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育まれるもの
生きる
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目を覚ました。
素肌に冷たく乾いた感触がある。呆然と見開いた目は何も映さず、虫の声だけがすぐ傍から聞こえていた。
「……がとう、リルー」
誰かが近くで喋っている。布擦れの音が聞こえた。足音が近付いてきたので、ダナウは瞬きをして目線をズラした。
「あれ? もしかして、起きてる?」
頭上でまた布擦れの音。視界を覆っていた何かが取り払われた。
大きな碧い双眸が覗き込んでいた。跳ねた金髪が夜空を切り取っている。ジルヴィはにっこりと微笑み、ダナウの額に手を当てた。
「うん。体温も下がってきたみたい」
「……ジルヴィ?」
ダナウは体を起こした。ひんやりとした夜気に身を竦め、自身がほぼ裸に近い格好であることに気付く。
「あっ? おい、俺の服はっ?」
「今膝の上に載ってるやつだよ」
辛うじて恥部を覆っている布の塊は、広げても布の塊のままだった。服と呼べる原型を留めていない。ジルヴィはクスクスと笑いながら、抱えていた着替えを差し出した。
「はい、これ。後でリルーにお礼言ってね。彼女が取ってきてくれたんだから」
ダナウは促されるままそれを身に着けた。彼が服を着終わった頃合いを見計らって、リルーが傍の木の上から降りてくる。ダナウの頭頂部に着地し、嘴で額を何度も突いた。
「いてっ。何すんだよ、いてっ」
「リルーは怒っているんだよ。あのね、僕も怒ってるよ、ダナウ」
そう言ったジルヴィの口調はいつものように和やかだったが、彼の目は笑っていなかった。碧い瞳には静かな怒りを湛えている。
そういえば、あの時のジルヴィの目の色は――……。
ダナウはハッと目を見開いた。
「そうだ、俺――っ!」
「思い出してくれた?」
ジルヴィはやはり怒っている。眉間に皺を寄せ、動揺するダナウの顔をしっかりと見据えた。
「自分が何をしようとしたのか、覚えてるよね?」
「あ、ああ……俺は……」
廃屋を飛び出した。
走って、吠えて、変身して。
挙句の果てに、通り掛かった人間を襲おうとしたのだ。
ダナウは手の平を見下ろした。人間の手だ。指だ。だが、爪が前より随分と伸びて鋭くなっている。
「俺……なんてことを……っ」
髪の毛を握り締める。唇を噛み締めると、犬歯が刺さって血の味が広がった。
ダナウは元の姿に戻っていた。狼の耳と尻尾が生えた、奇妙な人型の姿。しかし、ところどころに変身の名残があった。
「大丈夫。あの人はちゃんと逃げ切ったって、リルーが確かめてきてくれたよ」
リルーは徐に翼を広げ、尊大に胸を張って居住まいを正した。ダナウは呆然とジルヴィを見つめるだけである。
「逃げ出したダナウを見つけてくれたのもリルーなんだ。すっごい吠えてたから見つけやすかったみたいだけど。ちゃんとお礼言ってね?」
「……あ、あ」
「ほら。早く、今」
「え、あ」
リルーがまたも額を突く。そこでやっとダナウは我に返った。
「あ、その、悪かった……ありがとう……」
「ん! よしよし」
ジルヴィが微笑み、リルーが優しく三角耳を食む。ダナウはまだ茫然自失のまま、困惑気味にジルヴィに向き直った。
「なあ、なんで俺……? そんなつもりはなかったんだ。変身した記憶も……」
「なんて言ったらいいかなぁ。そう、『魔が差した』ってやつじゃない? ダナウ、すっごく落ち込んでたでしょう? 心が不安定な状態で外に出て、月の光を浴びちゃったから、魔力の暴走を抑えられなくなったんだと思うよ」
「えっ。でも、今日は全然満月なんかじゃないのに」
「満ち欠けは月の力を強めたり弱めたりするだけで、影響自体が完全になくなる訳じゃないんだよ。言ったでしょ? ダナウはたぶん魔力との親和性が低いんだ。その上さらに精神的に不安定だったから、ちょっと欠けた月でも負けちゃったんじゃないかな」
