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第二話 母様はベタ甘
しおりを挟む動きが取れない乳児の間は、幾つもある前世の記憶を何度も辿った。それから空間把握で周りの状況を探る。と言っても、おっぱい飲む以外はほとんど眠ってるんだけど。
少し経つと、目の焦点が合うようになってきた。
「シャニ、シャニ」
いつもおっぱいをくれる女性が、あたしを抱きしめたり頬ずりしたりしながら呼びかける。この人がお母さん。暖かくて気持ちいい。すごく安心する。
端正な顔立ちに長い黒髪が波立つように肩にかかっている。うん、なかなか美人。だけど目が少し変わってる。縦長に切れた赤い瞳孔に、輝くような金色の虹彩。ちょっと妖しい雰囲気だな。あたしもそうなのかな?
この人が母親ならあたしも結構美人になるかも。
「カーサ母様、だっこしていい?」
ちょっと舌っ足らずの声は、栗色の髪を短く刈った男の子。この子の目は普通に緑。
「だーめ。ミトラがもう少し大きくなったらね」
ぶう、とミトラと呼ばれた小さな男の子は頬を膨らませる。可愛い!
しばらく経って、シャニナリーアがあたしのちゃんとした名前だって分かった。シャニは愛称。
言葉はアクシャナの居た地方とよく似ていて、かなり訛った感じはするけど意味は取れる。これは結構アドバンテージだ。一から言語習得となると、まともに操れるようになるには何年もかかってしまう。
おかげでハイハイ出来るようになった頃には、家族関係や周りの色々な状況が分かるようになっていた。
マンレオタ領主。それがあたしの父、サラダン。あたしの前世のどれより良い身分だ。
母はカーサイレ。カーサ母様は愛称だね。
信じられない事に、もう一人母が居る。イワーニャ母様。
美人と言うよりふっくら可愛い系。それでもきゅっとくびれたウエストに授乳中のカーサ母様より豊満な胸。ふわりと中分けにした栗色の髪から覗かせる微笑みは、いつも絶えることが無い。女として勝てる気がしないな。まあ、あたし、赤ん坊だから。
イワーニャ母様には五人の子供が居て、十才上の兄ノドムと八才上の兄クントは帝都の屋敷から貴族学校に通っているらしい。残っているのは五才上の姉ナンカ、三才上の兄ミトラ、一才上の姉イッティの三人だ。
ナンカ姉様は栗色の髪をポニーテールにしてリボンを結んでいる。夕食後の一時、少しおしゃまな彼女はすまし顔でミトラ兄様にお説教をたれている。
「あのね、ミトラは大きいんだからマンマって呼ばないの。カーサ母様、イワーニャ母様って呼ぶのよ」
「やだ、いいにくい!」ミトラ兄様が抵抗する。
「かあ?」不思議そうにイッティ姉様がナンカ姉様を見上げる。
「あら、イッティの方が偉いじゃない」
「べーだ!」ミトラ兄様が言い捨てて部屋の外へ駆け出す。
「ふふ、男の子って聞かないわね」イワーニャ母様が苦笑する。
「そうね、ノドムとクントも良く喧嘩してた」カーサ母様が答える。
「シャニは大人しくって良いわね。夜泣きしないんですって?」
「そう。助かってる」そう言ってカーサ母様はあたしを抱きしめる。
これ、気持ちいいんだ。顔がふにゃらと崩れるのが自分でも分かる。
「イッティはまだ夜泣きが止まらなくてね。クリルとニキが困ってる」
クリルとニキはイワーニャ母様付きの侍女。
「イワーニャが一緒に寝てあげれば?」
「うーん、そうもいかなくってね……」
「サラダンの側が良い?」カーサ母様がクスッと笑う。
「カーサだってそうじゃない?」
「そうだけどね。その後はシャニと寝る」
「あー、言ったな?サラダン独り占めしちゃうぞ?」
「可愛がって貰ったらそれで良い。後はシャニと寝る」
「そこは譲らないのねぇ。残念」イワーニャ母様がわざとらしいため息をつく。
それから二人は目を合わせてぷっと吹き出す。
へえー、それが夫を共有する妻同士の会話なの?
