はみ出し者たちとカドゥケウスの杖

祇光瞭咲

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育まれるもの

月光

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 その後、帰路につき。隠れ家に到着しても、ダナウは一言も口を利かなかった。家に着くなり二階に上がり、彼のために宛がわれた寝室へ直行する。こっそりジルヴィが見に行くと、あの日のように布団の中で丸くなっていた。

「……まあ、仕方ないよね」

 ジルヴィはリビングで独り言ちる。リルーがぴょんぴょんと床を跳ねてきて膝に止まった。怪鳥は体は大きくても重さをほとんど感じない。オニキスのような黒い瞳が彼を覗き込み、そっと優しく耳朶を噛んだ。

「あんな状態のダナウにさ……ごめんねなんて、言えないよ……」

 ぽつり、呟いた言葉は。
 誰に届くこともなく、虚空へと漂い消えた。


***



 全身の血管が強く脈打っている。
 息が苦しかった。胸を締め付けるのは耐え難いほどの悲しみだ。悲しみの荊棘が彼の喉を、肺を、心臓を締め上げ、その激痛とも言える悲しみに、ただ体を丸めて嗚咽を漏らすことしかできなかった。

 受け入れようと、思った。
 いや、受け入れるなんて到底無理だったのかもしれない。それでも、ひとまず絶望を脇に置いておき、幻みたいな希望に縋ってみようと決めたのだ。
 けれど、そんな薄氷のような決心は、親しい人たちの姿を見た瞬間に砕けてしまった。
 ナタレア班長率いる、討伐隊第九班。そこに自分の姿がないことが、二度と彼らの前に姿を見せることができないことが、改めて彼の心を突き刺した。その痛みは自分が半狼化したと知った時の衝撃よりも大きく、ひとつ息をするたびに、ダナウの胸を圧迫した。

「どう、して……」

 涙とも唾液ともつかないものを垂れ流しながら、ダナウはボロボロのシーツを握り締める。
 どうして殺してくれなかったんだ。
 自分の迂闊な行動が招いたこととはいえ、こんな仕打ちはあんまりだ。こんな風にはぐれ者として生きるくらいなら、いっそあの時殉職してしまえればよかったのに。
 そう言葉にして考えたら、またドッと涙が溢れてしまった。息を吸おうと試みるが、喉が絞まって上手く吸えない。喘ぐうちに埃をいくらか吸い込んで、堪らず激しく噎せ込んだ。

 悲しみの次は、惨めさが襲ってくる。
 やがてそれは憎悪に。
 体の中で何かが蠢くのを感じた。

「……す」

 俺をこんな目に遭わせた奴を。

「……殺して、やる」

 半狼化してしまったために、そう簡単には自死できなくなってしまった。
 だったら、今の自分なら。
 俺をこんな目に遭わせたライカンスロープ(人狼)に、少しはダメージを与えることができるのではないか?
少しでも多く傷を与えることができれば、討伐隊の仲間たちがあの怪物を退治してくれるかもしれない――ひょっとしたら、この俺も含めて。
 そんな考えが頭を過った時には、ダナウは廃屋を飛び出していた。

 いつの間にか、夜だった。
 空には月が出ている。あの日よりも幾分か小さくなり、歪なレモンのような形になった白い月。
 雲が夜空を横切っていく。月に重なると複雑な輪郭が虹色に透け、束の間辺りを暗くする。そして、すぐにまた月光が等しく地表へと降り注ぐ。
 気持ちがよかった。夜風が頬を撫でるたび、涙の痕が火照った体を冷やしてくれる。とにかく体が熱かった。泣いたり噎せたり、激しく動いていたせいだろうか。理由はなんでもいいけれど、この熱を放出するために、夜空の下を思い切り走りたい気持ちが高まっていた。

 ダナウは駆けた。
 街を背にして、より空の開けた方向へと走った。
 置き去りにした風が伸び始めた黒い髪をなびかせ、琥珀色の瞳には星の煌めきが映り込む。もっと速く、もっと先へと足を伸ばすたび、心も体もどんどん軽くなっていくようだった。

 彼が足を止めたのは、どこだかもよくわからない、小高い丘の上だった。パリの街並みが眼下に光の粒を散らしている。そこに息衝く営みを思っても、彼の胸は痛まなくなっていた。むしろ、言いようのない興奮が全身を駆け巡っていた。
 一番見晴らしのいい場所に立ち。
 月光を全身に浴びながら、彼は吠えた。
 高らかに。伸びやかに。夜空へと響く遠吠え。
 どこか遠くで誰かが彼に応えてくれた。それが少しだけ嬉しくて、彼はさらに三度夜空に鳴いた。

 ピクリと耳が動く。
 ダナウは吠えるのをやめ、吊り上がった両目を大きく開いた。トパーズの中央で瞳孔がぐっと大きくなる。三角耳は微かな物音を求めて前に後ろに向きを変え、長い鼻腔が空気の匂いを嗅ぎ分けた。

 ――見つけた。

 後ろ脚に力を籠める。勢いよく地面を蹴った。

「……ひっ!」

 目掛けた先には、帰途を歩む労働者の姿が。
 恐怖に見開かれた男の目を見た瞬間、ダナウの心臓が大きく跳ねた。

「う、うわああぁぁぁ!」

 男が――獲物が、悲鳴を上げて走り出す。思わずダナウは口角を上げた。だって、そんなことしたって無駄なのに。人間風情が狼の足に敵うはずがないのだ。
 縮こまっていた上半身を月夜に伸ばす。軽やかに着地したのは、逃げる男の正面だった。

「ひいいぃっ! 狼だ……っ!」

 男が踵を返そうとして、転倒した。恐怖のあまり足が縺れたのだろうか。哀れだなぁ、滑稽だなぁ、と思うと、さらにさらに楽しくなった。
 一歩踏み出す。開いた口、牙の間から、熱い吐息を撒き散らす。目は爛々と輝き、男の汗ばんだ首筋に釘付けになっていた。空腹を、思い出していた。
 哀れな獲物に躍り掛かる。

 ところが。
 彼の牙が食らい付いたのは、芳しい男の首ではなかった。もっと硬く、悍ましく、肉でも脂肪でもないもの。弾力が牙を押し返したと思ったら、それは口の中で膨張を始めた。

「な、あ、バケモノだああぁぁぁ……!」

 男が絶叫しながら逃げ出した。すぐに追い掛けないと。だが、口の中のソレは牙を抜くことを許さず、さらにはもう一方の腕が眼前に迫っていた。

「ダナウ――ッ!」

 聞き覚えのある声。その腕が彼の喉首を捉えた。咄嗟に身を捩るが避けきれず、頸部を鷲掴みにされてしまう。
 目の前に赤い光があった。これは、目だ。そして、鼻と。口と。汗で貼り付いた柔らかい金の髪。

「ダナウ、って、ばぁ――ッ!」

 ジルヴィは一言一言捻じ込むように発しながら、狼に食らい付かれた腕を変形させていった。肘のあるべき場所が伸び、首を掴んでいる左手と共にダナウの頭部を締め上げていく。頚骨がミシミシと気味の悪い音を立てた。
 酸素が断たれる。そう思った瞬間、ダナウは意識を手放していた。

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