すると出血がとまりジーパンの破れ目から見える傷口がみるみると閉じるように消えた。激しい痛みも徐々に消えすっかり元通りだ。目の前で起きていることが信じられなくて思わず口が開いた。
「あなたは――」
何かを聞きたかったが急に言葉を詰まらせてしまった。娘さんの手が離れすくりと立ち上がった。僕たちを見下ろしている。逆光になって顔が暗く表情が読み取りにくかった。
「私も父もこの呪われた館に縛られ成仏できずにいました」淡々と話しだした。
「私は父が大好きだった。あんなに優しくてみんなからも尊敬されていたのになぜ……変わり果てた父親の姿に驚きと恐怖と憎しみが入りまじり、私の精神はもうぐじゃぐじゃでした。ショックでした。いつのまにか大好きから大嫌いに変わり、父に殺意までもってしまいました、でも私は殺す勇気もなく父の狂気じみた暴力から逃げつづけ海に飛びこんでしまいました。苦しくて海は暗くとても冷たかったです。でも海の底から思い続けておりました。幽霊に化けてでも父親をこの手で葬りたいと――」
背中を向けた。ドレスを引きずりながら進み、落ちた花びらを何枚も拾い上げ両手にのせてじっと見つめた。
「やっとこの手で父を葬りました。でもこれで本当に良かったのでしょうか。昔は優しくて良い父親でした。それなのに母の気持ちも考えずに地獄へ送ってしまった。私のしたことは許されない事だからきっと私も地獄いきなのでしょうね」
もった花びらをふーと吹き飛ばし、父親が消えた場所にひらひら落ちるのをじっと見つめている。娘さんが地獄いきだなんて――そんなことが決してあってはならない。反射的に体が動いた。
「そんなことはないです。例え精神的におかしくなってもあなたに暴力をふるった父親ではありませんか。あなたの一生を台無しにしたんです。あなたは無実だ。絶対地獄いきなんかにならない筈ですよ」
娘さんは振りむいた。部外者なのに余計な口出しをしたかもしれない。でも、例え愛する妻を亡くし気が狂っても我が子には絶対に手を出してはいけないんだ。反射的に久美を横におき立ち上がった。自分でも腹を立ててしまったと思った。しかし―
「うふふ。あなたって、とても良い青年なんですね」
娘さんは手をおさえてくすくす笑っている。あれ、おかしいことを言ったかな。頭を掻いてしまった。
「天国の母はどうしているのでしょうね。私なんかは地獄にいっても構いませんが、せめて父親を地獄に送ったことを伝えたいです。父を愛していた母に申し訳ないから」
穏やかになった彼女の足元から光が湧き出て薄くなってきていることに気がついた。
「もうすぐしたら私はこの世から完全に消えますが、その前に一つだけ教えておきますね。そこに眠っていらっしゃる彼女さんですが、私の叔母の娘にあたります」
「えっ。つまりあなたにとって姪ということでしょうか」
彼女は目を閉じ、静かにうなずいた。
「館に来たときから気づいておりました。きっと私もまともに結婚をして子供を産んだらこのぐらいの歳の子がいたんでしょうね。羨ましい。元気な姿が見られて本当に良かったです」
涙を零しながら久美を見た。僕もそれにつられ久美を見る。淡い光が顔半分にあたり眠っている。天使のような寝顔だ。視線を戻した。さっき足元だけ薄くなっていたのが下半身がすっかりなくなり胸から首にかけて薄くなってきている。
「館の呪いを解いてくれてありがとう」と床に熱い雫を落とした彼女は空を突き抜けるようにして消え去った――
疲れきってしまい眠り込んでしまった。目が覚めるといつのまにか大量のブロックの山はもうなくなっている。見慣れた古い館の部屋に戻っていた。雨は止み朝日は昇りつつある。久美はうっすらと目を開けた。
「気がついたんだね。大丈夫かい久美」
「…則作」
両目から涙があふれ彼女はしがみ付いてきた。
「こわかった…こわかったよ。きっと助けにきてくれるとおもってた」
頭を胸の中に埋め、何度もこすり付けてくる。久美は右足の滲んだ血に気づいたらしく顔を上げた。
「血が出てるじゃない。早く手当てをしなくっちゃ」彼女の手を止める。
「銃で撃たれたけどもう血が止まってるんだ。ほら、この通りさ」ジーパンの破れ目を広げ見せると まあ、と久美は口を押えた。
「奇跡ね。もう治っちゃってる」
「へへ。こんな傷、大したことねーやい」鼻を擦った。
「則作、最高だよ。私を助けにきてくれてありがとう」
むぎゅうと抱きしめてきた。生きてくれてよかった。何度も彼女の髪の毛を撫でおろし抱きしめた。
「ああ。どんな時でも助けにくるよ。君のためだったら僕がこの身を捨ててでも一生守る」
「嬉しい。則作。大好き」
「僕もだよ。久美大好き」
日は完全にのぼりきったが手と足の震えが止まらない。穏やかな光は冷えきった僕たちを温かく包み込んでくれた。
それから後、僕たちは車で引き返し無事家に辿り着くことができた。この話を家族友人に話したが誰もまともに信じてくれなかったが、仕事から帰ってきた久美の母親から腹違いの妹がいたことを聞かされた。今までずっと話そうとしていたらしいが、久美自身のショックの大きさも考え、なかなか言い出せなかったらしい。
館の方は取り壊しが決まったと近所の噂で知った。もう執事はいないのにずっとポピーの花畑は枯れずに咲いていたらしい。館の主人は地獄へいったが娘に手を挙げた罰だ。当然の報いだろう。過去は優しかったと聞いていたがそんなことは知ったこっちゃない。我が子に暴力を振るうこと自体が尊敬できない父親で絶対にあってはならないことだ。
娘さんは天国までいき母親と無事再会することができたのだろうか。そして、僕たちは偶然あの館に来たのではなく、救ってほしいと呼び寄せられたのではないか。そんなことを学校の授業を受けながらふと思う。僕と久美だけにしか知らない奇妙な館での出来事だった。
(完)
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