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1巻
1-2
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話を振られ、慌てて考える。
約束は今日したものじゃなかった。だからと言ってアルトと当番を変わると約束を交わした覚えもなかった。
「……してないです」
「ソラノ!」
大きなアルトの声にビクッと肩が跳ねる。それに慌てて僕が忘れているだけかもしれない、と言おうとしたところで、アランさんが再びアルトへと問いかけた。
「ソラノは約束していないと言っているが?」
「ソラノが嘘をついてるだけです!」
「嘘? そうやって声を荒らげている君の方が疾しいことがあるように見えるが? 彼の言葉が嘘だと言うのなら、もっと具体的に、いつ、何処で交わした約束なのか教えてほしい」
「っ」
アランさんの言葉に、完全にアルトは言葉を詰まらせた。そしてそのまま何も言わないアルトに、アランさんは冷たく告げる。
「君の声は不愉快だ。早くどこかに行ってくれ」
「っもういい!」
「あ、アルト!」
アルトが走り去ってしまう。追いかけようとしたけれど、アランさんに「ソラノ」と名前を呼ばれて立ち止まる。振り向くと、アランさんは申し訳なさそうな顔をしていた。
「……すまない。余計なお世話だったか?」
「……いえ、信じてくれてありがとうございます」
さっきまで強気にアルトに対峙していたのに、と思って、肩の力が抜けた。
こういうことはたまにあって、でも今までは誰も信じてくれず、僕も流されることが多かった。
だからアルトの様子は気になるけど、アランさんが僕を信じてくれたことの方が嬉しい。
僕の言葉にアランさんは表情を和らげてくれた。
「そうか……。少しは君の役に立てていればいいんだが」
「役に立つだなんて! そんなこと気にしないでください! アランさんのおかげで沢山ご飯を食べられるようになりましたし、怒られる回数も少なくなりました!」
「ソラノ……。そんなにいつも怒られているのか?」
「うっ」
どうしよう、アランさんにできない奴だって思われた。
言葉が詰まってしまうも本当のことだから仕方がないと肩が落ちた。
「はい……。僕、要領悪くてみんなのお仕事の足を引っ張っちゃったり邪魔しちゃうことが多くて。それに前髪もたくさん伸びてるから鬱陶しいとか気持ち悪いって嫌われてて……」
「髪が……」
じっとアランさんが僕の声の方を見る。だけど僕はもうちょっと下です。
「切らないのか?」
「僕、不細工だからあんまり顔を見せたくないんです」
「そうか……」
「えと、はい、だからっ……僕、こうしてアランさんとお話しできてすごく嬉しいんです。僕なんかにも優しくしてくれて、心配して沢山お話もしてくれて……すごく、すごく嬉しくて楽しいんです。なので、役に立つとか立たないとかそんなこと考えないでくださいね」
そう言って、照れた顔を俯かせながらアランさんの手を引っ張って、さっきの椅子に座らせた。
「……ありがとうソラノ。君は本当に優しい子だな」
言われたことがない言葉に目を瞠る。そして、ツキンと痛んだ胸から目を逸らし、「そんなことないですよ」とアランさんから顔を背けた。
次の日の朝、食べ終えた食器を洗い場まで持っていく。そして、そのまま皿洗いをする。結局、昨日は次の日の皿洗い当番を代わると言うことでアルトには許してもらった。
「ソラノ」
「はい!」
腕まくりをして、「さあ!」と思ったところで後ろからかかった声に驚いて大きな声を出してしまった。恐る恐る振り返ると、不機嫌な顔をしたサルバ院長が立っていた。
「……今日のお前の当番はなしだ。アルトにも話は通してある。部屋に戻れ」
要件だけ言うと僕に背を向ける院長。ポカンと呆気にとられるも、慌ててその背中を呼び止めた。
「あ、あの! どうして……」
「うるさい。さっさと部屋に戻れ。今日は庭掃除も必要ない」
チラリと僕を見て、それだけを言うと院長は去ってしまう。
こんなことは初めてだ。
だけど仕事がないのなら、今日は一日ずっとアランさんと一緒にいられる!
「アランさん!」
「おかえり」
自分の部屋へ戻り、扉を開けると、まるで僕がすぐに帰ってくることがわかっていたかのように、アランさんは驚くことなく僕に微笑んでくれる。そして「たくさん話をしよう」と言ってくれた。
嬉しくて、ベッド横の椅子にすぐ座り、お喋りを始めた。
「――えぇ! アランさん、双子の弟さんがいるの?」
しばらく話していると、アランさんは自分に弟がいることを教えてくれた。
シアンさんという双子の弟さんだそうだ。双子といっても、雰囲気が違うからあまり間違えられることはないらしい。
「面白いことや冗談が好きで、お調子者な面もあるが器用な奴でな。要領もいいし、実は思慮深く、私よりも観察力があって優しい奴なんだ」
「いい弟さんなんですね」
弟さんをベタ褒めするアランさんに向かってそう言えば、アランさんは一瞬、虚をつかれたような表情になった。そして、照れたように頬を掻く。自覚がなかったみたいだ。
そんなアランさんにクスクス笑いながら、僕はシアンさんに思いを馳せた。
アランさんからは、その弟さんを大切に思っていることが伝わってくる。優しいアランさんがここまで信頼して大切に思う人。
僕も一度会ってみたい……
「ソラノ」
「はい?」
アランさんの方を向けば、目が合ったような気がした。
「助けてくれてありがとう」
「っ……アランさん?」
深く頭を下げ、改めて言われたお礼に息を呑んだ。
「あの日、君が助けてくれなければ、私は生きていられたかわからない。……暗闇の中でずっと苦しかった。だが、そんな時、誰かが私の手を握ってくれた。そして『大丈夫』だと言われ、苦しいと思う度に優しい歌声が聞こえた。その歌声と温かさに安心して、何度救われたかわからない」
アランさんの手が僕の手に重ねられる。
「……ずっと君の声が聞こえていた。優しく歌い、私を勇気づけてくれる声が。昨日私と話せることが嬉しいと言ってくれたな。私もずっと君と話をしてみたいと思っていた」
「っ、アランさん……」
ギュッと胸が熱くなった。僕の歌はアランさんに届いていた。僕と同じことを思ってくれていた。嬉しい。だけど、どうして今こんな話をするのかがわかってしまって、苦しかった。
「ソラノ、本当にありがとう。君の優しさに、歌にどれだけ救われたかわからない。私が今生きていられるのは君のおかげだ」
微笑むアランさんに息が詰まる。また、「優しい」だ。違う、違うよアランさん。僕は優しくなんてない。だって――
「……アランさん、違います。僕全然優しくなんてないです。だって、だって僕っアランさんの目が見えなくてよかったってずっと思っていたから!」
もし目が見えていたら、みんなみたいにきっとアランさんも僕を嫌いになる。
早く目が治ったらいいのになって思っているのは本当だ。でも、このまま目が見えなければ優しいアランさんのままでいてくれるかなと期待している僕がいた。こんな僕が優しいわけがない。
「ごめんなさい……っ」
アランさんから手を離して、溢れる涙を拭う。目が見えなくなったアランさんにそのままがいいと思うなんて自分勝手すぎる。酷いことを言っているのは僕で泣く資格なんてない。
だけど、そんな嫌われてしまったかもとの恐怖に染まっていく中で、明るい笑い声が響いた。
「っふ、はは! なんだソラノ。そんなことを気にしていたのか?」
「……え?」
顔を上げると、アランさんが笑っていた。怒るのではなく、納得がいったとばかりに頷いていた。
