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1章
4話 高橋彩音
しおりを挟む静けさの中で淡々とした先生の声が、頭の中を刺激する。
授業に遅れてしまったせいで、担任に軽く怒られてしまった。朝の騒動が原因だ。
わたしたち2,3年生は新学期ということもあって、浮かれがちになる。それを気嫌いする先生もいる。うちの学年はそういう先生が多いと話題になっていて、2年4組の担任もその中の一人だと位置づけられている。
さっきの淡々とした声もきっと、それが理由だろう。正直少し怖かった。これもすべて、彩音のせいだ。
「ばーか……」
シャーペンを指でいじりながら、小言を言ってみる。
授業は全く聞いていない。あとから大変になるのはわかっている事だけど、いまいちやる気が出ない。だって、努力したらすぐに結果が出てしまうなんておかしいじゃない。人間の心はこんなにも複雑なのに。きっとこんなことを考えてしまうのも、彩音が朝からあんなことをするからだ。
朝の騒動が頭にちらついて、恥ずかしくなって頭を左右に振る。それを先生に見られて注意された。ふふふ、という声が耳に入ってきて、背中にジーンとくる熱さが昇ってきた。学生は勉強をしなければならないから、早く大人になりたい。
一息ついて、頬杖をつきながら窓の外を見る。窓際の席だから、自然と外に目が引き寄せられるのだ。桜の面影は無くなっていて、空を仰ぐとうっすらと残る雲が見えた。
ぼぅーと空を見ていると、チャイムが鳴った。いつの間にか、先生に注意されてから20分ほど経ってしまっていたらしい。
……次は何の科目だっけ。
自分の机に掛かっているカバンから予定表を取り出すと、目の端に一人の女の子の足がちらついた。靴には花柄のシールに名前が書いてあった。
「さっきの授業、ずーとぼぅーとしてたでしょ」
すこし強めの口調で古川さんは言った。
「なんで知ってるのよ……」
いきなり芯を突かれたから、つい委縮してしまう。どうやら古川さんの前だと、うまく自分を伝えられないみたい。わたしか口下手という理由は置いておいて、彩音が相手だったら比較的楽なのに。
――――やわらくてちょっとだけ強引な口づけ。小悪魔のような笑み。
ふっ、と脳裏によぎったそれに、変にむず痒い感覚が身体中を駆け巡った。
「どうしたの? 口内炎でもできた?」
こちらを見やる古川さんは、古川さんの言葉を軽く流してしまったわたしに、怪訝そうな面持ちで見やる。すごく優しさに満ち溢れた表情は、まったくこの場にあっていない。
「違うけど、なんで、口内炎なの……?」
古川さんの顔が必死にはてなマークを伝えてきた。
「なんでって、あまたが右手でずっと口を押えてるからじゃない?」
古川さんの目線がわたしの唇に移る。
いわれてみれば、自分の唇に違和感があった。
自分の右手を小さく突き出すと確かに右手があった。
唇……くち、びる……キス……
『おはようのちゅー……ごめんね、びっくりした……?』
だめだ、こんなことを考えてしまっては……! 古川さんにも見られたくないし。
わざとらしくぶんぶんと頭を左右に振って記憶から追い出そうとする。古川さんの顔に目線を戻すと、背中がだんだんと火照っていって、つい机に目を落としてしまった。
その拍子に、さっき出した予定表が目に入った。次は理科で、理科室に移動しなければならないらしい。そういえば、さっきから教室内に人気が少なくなっている。みんなもう移動してしまったのだろう。
「あ、あの、だいじょう――――」
「次移動教室だよ、二人ともっ!」
古川さんの声のすぐ後に、かなり弾んだ声がした。俯いたままでもその声の主が誰なのかが分かった。こんなに特徴的な声、忘れるはずがない。
「朝あんなことをしておいて、なんの用?」
彩音の顔を横目に見る。多分、今のわたしは膨れた顔になっているのだろうな。そう思うと、顔を上げるわけにはいかない。こんな顔、あまり見せたくはない。古川さんにも、彩音にも。
「ごめん、ごめんって……」
わたしは朝から頭が沸騰しそうなほど気にしているのに、そんな簡単に流して欲しくない。そのせいで古川さんにも変な態度をみせてしまった。
……わたしが古川さんの話を流したとき、古川さんは気にかけもしなかった。なのにどうしてこんなにも腹がたってくるのだろう。わたしがねちねちしているみたいで、どこか気に食わない。多分、本当のことなんだろうけど……
「あのさ、昨日言ったやつ覚えてる……?」
そんな感情は彩音には響かず、彩音は一方的に焦燥感を漂わせていた。
昨日……?
