はみ出し者たちとカドゥケウスの杖

祇光瞭咲

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カドゥケウスの杖

それぞれの戦い

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 リルーは正午過ぎに隠れ家に帰ってきた。
 絶望の知らせを携えて。

「えっ……?」

 碧い瞳が見開かれていく。ジルヴィは愕然として洗濯物を取り落とした。

「毎回思ってるけど、なんであれで細かいことまでわかるんだよ……」

 その時、ダナウは嗅覚の訓練中であった。彼はハンカチを鼻に当てながら何気なく報告の様子を見守っていたが、激しく動揺するジルヴィを見て、事態の深刻さに気が付いた。

「どうしよう、ダナウ」
「何があった?」

 ジルヴィは今にも泣きそうな顔で彼に縋り付いた。

「ベルヴィルの移民たちが、魔女の嫌疑で大勢連れて行かれたって……その中に、エミも……」
「なんだって?」

 だが、ダナウが見せた驚きは、ジルヴィほどではなかった。彼は魔女狩りがイルミナティにとって都合の悪い者たちの粛清に使われている事実に勘付いていたのだ。もっとも、そんなことは憲兵団内での暗黙の了解のようなものだったけれど。だから、いつかこんな日がくる予感はしていた――知り合いが魔女として処刑される日が。

「どうしよう、ねえ、エミが殺されちゃう……! ダナウ、僕は――」
「おい、まただぞ。まずは落ち着けって」
「だって! エミは……! エミは、僕の……」

 項垂れた横顔。その表情は金の髪に覆い隠されているけれど、小さな雫が二粒零れ落ちた。

「大切な、友達なんだ……」

 自分が何者なのかわからない不安を抱え、街を彷徨っていたあの日。
 エミは公園の隅で途方に暮れるジルヴィを見つけてくれたのだ。

 おやつにしようと持ってきたのであろうオレンジを半分分けてくれながら、顔を覗き込んでくれた、あの笑顔を覚えている。

『美味しい?』
『おい、しい……?』
『あら。味がわからないの?』
『うん……たぶん……』
『ふぅん。じゃあ、教えてあげるね。これは美味しいオレンジよ。甘酸っぱい味がするの――』

 それから毎日、エミはジルヴィに違う味の食べ物を持ってきた。彼には味覚自体は存在しているので、どんな味を
「甘い」と感じ、どんな味を「美味しい」と呼ぶべきなのかを教えてくれた。それは彼女の味の好みの押し付けにすぎなかったかもしれないけれど、それでもエミが教えてくれたことは、彼女という存在は、後のジルヴィの毎日をずっと豊かにしてくれたのだ。

「僕、エミを失いたくないよ」

 ジルヴィは言った。精一杯の想いを込めて。
 ダナウは何も言わなかった。ただ、憐憫のために目を細めた。

「裁判はいつだって?」
「……明後日」
「そうか。じゃあ、色々準備できる時間はあるな」
「ダナウ……っ」

 彼はハンカチを放り投げて立ち上がった。ジルヴィを振り返る。

「何ができるかわかんないけどよ。できるだけのことはやってみようぜ」
「うん!」

 早速作戦会議が始まった。


***


 翌日、ジルヴィはベルヴィルを訪れていた。朝市は前回よりほんの少し活気を失ったかもしれないが、相変わらず多くの人で賑わっている。まるで魔女裁判なんて誰の心にも存在していないかのように。
 向かった先はエミの店がある場所だ。やはり、あの笑窪が可愛い異国の少女はいないけれど。彼女の伯父が一人で、いつものように店を構えていた。

「こんにちは」

 厳つい禿げ頭に近寄っていく。エミの伯父はジルヴィを見るなり嫌悪を顔に表した。

「……なんだ、お前か」
「うん、僕だよ。ねえ、おじさん。エミはどうしたの?」

 伯父はギクリとしたようだったが、すぐにそっぽを向いた。

「他所へやったよ。だから、もううちに来るんじゃねえ」
「おじさん。僕、あなたにお願いがあるんだ」
「失せろ、ボウズ。いつもいつも商売の邪魔しやがって……」
「――エミは明日、裁判に掛けられるんでしょう?」

 エミの伯父はハッとして振り返った。瞬時に表情を取り繕うも、すでにジルヴィがすぐ目の前に迫っていた。はて、この少年はこんなに背が高かっただろうかと、そんなことが頭を過ったに違いない。ジルヴィは男と目を合わせ、押し殺した声で囁いた。

「明日の裁判で、やってほしいことがあるんだ。難しくないことだよ。お願いできる?」
「はぁ? なんでオレがお前の頼みなんか聞いてやらにゃならん?」
「――エミのためだよ」