とにかく、カーサ母様とイワーニャ母様はびっくりするほど仲が良い。
この世界って一夫多妻制みたいだけど、誰もが二人と同じとはとても考えられない。少なくともあたしは嫌だな。前世の陽子の元カレだって、二股掛けてたのがバレて別れたんだもの。
でも、なれ初めを聞いてみると分からないでもないかな。
サラダン父様は辺境公に封ぜられる前、ライカリア帝国の騎士小隊長だった。
カーサ母様はその部下。最強の魔道騎士と言われていた。
すらりとした華奢な細身の体に端正な顔立ち、腰まで届く波打つ黒髪、一見、魔人には見えない。物静かな立ち居振る舞いからはむしろ清楚な乙女の印象を受ける。
なんて、話しを聞いちゃった。未だに清楚な乙女の姿そのままだと思うな。
チッパイだけど、あたしが満足するだけお乳を出してくれるから無問題。
その頃イワーニャ母様は救護隊で治癒魔法を受け持ち、癒やしの聖女と呼ばれていた。ふわりとした栗色の髪を中分けにし、いつも柔らかな微笑みを絶やさない。小柄でも豊満な体ながら顔つきは可愛らしく、誰にでも好かれていた。今もそうだけどね。
もちろん、その力で大勢の命を救っていた。実力は半端ない。
ある領が反旗を翻した。
イワーニャ母様は救護隊の一員として派遣された戦場の最中に赴いた。
ところが、敵の作戦に嵌まって救護隊だけが孤立してしまう。敵に囲まれる。
イワーニャ母様は覚悟したそうだ。辱めを受けるなら喉を突いて自死を選ぼうと。
その敵が突然、吹き飛ぶ。突然現れた嵐の中で。
その嵐を突き抜けて、黒髪を振り乱した赤眼の華奢な少女が救護隊を背に立ち塞がる。
それがカーサ母様だった。凜々しく闘竜に跨がり、戦斧を打ち振るう。鎧袖一触。纏いつく敵を塵芥のようになぎ払う。あまりに圧倒的だったという。
「遅くなって済まない。皆、無事か?」
そう手を差しのばされた時、イワーニャ母様は運命の人だって思ったんだって。
しばらく遅れて帝国騎士達が反乱者を排除し始める。
カーサ母様は帝国騎士団と連携を取りながら、縦横無尽にイワーニャ母様達の救護隊を守り続けた。うわあ。カーサ母様かっこいい!あたしでも惚れるわ。
でも、カーサ母様と言えども、さすがに無傷とはいかない。
なのに、戦いが終わった後、救護隊の隊員はカーサ母様の手当をしようとしなかった。
カーサ母様が魔人だから。それは忌むべきもの。手を差し伸べるべきではない。
その態度にイワーニャ母様がぶち切れた。
「この、恩知らず!命を救って貰った相手に、何も返さないの!」
同僚を差し置いて、ちゃっちゃと治癒魔法を施す。
そのとき、カーサ母様は傷の手当てより、心の傷が癒されたと思ったんだって。
魔人の自分を分け隔てなく接してくれる人が、ここに居る。イワーニャ母様を大好きになった。あたしだって大好きだよ、イワーニャ母様。
その後もイワーニャ母様が救われたり、カーサ母様が看護されたり、していくうちに、二人は切っても切れない親友になっていった。
イワーニャ母様がカー母様にサラダン父様への恋心を打ち明けたとき、カーサ母様も同じ思いだったので、二人はひどく悩んだ。
カーサ母様はほとんど死にかけていた居た所をサラダン父様に命を救われた。そして魔人の母様を分け隔てなく接してくれた。特上の笑顔で。それで堕ちた。いや、魔人だと知った上で助けてくれた時点で、吊り橋効果に陥ったのかも知れない。
イワーニャ母様がサラダン父様を好きになったのは、ほとんどの男が好色な目で見たり、嫌らしい誘い方をする中で、唯一彼だけがそうではなかった。治癒師として何度かサラダン父様を治療したが、本当に嬉しそうに感謝してくれた。そして、頑張ってな、と励ましてくれた。特上の笑顔で。それで堕ちた。
結局、二人で一緒にサラダン父様に告白し、どちらかを選んで貰う事にしたのだ。
困ったのはサラダン父様。軍人で色恋にはまるで疎い男だ。カーサ母様は部下だし、イワーニャ母様は何度も治癒を受けた恩人と言える。どちらにもそこそこ好意は持っているが選びかねる。友人や長老などに相談すると、二人とも貰ってしまえ、ということになった。
帝国では三人まで妻を持てる。戦争や魔物退治で男性の方が少なくなっているからだ。
さすがにイワーニャ母様もカーサイレ母様も驚いたが、最後には受け入れる事にし、現在に至っている。
ちなみに、この同時結婚話は帝国でも話題になって、お芝居にもなってるらしいよ。
そう言えば、領主の娘って、やっぱり政略結婚なんてさせられるのかな?
