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生きてるって信じてる
生きてるって信じてる
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ナタレア・マーグストはイルミナティ(啓明党)本部にある執務室で途方に暮れていた。ライカンスロープ(人狼)事件は収束の目処も立たぬまま、昨晩も新たな半狼を捕獲、処分したばかりだ。
『やめろ! やめてくれ! 俺が何をしたって言うんだよオオォォ!』
半狼化した民間人が――否、半狼化してしまった時点で、その男はもはや守るべき対象ではなくなった――半狼化した駆除対象が、吼えるような慟哭を交えて訴える声が、耳にこびり付いて離れない。
『お願いです! やめてください、見逃してください! 主人は人間です!』
夫を駆除対象と見做されてしまった哀れな婦人が、泣いて縋る声が。
『どうして? どうして主人を助けてくれなかったの? この……っ、人殺し……ッ!』
罵声と共に、差し出した手を払い除ける彼女の声が、ナタレアの心を蝕んでいく。
ナタレア・マーグストは魔物を憎んでいる。
その憎しみは、きっと他の人たちよりも、ずっと。
お気持ちはわかります、なんて。彼女にはそう言ってあの女性を慰めてやることもできたけれど、そんな言葉ほど意味のないものはないとわかっていた。同じような言葉を、彼女も幼い頃に掛けられたから。
ナタレアの父は魔物討伐隊に殺された。今回の駆除対象と同じように、ライカンスロープに噛まれ、半狼化したために退治されたのだ。当時十三になったばかりのナタレアは、あの女性と同じ言葉で隊員たちを罵った。
気持ちは冷めなかった。悲しみは癒えなかった。
ただ、父を穢した元凶であるライカンスロープが退治されたと聞いた時、討伐隊に対するナタレアの恨みはスッと解けて消え去ったのだった。
父を殺したのは、魔物だ。討伐隊に殺されたのではない。人であった父は、ライカンスロープに穢された時点で死んでしまったのだから。
ナタレアは決して魔物を許さない。自分と同じ想いをする者をこれ以上見たくないから。ところが、討伐隊として経験を積み、部下を持つ立場になると、その想いはまた別のものによって増強された。
恐怖だった。目の前の親しい者をまた奪われるかもしれないという恐怖。
父を殺した魔物を。部下を殺すかもしれない魔物を――許すな。
そう自身に言い聞かせることにも、疲れてきてしまった。
数分後、班員のロズが訪ねてきた。既にナタレアは感傷から立ち直っており、彼女が零した涙の痕跡など何ひとつ残されていなかった。
「マーグスト班長、今よろしいでしょうか?」
「構わんよ。入りたまえ」
ロズの沈んだ顔を見て、ナタレアは彼の用件がどんなものか察してしまった。それが表情にも出たらしく、ロズは苦々しく口角を上げる。
「ええ、ご想像の通り。ユリアがまた単独で魔物退治に行き、つい先程署に戻りました」
「その様子だと、ユリアは無事のようだな?」
「はい。いくらか負傷していますが、大事にはあたりません」
ナタレアの口から溜息が漏れる。そこには安堵と諦めの両方が含まれていた。
ユリア・レープマンの暴走は、今週に入って既に二回目だ。その度に説教をし、本部に出頭して代わりに頭を下げてやる。任務外での魔物退治はやむを得ない場合を除いて禁止されているが、それは本来隊員たちを守るための規則だ。ユリアの行動は単なる自殺未遂にすぎない。
「ユリアは今治療中か?」
「そうだと思います。マーガレットに預けましたので」
「わかった。私も新しい説教の文句が浮かんだら見舞いに行くよ。知らせてくれてありがとう、ロズ」
「いえ。お疲れ様です」
ロズは一礼して去って行った。
ロズ・ボントゥは冷静沈着を絵に描いたような青年だ。時に薄情だと揶揄される彼のことが、今だけは酷く羨ましくなる。
ユリアの気持ちはわかるけれど。
「つらいのは君だけじゃない。わかってくれ……」
私だって、胸が張り裂けそうなんだ。
***
憲兵団中央署、医務室。
白に統一されたタイル張りで、時に無機質すぎるように感じるその部屋は、今日も悲しみに包まれていた。
「く、うぅ……ッ」