「そうか、楽しそうな声に混じって、たまに物憂げだったから何か悩んでいるんだろうとは思っていたが……いいか? 私は君のことを綺麗だと思っているぞ?」
また驚いて目が丸くなる。綺麗だなんて初めて言われた。
アランさんはそっと僕の顔に触れると涙を拭うように指を動かした。
「目が見えていないから納得するのは難しいかもしれない。だが、たとえソラノの外見が醜くとも、私が君を嫌う要素はひとつもない。どんな姿をしていてもソラノはソラノだ。こうやって泣くのも君が優しく綺麗な心を持つ子だという証拠だろう?」
「アランさん……」
「だからソラノ、改めて言わせてくれ。あの時、私を助けてくれてありがとう。苦痛の中で、私が生きる希望を持ち続けられていたのは君の励ます声や歌に元気をもらえたからだ。君は私の命の恩人で……かけがえのない大切な人だ」
「っ。ありがとう、ございます」
全てを受け止めるような柔らかな声と言葉にまた涙があふれた。
そして、アランさんは告げる。
「……ソラノ、君は聡い。だからもう分かっているかもしれないが――私はそろそろ戻らないといけない。……たぶん明日には迎えが来るだろう」
「明日っ?」
ずっと一緒にいられないことはわかっていた。アランさんがお礼を言った時から、別れの予感も感じていた。
でも、それがまさか明日だなんて思わなかった。そして、それと同時にこの時間は、アランさんが最後に僕と話すために作ってくれたものだとわかった。
「すまない」
「……いえ、大丈夫です。だってアランさん、大事なお仕事中だったんですよね」
アランさんは大切な任務中にここに飛ばされたと言っていた。見せないようにしていたみたいだけれど、後悔しているアランさんの姿を僕は知っている。だからアランさんが早く戻らなければと思っていたことも知っているんだ。でも――
「頑張ってください」も「元気で」とも、僕の口からは出てきてくれなかった。
明日だなんて急すぎると、感情が追いついてくれない。それほど楽しい日々だった。
またあの寂しい日々に戻るの? みんなから嫌われて誰も僕と話してくれない、関わってくれない。そんな一人ぼっちの日々に戻るの……? そう、小さな嗚咽が漏れそうになった時。
「泣くな、ソラノ。――また会いに来る」
「……え?」
ぼやける眼を上げた。
「私はまだまだ君と話し足りないからな。君さえよければまた会ってほしい。そして、その時また歌ってくれないか?」
「っい、いいです! はい! う、歌います‼ だからまた会いに来てほしいです!」
重く開かなかった口が、嘘みたいに軽く開いた。そんな僕に、アランさんは声を上げて笑う。
「ああ、必ず会いにくる。約束だ。……それまで元気でなソラノ」
「はい! 約束です! アランさんも、元気でっ……!」
涙が溢れ出る。悲しい。でもそれだけじゃない。嬉しい感情も宿した涙が頬を伝った。
それから、翌日の早朝には騎士団から迎えが来て、アランさんは孤児院を去っていった。
サルバ院長に出てくるなと言われ、側での見送りはできなかったけれど、迎えが来るまでの時間たくさん話をし、見つからないよう木の影からアランさんが見えなくなるまでその姿を見送った。
そして、アランさんが孤児院を去った日から、僕は毎日のように暇さえあれば院の門の前でアランさんを待つようになった。
流石に早すぎるかなと思ったけれど、気になってついつい見に行ってしまう。
でも、それから一ヶ月が過ぎ、二ヶ月三ヶ月と過ぎてもアランさんが孤児院に来ることはなかった。
……忙しいのかな? それとも僕のことなんて忘れちゃったのかも。
そんなことを思いながらも待ち続けた。
「……おい、あいつまたサボって門の外見てるぞ」
「ほんと。あんなかっこいい人があんな奴にわざわざ会いに来るわけないじゃん」
「なのに期待して毎日可哀想~」
そうやって何度も嗤われながらも待っていた。……だけどアランさんは来なかった。
それは、隣国との関係が悪化し、始まった戦争のせいだ。それにアランさんが所属する黒騎士団が派遣されたから。けれどそのことを、僕が知ったのは随分後になってからのことになる。
十六歳になると孤児院を出て行かなくてはいけなくなる。僕はその時までアランさんを待つ気でいた。
だけど、アランさんと別れて二年目の冬。三月生まれの僕があと数ヶ月で十五歳になり、院から出ていかなければならない年まで、あと一年と少しと迫った頃。
「ねぇソラノ、僕と一緒に孤児院を出ない?」
僕より早く十六歳になり、院から出て行くことになったアルトがそう僕を誘った。そして、断ってもいつの間にか僕はアルトと院を出ることになっていた。
……嫌だと言っても、アランさんを待ちたいと言っても誰も聞いてくれなかった。聞こうともせず、話を打ち切られた。僕の置かれる状況は、気づけば全て決まっている。
そして、僕の存在に触れることなく、ただみんなアルトが去ることだけを悲しんだ。
孤児院を出る日、僕とアルトはお互い外套のフードを被り、院を後にした。
僕の前を歩くアルトは不安でいっぱいの僕とは違い、なぜか機嫌がよかった。そして、貧民街を出て市街地の方に歩いていく。
ほとんど貧民街から出た事がない僕にとって、そこは未知の場所だ。誰も道に蹲っていない。並ぶ家々も道に並ぶ露店も行きかう人達の服もみんな綺麗だ。
そうしてみると、ボロボロのフードを纏う自分が酷く街から浮いているように見えて、恥ずかしくてフードをより深く被った。窺うようにアルトを見てみれば、同じ格好をしているはずなのに自然に街に溶け込んでいて不思議だった。
「――ここが僕達の新しい家だよ!」
「え? 僕達?」
市街地を離れ、建つ家もまばらになってきた頃、緩やかな丘を上った先にポツンと建つ小さな古家。その前でアルトは大きく手を広げた。
「そう。今日からここに住むの! ちょっと伝手があって、すっごく格安で譲ってもらえたんだ!」
「ゆずっ⁉ そ、そんなお金どこからっ」
所々草が生え、崩れて木板が剥がれているところはあれど、修繕すればまだまだ住めそうだ。
アルトは簡単に言うけど、モノがモノだ。格安とはいえ、家を買うようなお金をどこから用意したんだろう。そう聞く僕に、アルトはすぐにわかるよと微笑むだけだった。
そんなアルトに眉を下げ、次に自分を見下ろした。アルトとは違って、僕には何もない。小さな鞄を一つ掛けてはいるけれど、ほとんど身一つの状態。
ど、どうしよう。僕、何もアルトに返せるものが……
血の気が引く僕に、アルトはわかってるというように凪いだ目で頷いた。
「大丈夫だよ。ソラノが何も持ってないことくらいわかってるって。一緒に孤児院を出ようって言ったのは僕なんだからこれくらい僕にやらせて?」
「そ、それでも……っ」
「大丈夫だってば。これから一緒に住むんだから遠慮しないで! あ! 言っておくけど悪いお金で買ったものじゃないからね! もしそれで不安になってるんなら安心して?」
「う、うん」
綺麗な顔に慈悲めいた笑みを浮かべるアルトに、戸惑い気味に頷けばパッと明るく手を差し出される。
「じゃ! そういうことだからソラノ、今日から二人でよろしくね?」
「え? あ、うん!」
差し出された手を握り返すと、アルトがにっこり笑う。……アルトはやっぱりすごい。
こうして並び立つと、アルトと僕はよく似ているように思える。目の色や髪の色、髪型も背丈も声も似通っているのに、アルトは僕とは全てが違って輝いている。
たまにきつい言葉を使う時もあるけれど、アルトはこうして僕を気にかけてくれている。院を出ることは少し強引だったけど、でも――
握った手を離し、家を見上げた。
……ここが今日から僕達が住む家。そっか、アランさんもここで……