ジルヴィは困ったような顔になり、視線を彷徨わせて躊躇う素振りを見せてから、ダナウの前に胡坐を掻く。
「ねえ、ダナウ? やっぱり僕と一緒に生きていくの、嫌?」
「は。嫌っていうか――」
「ちゃんとしたライカンスロープになる? それとも、いっそ死んじゃいたい?」
ダナウは唾を飲み込んだ。ジルヴィが何を言おうとしているのか、悟ってしまったのだ。
「ライカンスロープになりたければ、さっきみたいに人を襲って食べるといいよ。そのうち人狼化が進んでちゃんとした個体になれるから。完全な魔物になってしまえば、そんな風に苦しむこともなくなるかもしれないよ?」
それとも、とジルヴィは伏し目がちにダナウを見る。彼は一見普通の人間と同じに見える指先を絡めて握り締めていた。
「――死んじゃいたい? 僕、本当は嫌だけど、ダナウが望むなら手伝うよ。さっきみたいに首を絞めたりへし折ったり、無理矢理川に沈めたりして……本物のライカンスロープになったら無理かもしれないけど、今だったら殺してあげられると思うんだ」
「ジルヴィ……」
「どう?」
ダナウは黙ってジルヴィを見つめた。なんて悲しそうなんだろう、と思いながら。彼が浮かべている悲哀の表情は、初めて会ったあの日に正体を明かしてくれた時のものと同じであった。
ダナウは決心した。正しくは、自分の想いを再確認しただけなのかもしれないが。
「……いや。嫌じゃないよ、お前といるの」
死にたくない、と思った。情けないことかもしれないけれど。何もかも諦めて魔物になり下がるのも、中途半端なこの命を手放してしまうのも、嫌だった。
だから、生きていくためには、縋るための希望がなければならない。それはどこかに人狼化を解ける魔術師がいるかもしれないという可能性かもしれないし、自分に近い境遇の仲間がいる、という慰めかもしれない。
「そっか。よかった」
ジルヴィは、ただ嬉しそうに笑った。
素肌に冷たく乾いた感触がある。呆然と見開いた目は何も映さず、虫の声だけがすぐ傍から聞こえていた。
「……がとう、リルー」
誰かが近くで喋っている。布擦れの音が聞こえた。足音が近付いてきたので、ダナウは瞬きをして目線をズラした。
「あれ? もしかして、起きてる?」
頭上でまた布擦れの音。視界を覆っていた何かが取り払われた。
大きな碧い双眸が覗き込んでいた。跳ねた金髪が夜空を切り取っている。ジルヴィはにっこりと微笑み、ダナウの額に手を当てた。
「うん。体温も下がってきたみたい」
「……ジルヴィ?」
ダナウは体を起こした。ひんやりとした夜気に身を竦め、自身がほぼ裸に近い格好であることに気付く。
「あっ? おい、俺の服はっ?」
「今膝の上に載ってるやつだよ」
辛うじて恥部を覆っている布の塊は、広げても布の塊のままだった。服と呼べる原型を留めていない。ジルヴィはクスクスと笑いながら、抱えていた着替えを差し出した。
「はい、これ。後でリルーにお礼言ってね。彼女が取ってきてくれたんだから」
ダナウは促されるままそれを身に着けた。彼が服を着終わった頃合いを見計らって、リルーが傍の木の上から降りてくる。ダナウの頭頂部に着地し、嘴で額を何度も突いた。
「いてっ。何すんだよ、いてっ」
「リルーは怒っているんだよ。あのね、僕も怒ってるよ、ダナウ」
そう言ったジルヴィの口調はいつものように和やかだったが、彼の目は笑っていなかった。碧い瞳には静かな怒りを湛えている。
そういえば、あの時のジルヴィの目の色は――……。
ダナウはハッと目を見開いた。
「そうだ、俺――っ!」
「思い出してくれた?」
ジルヴィはやはり怒っている。眉間に皺を寄せ、動揺するダナウの顔をしっかりと見据えた。
「自分が何をしようとしたのか、覚えてるよね?」
「あ、ああ……俺は……」
廃屋を飛び出した。
走って、吠えて、変身して。