食い縛った歯の間から、堪え切れなかった叫びが漏れた。ユリア・レープマンは負傷した腕を押さえ付けられ、消毒液が患部に触れるたびに悲痛な声を上げている。
「痛いですよぅ、マーガレットさん。もうちょっと優しくやってもらえませんか?」
涙ぐんでそう訴えれば、先輩隊員に鼻で笑われる。
「あら、そう? 痛い思いをしたくて飛び出していったのかと思ってたわ。わざわざこんな怪我をして戻ってくるくらいだから」
ユリアはただ項垂れた。自分の行動が身勝手だということも、そのせいで結果的に魔物の駆除率を下げてしまっていることもわかっている。説教は数を重ねるたびに同情が減り、呆れと怒りが加わっていく。
それでも。ユリアは自分を止められない。
魔物が出た。そんな噂を聞くだけで、腹の底から憎悪と怒りが湧き上がるのだ。体の中で激情が暴れまわり、自分でも手を付けられなくなる――そして、何よりも。怒りや憎悪を感じている間だけは、ダナウ・ベルデを失った悲しみを忘れられるのだ。
ぽたり、ぽたりと垂れた涙は、決して痛みによるものではない。冷めていく激情に代わり、またしても悲しみが押し寄せる。気が付けばユリアは顔を覆って泣いていた。
「ユリア」
マーガレットが肩を抱いてくれる。ダナウとの付き合いはマーガレットの方が長いだろう。悲しみだってユリアよりも強いかもしれない。けれど、彼女は決して人前で涙を見せず、常にユリアに気をしっかり保つようにと励ましてくれていた。
「いつか誰かにこんな日が来るかもと、みんな覚悟はできていたはずよ。わかっているでしょう?」
「わ、わ……わかってま、す……でも……」
あと少しでも、駆け付けるのが早かったら。
――ダナウ先輩は殺されずに済んだかもしれないのに。
「違う!」
頭を過った言葉を、咄嗟に自分で掻き消して。
「し、んでなんか、ない……! ダ、ナウ先輩は、死んで、なんか……っ」
「ユリア、落ち着いて」
こんな風に子どもみたいに泣き叫ぶのも、もう何回目だろう。激しくしゃくり上げる傍ら、そんな自分をどこか遠くから冷静に観察する自分を感じていた。
マーガレットがハンカチを差し出してくれる。寄り添う二人の体温は、悲しみを氷解させるどころか、むしろ助長させていくだけだった。
涙を噛み締め、ユリアは自分に言い聞かせる。
ダナウ先輩はきっとどこかで生きている。
大丈夫だ。先輩は強いもの。大丈夫、大丈夫、大丈夫――……。
「マーガレット?」
扉から荒削りの武骨な顔が覗く。ジャスティンはユリアの姿を認めるとギクリとしたが、すぐに表情を繕って話し掛けた。
「ああ、ユリアもいたのか。ちょうどよかったぜ」
「どうしたの、ジャスティン?」
マーガレットが立ち上がり、ジャスティンの視線からユリアを庇う。彼は居心地悪そうに咳払いした。
「班長から、三十分後に集会室に来いってよ。審問官様がまたなんか言ってきたって」
「あら。また?」
「ああ」
ジャスティンは露骨に嫌悪を顔に浮かべる。
「楽な仕事でいいけどよ。オレたちは警備兵じゃねえってのに……」
「しっ。憲兵団は異端審問官には逆らえないのよ。そういうことは職場で口にしないこと」
と、窘めつつ、マーガレットも顔を顰めずにはいられない。
「……まあ、私も審問官の警護任務は正直言って好きじゃないわ。いくら魔女が相手だとしても、処刑なんて気持ちのいいものじゃないもの」
彼女はジャスティンの腕を親しげに叩き、彼を医務室から追い出した。
「三十分後ね。ユリアと一緒に行くわ。ありがとう」
「おう。集会室でな」
***
その頃、ナタレアは異端審問官と対峙していた。
サルバドル・カミュ――パリを治める敏腕の審問官だ。彼は家柄や学歴が申し分ないだけではない。審問局の中では比較的若年にもかかわらず、職務に対する情熱は人一倍。既に権威の一人として認められている。彼が魔術師、およびその配下とも見習いとも言われる魔女の討伐について書き上げた著作物は、後輩審問官たちの指南書として扱われていた。
その上、とナタレアは不快感を押し隠して考える。
頭脳明晰、容姿端麗、傍若無人。彼は優秀な審問官たる素質をすべて備えている男だ。
「マーグスト班長」
カミュ審問官は静かな声音で囁いた。演説では人々の恐怖と憎悪を煽動しているくせに、人の目を外れた途端に優しく、柔和な素顔が現れる。そのギャップにナタレアも初めは戸惑ったが、何度か護衛に就いた今では、彼の為人をある程度は理解していた。