「確か、ふたりきりで話したいことがあるんだっけ?」
思い付きでそれを口にした途端、少ない人数でも賑わっていた教室がいきなり静かになる。とげが刺さったような感覚がしたあと、わたしはすぐ後悔をした。久しぶりに感じたそれに、わたしは吐き気にも似た感覚で気持ち悪くなった。
ここにいたくない。
あんなことはもうたくさんだ。
別にわたしのせいじゃないのに。
大火傷した頭がまたヒリヒリする。
早く、この場から離れたい。
脳内を徘徊する言葉たちがわたしの足を動かした。
理科室のある2棟に逃げ込もうと、廊下を走る。生徒がパラパラといて、わたしが走り抜ける度に片や足が掠れる。それでも、足を止めたくは無かった。
階段を登りきると、徐々に人の声も薄れていって、自分ともう1人の足音だけが廊下に響き渡る。
不意に、後ろから手を引っ張られた。
やわらかい手。きっと彩音だろう。あの子はこういう時にやさしい。手を握って『ごめん』と言ってくれる強い女の子。これが恋物語だったらよかったのに、なんて考えてしまって、わたしの胸が窮屈になる。あまりに照れくさくて言いたいことも上手く伝えられなくて、もどかしい。そのはずなのに……
白く塗装された床をたどりながら振り向く。うまく笑顔を作れる気がしなくて、顔を上げられない。
突然降った静寂はわたしが原因なのはわかっている。だから、ごめんって一言謝りたい。でも……形になってくれない。声にならない心の叫びが、わたしの脳内で木霊してしまう。
「なにか言ってよ」
わたしって本当に最低だ。こんなことを言ってしまう自分が嫌いになる。
誤解なんかではすまされない。
あんなにもわたしに尽くしてしまったのに、また……
また……?
すっと出てきた言葉なのに、意味が分からない違和感がそこにあった。
「ごめん。多分、その役は私じゃない」
え……?
処理能力が追い付いていないというのに、その声が彩音のものではなかったことに気づかされる。さらに混乱してくる。
顔を上げると、わたしの前に立っていたのは古川さんだった。
なんで……?
そういいたいのに、全然言葉にならない。
わたしが言葉を窮していると、古川さんはまぶしいほどの笑みを浮かべた。
「高橋さんじゃなくてごめん。でも、いっしょに理科室まで行こう?」
いつにも増して明るい笑顔が懐かしく感じた。
古川さんとはクラス替えで知ったばかりなのに、前にも会ったようなシーンだ。この暖かさは、嫌いじゃない。
こんな感情、彩音ではなく、古川さんに抱くなんて……
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────なんて新鮮な感情なんだろう。
古川さんは理科室へ歩き出す。
その勇気にわたしはまた返事ができなかった。わたしの中のもどかしさはどんどん膨らんでしまっていた。
古川さんの手に連れられ、わたしも歩を進める。
────「あとで返してね」
微かに聞こえたその言葉がなにを指しているのか、わたしには分からなかった。
そんなことよりも、古川さんの後ろ姿が優しさで満ち溢れていることに、見蕩れてしまっていた。
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