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クリスの手は暖かい

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 王女ルシアは、地下牢のなかで目を覚ました。
 石畳の不気味なひんやりとした感触が、気持ち悪い。天井からは雨漏りの水が漏れていて、ルシアの髪にぽたっと水滴が落ちる。

 ルシアは、自分が身にまとっているのが茶色のボロ布一枚であることを思い出す。手足を動かそうとしたが、鎖で拘束されていて身動きができない。

(そうだ。私は……兄上と聖女アリアに拘束されて、魔法をかけられたんだ……)

 その結果、意識を失い、この牢に捕らえられたというわけだ。記憶が蘇ってくる。
 拘束されて、二週間が経った。そのあいだ裏切り者と罵倒され、殴られ鞭で打たれて拷問され、身も心ももうぼろぼろだった。

 今のルシアは、宮廷魔導師団団長の肩書も、王女の身分も失った。国王と王太子への反逆を企てた一人の罪人だ。

(私は……何もできない17歳の少女にすぎないんだ)

 ルシアは自分の無力さに唇を噛んだ。ネズミや壁を這い回るのを、虚ろに見つめることしか、今のルシアには許されていない。

 そして……ルシアはクリスを失った。すべてを捨てて、クリスと駆け落ちをするという選択をしていれば、運命は違ったかもしれないが、もう遅いのだ。
 きっと、ルシアは二度とクリスに会えない。
 
(これから……私は……どうなるんだろう?)

 また拷問の繰り返し。でも、その後は……? 何かの儀式に使われると言われていたけれど……。

 ルシアの心の中の問いに答えはない。代わりに足音が聞こえる。
 牢の前に現れたのは、純白の衣をまとった少女だった。

 その美しい少女は、にっこりと微笑み、さらりとした黒い髪をかき上げる。
 ルシアは反射的に身構えた。

 相手は、聖女アリアだった。

「久しぶりですね。ご気分はいかがですか、ルシア殿下?」

「最高と答える人がいたら見てみたいですね。最悪に決まっています」

「それは結構。殿下は罪人ですから、なるべく苦しめないといけません」

「あなたこそ、無実の人間を陥れて、罪悪感はないの?」

 ルシアは勇気を奮い立たせて、鋭く尋ねた。弱っているところを、相手に見せたくない。
 王太子エドワードとアリアの策謀で、ルシアはでっちあげの反逆罪で囚われた。仮にも、国を導くべき王太子と、教会に選ばれた高潔な聖女だ。良心が傷まないのか、とルシアは思う。

「あら、帝国の多くの人間を殺した殿下に言われたくはありませんわ」

 ルシアは沈黙する。あれは戦争だった。マグノリア王国のために、やむを得ず帝国の兵士を殺した。それが宮廷魔導師としてのルシアの義務だったし、そうしなければ生き延びれなかった。

 けれど、帝都へのアストラル弾の投下をはじめ、市民の虐殺は正しいことだったのか? クリスと同じく、ルシアも疑問を持っていた。だからこそ、アリアの問いにまっすぐに答えることができない。

 アリアはくすっと笑った。

「ルシア殿下の犠牲は必要悪です。殿下がその身を捧げることで、国王陛下、エドワード王太子殿下、そして、ルシア殿下自身の願いを叶えることになるのですから」

「私の願い? あなたに私の何がわかるというのです?」

「わかりますよ。私はすべてを見通しています。五人の悪役令嬢を犠牲に捧げ、『完全なるフロース』を創出する。そのことで、誰もが待ち望む、あのお方が復活するのです」

「何のことだかさっぱりわかりませんね」

「すぐにわかります」

 アリアは相変わらず、美しい、けれど虚ろな笑みを浮かべていた。アリアはルシアと同い年の17歳のはずで、ルシアよりも華奢な体格で幼い顔立ちをしている。けれど、その雰囲気は、ずっと年上の女性のようでもあった。

 アリアは狂人なのか、預言者なのか、それとも真の聖女なのか。そのどれなのだろう?
 王太子エドワードは、どうしてこんな人物の言うことに従っているのだろう? それに、国王、王太子、ルシア自身が共通で望むこととは……?