「お忙しいところを、お呼び立てしてすみません。先日の裁判ではありがとうございました」
「いいえ。仕事ですから」
ナタレアのつれない返答にも、カミュは穏やかに眼尻に皺を作るだけだ。彼は用意された椅子に腰掛け、ナタレアにも座るよう促す。彼女はそれを断った。
「では、早速ですが――近々、大規模な魔女狩りを行うことが決定いたしました。処刑場はノートルダム大聖堂前の広場を予定しております」
ナタレアはぴくりと眉を動かした。
「一斉検挙、ですか?」
「左様です。パリにおける人狼被害は、昨晩で十件目を数えました。これ以上被害を拡大させるわけにはまいりません。そこで、被疑者の一斉検挙に踏み切ることにしたのです」
審問官の声音に批難の色はなかったが、それでもナタレアは責任の追及を感じずにはいられなかった。辛うじて俯きこそしなかったけれど、表情が曇るのは隠せない。カミュもその様子に気付き、労わるように微笑んだ。
「本件は連帯責任というやつでしょうか。私はあなた方だけに責任があるとは考えておりません。私ども異端審問局が真っ先に黒幕の魔術師を検挙できていれば、あなた方に責任の一端が回ってしまうこともなかったのですから」
「お気遣い痛み入ります」
「――ですから、今回は必ず成果をあげるべく、魔術師あるいは魔女の可能性を疑われている者すべてを裁判へ招集します。本来であれば、市民からの告発に加え、我々審問局での調査により確実に黒と断定された者のみを招集します。しかし、それでは時間が掛かりすぎる。よって、この度は審問局だけでなく憲兵団の調査隊にもご助力いただき、一斉に調査、招集することにしたのです」
その話に引っ掛かるところがないでもなかった。多少濁されているけれども、カミュの説明を聞くに、どうしても
「疑わしきはすべて罰しろ」と言っているように思えるのだ。だが、討伐隊員であるナタレアは所詮門外漢。彼女はただ目を伏せるのみだった。
「……なるほど。そして、私どもに当日の警備を、ということですね」
「ええ、その通りです」
カミュの満足そうな微笑みには、一切の疑惑も追及も受け付けないという圧があった。
束の間、双方が無言の時間が流れる。気まずさと緊張が入り混じった沈黙は、良からぬ予感となってナタレアの心に住み着いた。
『やめろ! やめてくれ! 俺が何をしたって言うんだよオオォォ!』
半狼化した民間人が――否、半狼化してしまった時点で、その男はもはや守るべき対象ではなくなった――半狼化した駆除対象が、吼えるような慟哭を交えて訴える声が、耳にこびり付いて離れない。
『お願いです! やめてください、見逃してください! 主人は人間です!』
夫を駆除対象と見做されてしまった哀れな婦人が、泣いて縋る声が。
『どうして? どうして主人を助けてくれなかったの? この……っ、人殺し……ッ!』
罵声と共に、差し出した手を払い除ける彼女の声が、ナタレアの心を蝕んでいく。
ナタレア・マーグストは魔物を憎んでいる。
その憎しみは、きっと他の人たちよりも、ずっと。
お気持ちはわかります、なんて。彼女にはそう言ってあの女性を慰めてやることもできたけれど、そんな言葉ほど意味のないものはないとわかっていた。同じような言葉を、彼女も幼い頃に掛けられたから。
ナタレアの父は魔物討伐隊に殺された。今回の駆除対象と同じように、ライカンスロープに噛まれ、半狼化したために退治されたのだ。当時十三になったばかりのナタレアは、あの女性と同じ言葉で隊員たちを罵った。
気持ちは冷めなかった。悲しみは癒えなかった。
ただ、父を穢した元凶であるライカンスロープが退治されたと聞いた時、討伐隊に対するナタレアの恨みはスッと解けて消え去ったのだった。
父を殺したのは、魔物だ。討伐隊に殺されたのではない。人であった父は、ライカンスロープに穢された時点で死んでしまったのだから。
ナタレアは決して魔物を許さない。自分と同じ想いをする者をこれ以上見たくないから。ところが、討伐隊として経験を積み、部下を持つ立場になると、その想いはまた別のものによって増強された。
恐怖だった。目の前の親しい者をまた奪われるかもしれないという恐怖。