絶対に、アランさんを孤児院で待たないといけないと思っていた。だけど、ここの方が孤児院とは違い情報が入りやすいかもしれない。そうなれば、アランさんが任務から帰ってきた時、待つだけではなく、自分から会いに行くこともできるかもしれない。
そう思えば、心がふっと軽くなるような気がした。
「ほらソラノ、中を見ておいでよ。ベッドは二つあるからどっちを使ってもいいよ」
「うん。わかったありがとう。じゃあ、見てくるね!」
アルトにそう声をかけてから、新しい家の中へと入る。
中は傷みと埃だらけだけど、これこそ腕の見せ所だ。
掃除は山ほどやってきたもん! アルトが準備を整えてくれた分、掃除や家事で役に立たなくちゃ。
「うん。ほんとこれからよろしくね? ――アルト」
気合に満ち溢れる僕の耳に、後ろで言うアルトのすごく楽しそうな声が聞こえた。そう、すごく楽しそうだったから、気のせいだと思った。
「うん!」
なんだか、アルトの言った名前が僕ではなく、アルトと聞こえたような気がしたことは――
第二章 ふたり暮らし
アルトと暮らし始めてから一週間。この家に来てから、アルトは機嫌がいい。
小さく鼻歌を歌っていると木の軋む音がした。その音にビクッと肩を揺らし、鼻歌を止める。
朝食を用意する手を止めて振り向けばアルトが眠たそうに二階から下りてきていた。
「おはようアルト」
「ふぁ~、おはようソラノ。……さっき鼻歌歌ってたでしょ。やめてって言ったよね?」
「うっ、ご、ごめん」
「……いいよ!」
いつからか、アルトに歌は歌うなと禁止されていた。それでもつい歌ってしまう。
ジロッと睨まれるものの、謝るとすぐにアルトは笑顔を見せてくれた。それにホッとしつつお皿とパンをテーブルの上に並べた。
「今日もまたお出かけするの?」
「うん」
アルトは毎日どこかに出掛けては、夕方近くに帰ってくるを繰り返していた。どこに行っているのかなんの仕事をしているのか聞いても、いつも秘密だと笑って誤魔化されてしまう。
僕も何か仕事を探した方がいいんじゃないかと思っているんだけど、戦争があり治安も悪くなっているから危ないと言って、アルトは僕を外に出したがらない。
……うーん、僕よりアルトの方が危ないと思うんだけどな。……うん。
僕はチラッとアルトに視線を向けた。
「……アルトあのね? お野菜がなくなるから買い足したいんだ。他にも食材とかその、生活に必要な物とかあるから僕、買いに行きたいなって……」
今は、必要な物は言えばアルトが買ってきてくれる。アルトばかりに負担をかけてしまっていて申し訳ない。僕だって何か役に……と思っているのは本当だけど、街に行ってみたい気持ちが大きかった。せっかくこうやって孤児院から出てきたんだもん。
「……やっぱりダメ?」
無言のアルトにちょっと弱気になる。
しかし、アルトは頷いた。
「……いいよ」
「え? 本当⁉」
「うん、いいよ。僕もそろそろこの生活限界だなって思ってたし。なんかごめんね? 気を遣わせちゃってたみたいで」
「そんなことない! ありがとう!」
限界だなんてやっぱりアルトには負担をかけすぎていたようだ。
僕も早くお仕事探さなくっちゃ!
アルトは「ちょっと待ってて」と言うと席を立って二階の部屋に行く。それからすぐに階段を下りてくると、僕に黄色の可愛くて小さなポーチを差し出した。
「なにこれ? ――っ⁉」
受け取ると、ずいぶん重たい。中を見てみるとたくさんのお金が入っていて、危うくポーチを落としそうになった。
「それ、ソラノの分だから好きに使ってもいいよ」
「え! なんで⁉」
ポーチの中には小銀貨が五枚と数枚の銅貨が入っている。
この国で使われている硬貨は、小銅貨・大銅貨・小銀貨・大銀貨・金貨・白金貨の六種類。小銅貨十枚で大銅貨、大銅貨十枚で小銀貨と変わっていく。
確かパンを一つ買うのに大体小銅貨十二枚前後だったと思う。つまり銀貨の価値は大体――、と考えて、慌ててこんな大金は受け取れない! と断れば、アルトは憂い顔を浮かべた。
「……僕はさ、孤児院にいた時にも欲しい物をたまに買ってもらえたりしてたけど、ソラノは全然そういうことがなかったでしょう? 院を出る時の荷物も少なかったし、これで買い物をして余ったお金はソラノが自由に使っていいよ」
「い、いやそんなわけには……っ」
アルトにはたくさんお世話になっているのに、お金までもらうなんて流石にアルトに悪すぎる。
なのにアルトは「いいからいいから。じゃあ僕は仕事に行ってくるから」と言って僕に手を振るとさっさと家から出て行ってしまった。
そんなアルトを呆然と見送る。そして、慌ててテーブルの上にあるお皿を洗いにかかった。
お皿を洗うスピードがいつもより速い。こんな沢山のお金を持ったのなんて初めてだ。街に出たとしても盗まれないかドキドキして今から不安でいっぱいだ。
「ふふ」
だけど、それとは別にワクワクしたような気持ちに、口元が緩んだ。
家事を素早く済ませると、自分が持っている服を自分のベッドに並べて、どちらを着ていくか吟味する。といっても二着しかないし、どっちもアルトから貰ったものだ。
僕が孤児院から持ってきた服はアルトが汚いと言って全て捨ててしまった。
その代わり僕が持っていた服よりもずっと綺麗で、どこにも繕った痕や穴の開いていない服をアルトは譲ってくれた。
服を着替えて、外套を羽織る。これもアルトがくれたものだ。アルトはなんでも持っている。
「よし!」
外套には深いフードがついていて、鼻の下辺りまですっぽり隠れる。いつもなら、出来るだけ深くフードを被るんだけど……
せっかくの街だもん。今日ぐらいは被らないでおこう。
そう思って、掴んだフードから手を離した。そして軽く髪を整え前髪で顔が隠れていることを確認すれば、ポケットに入ってあるポーチをなくさないように握りしめ、期待に外へと足を踏み出す。
孤児院にいた時、数ヶ月に一度、貧民街の市場に行き、子ども達だけで買い物をするという日があった。だけど僕はそのほとんどを荷物持ちとして後をついて行くだけで終わってしまっていた。だから自分で買い物をするなんて初めてだった。
昔、何度か遠くから見た街はとてもキラキラ輝いているように見えた。だから、一週間前通った道を思い出しながら多分こっちと道を進んで、市場へと繰り出した僕は驚いた。もっと人がたくさんいて活気に満ち溢れているイメージがあったんだ。だけど……
「……暗い?」
想像していたよりも街の雰囲気が暗く、人通りも少なかった。
孤児院を出て今の家に行く際に街を通ったはず。だけど貧民街とは違う周りの景色に気を取られ街の雰囲気までは見られていなかったみたいだ。
とりあえず街中を歩いていくと、ポツリポツリといる人達の会話から街が暗い理由がわかった。思っているよりも隣国との戦争が長引いているのが原因のようだ。
「……アランさん」
隣国との戦争にはアランさんが所属する黒の騎士団が参加していると聞いた。そのせいでアランさんは僕に会いに来られないでいたんだと思う。忘れられてはいないはず……たぶん。
……どうか無事でいてください。
周りの雰囲気につられて僕も不安になっていく。
「……野菜買いに行かなくちゃ」
気弱になる心を頭を振ることでなんとか持ち直し、野菜を売っていて、できるだけ話しやすそうな人のお店を探した。
「す、すみません!」
少し歩き、僕が声を掛けたのは体が大きく、ツルンとした頭をした厳ついおじさん。
鼻下のくるんとした「ハ」の字型のお髭がどこか可愛い人だ。
「はいよ、いらっしゃい!」
声をかけたおじさんは明るく返事を返してくれる。でも僕を見ると顔を顰め、怪しそうな顔をした。
……やっぱり、僕変かな?
