ぼくらの森

ivi

文字の大きさ
上 下
35 / 96
第一章 はじまり

第35話 クウェイの記憶

しおりを挟む
 あの日はやけに早く目が覚めた。

 自室の窓から早朝の薄闇に沈む訓練場を眺めると、すでに数人の学生が馬場で馬に乗っているようだった。

 まだ、起床の鐘は鳴っていない。

 あと少しだけ眠ろうとクウェイは温もりの残るベッドに潜り込んだが、すっかり冴えてしまった目はなかなか眠りに落ちてくれなかった。

 そうして毛布の中で横たわっていたクウェイだったが、やがて一息に体を起こすと洗面器に溜めた水でバシャバシャと顔を洗い始めた。

 昨日の夕方に汲んでおいた水は、夜のうちにすっかり生温くなってしまっている。何だかすっきりしない顔をタオルで拭きながら、壁掛けの鏡をちらりと見ると、湿気った前髪がぺしゃんと額に張り付いていた。

 ベッドの上に寝巻きを畳んで置いて、青い制服に身を包む。ズボンのベルトを締めて、長靴に拍車を着ければ朝の身支度はおしまいだ。

 こんな早朝となると、まだ食堂は開いていないだろう。クウェイは仕方なく部屋を出て、訓練場へ降りて行った。目が覚めてしまったならば仕方がない。いつもと少し違うが……せっかく早起きしたのだから、今日は早めに騎乗訓練を終えてしまおう。

 馬を厩舎から出したクウェイが、ちょうど馬装を終えた頃だった。突然、物見塔の鐘が一斉に鳴り響いた。

 乱暴に打ち鳴らされる警鐘に驚き、馬場で走っていた馬たちがバタバタと跳ねながら、賑やかにステップを踏んでいる。

 振り落とされそうになった騎士が何やら怒鳴っているが、その声はすぐ別の大声にかき消された。

 「誰かーっ!誰か、今すぐに馬を出せる者はいないかっ!」

 バタンッ!と派手な音をたてて、橋の門が大きく開け放たれる。尋常でない叫び声にクウェイが目を向けると、開いた門から一人のドラゴン乗りが走って来るところだった。

 手空きの者が近くにいないとわかったクウェイは、彼のもとへ駆け寄った。

 「どうしましたか?」

 荒れた呼吸を整えることなく、青年はこう言った。

 「大変だ!遠征が失敗したっ!」

 遠征が……失敗した……?

 この人は今、本当にそう言ったのか?

 混乱するクウェイに構わず、彼は早口で続ける。

 「今、こっちの訓練場で厄介なことが起こってる!ドラゴンと馬が一頭、帰って来たんだけど……どっちも乗り手を失ってるんだ!馬はいいが、ドラゴンは死に損なったみたいで……っ!」

 青年はイライラと頭を振り、手に握っていた紙をクウェイに押し付けた。訳がわからず固まっていると、彼はその古びた紙を広げて一点を指さした。

 「ジアン・オルティスの家までの地図だ。なぜかわからないが、ジアンが死んでもドラゴンが生きてる。だから……あいつと血の繋がった継承者が、今すぐ必要なんだ!でも今、こっちはディノを繋ぎ止めるのに精一杯で、ドラゴンを出せないっ!だから、これを騎士に……あなたに頼みたい」