父を殺した魔物を。部下を殺すかもしれない魔物を――許すな。
そう自身に言い聞かせることにも、疲れてきてしまった。
数分後、班員のロズが訪ねてきた。既にナタレアは感傷から立ち直っており、彼女が零した涙の痕跡など何ひとつ残されていなかった。
「マーグスト班長、今よろしいでしょうか?」
「構わんよ。入りたまえ」
ロズの沈んだ顔を見て、ナタレアは彼の用件がどんなものか察してしまった。それが表情にも出たらしく、ロズは苦々しく口角を上げる。
「ええ、ご想像の通り。ユリアがまた単独で魔物退治に行き、つい先程署に戻りました」
「その様子だと、ユリアは無事のようだな?」
「はい。いくらか負傷していますが、大事にはあたりません」
ナタレアの口から溜息が漏れる。そこには安堵と諦めの両方が含まれていた。
ユリア・レープマンの暴走は、今週に入って既に二回目だ。その度に説教をし、本部に出頭して代わりに頭を下げてやる。任務外での魔物退治はやむを得ない場合を除いて禁止されているが、それは本来隊員たちを守るための規則だ。ユリアの行動は単なる自殺未遂にすぎない。
「ユリアは今治療中か?」
「そうだと思います。マーガレットに預けましたので」
「わかった。私も新しい説教の文句が浮かんだら見舞いに行くよ。知らせてくれてありがとう、ロズ」
「いえ。お疲れ様です」
ロズは一礼して去って行った。
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ユリアの気持ちはわかるけれど。
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「く、うぅ……ッ」
食い縛った歯の間から、堪え切れなかった叫びが漏れた。ユリア・レープマンは負傷した腕を押さえ付けられ、消毒液が患部に触れるたびに悲痛な声を上げている。
「痛いですよぅ、マーガレットさん。もうちょっと優しくやってもらえませんか?」
涙ぐんでそう訴えれば、先輩隊員に鼻で笑われる。
「あら、そう? 痛い思いをしたくて飛び出していったのかと思ってたわ。わざわざこんな怪我をして戻ってくるくらいだから」
ユリアはただ項垂れた。自分の行動が身勝手だということも、そのせいで結果的に魔物の駆除率を下げてしまっていることもわかっている。説教は数を重ねるたびに同情が減り、呆れと怒りが加わっていく。
それでも。ユリアは自分を止められない。
魔物が出た。そんな噂を聞くだけで、腹の底から憎悪と怒りが湧き上がるのだ。体の中で激情が暴れまわり、自分でも手を付けられなくなる――そして、何よりも。怒りや憎悪を感じている間だけは、ダナウ・ベルデを失った悲しみを忘れられるのだ。
ぽたり、ぽたりと垂れた涙は、決して痛みによるものではない。冷めていく激情に代わり、またしても悲しみが押し寄せる。気が付けばユリアは顔を覆って泣いていた。
「ユリア」
マーガレットが肩を抱いてくれる。ダナウとの付き合いはマーガレットの方が長いだろう。悲しみだってユリアよりも強いかもしれない。けれど、彼女は決して人前で涙を見せず、常にユリアに気をしっかり保つようにと励ましてくれていた。
「いつか誰かにこんな日が来るかもと、みんな覚悟はできていたはずよ。わかっているでしょう?」
「わ、わ……わかってま、す……でも……」
あと少しでも、駆け付けるのが早かったら。
――ダナウ先輩は殺されずに済んだかもしれないのに。
「違う!」
頭を過った言葉を、咄嗟に自分で掻き消して。
「し、んでなんか、ない……! ダ、ナウ先輩は、死んで、なんか……っ」
「ユリア、落ち着いて」
こんな風に子どもみたいに泣き叫ぶのも、もう何回目だろう。激しくしゃくり上げる傍ら、そんな自分をどこか遠くから冷静に観察する自分を感じていた。
マーガレットがハンカチを差し出してくれる。寄り添う二人の体温は、悲しみを氷解させるどころか、むしろ助長させていくだけだった。
涙を噛み締め、ユリアは自分に言い聞かせる。
ダナウ先輩はきっとどこかで生きている。
大丈夫だ。先輩は強いもの。大丈夫、大丈夫、大丈夫――……。
「マーガレット?」
扉から荒削りの武骨な顔が覗く。ジャスティンはユリアの姿を認めるとギクリとしたが、すぐに表情を繕って話し掛けた。
「ああ、ユリアもいたのか。ちょうどよかったぜ」