 わからないことだらけだ。

 アリアは得意げに続ける。

「いいことを教えてあげましょう」

「あなたが教えるのなら、それはきっとろくでもないことね」

「まあ、そう短気を起こさずに聞いてくださいな。そう、どこから話しましょうか。この世界の未来の歴史は、五つの可能性を秘めている。分岐点があるのですね。そのそれぞれの可能性に、五人の悪役令嬢――魔女がいます。彼女たちは、愚かで、堕落し、憎まれる存在ですが、この世界の罪を一身に背負い処刑されることで、不可避の破滅から世界を救うのです」

「まるで教会のいう聖典の救世主ね」

 ルシアはつぶやいた。

 四千年近い、はるか昔のこと。プランタ大陸の片隅に一人の男が現れた。彼はこの世界の王であり、預言者であると名乗り、そして殺された。彼は神の子でありながら、この世にもとから存在した罪――原罪――をすべて背負って処刑されることで、世界を救った。

 それが大陸共通で信じられる普遍教会の教理だった。

 ルシアは悪役令嬢だという。ならば救世主だとでもいうのか。

「ある意味では、そのとおりです。本来であれば、世の罪を清めるには、一人の悪役令嬢を人柱として捧げればいい。ですが、五人の悪役令嬢すべてを殺すことで、この世は真に浄化され、アストラル元素に満たされます」

「アストラル魔法の動力源のこと?」

「ええ。アストラル元素は神界に満ちるもの。それがこの世に流れこんだとき、『完全なるフロース』が現れる。それがある限り、どんなことでもできるのです。アルストロメリア共和国の軍を一瞬で消滅させることも、永遠の命を得ることも、そして死者を蘇らせることも……」

 ルシアは混乱してきた。少なくとも、この似非聖女アリアは、王太子の権力強化なんていう小さい目的では動いていなさそうだ。その目的は、マグノリア王国のためですらないかもしれない。

 では、何がアリアを、王太子を駆り立てさせるのか?

 突然、アリアがルシアの胸に手を置いた。ルシアが反応する間もなく、アリアの手が赤く光出す。
 同時に、ルシアの体に激痛が走った。ルシアは、戦場で何度か重傷を負い、死にかけたこともある。そのときの痛みは忘れがたいものだった。

 けれど、かつて受けた痛みの数倍以上の激しい痛みがルシアを襲っていた。看守に拷問されたときよりもずっと苦しい。まるで体そのものを破壊するような、存在自体を否定されるような痛みだ。

「あっ……がっ……痛いっっっっ!」

「そろそろ儀式ですから、それに向けた体質の調整です。アストラル魔法の触媒として不純物は取り除かないと。旧式のエーテル魔法は使えなくなりますが、仕方ありません」

「な、なんのこと……やめ……やめて……お願い、助けて……」

 ルシアは息も絶え絶えに懇願するが、アリアは微笑むだけだった。
 赤い輝きのなか、ルシアはしだいに手足から力が抜けていくのを感じた。
 自分から大切な何かが流れ出ていく。魔法が使えなくなる、というのはきっとこの感覚だ。
 もう叫ぶ気力もない。

 ただ、口から漏れる言葉はたった一つだった。

「助けて……クリス……」

 そんなルシアを、アリアは見下すように笑った。

「ああ、そんなにあのクリスさんのことが好きなんですね。彼なら助けてくれると信じてくれるんですね……でも……」

 そこでアリアは言葉を切り、一瞬黙った。そして、続きを低い声で言う。

「宮廷魔導師団団長の地位も失い、王女の身分も失い、魔法の才能も失う。何一つ取り柄のなくなったボロボロのあなたを、クリスさんは助けてくれるでしょうか?」

 アリアの問いに、ルシアは……首を横に振ることができなかった。
 
(そっか……私は……クリスに救われる価値を失っていくんだ……)

 感覚のなくなった体をぼんやりと見つめ、ルシアは思う。
 これを絶望と呼ぶのだ、と。思い人のクリスはルシアを助けに来ない。来ても……失望するかもしれない。

 アリアがさっと後ずさりしたのは、そのときだった。

「まさか……」

 アリアの声は、爆音にかき消された。地下牢に白煙が立ち込める。
 何が起こったかわからないけれど、自分はここで死ぬんだろうか?

 ルシアはぼんやりと考え、それでもいい、と思った。

 けれど、そうはならなかった。
 薄れゆく視界のなかに、一人の青年が現れたのだ。

 彼は、白魔道師特有の白い衣に身をまとっていて……そして身をかがめ、ルシアの手を握った。

(温かくて……大きい手……)

 ルシアは、相手の顔を見上げた。

「ルシア殿下……遅くなり申し訳ありません、助けに参りました」

 白魔道師クリスが、ルシアにとても優しく微笑んでいた。
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