「えっと……あの、コレとコレ買ってもいいですか?」
顔を覆う前髪を摘んで下へと引っ張りながら、野菜を指差す。
「ん? なんだ客か。ボロボロだから、物乞いでも来たのかと思ったぜ。ハナナとレダスだな。大銅貨四枚だ」
「あ、ありがとうございます」
怪しい顔から一変、おじさんはすぐに笑顔になって、指差した野菜を持ち上げてくれる。それに僕はポケットからお金が入ったポーチを取り出しつつ、こっそり自分の服を見下ろした。
アルトが着ている時や眺めていた時は綺麗な服に見えたけど、僕が着たらやっぱり似合わないのかな?
軽くショックを受けつつも、硬貨を数えて、おじさんに渡した。
「お! ちゃんと金を数えられんのか。ガキにしてはやるな!」
「えへへ。前に騎士さんに教えてもらったんです」
アランさんとは少ししか一緒に過ごすことはできなかったけれど、その間に色々な事を教えてもらった。お金のこともその一つ。
褒められ、照れつつやった! と喜んだ。
「騎士様に! そりゃいい経験ができたな。はいよ。品物」
「ありがとうございます!」
おじさんから渡された袋を笑顔で受け取れば、おじさんもまた笑みを深めた。
「おう。元気がいいな。あんま見ない顔だけど最近この街に来たのか?」
「いえ、一応生まれも育ちもここです。でも、街の市場に来るのは今日が初めてで……」
「ほーそうなんだな。もしかして俺の店が初めての買い物か?」
「はい!」
頷くと、おじさんは「じゃあ」と笑って赤い果物を一つ籠から取ると、僕に渡してくれた。
「これは初めてに俺の店を選んでくれた記念だ。これからも贔屓にしてくれよ?」
「っは、はい! ありがとうございます!」
すっごく優しい人だ!
嬉しくなって何度もお礼を言えば、おじさんは「やめろよ」と照れるように笑った。
そんな時――
「おっちゃん! おっちゃん! 聞いてよ!」
「ん? どうした?」
僕より少し年下くらいの赤茶髪をした男の子が、興奮した様子で走ってくる。
「聞いて驚けよおっちゃん! ソラノが今日ルルム食堂で歌を歌ってくれるんだって!」
「何⁉ ロン、まじかそれは!」
おじさんが転がりそうな勢いで驚く。僕は「ソラノ?」と、思わず出た自分の名前に不思議に繰り返すと、おじさんと男の子――ロンというらしい――に二人揃って驚いた顔を向けられた。
「なんだ坊主、ソラノのこと知らねぇのか?」
「は、はい」
「ええ⁉ 兄ちゃん、ソラノを知らねぇの⁉ 遅れてんな~」
どうやらソラノさんのことを知らないのは変なことみたいだ。僕に、歌を歌う予定なんてないから、たぶんここに僕と同じ名前の人がいるんだ。いったいどんな人なんだろう?
そう考えていれば、ロンという子が自慢げにソラノさんについて話し出した。
「ソラノは今街でめちゃくちゃ有名なんだぜ! 男だけど美人で可愛くって、歌がめちゃくちゃ上手いんだ!」
「歌が……」
「そう! ほらこの国ってずっと隣の国と仲悪かっただろ? しかもついに戦争まで始まっちゃってさ。それでみんなが不安がってた時に、ソラノがここの広場で歌ってくれたんだよ!」
ロンが身振り手振りを交えながら叫ぶ。そんなロンの言葉を八百屋のおじさんが引き継いだ。
「その歌ってのがな、そりゃーいい歌声でなぁ。戦争は他人事じゃねぇし、心がささくれ立ってた奴らも多かったんだが、ソラノの歌を聞くと元気がもらえてなあ。優しい性格と相まって今では俺やこの街連中みんな、ソラノの大ファンなんだよ」
「へぇー。すごい人なんですね」
感心しながら頷けば「すごいなんてもんじゃない!」とすぐにロンに訂正された。
気が付くと、周りにいた人達もロンの話を聞いていたのか、みんな頷いていた。さっきまで暗かった表情が、『ソラノ』さんの話をしていると、どこか明るいものに見えた。
……すごい。僕と同じ名前で、こんなにも人から望まれて好かれている人がいるなんて。
それも歌でなんて。
歌で人を元気にする、というのは僕がずっとやりたかったことだ。昔、僕が歌えば病気がちだった両親が笑ってくれた。僕の歌を聞くと元気になる、幸せだ、と本当に幸せそうに笑って言ってくれた言葉に抱いた夢。
それを実現させている人がいるなんて本当にすごいと思った。
「なぁ兄ちゃんもソラノの歌聞きに行こうよ。俺が連れてってやるからさ!」
「え?」
僕の手を、ロンが掴む。
驚いてその手とロンを交互に見るも、ロンは気にせず笑顔で「行こう」と手を引っ張り続ける。
今まで同年代の子達からは嫌われていたから、こうやって誰かと手を繋ぐことは久しぶりだった。……嬉しい。
「う、うん! ありがとう! お願いできるかな?」
「任せとけ! そういえば兄ちゃんの名前は? 俺はロンって言うんだ。ロンって呼んでいいぜ」
「えと、僕は……ソラノ」
この状況で自分の名前は少し言い辛かった。
「えぇ⁉ ソラノと同じ名前なのか? 珍しいな~」
「う、うん。そうみたい」
まじまじと見てくる二人に居た堪れなくなり、身を縮こめているとおじさんが一度頷いた。
「まぁ、あっちのソラノはめちゃくちゃ可愛いからな。こっちの坊主はなんか見た目モサモサで暗そうだし……似てるとこは声くらいか? いや、ちょっと喋った感じ性格も……」
「おっちゃん……それ本当の事だけど失礼だぞ?」
「ロンも失礼だよ……」
ぶつぶつと呟くおじさんを遮り言ったロンの、その内容に肩を落としながら言った。
二人ともそんな当たり前のように言わなくても……
「はは、悪い、悪い! じゃあ行こう!」
「あ、う、うん」
「くそー! 店さえなければ俺も聞きに行ったのに! いや、誰かに任せて聞きに行くか?」
ロンに手を引かれて走り出せば、そんな声が後ろから聞こえてくる。クスッと笑って、前を向く。
……街に出てきてよかった。不安も多かったけど優しい人達がたくさんで楽しい!