「どうしたの、ジャスティン?」
マーガレットが立ち上がり、ジャスティンの視線からユリアを庇う。彼は居心地悪そうに咳払いした。
「班長から、三十分後に集会室に来いってよ。審問官様がまたなんか言ってきたって」
「あら。また?」
「ああ」
ジャスティンは露骨に嫌悪を顔に浮かべる。
「楽な仕事でいいけどよ。オレたちは警備兵じゃねえってのに……」
「しっ。憲兵団は異端審問官には逆らえないのよ。そういうことは職場で口にしないこと」
と、窘めつつ、マーガレットも顔を顰めずにはいられない。
「……まあ、私も審問官の警護任務は正直言って好きじゃないわ。いくら魔女が相手だとしても、処刑なんて気持ちのいいものじゃないもの」
彼女はジャスティンの腕を親しげに叩き、彼を医務室から追い出した。
「三十分後ね。ユリアと一緒に行くわ。ありがとう」
「おう。集会室でな」
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その頃、ナタレアは異端審問官と対峙していた。
サルバドル・カミュ――パリを治める敏腕の審問官だ。彼は家柄や学歴が申し分ないだけではない。審問局の中では比較的若年にもかかわらず、職務に対する情熱は人一倍。既に権威の一人として認められている。彼が魔術師、およびその配下とも見習いとも言われる魔女の討伐について書き上げた著作物は、後輩審問官たちの指南書として扱われていた。
その上、とナタレアは不快感を押し隠して考える。
頭脳明晰、容姿端麗、傍若無人。彼は優秀な審問官たる素質をすべて備えている男だ。
「マーグスト班長」
カミュ審問官は静かな声音で囁いた。演説では人々の恐怖と憎悪を煽動しているくせに、人の目を外れた途端に優しく、柔和な素顔が現れる。そのギャップにナタレアも初めは戸惑ったが、何度か護衛に就いた今では、彼の為人をある程度は理解していた。
「お忙しいところを、お呼び立てしてすみません。先日の裁判ではありがとうございました」
「いいえ。仕事ですから」
ナタレアのつれない返答にも、カミュは穏やかに眼尻に皺を作るだけだ。彼は用意された椅子に腰掛け、ナタレアにも座るよう促す。彼女はそれを断った。
「では、早速ですが――近々、大規模な魔女狩りを行うことが決定いたしました。処刑場はノートルダム大聖堂前の広場を予定しております」
ナタレアはぴくりと眉を動かした。
「一斉検挙、ですか?」
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審問官の声音に批難の色はなかったが、それでもナタレアは責任の追及を感じずにはいられなかった。辛うじて俯きこそしなかったけれど、表情が曇るのは隠せない。カミュもその様子に気付き、労わるように微笑んだ。
「本件は連帯責任というやつでしょうか。私はあなた方だけに責任があるとは考えておりません。私ども異端審問局が真っ先に黒幕の魔術師を検挙できていれば、あなた方に責任の一端が回ってしまうこともなかったのですから」
「お気遣い痛み入ります」
「――ですから、今回は必ず成果をあげるべく、魔術師あるいは魔女の可能性を疑われている者すべてを裁判へ招集します。本来であれば、市民からの告発に加え、我々審問局での調査により確実に黒と断定された者のみを招集します。しかし、それでは時間が掛かりすぎる。よって、この度は審問局だけでなく憲兵団の調査隊にもご助力いただき、一斉に調査、招集することにしたのです」
その話に引っ掛かるところがないでもなかった。多少濁されているけれども、カミュの説明を聞くに、どうしても
「疑わしきはすべて罰しろ」と言っているように思えるのだ。だが、討伐隊員であるナタレアは所詮門外漢。彼女はただ目を伏せるのみだった。
「……なるほど。そして、私どもに当日の警備を、ということですね」
「ええ、その通りです」
カミュの満足そうな微笑みには、一切の疑惑も追及も受け付けないという圧があった。
束の間、双方が無言の時間が流れる。気まずさと緊張が入り混じった沈黙は、良からぬ予感となってナタレアの心に住み着いた。
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