 途端にエミの伯父は怒りを顔に浮かべ、掴み掛らん勢いでジルヴィに額を突き付けた。

「黙れ。失せろと言ってるのが聞こえなかったのか?」
「僕はエミを助け出す。お願い。そのために力を貸してほしいんだ」
「部外者が知ったような口を利くな!」
「エミを助けたくないの?」

 ついに男の手がジルヴィの胸倉を掴む。ジルヴィはその手を握り、ゆっくりと言葉を繰り返した。

「……エミを、助けたくないの?」
「な……っ、あ……っ?」

 ギリギリと、音もなく強い力で締め付ける。掴まれた手がシャツを放し、指が強張って小刻みに震える。エミの伯父は恐怖に目を見開いた。

「な、んだ、お前……!」
「僕はジルヴィ。単なるエミの友達だよ」
「嘘を吐け! なんだこの力は……い、いぎっ」

 禿げた額に玉の汗が滲む。伯父はそれでも果敢に睨み続けた。

「お前、魔物だったのか……っ」
「そんなことどうでもいいよ。僕が魔物かどうかってことと、エミの命と、おじさんはどっちが大事なの? エミの方が大事でしょ?」

 ジルヴィは手を放した。伯父は痛む手首を摩りながら吐き捨てる。

「もう遅いんだよ。あいつらはオレたち余所者が面白くないのさ。数を減らすためならでっち上げだってする」
「知ってるよ。だから、僕が助けてくる。それにはあなたの協力が必要なんだ」
「ふざけるな。魔女狩りだぞ。目立つ真似なんかできるか」
「大丈夫。直接手を出すのは僕たちだから。ただ、あなたには合図に続けて叫んでほしいだけなんだ」
「叫ぶ? そりゃいったい――」

 ジルヴィは彼の耳に口を寄せ、作戦を囁いた。


***



 一方、ダナウは隠れ家で狼化の特訓を行っていた。右の手首を握り締め、全神経を右腕だけに集中させる。

「どこにいやがる、ライカンスロープ……!」

 深く潜り。体の奥底に眠る魔物の本性を探し当てるのだ。

 ぞわり、と後頭部の毛が逆立つ。
 魔物の眼光が彼を射抜いた。

「……よう、見つけたぜ」

 魔物が襲い掛かってくる。悍ましい咆哮を上げ、理性を奪おうと牙を剥く。それは精神世界での戦いであれど、彼の生死を賭けた戦いであった。
 膨れ上がる魔力。人狼の血が猛り狂っていた。
 何かが弾けるような感覚の直後、右腕がまるで独立した生き物のように暴れ始めた。筋肉が膨張し、硬い暗灰色の毛が体表を覆う。それは右腕から右半身、しまいには全身へ広がり、押さえた右手の先も狼のソレへと変化した。淡い色の人間の爪は消え、真っ黒な狼の鉤爪が現れる。

「くそっ、失敗だ……」

 ジェヴォーダン――そう名乗ったあのライカンスロープに対し、ダナウは手も足も出なかった。彼は思い知ったのだ、自分が弱い存在であると。今度の作戦にどんな障害が立ちはだかるかはわからないが、それに対して何もできない自分というものを、想像するだけで腹が立った。

 わかっていることは、きっとかつての仲間たちが敵になるだろうということ。いや、ダナウには敵対の意思はない。彼はあくまで憲兵たちを傷付けず、穏便に作戦を決行するつもりである。けれども、向こうにとっては、ダナウは裁判の邪魔をする敵でしかない。
 憲兵団は強い。特に、魔物討伐隊は強化装備で武装している。その彼らを相手に半狼の力だけで挑むのは、明らかに勝算がなかった。ましてや、できる限り相手を傷付けないようにするならば、ダナウはこの新しい力を完全に使いこなさなければならない。万が一にも人狼化して暴走してしまったら、自分が傷付くだけでは済まないのだ。

 二度の変身の経験から、変身した後に人型に戻ることはできるようになった。まだかなりの集中が必要だが。
 今ダナウが求めているのはもっと限定的な変形だ。可能な限り魔力をコントロールし、望んだ部位のみを狼化させる。例えば、右腕だけ。例えば、下半身だけ。そうして魔力を出力する部位を自在に操ることができれば、人間だった時に身に着けていた討伐隊員の強化装備が使えるかもしれない。

 ダナウの強化装備はグローブだ。攻撃に合わせてエネルギーを爆発させ、殴打する力を瞬間的に増大させる。それによって肉体が持ちうる以上の攻撃力を生み出すことができる。
 これに、ライカンスロープの身体能力を組み合わせれば。
 あのジェヴォーダンという魔物と互角に渡り合えるようになるかもしれない。

 誰かを守るために。
 自分自身を死なせないために。
 彼は明日の魔女裁判までに、魔物の血を支配しなければならないのだ。

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