挙句の果てに、通り掛かった人間を襲おうとしたのだ。
ダナウは手の平を見下ろした。人間の手だ。指だ。だが、爪が前より随分と伸びて鋭くなっている。
「俺……なんてことを……っ」
髪の毛を握り締める。唇を噛み締めると、犬歯が刺さって血の味が広がった。
ダナウは元の姿に戻っていた。狼の耳と尻尾が生えた、奇妙な人型の姿。しかし、ところどころに変身の名残があった。
「大丈夫。あの人はちゃんと逃げ切ったって、リルーが確かめてきてくれたよ」
リルーは徐に翼を広げ、尊大に胸を張って居住まいを正した。ダナウは呆然とジルヴィを見つめるだけである。
「逃げ出したダナウを見つけてくれたのもリルーなんだ。すっごい吠えてたから見つけやすかったみたいだけど。ちゃんとお礼言ってね?」
「……あ、あ」
「ほら。早く、今」
「え、あ」
リルーがまたも額を突く。そこでやっとダナウは我に返った。
「あ、その、悪かった……ありがとう……」
「ん! よしよし」
ジルヴィが微笑み、リルーが優しく三角耳を食む。ダナウはまだ茫然自失のまま、困惑気味にジルヴィに向き直った。
「なあ、なんで俺……? そんなつもりはなかったんだ。変身した記憶も……」
「なんて言ったらいいかなぁ。そう、『魔が差した』ってやつじゃない? ダナウ、すっごく落ち込んでたでしょう? 心が不安定な状態で外に出て、月の光を浴びちゃったから、魔力の暴走を抑えられなくなったんだと思うよ」
「えっ。でも、今日は全然満月なんかじゃないのに」
「満ち欠けは月の力を強めたり弱めたりするだけで、影響自体が完全になくなる訳じゃないんだよ。言ったでしょ? ダナウはたぶん魔力との親和性が低いんだ。その上さらに精神的に不安定だったから、ちょっと欠けた月でも負けちゃったんじゃないかな」
ジルヴィは困ったような顔になり、視線を彷徨わせて躊躇う素振りを見せてから、ダナウの前に胡坐を掻く。
「ねえ、ダナウ? やっぱり僕と一緒に生きていくの、嫌?」
「は。嫌っていうか――」
「ちゃんとしたライカンスロープになる? それとも、いっそ死んじゃいたい?」
ダナウは唾を飲み込んだ。ジルヴィが何を言おうとしているのか、悟ってしまったのだ。
「ライカンスロープになりたければ、さっきみたいに人を襲って食べるといいよ。そのうち人狼化が進んでちゃんとした個体になれるから。完全な魔物になってしまえば、そんな風に苦しむこともなくなるかもしれないよ?」
それとも、とジルヴィは伏し目がちにダナウを見る。彼は一見普通の人間と同じに見える指先を絡めて握り締めていた。
「――死んじゃいたい? 僕、本当は嫌だけど、ダナウが望むなら手伝うよ。さっきみたいに首を絞めたりへし折ったり、無理矢理川に沈めたりして……本物のライカンスロープになったら無理かもしれないけど、今だったら殺してあげられると思うんだ」
「ジルヴィ……」
「どう?」
ダナウは黙ってジルヴィを見つめた。なんて悲しそうなんだろう、と思いながら。彼が浮かべている悲哀の表情は、初めて会ったあの日に正体を明かしてくれた時のものと同じであった。
ダナウは決心した。正しくは、自分の想いを再確認しただけなのかもしれないが。
「……いや。嫌じゃないよ、お前といるの」
死にたくない、と思った。情けないことかもしれないけれど。何もかも諦めて魔物になり下がるのも、中途半端なこの命を手放してしまうのも、嫌だった。
だから、生きていくためには、縋るための希望がなければならない。それはどこかに人狼化を解ける魔術師がいるかもしれないという可能性かもしれないし、自分に近い境遇の仲間がいる、という慰めかもしれない。
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ジルヴィは、ただ嬉しそうに笑った。
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