酔心梅屏風

有明榮

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君とこそ 春来ることも待たれしか 梅も桜も たれとかは見む    ――赤染衛門

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 白梅の花は一般的に如月の上旬から弥生の中旬に咲くというが、今年は例年より冬の寒さが尾を引いたためか開花時期が遅い。「三月は去る」というように日々が足早に過ぎ去ろうとしているにも関わらず、未だ街路に唯独りぽつねんと立つ白梅は、儚き花を咲き誇るというよりも遠慮がちに携えて居る。絹糸よりも細い催花雨さいかうのしっとりと降る夜半に、雫の重みに耐え兼ねてあかんべえの花弁はなびらが街灯を受けて輝いている。一方でそれらを支える枝先は折れないかと憂うばかりの細さを尻目にしなやかに揺れ、幹は桜のような鋼の意思は持たずとも、自由奔放に曲がりくねって燃え盛る炎と見紛う程に身体を伸ばしていた。
 さて目の前にかかる美しい白梅の木が屹立きつりつしているのは非常に風情と趣に溢れていて和歌でも詠めそうな気がするのだが、問題はここがどこか皆目見当が付かないということである。福岡市某所であることは確信している。一体全体摩訶不思議、私はどうしてここに立っているのだろう。これは所謂「迷子」という状態だと認識して差し支えなさそうだ。路頭に迷っているといえば悩める青年のようで聞こえは幾何|《いくばく》かましになろうが、結局は買物の途中で親とはぐれた幼子と同じである。違うとすれば近くに親もいないということだろうか。つまりは全くの孤独である。とはいうもののここに至った経緯を思い出す必要がある。左手首の簡素な時計は午後十一時半を示している。


      *

 
 凡そ七、八時間前であろうか――お昼過ぎだったような気がする。大学開設百年を記念して建てられた講堂の前には、晴れて学位を取得し大学四年間の過程を終えた学生たちがひしめき合っていた。その色の多様なことと言えば、まるでモザイク壁画か何かのようであった。嗚呼我がモラトリアムも残り一年よのう、などと一年後の自分の姿に想いを馳せながら研究室に足を運んだ。私の在籍する研究室は、美術史学研究室という。その名前の胡散うさん臭さといえば右に出る所はあるまいという謎の自負がある。とはいえそれはそれでいいとして、卒業式の後は研究室で打ち上げに参加していた。凛凛しいスーツに身を包んだ男子の先輩と煌びやかな着物を羽織った女子の先輩を相手に大学生活の思い出を和気藹藹と語っていたのである。
 しかしここで現れたのが総ての元凶、その男は我が同期、その名は村松という。この男、ぬらりひょんのようなのっぺりした不気味な出で立ちをしているくせに社交性だけが突出している。この世に生を授かった時点で能力値の振り分けを間違っているのではなかろうか。
 村松は厄介なことに、私の心に秘める淡い恋心を知っていやがった。そのお相手はというと四年生――つまり今年卒業する訳だ――の豊田先輩である。才色兼備という言葉を具現化したような彼女と親しくなった理由は今でも不明だが、いつの間にやら恋心が芽生えていましたというよくあるお話である。
 このことがどこから洩れたのかは問題ではない。妖怪村松がその情報を握っていたというのが問題なのだ。
 彼女が卒業して社会人になれば私も彼女をいつか忘れるだろう、こうして青春の苦い一頁が自分史に刻まれるのである、と格好つけた感傷に浸っていた所に、この人外がけしかけてきたのである。酒が回っていたせいで判断力が鈍っていた私は、玉砕こそが恋の華という謎の文言を彼奴きゃつに託したらしい。結果は無論言うに及ばず。その時の研究室の空気と言ったら言葉に出来ない。アルコールに脳を蝕まれた同期と後輩の阿呆野郎共と、私の醜態を過去の自分に投影してノスタルヂアに耽っていた教授陣はやんややんやと盛り上がっていたが、女性陣の冷ややかな目線といえば生涯忘れまい。
 さて、一次会は私のピエロで幕を閉じ、その後は希望者が集って二次会が開催された。ちなみに女神豊田はこの時点で帰宅してあらせられた。引っ越しの準備は言うに及ばず、卒業旅行をご友人と堪能なさるということだった。一次会で既に酩酊めいていだったのに、わざわざ天神まで足を運ぶところに先生方の酒に対する執念を感じた次第である。その後は覚えていない。酒にそこまで強い訳ではない私は流石に三次会には行けないので、一団から離脱して駅に向かった――のだが、なんとポケットに財布がない。馬鹿な、研究室に置いてきたかと思ったが地下鉄に乗っているので有り得ない。落としたかと思った矢先、コートのポケットから紙切れが出てきた。蚯蚓《みみず》の這ったような暗号かと思わせる文字列がレシートの裏に鎮座していた。

「財布のお札がなくなっちゃったので借ります。今度返す 村松」

 最早言葉が出なかった。
 こうなっては金も帰る電車もなく、仕方ないので歩いて帰ることにした。まあ天神だし地下鉄に沿って歩けば着くだろうという安易な考えであった。
 ここまでくると最早道に迷う理由が見つからないのだが、一つ心当たりがあるとすれば途中で立ち寄った公園であろうか。苦い思い出も苦い胃液も全て吐き出して引き返した時に出口を間違えたに違いない。酒の所為で道を間違えていたとはいえ、鬼畜村松は頬に鉄拳制裁を喰らう義務がある。


      *


 一通り回想を終えたところで白梅を背にし、小雨に打たれて世の理不尽さを痛感しながら歩いていると、道端に洩れる暖色の光が見えた。何だと思いながら近寄ってみるとどうやら定食屋のようである。テントには「定食屋 ながお」と記してある。人通りの多い天神の街とは裏腹に住宅街は閑散としており、そこに寄り添うように立つ定食屋もまたひっそりとしていた。
 営業中なのだろうか、こんなに遅い時間だというのに暖簾は玄関に掛けられている。はてなと思いながらぽかんと眺めていると、引き戸がガラガラと開いて中から割烹着かっぽうぎを着た老婆が現れた。飲み食いしたものを公園のトイレで全て吐き出してから無性に空腹を感じていたのだが、あまり見ていても怪しまれるかと思い家路を辿ろうとしたとき、老婆が話しかけてきた。
「もし、そこのあんさん。学生さんやろ」やや掠れた、しかし明瞭な声である。
「雨降っとるけ中に入りんさい」
「いや、別にこのくらいは大丈夫なんで……」
「よかけよかけ。こがんとこをこがん時間にほっつき歩いとうなんて飲み会の帰りとかやろう、お腹も空いとろうさ」としわくちゃの顔に更に皺を寄せて老婆は笑った。
 あまりに的確な老婆の推測に面喰らいながら、私は暖簾のれんを潜った。
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