 息をつき、青年は苦しそうに言い放った。

 「ジアンの弟を連れて来てほしい。詳しいことは後で説明する。今は時間がない!頼む……っ。これは……学長命令なんだ!」

 気がつくとクウェイは馬にまたがっていた。

 自分の意思など関係なく、まるで青年の言葉に弾かれるようにして体が勝手に動いている。

 考える余地などなかった。クウェイはその場で協力者を募り、馬場にいた二人の騎士が同行することになった。

 三人は鎧も何も着けずに、訓練場を飛び出した。そして、彼らは門の先に広がる絶望的な風景を目の当たりにしたのである。

 ドラゴン乗りの訓練場はやけに静まり返り、重苦しい空気に包まれていた。

 広い空間に響くのは三頭の馬が走る蹄の音と、遠くから聞こえてくる甲高い馬のいななきだけだ。

 クウェイは聞き覚えのある鳴き声に、はっとなって辺りを見回した。

 ドラゴン乗りの訓練場のずっと奥。宿舎の前にできた大きな人だかりの中央で、牛柄模様の小さな馬がロープで捕らえられている。

 「ヴェルーカ……!」

 砂だらけになった小さな馬は、悲鳴をあげるように何度も何度もいなないている。つぶらな瞳をめいっぱい見開いて、必死で仲間を呼んでいるのだ。

    クウェイはヴェルーカに駆け寄りたい気持ちを押さえ込み、その苦しさを誤魔化すように踵で馬の腹を強く蹴った。

 馬は鼻息を荒らげながらグンッとスピードを上げ、彼の手網に従って学生たちの間を縫って駈ける。だが、空になった鞍を乗せたまま叫ぶヴェルーカの声は、クウェイの背中をしつこく追いかけて来る。

 このままでは、自分に任された命令を投げ出してしまいそうだ。今は任務を遂行することだけに集中しなければ......。

 鳴き叫ぶヴェルーカの声をふり切ろうと、クウェイがまた馬の腹を蹴ったとき。彼の視界を何か青いものがよぎった。ふり返ることなく、クウェイは横目でその正体を流し見る。

 恐らく、あの青いドラゴンがジアンの遺したディノなのだろう。地に伏すようにして押さえ込まれる姿は、羽を広げた胸に針を刺される蝶の標本のようだった。

 そのとき、突然彼の視界が黒くかすみ、周りの景色にさっと暗い影がさした。

 壁が落とす影に入ったのかと思ったが、門まではまだ距離がある。何事かとクウェイが顔を上げた次の瞬間、彼の目は先にそびえる壁の上に釘付けになった。

 彼らが向かう壁の上。そこには今までに見たことがないほど、巨大な黒いドラゴンがたたずんでいた。

 ドラゴンは赤く光る眼でじっと学舎を見下ろして、威嚇するように四つの翼を大きく広げている。朝日を背に受けて立つ巨体が、訓練場に大きな影を落としていたのだ。

 コウモリみたいな不気味な翼は息を呑むほどに巨大で、飛膜に走る血管が日の光に透けてここから見えるほどだ。

 しんと静まり返った訓練場。さっきまであんなに騒がしかった警鐘が、学生たちの怒声が、そしてヴェルーカのいななきまで。すべての音が一瞬で消えてしまった。

 それだけではない。まるで時が止まってしまったかのように、ここにいる全員がドラゴンを見上げて固まっているのだ。

 クウェイが黒いドラゴンを見つめていたそのとき。

 黒いフードマントを身にまとった人影がドラゴンの背から壁へ降り立った。直立不動の姿勢で訓練場に向き直る影はフードを深く被っており、より一層不気味な雰囲気を醸し出している。

 顔は隠れて見えないが、クウェイは影の正体がすぐにわかった。

 黒いマントを風になびかせる少女の姿に訓練場は騒然とし、周囲の緊張が一気に高まった。

 「不死身の少女……っ!」

 誰かの叫び声とともに、学生たちが一斉に剣を構える。鞘から剣を抜く音が訓練場に反響し、耳鳴りのような余韻を残して消えていった。

 クウェイは後ろをふり返り、後続の二人に向かって叫ぶ。

 「このまま突っ込む!ドラゴンに捕まる前に門をくぐるんだっ、全速力で!」

 クウェイは馬を駆り、手網を短く引き絞った。馬はどんどんスピードを上げ、続く二頭も差をあけずについてくる。

 いよいよ、門に差し掛かるとき。クウェイの目の前に何か白い物が降ってきた。

 ほんの一瞬、視界を奪われた彼は、驚きながらも反射的にそれをつかむと、開かれた門を一気に駆け抜けた。

 学舎前のなだらかな丘を下る。

 西の森に入る直前。ふり返った彼が最後に見たのは、巨大な四つの翼を広げて太い咆哮をあげる、黒いドラゴンの後ろ姿だった。
しおりを挟む

処理中です...