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ライカンスロープ狩り
任務
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日中に空を覆っていた厚い雲は、風に流されて彼方へと消えていった。代わりに夜が腰を据え、西の空だけが仄かに残光に染まっている。毒々しいほどの橙色と、黒スグリの実を潰したような赤黒い紫は、浸食しつつある夜の色とは対照的で。普段ならただ自然の鮮やかさに感嘆するところだが、、そこに言いようのない不吉さを感じてしまったのは、これから自身の身に降りかかる悲劇を無意識のうちに予見していたのかもしれない。
ダナウ・ベルデは馬車の中で頬杖に不機嫌な横顔を預けていた。日が暮れるにつれて車窓は黒く塗り潰され、眉をしかめる自分の顔と見つめ合うことになる。今宵の彼はなんだか妙に落ち着きをなくしている。時に眠気を誘う走行中の振動すら、今の彼には焦燥を煽っているようにしか思えなかった。
「せーんぱい?」
硝子に映る肩越しに、茶色いショートヘアーが顔を覗かせた。鬱陶しそうに目を上げるだけのつれない返事にもめげず、ユリア・レープマンは明るい声を投げつける。
「どうしたんですか、怖い顔しちゃって」
ダナウは手をひらつかせて彼女を追い払おうとした。
「ひょっとして、緊張してます?」
「うるさいぞ。静かにしてろ」
「えっ。本当に緊張してるんですか? ダナウ先輩ともあろう人が?」
「アホ。俺はな――」
振り返るダナウよりも先に、向かいに座る長身の女性が窘めた。
「どんな熟練者でも、討伐任務の前には緊張するものだよ。そしてその緊張こそが、いざという時に魔物の攻撃から自分の身を守ってくれる。君には少々緊張感が欠けているようだね、ユリア・レープマン」
柔らかい黒の眼差しに射抜かれて、ユリアはしおらしく首を垂れた。
先輩には軽口を叩ける新人も、ナタレア・マーグスト隊長に対しては態度を改める。ナタレアは彼らの大先輩であり、彼ら第九班を率いるリーダーであった。彼女の口調がどれほど穏やかであろうとも、その一言は叱責に等しい。
ナタレアは畏縮するユリアに微笑み掛け、それからダナウに目を向けた。彼女が小さく首を傾けると、黒く長い髪がさらりと音を立てたような気がした。
「しかし……ダナウ、さすがの君も今回ばかりは落ち着きを失っているように見える」
「え、俺が?」
ダナウは驚いて彼女を見る。ナタレアは美しい顔に慈しむような笑みを浮かべていた。
「まあ、無理もないと思うがね。何しろ相手は『ライカンスロープ』だ。ここ数年間でパリに出没した魔物の中では、断トツに危険な存在だと言っていい」
三人の間に緊張が走る。
そうだ。今日のターゲットはライカンスロープ(人狼)――高い変身能力を持つ大型の魔物。日頃相手にしているグール(食屍鬼)やレイス(幽鬼)とはわけが違う。
ライカンスロープが狼より、または他の魔物よりも危険視される理由は、優れた身体能力と攻撃性だけではない。彼らは人肉を好んで食らううえに、血を分け与えることで人間を感染させることができるのだ。そうして生まれた新たな個体は半狼と呼ばれ、やがて血が完全に同化すると、人狼となる。特筆すべきはその変身能力の高さ。ライカンスロープは人間の姿と狼の姿を完璧に使い分けることができるという。つまり、人間に化け、人間社会に同化して生きていけるのだ。
ライカンスロープと思しき巨大な狼の目撃情報は、今のところすべて郊外の農村部だ。食い殺された被害者の数は三人だけれど、それ以外に何人が襲われ、何人が感染させられているのかがわからない。見知った顔の隣人が、本当は狼に変身するバケモノかもしれない――そんな恐怖が、昨今パリの街を脅かしていた。
だが、今日は満月だ。ダナウは車窓を見やる。
どれほど変身能力に長けたライカンスロープであろうとも、満月による魔力の暴走は抑えきれないはず。空に月が出続けている間、彼らは人間の姿に擬態することはできないだろう。
今日しかない。
この機を逃してしまえば、また一ヵ月待つことになる。
ダナウたちイルミナティ(啓明党)傘下の憲兵団魔物討伐隊は、今日という日にすべてを懸けていた。討伐隊全十二班を総動員し、ライカンスロープが潜伏していると思しき地域を一斉捜索する。今夜、確実に討伐しなければならないのだ――この命に代えてでも。