約束は今日したものじゃなかった。だからと言ってアルトと当番を変わると約束を交わした覚えもなかった。
「……してないです」
「ソラノ!」
大きなアルトの声にビクッと肩が跳ねる。それに慌てて僕が忘れているだけかもしれない、と言おうとしたところで、アランさんが再びアルトへと問いかけた。
「ソラノは約束していないと言っているが?」
「ソラノが嘘をついてるだけです!」
「嘘? そうやって声を荒らげている君の方が疾しいことがあるように見えるが? 彼の言葉が嘘だと言うのなら、もっと具体的に、いつ、何処で交わした約束なのか教えてほしい」
「っ」
アランさんの言葉に、完全にアルトは言葉を詰まらせた。そしてそのまま何も言わないアルトに、アランさんは冷たく告げる。
「君の声は不愉快だ。早くどこかに行ってくれ」
「っもういい!」
「あ、アルト!」
アルトが走り去ってしまう。追いかけようとしたけれど、アランさんに「ソラノ」と名前を呼ばれて立ち止まる。振り向くと、アランさんは申し訳なさそうな顔をしていた。
「……すまない。余計なお世話だったか?」
「……いえ、信じてくれてありがとうございます」
さっきまで強気にアルトに対峙していたのに、と思って、肩の力が抜けた。
こういうことはたまにあって、でも今までは誰も信じてくれず、僕も流されることが多かった。
だからアルトの様子は気になるけど、アランさんが僕を信じてくれたことの方が嬉しい。
僕の言葉にアランさんは表情を和らげてくれた。
「そうか……。少しは君の役に立てていればいいんだが」
「役に立つだなんて! そんなこと気にしないでください! アランさんのおかげで沢山ご飯を食べられるようになりましたし、怒られる回数も少なくなりました!」
「ソラノ……。そんなにいつも怒られているのか?」
「うっ」
どうしよう、アランさんにできない奴だって思われた。
言葉が詰まってしまうも本当のことだから仕方がないと肩が落ちた。
「はい……。僕、要領悪くてみんなのお仕事の足を引っ張っちゃったり邪魔しちゃうことが多くて。それに前髪もたくさん伸びてるから鬱陶しいとか気持ち悪いって嫌われてて……」
「髪が……」
じっとアランさんが僕の声の方を見る。だけど僕はもうちょっと下です。
「切らないのか?」
「僕、不細工だからあんまり顔を見せたくないんです」
「そうか……」
「えと、はい、だからっ……僕、こうしてアランさんとお話しできてすごく嬉しいんです。僕なんかにも優しくしてくれて、心配して沢山お話もしてくれて……すごく、すごく嬉しくて楽しいんです。なので、役に立つとか立たないとかそんなこと考えないでくださいね」
そう言って、照れた顔を俯かせながらアランさんの手を引っ張って、さっきの椅子に座らせた。
「……ありがとうソラノ。君は本当に優しい子だな」
言われたことがない言葉に目を瞠る。そして、ツキンと痛んだ胸から目を逸らし、「そんなことないですよ」とアランさんから顔を背けた。
次の日の朝、食べ終えた食器を洗い場まで持っていく。そして、そのまま皿洗いをする。結局、昨日は次の日の皿洗い当番を代わると言うことでアルトには許してもらった。
「ソラノ」
「はい!」
腕まくりをして、「さあ!」と思ったところで後ろからかかった声に驚いて大きな声を出してしまった。恐る恐る振り返ると、不機嫌な顔をしたサルバ院長が立っていた。
「……今日のお前の当番はなしだ。アルトにも話は通してある。部屋に戻れ」
要件だけ言うと僕に背を向ける院長。ポカンと呆気にとられるも、慌ててその背中を呼び止めた。
「あ、あの! どうして……」
「うるさい。さっさと部屋に戻れ。今日は庭掃除も必要ない」
チラリと僕を見て、それだけを言うと院長は去ってしまう。
こんなことは初めてだ。
だけど仕事がないのなら、今日は一日ずっとアランさんと一緒にいられる!
「アランさん!」
「おかえり」
自分の部屋へ戻り、扉を開けると、まるで僕がすぐに帰ってくることがわかっていたかのように、アランさんは驚くことなく僕に微笑んでくれる。そして「たくさん話をしよう」と言ってくれた。
嬉しくて、ベッド横の椅子にすぐ座り、お喋りを始めた。
「――えぇ! アランさん、双子の弟さんがいるの?」
しばらく話していると、アランさんは自分に弟がいることを教えてくれた。
シアンさんという双子の弟さんだそうだ。双子といっても、雰囲気が違うからあまり間違えられることはないらしい。
「面白いことや冗談が好きで、お調子者な面もあるが器用な奴でな。要領もいいし、実は思慮深く、私よりも観察力があって優しい奴なんだ」
「いい弟さんなんですね」
弟さんをベタ褒めするアランさんに向かってそう言えば、アランさんは一瞬、虚をつかれたような表情になった。そして、照れたように頬を掻く。自覚がなかったみたいだ。
そんなアランさんにクスクス笑いながら、僕はシアンさんに思いを馳せた。
アランさんからは、その弟さんを大切に思っていることが伝わってくる。優しいアランさんがここまで信頼して大切に思う人。
僕も一度会ってみたい……
「ソラノ」
「はい?」
アランさんの方を向けば、目が合ったような気がした。
「助けてくれてありがとう」
「っ……アランさん?」
深く頭を下げ、改めて言われたお礼に息を呑んだ。
「あの日、君が助けてくれなければ、私は生きていられたかわからない。……暗闇の中でずっと苦しかった。だが、そんな時、誰かが私の手を握ってくれた。そして『大丈夫』だと言われ、苦しいと思う度に優しい歌声が聞こえた。その歌声と温かさに安心して、何度救われたかわからない」
アランさんの手が僕の手に重ねられる。
「……ずっと君の声が聞こえていた。優しく歌い、私を勇気づけてくれる声が。昨日私と話せることが嬉しいと言ってくれたな。私もずっと君と話をしてみたいと思っていた」
「っ、アランさん……」
ギュッと胸が熱くなった。僕の歌はアランさんに届いていた。僕と同じことを思ってくれていた。嬉しい。だけど、どうして今こんな話をするのかがわかってしまって、苦しかった。
「ソラノ、本当にありがとう。君の優しさに、歌にどれだけ救われたかわからない。私が今生きていられるのは君のおかげだ」
微笑むアランさんに息が詰まる。また、「優しい」だ。違う、違うよアランさん。僕は優しくなんてない。だって――
「……アランさん、違います。僕全然優しくなんてないです。だって、だって僕っアランさんの目が見えなくてよかったってずっと思っていたから!」
もし目が見えていたら、みんなみたいにきっとアランさんも僕を嫌いになる。
早く目が治ったらいいのになって思っているのは本当だ。でも、このまま目が見えなければ優しいアランさんのままでいてくれるかなと期待している僕がいた。こんな僕が優しいわけがない。
「ごめんなさい……っ」
アランさんから手を離して、溢れる涙を拭う。目が見えなくなったアランさんにそのままがいいと思うなんて自分勝手すぎる。酷いことを言っているのは僕で泣く資格なんてない。
だけど、そんな嫌われてしまったかもとの恐怖に染まっていく中で、明るい笑い声が響いた。
「っふ、はは! なんだソラノ。そんなことを気にしていたのか?」
「……え?」
顔を上げると、アランさんが笑っていた。怒るのではなく、納得がいったとばかりに頷いていた。
「そうか、楽しそうな声に混じって、たまに物憂げだったから何か悩んでいるんだろうとは思っていたが……いいか? 私は君のことを綺麗だと思っているぞ?」
また驚いて目が丸くなる。綺麗だなんて初めて言われた。