う~ん?なんかどうでも良い気がする。農夫テドも大工クロも見合いだったしね。
前世の陽子の知識だと、とんでもないって感じなんだけど。あー、でも、元彼には裏切られたか。前世のイアンナは見合いでも、結局殺されちゃったし。
赤ん坊で人生に醒めちゃってるあたしって、どうよ。
マンレオタはそこそこ裕福な領主らしい。
クリル・ミットライとニキ・シナンテラはイワーニャ母様と彼女の子供達の世話係侍女。カーサ母様とあたしにはノーマ・リーサイルが付く。
いずれも子育て経験のある中年の女性だ。
他に掃除、洗濯などの家事を行う若い侍女達が数名居る。
料理人として料理長のマイレ・スクジラシュ以下、数名。
イワーニャ母様は領内の統治と館の管理を執事のリッキンテ・エスタバハと共同で行っている。実際、イワーニャ母様はとても忙しい。あの会話は半分冗談で、ほんとに子供達に構っている暇もないんだ。
じゃあ、カーサ母様はと言うと、なんと、マンレオタ騎士隊の隊長を務めている。
騎士隊といえば、あたしの前世では騎馬を連想するけど、ここマンレオタではタークという水上バイクのような魔道具に騎乗する。どうやら少し空中に浮いて高速で走行するようだ。
あたしがまだ赤ん坊なので、本来の空間把握術式の範囲までは見通せず、残念ながら活躍の現場までは見ていない。
マンレオタ領は魔物が出没するギヌアード地方に隣接している。領主の義務として魔物の撃退が最優先事項なんだ。そのために他の領にはない騎士隊が設けられている。魔物の情報が入れば、カーサ母様と騎士隊は間髪を入れず出動する。
皆の会話から、あたしはカーサ母様が魔人だと知った。そのため強大な魔力を持ち、一見華奢に見えてもの凄く強いらしい。実際、出動していくカーサイレを空間把握術式で見ていたら、猛烈な魔気が纏い付いていた。普段は皆と変わらないのに。
あたしも同じなんだろうか?
空間把握で、あたし達の住んでいる周辺は概ね掴めてる。
あたしの居る建物は大きな木造の館で、コの字型に中庭を取り巻いている。正面中央は三階建てで北にあり、主に領の政務を行う所。大きな玄関を入ると大広間になっている。
一階はいくつかの部屋に分かれた執務室で、大広間に入った正面は長いカウンターが据え付けてある。住民達の受付になっているらしい。頻繁に人々が訪れ、カウンターで応対されている。
二階は領主の執務室と、色々な書類などを収める書庫などが廊下で繋がれている。三階は会議室らしい部屋がいくつか。
コの字の西側は、一階が侍女達の家事作業用のスペースと洗濯や掃除用具などの収納部屋に充てられている。二階は侍女達の部屋。この建物の西に大きな井戸が掘られている。
東側は領主一家の住居。一階には厨房や食堂、客間が割り当ててあり、二階が居間や寝室になる。
この館は石を積んだ塀には囲まれているものの、砦や城塞のような構えにはなっていない。塀の中は館と西側にいくつかの倉庫、かなり広い訓練所があり、普段は兵士や騎士達が訓練に励んでいる。
館正面の前庭の先に門があり、そこから両側に大きな乗り物用の建物に挟まれた広い道路に続く。その先が街になっているらしい。
領主の館ってこんなものなのかな。
それにしても、カーサ母様はあたしに激甘だ。
暇があればあたしをべったり抱くか、側で付きっきり。
さすがに魔物撃退で出動する時は侍女のノーマに預けるけど、帰るや否や、ひったくるようにあたしを抱く。騎士隊の教練の時も、あたしを側に置いて離さない。
あたしとしては、できるだけ動いて、早く自由に振る舞えるようになりたいんだけど。でも、カーサ母様に抱かれるのって凄く気持ち良い。暖かくて、柔らかくて、とても安心する。体も心も溶けるみたい。ふにゃあ~~~。幸せ。
お腹すいたら、甘~~いお乳を心ゆくまで吸う。満たされる。
あれ?あっという間にカーサ母様の虜。
大好き、カーサ母様~~ふにゃん~。
だから、母様が居ないと寂しくて不安。
「ああん、ふにん……」寂しそうに、弱しくそうに泣く。
ノーマ、ごめんね、カーサ母様が来るまで止まらないよ。
わざとじゃないよ。どうしてもそんな気持ちになってしまうんだ。
いくつもの前世を記憶して、人生経験豊富なはずなのに、これはどうした事よ。
どの前世もそれなりの性格があり、感情の動きがある。それは記憶として持っている。
でも、どの記憶感情も今のあたしには当てはまらない。
いくらか影響されているのは確か。
一番近い陽子の考え方にひきずられてる。女っぽい思考だ。
もし、男に生まれていたらどうしよう……ってそれは確かめた。女の子だった。
もし違ってたら、性同一性障害とかになってたかも。まあ、男の記憶もあるから大丈夫だったかもしれないけど。
何はともあれ、今のあたしは新しく生まれたシャニナリーア。
カーサ母様に抱かれて甘えてしまう赤ん坊。
これからあたしの性格は成長し、変わっていく。
うん、そんなんで良いんじゃないかな。
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