すっかり身を硬くした部下二人の様子を見て、ナタレア班長はすまなそうに眉尻を下げた。
「気負い過ぎる必要もないぞ、二人とも。適度に肩の力を抜き、適度な緊張で身を引き締めろ」
「もう。班長ったら、簡単に言いますねぇ……」
入隊して間もないユリアには大変な重責だ。それでも彼女が今回の任務に参加しているのは、それだけ彼女が訓練課程にて優秀な成績を修めたからに他ならない。自らが背負う期待の重さも、彼女には重く圧し掛かっているに違いなかった。
「心配するな。何かあっても私がカバーする。もちろん、ダナウもな」
ユリアはふわりと髪を広げてダナウを振り返った。
「そうでした! いざという時はきっと先輩が守ってくれますよね」
「あ?」
彼女は緊張を誤魔化すようにニコニコと笑顔を浮かべている。あざとくも寄せられた柔らかい塊が制服のボタンを押し上げ、胸囲の窮屈さを訴えているようだった。危なくそこに視線を吸い込まれそうになって、ダナウは再びそっぽを向いた。
「知るか。自分の身は自分で守れ」
「えぇ? 先輩、冷たいぃ」
「そうだぞ、ダナウ。うちのエースがケチ臭いことを言うな」
ナタレアも一緒になってそんなことを言うので、ダナウは居心地悪さから話題を変えた。
「ライカンスロープは絶対に今日で退治する。だが、根本を断たなければ同じことの繰り返しだ。黒幕は見つかったのか?」
ナタレアは黙って首を振る。ユリアが横から口を挟んだ。
「黒幕? 黒幕がいるんですか?」
「ライカンスロープというのは、魔術によって新たに造り出すか、人間を感染させない限り増えないんだ。奴らに生殖能力はないからね。だから、これまで確認されていなかったパリ周辺で奴が出没したということは、それを造り出した者がいる可能性が高いんだ」
「まさか……魔術師?」
「ああ。それも、かなり高度な魔術を操る輩がね」
ただ、とナタレアは説明を締め括る。
「それを探すのは調査隊の仕事だ。私たち討伐隊は目の前の脅威を取り除くだけ。たとえ黒幕が見つからず、このままライカンスロープが増え続けたとしても、被害が出る前に退治してしまえばいいだけのことなのだから」
「そうは言ってもな……」
ダナウは溜息を絞り出した。
彼ら討伐隊は、魔物に脅かされる人類にとっての最後の砦だ。ダナウだってその使命に誇りを持ち、人々の生活を守るために、この身を捧げる覚悟でいる。しかし、果てのない魔物との死闘に気持ちが疲弊してしまうのは、それとはまた別の問題だろう。
絶対に今日で片をつけなければ。決着は早ければ早い方がいい。
そうでなければ、いつか不安で圧し潰されてしまうだろうから。
ダナウ・ベルデは馬車の中で頬杖に不機嫌な横顔を預けていた。日が暮れるにつれて車窓は黒く塗り潰され、眉をしかめる自分の顔と見つめ合うことになる。今宵の彼はなんだか妙に落ち着きをなくしている。時に眠気を誘う走行中の振動すら、今の彼には焦燥を煽っているようにしか思えなかった。
「せーんぱい?」
硝子に映る肩越しに、茶色いショートヘアーが顔を覗かせた。鬱陶しそうに目を上げるだけのつれない返事にもめげず、ユリア・レープマンは明るい声を投げつける。
「どうしたんですか、怖い顔しちゃって」
ダナウは手をひらつかせて彼女を追い払おうとした。
「ひょっとして、緊張してます?」
「うるさいぞ。静かにしてろ」
「えっ。本当に緊張してるんですか? ダナウ先輩ともあろう人が?」
「アホ。俺はな――」
振り返るダナウよりも先に、向かいに座る長身の女性が窘めた。
「どんな熟練者でも、討伐任務の前には緊張するものだよ。そしてその緊張こそが、いざという時に魔物の攻撃から自分の身を守ってくれる。君には少々緊張感が欠けているようだね、ユリア・レープマン」
柔らかい黒の眼差しに射抜かれて、ユリアはしおらしく首を垂れた。
先輩には軽口を叩ける新人も、ナタレア・マーグスト隊長に対しては態度を改める。ナタレアは彼らの大先輩であり、彼ら第九班を率いるリーダーであった。彼女の口調がどれほど穏やかであろうとも、その一言は叱責に等しい。
ナタレアは畏縮するユリアに微笑み掛け、それからダナウに目を向けた。彼女が小さく首を傾けると、黒く長い髪がさらりと音を立てたような気がした。
「しかし……ダナウ、さすがの君も今回ばかりは落ち着きを失っているように見える」
「え、俺が?」