アランさんはそっと僕の顔に触れると涙を拭うように指を動かした。
「目が見えていないから納得するのは難しいかもしれない。だが、たとえソラノの外見が醜くとも、私が君を嫌う要素はひとつもない。どんな姿をしていてもソラノはソラノだ。こうやって泣くのも君が優しく綺麗な心を持つ子だという証拠だろう?」
「アランさん……」
「だからソラノ、改めて言わせてくれ。あの時、私を助けてくれてありがとう。苦痛の中で、私が生きる希望を持ち続けられていたのは君の励ます声や歌に元気をもらえたからだ。君は私の命の恩人で……かけがえのない大切な人だ」
「っ。ありがとう、ございます」
全てを受け止めるような柔らかな声と言葉にまた涙があふれた。
そして、アランさんは告げる。
「……ソラノ、君は聡い。だからもう分かっているかもしれないが――私はそろそろ戻らないといけない。……たぶん明日には迎えが来るだろう」
「明日っ?」
ずっと一緒にいられないことはわかっていた。アランさんがお礼を言った時から、別れの予感も感じていた。
でも、それがまさか明日だなんて思わなかった。そして、それと同時にこの時間は、アランさんが最後に僕と話すために作ってくれたものだとわかった。
「すまない」
「……いえ、大丈夫です。だってアランさん、大事なお仕事中だったんですよね」
アランさんは大切な任務中にここに飛ばされたと言っていた。見せないようにしていたみたいだけれど、後悔しているアランさんの姿を僕は知っている。だからアランさんが早く戻らなければと思っていたことも知っているんだ。でも――
「頑張ってください」も「元気で」とも、僕の口からは出てきてくれなかった。
明日だなんて急すぎると、感情が追いついてくれない。それほど楽しい日々だった。
またあの寂しい日々に戻るの? みんなから嫌われて誰も僕と話してくれない、関わってくれない。そんな一人ぼっちの日々に戻るの……? そう、小さな嗚咽が漏れそうになった時。
「泣くな、ソラノ。――また会いに来る」
「……え?」
ぼやける眼を上げた。
「私はまだまだ君と話し足りないからな。君さえよければまた会ってほしい。そして、その時また歌ってくれないか?」
「っい、いいです! はい! う、歌います‼ だからまた会いに来てほしいです!」
重く開かなかった口が、嘘みたいに軽く開いた。そんな僕に、アランさんは声を上げて笑う。
「ああ、必ず会いにくる。約束だ。……それまで元気でなソラノ」
「はい! 約束です! アランさんも、元気でっ……!」
涙が溢れ出る。悲しい。でもそれだけじゃない。嬉しい感情も宿した涙が頬を伝った。
それから、翌日の早朝には騎士団から迎えが来て、アランさんは孤児院を去っていった。
サルバ院長に出てくるなと言われ、側での見送りはできなかったけれど、迎えが来るまでの時間たくさん話をし、見つからないよう木の影からアランさんが見えなくなるまでその姿を見送った。
そして、アランさんが孤児院を去った日から、僕は毎日のように暇さえあれば院の門の前でアランさんを待つようになった。
流石に早すぎるかなと思ったけれど、気になってついつい見に行ってしまう。
でも、それから一ヶ月が過ぎ、二ヶ月三ヶ月と過ぎてもアランさんが孤児院に来ることはなかった。
……忙しいのかな? それとも僕のことなんて忘れちゃったのかも。
そんなことを思いながらも待ち続けた。
「……おい、あいつまたサボって門の外見てるぞ」
「ほんと。あんなかっこいい人があんな奴にわざわざ会いに来るわけないじゃん」
「なのに期待して毎日可哀想~」
そうやって何度も嗤われながらも待っていた。……だけどアランさんは来なかった。
それは、隣国との関係が悪化し、始まった戦争のせいだ。それにアランさんが所属する黒騎士団が派遣されたから。けれどそのことを、僕が知ったのは随分後になってからのことになる。
十六歳になると孤児院を出て行かなくてはいけなくなる。僕はその時までアランさんを待つ気でいた。
だけど、アランさんと別れて二年目の冬。三月生まれの僕があと数ヶ月で十五歳になり、院から出ていかなければならない年まで、あと一年と少しと迫った頃。
「ねぇソラノ、僕と一緒に孤児院を出ない?」
僕より早く十六歳になり、院から出て行くことになったアルトがそう僕を誘った。そして、断ってもいつの間にか僕はアルトと院を出ることになっていた。
……嫌だと言っても、アランさんを待ちたいと言っても誰も聞いてくれなかった。聞こうともせず、話を打ち切られた。僕の置かれる状況は、気づけば全て決まっている。
そして、僕の存在に触れることなく、ただみんなアルトが去ることだけを悲しんだ。
孤児院を出る日、僕とアルトはお互い外套のフードを被り、院を後にした。
僕の前を歩くアルトは不安でいっぱいの僕とは違い、なぜか機嫌がよかった。そして、貧民街を出て市街地の方に歩いていく。
ほとんど貧民街から出た事がない僕にとって、そこは未知の場所だ。誰も道に蹲っていない。並ぶ家々も道に並ぶ露店も行きかう人達の服もみんな綺麗だ。
そうしてみると、ボロボロのフードを纏う自分が酷く街から浮いているように見えて、恥ずかしくてフードをより深く被った。窺うようにアルトを見てみれば、同じ格好をしているはずなのに自然に街に溶け込んでいて不思議だった。
「――ここが僕達の新しい家だよ!」
「え? 僕達?」
市街地を離れ、建つ家もまばらになってきた頃、緩やかな丘を上った先にポツンと建つ小さな古家。その前でアルトは大きく手を広げた。
「そう。今日からここに住むの! ちょっと伝手があって、すっごく格安で譲ってもらえたんだ!」
「ゆずっ⁉ そ、そんなお金どこからっ」
所々草が生え、崩れて木板が剥がれているところはあれど、修繕すればまだまだ住めそうだ。
アルトは簡単に言うけど、モノがモノだ。格安とはいえ、家を買うようなお金をどこから用意したんだろう。そう聞く僕に、アルトはすぐにわかるよと微笑むだけだった。
そんなアルトに眉を下げ、次に自分を見下ろした。アルトとは違って、僕には何もない。小さな鞄を一つ掛けてはいるけれど、ほとんど身一つの状態。
ど、どうしよう。僕、何もアルトに返せるものが……
血の気が引く僕に、アルトはわかってるというように凪いだ目で頷いた。
「大丈夫だよ。ソラノが何も持ってないことくらいわかってるって。一緒に孤児院を出ようって言ったのは僕なんだからこれくらい僕にやらせて?」
「そ、それでも……っ」
「大丈夫だってば。これから一緒に住むんだから遠慮しないで! あ! 言っておくけど悪いお金で買ったものじゃないからね! もしそれで不安になってるんなら安心して?」
「う、うん」
綺麗な顔に慈悲めいた笑みを浮かべるアルトに、戸惑い気味に頷けばパッと明るく手を差し出される。
「じゃ! そういうことだからソラノ、今日から二人でよろしくね?」
「え? あ、うん!」
差し出された手を握り返すと、アルトがにっこり笑う。……アルトはやっぱりすごい。
こうして並び立つと、アルトと僕はよく似ているように思える。目の色や髪の色、髪型も背丈も声も似通っているのに、アルトは僕とは全てが違って輝いている。
たまにきつい言葉を使う時もあるけれど、アルトはこうして僕を気にかけてくれている。院を出ることは少し強引だったけど、でも――
握った手を離し、家を見上げた。
……ここが今日から僕達が住む家。そっか、アランさんもここで……
絶対に、アランさんを孤児院で待たないといけないと思っていた。だけど、ここの方が孤児院とは違い情報が入りやすいかもしれない。そうなれば、アランさんが任務から帰ってきた時、待つだけではなく、自分から会いに行くこともできるかもしれない。
そう思えば、心がふっと軽くなるような気がした。
「ほらソラノ、中を見ておいでよ。ベッドは二つあるからどっちを使ってもいいよ」
「うん。わかったありがとう。じゃあ、見てくるね!」
アルトにそう声をかけてから、新しい家の中へと入る。
中は傷みと埃だらけだけど、これこそ腕の見せ所だ。
掃除は山ほどやってきたもん! アルトが準備を整えてくれた分、掃除や家事で役に立たなくちゃ。
「うん。ほんとこれからよろしくね? ――アルト」
気合に満ち溢れる僕の耳に、後ろで言うアルトのすごく楽しそうな声が聞こえた。そう、すごく楽しそうだったから、気のせいだと思った。
「うん!」
なんだか、アルトの言った名前が僕ではなく、アルトと聞こえたような気がしたことは――
第二章 ふたり暮らし
アルトと暮らし始めてから一週間。この家に来てから、アルトは機嫌がいい。
小さく鼻歌を歌っていると木の軋む音がした。その音にビクッと肩を揺らし、鼻歌を止める。
朝食を用意する手を止めて振り向けばアルトが眠たそうに二階から下りてきていた。
「おはようアルト」
「ふぁ~、おはようソラノ。……さっき鼻歌歌ってたでしょ。やめてって言ったよね?」
「うっ、ご、ごめん」
「……いいよ!」
いつからか、アルトに歌は歌うなと禁止されていた。それでもつい歌ってしまう。
ジロッと睨まれるものの、謝るとすぐにアルトは笑顔を見せてくれた。それにホッとしつつお皿とパンをテーブルの上に並べた。
「今日もまたお出かけするの?」
「うん」
アルトは毎日どこかに出掛けては、夕方近くに帰ってくるを繰り返していた。どこに行っているのかなんの仕事をしているのか聞いても、いつも秘密だと笑って誤魔化されてしまう。
僕も何か仕事を探した方がいいんじゃないかと思っているんだけど、戦争があり治安も悪くなっているから危ないと言って、アルトは僕を外に出したがらない。
……うーん、僕よりアルトの方が危ないと思うんだけどな。……うん。
僕はチラッとアルトに視線を向けた。
「……アルトあのね? お野菜がなくなるから買い足したいんだ。他にも食材とかその、生活に必要な物とかあるから僕、買いに行きたいなって……」
今は、必要な物は言えばアルトが買ってきてくれる。アルトばかりに負担をかけてしまっていて申し訳ない。僕だって何か役に……と思っているのは本当だけど、街に行ってみたい気持ちが大きかった。せっかくこうやって孤児院から出てきたんだもん。
「……やっぱりダメ?」
無言のアルトにちょっと弱気になる。
しかし、アルトは頷いた。
「……いいよ」
「え? 本当⁉」
「うん、いいよ。僕もそろそろこの生活限界だなって思ってたし。なんかごめんね? 気を遣わせちゃってたみたいで」
「そんなことない! ありがとう!」
限界だなんてやっぱりアルトには負担をかけすぎていたようだ。
僕も早くお仕事探さなくっちゃ!
アルトは「ちょっと待ってて」と言うと席を立って二階の部屋に行く。それからすぐに階段を下りてくると、僕に黄色の可愛くて小さなポーチを差し出した。
「なにこれ? ――っ⁉」
受け取ると、ずいぶん重たい。中を見てみるとたくさんのお金が入っていて、危うくポーチを落としそうになった。
「それ、ソラノの分だから好きに使ってもいいよ」
「え! なんで⁉」
ポーチの中には小銀貨が五枚と数枚の銅貨が入っている。
この国で使われている硬貨は、小銅貨・大銅貨・小銀貨・大銀貨・金貨・白金貨の六種類。小銅貨十枚で大銅貨、大銅貨十枚で小銀貨と変わっていく。
確かパンを一つ買うのに大体小銅貨十二枚前後だったと思う。つまり銀貨の価値は大体――、と考えて、慌ててこんな大金は受け取れない! と断れば、アルトは憂い顔を浮かべた。
「……僕はさ、孤児院にいた時にも欲しい物をたまに買ってもらえたりしてたけど、ソラノは全然そういうことがなかったでしょう? 院を出る時の荷物も少なかったし、これで買い物をして余ったお金はソラノが自由に使っていいよ」
「い、いやそんなわけには……っ」
アルトにはたくさんお世話になっているのに、お金までもらうなんて流石にアルトに悪すぎる。
なのにアルトは「いいからいいから。じゃあ僕は仕事に行ってくるから」と言って僕に手を振るとさっさと家から出て行ってしまった。
そんなアルトを呆然と見送る。そして、慌ててテーブルの上にあるお皿を洗いにかかった。
お皿を洗うスピードがいつもより速い。こんな沢山のお金を持ったのなんて初めてだ。街に出たとしても盗まれないかドキドキして今から不安でいっぱいだ。
「ふふ」
だけど、それとは別にワクワクしたような気持ちに、口元が緩んだ。
家事を素早く済ませると、自分が持っている服を自分のベッドに並べて、どちらを着ていくか吟味する。といっても二着しかないし、どっちもアルトから貰ったものだ。
僕が孤児院から持ってきた服はアルトが汚いと言って全て捨ててしまった。
その代わり僕が持っていた服よりもずっと綺麗で、どこにも繕った痕や穴の開いていない服をアルトは譲ってくれた。
服を着替えて、外套を羽織る。これもアルトがくれたものだ。アルトはなんでも持っている。
「よし!」
外套には深いフードがついていて、鼻の下辺りまですっぽり隠れる。いつもなら、出来るだけ深くフードを被るんだけど……
せっかくの街だもん。今日ぐらいは被らないでおこう。
そう思って、掴んだフードから手を離した。そして軽く髪を整え前髪で顔が隠れていることを確認すれば、ポケットに入ってあるポーチをなくさないように握りしめ、期待に外へと足を踏み出す。
孤児院にいた時、数ヶ月に一度、貧民街の市場に行き、子ども達だけで買い物をするという日があった。だけど僕はそのほとんどを荷物持ちとして後をついて行くだけで終わってしまっていた。だから自分で買い物をするなんて初めてだった。
昔、何度か遠くから見た街はとてもキラキラ輝いているように見えた。だから、一週間前通った道を思い出しながら多分こっちと道を進んで、市場へと繰り出した僕は驚いた。もっと人がたくさんいて活気に満ち溢れているイメージがあったんだ。だけど……
「……暗い?」
想像していたよりも街の雰囲気が暗く、人通りも少なかった。
孤児院を出て今の家に行く際に街を通ったはず。だけど貧民街とは違う周りの景色に気を取られ街の雰囲気までは見られていなかったみたいだ。
とりあえず街中を歩いていくと、ポツリポツリといる人達の会話から街が暗い理由がわかった。思っているよりも隣国との戦争が長引いているのが原因のようだ。
「……アランさん」
隣国との戦争にはアランさんが所属する黒の騎士団が参加していると聞いた。そのせいでアランさんは僕に会いに来られないでいたんだと思う。忘れられてはいないはず……たぶん。
……どうか無事でいてください。
周りの雰囲気につられて僕も不安になっていく。
「……野菜買いに行かなくちゃ」
気弱になる心を頭を振ることでなんとか持ち直し、野菜を売っていて、できるだけ話しやすそうな人のお店を探した。
「す、すみません!」
少し歩き、僕が声を掛けたのは体が大きく、ツルンとした頭をした厳ついおじさん。
鼻下のくるんとした「ハ」の字型のお髭がどこか可愛い人だ。
「はいよ、いらっしゃい!」
声をかけたおじさんは明るく返事を返してくれる。でも僕を見ると顔を顰め、怪しそうな顔をした。
……やっぱり、僕変かな?
「えっと……あの、コレとコレ買ってもいいですか?」
顔を覆う前髪を摘んで下へと引っ張りながら、野菜を指差す。
「ん? なんだ客か。ボロボロだから、物乞いでも来たのかと思ったぜ。ハナナとレダスだな。大銅貨四枚だ」
「あ、ありがとうございます」
怪しい顔から一変、おじさんはすぐに笑顔になって、指差した野菜を持ち上げてくれる。それに僕はポケットからお金が入ったポーチを取り出しつつ、こっそり自分の服を見下ろした。
アルトが着ている時や眺めていた時は綺麗な服に見えたけど、僕が着たらやっぱり似合わないのかな?
軽くショックを受けつつも、硬貨を数えて、おじさんに渡した。
「お! ちゃんと金を数えられんのか。ガキにしてはやるな!」
「えへへ。前に騎士さんに教えてもらったんです」
アランさんとは少ししか一緒に過ごすことはできなかったけれど、その間に色々な事を教えてもらった。お金のこともその一つ。
褒められ、照れつつやった! と喜んだ。
「騎士様に! そりゃいい経験ができたな。はいよ。品物」
「ありがとうございます!」
おじさんから渡された袋を笑顔で受け取れば、おじさんもまた笑みを深めた。
「おう。元気がいいな。あんま見ない顔だけど最近この街に来たのか?」
「いえ、一応生まれも育ちもここです。でも、街の市場に来るのは今日が初めてで……」
「ほーそうなんだな。もしかして俺の店が初めての買い物か?」
「はい!」
頷くと、おじさんは「じゃあ」と笑って赤い果物を一つ籠から取ると、僕に渡してくれた。
「これは初めてに俺の店を選んでくれた記念だ。これからも贔屓にしてくれよ?」
「っは、はい! ありがとうございます!」
すっごく優しい人だ!
嬉しくなって何度もお礼を言えば、おじさんは「やめろよ」と照れるように笑った。
そんな時――
「おっちゃん! おっちゃん! 聞いてよ!」
「ん? どうした?」
僕より少し年下くらいの赤茶髪をした男の子が、興奮した様子で走ってくる。
「聞いて驚けよおっちゃん! ソラノが今日ルルム食堂で歌を歌ってくれるんだって!」
「何⁉ ロン、まじかそれは!」
おじさんが転がりそうな勢いで驚く。僕は「ソラノ?」と、思わず出た自分の名前に不思議に繰り返すと、おじさんと男の子――ロンというらしい――に二人揃って驚いた顔を向けられた。
「なんだ坊主、ソラノのこと知らねぇのか?」
「は、はい」
「ええ⁉ 兄ちゃん、ソラノを知らねぇの⁉ 遅れてんな~」
どうやらソラノさんのことを知らないのは変なことみたいだ。僕に、歌を歌う予定なんてないから、たぶんここに僕と同じ名前の人がいるんだ。いったいどんな人なんだろう?
そう考えていれば、ロンという子が自慢げにソラノさんについて話し出した。
「ソラノは今街でめちゃくちゃ有名なんだぜ! 男だけど美人で可愛くって、歌がめちゃくちゃ上手いんだ!」
「歌が……」
「そう! ほらこの国ってずっと隣の国と仲悪かっただろ? しかもついに戦争まで始まっちゃってさ。それでみんなが不安がってた時に、ソラノがここの広場で歌ってくれたんだよ!」
ロンが身振り手振りを交えながら叫ぶ。そんなロンの言葉を八百屋のおじさんが引き継いだ。
「その歌ってのがな、そりゃーいい歌声でなぁ。戦争は他人事じゃねぇし、心がささくれ立ってた奴らも多かったんだが、ソラノの歌を聞くと元気がもらえてなあ。優しい性格と相まって今では俺やこの街連中みんな、ソラノの大ファンなんだよ」
「へぇー。すごい人なんですね」
感心しながら頷けば「すごいなんてもんじゃない!」とすぐにロンに訂正された。
気が付くと、周りにいた人達もロンの話を聞いていたのか、みんな頷いていた。さっきまで暗かった表情が、『ソラノ』さんの話をしていると、どこか明るいものに見えた。
……すごい。僕と同じ名前で、こんなにも人から望まれて好かれている人がいるなんて。
それも歌でなんて。
歌で人を元気にする、というのは僕がずっとやりたかったことだ。昔、僕が歌えば病気がちだった両親が笑ってくれた。僕の歌を聞くと元気になる、幸せだ、と本当に幸せそうに笑って言ってくれた言葉に抱いた夢。
それを実現させている人がいるなんて本当にすごいと思った。
「なぁ兄ちゃんもソラノの歌聞きに行こうよ。俺が連れてってやるからさ!」
「え?」
僕の手を、ロンが掴む。
驚いてその手とロンを交互に見るも、ロンは気にせず笑顔で「行こう」と手を引っ張り続ける。
今まで同年代の子達からは嫌われていたから、こうやって誰かと手を繋ぐことは久しぶりだった。……嬉しい。
「う、うん! ありがとう! お願いできるかな?」
「任せとけ! そういえば兄ちゃんの名前は? 俺はロンって言うんだ。ロンって呼んでいいぜ」
「えと、僕は……ソラノ」
この状況で自分の名前は少し言い辛かった。
「えぇ⁉ ソラノと同じ名前なのか? 珍しいな~」
「う、うん。そうみたい」
まじまじと見てくる二人に居た堪れなくなり、身を縮こめているとおじさんが一度頷いた。
「まぁ、あっちのソラノはめちゃくちゃ可愛いからな。こっちの坊主はなんか見た目モサモサで暗そうだし……似てるとこは声くらいか? いや、ちょっと喋った感じ性格も……」
「おっちゃん……それ本当の事だけど失礼だぞ?」
「ロンも失礼だよ……」
ぶつぶつと呟くおじさんを遮り言ったロンの、その内容に肩を落としながら言った。
二人ともそんな当たり前のように言わなくても……
「はは、悪い、悪い! じゃあ行こう!」
「あ、う、うん」
「くそー! 店さえなければ俺も聞きに行ったのに! いや、誰かに任せて聞きに行くか?」
ロンに手を引かれて走り出せば、そんな声が後ろから聞こえてくる。クスッと笑って、前を向く。
……街に出てきてよかった。不安も多かったけど優しい人達がたくさんで楽しい!
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