ダナウは驚いて彼女を見る。ナタレアは美しい顔に慈しむような笑みを浮かべていた。
「まあ、無理もないと思うがね。何しろ相手は『ライカンスロープ』だ。ここ数年間でパリに出没した魔物の中では、断トツに危険な存在だと言っていい」
三人の間に緊張が走る。
そうだ。今日のターゲットはライカンスロープ(人狼)――高い変身能力を持つ大型の魔物。日頃相手にしているグール(食屍鬼)やレイス(幽鬼)とはわけが違う。
ライカンスロープが狼より、または他の魔物よりも危険視される理由は、優れた身体能力と攻撃性だけではない。彼らは人肉を好んで食らううえに、血を分け与えることで人間を感染させることができるのだ。そうして生まれた新たな個体は半狼と呼ばれ、やがて血が完全に同化すると、人狼となる。特筆すべきはその変身能力の高さ。ライカンスロープは人間の姿と狼の姿を完璧に使い分けることができるという。つまり、人間に化け、人間社会に同化して生きていけるのだ。
ライカンスロープと思しき巨大な狼の目撃情報は、今のところすべて郊外の農村部だ。食い殺された被害者の数は三人だけれど、それ以外に何人が襲われ、何人が感染させられているのかがわからない。見知った顔の隣人が、本当は狼に変身するバケモノかもしれない――そんな恐怖が、昨今パリの街を脅かしていた。
だが、今日は満月だ。ダナウは車窓を見やる。
どれほど変身能力に長けたライカンスロープであろうとも、満月による魔力の暴走は抑えきれないはず。空に月が出続けている間、彼らは人間の姿に擬態することはできないだろう。
今日しかない。
この機を逃してしまえば、また一ヵ月待つことになる。
ダナウたちイルミナティ(啓明党)傘下の憲兵団魔物討伐隊は、今日という日にすべてを懸けていた。討伐隊全十二班を総動員し、ライカンスロープが潜伏していると思しき地域を一斉捜索する。今夜、確実に討伐しなければならないのだ――この命に代えてでも。
すっかり身を硬くした部下二人の様子を見て、ナタレア班長はすまなそうに眉尻を下げた。
「気負い過ぎる必要もないぞ、二人とも。適度に肩の力を抜き、適度な緊張で身を引き締めろ」
「もう。班長ったら、簡単に言いますねぇ……」
入隊して間もないユリアには大変な重責だ。それでも彼女が今回の任務に参加しているのは、それだけ彼女が訓練課程にて優秀な成績を修めたからに他ならない。自らが背負う期待の重さも、彼女には重く圧し掛かっているに違いなかった。
「心配するな。何かあっても私がカバーする。もちろん、ダナウもな」
ユリアはふわりと髪を広げてダナウを振り返った。
「そうでした! いざという時はきっと先輩が守ってくれますよね」
「あ?」
彼女は緊張を誤魔化すようにニコニコと笑顔を浮かべている。あざとくも寄せられた柔らかい塊が制服のボタンを押し上げ、胸囲の窮屈さを訴えているようだった。危なくそこに視線を吸い込まれそうになって、ダナウは再びそっぽを向いた。
「知るか。自分の身は自分で守れ」
「えぇ? 先輩、冷たいぃ」
「そうだぞ、ダナウ。うちのエースがケチ臭いことを言うな」
ナタレアも一緒になってそんなことを言うので、ダナウは居心地悪さから話題を変えた。
「ライカンスロープは絶対に今日で退治する。だが、根本を断たなければ同じことの繰り返しだ。黒幕は見つかったのか?」
ナタレアは黙って首を振る。ユリアが横から口を挟んだ。
「黒幕? 黒幕がいるんですか?」
「ライカンスロープというのは、魔術によって新たに造り出すか、人間を感染させない限り増えないんだ。奴らに生殖能力はないからね。だから、これまで確認されていなかったパリ周辺で奴が出没したということは、それを造り出した者がいる可能性が高いんだ」
「まさか……魔術師?」
「ああ。それも、かなり高度な魔術を操る輩がね」
ただ、とナタレアは説明を締め括る。
「それを探すのは調査隊の仕事だ。私たち討伐隊は目の前の脅威を取り除くだけ。たとえ黒幕が見つからず、このままライカンスロープが増え続けたとしても、被害が出る前に退治してしまえばいいだけのことなのだから」
「そうは言ってもな……」
ダナウは溜息を絞り出した。
彼ら討伐隊は、魔物に脅かされる人類にとっての最後の砦だ。ダナウだってその使命に誇りを持ち、人々の生活を守るために、この身を捧げる覚悟でいる。しかし、果てのない魔物との死闘に気持ちが疲弊してしまうのは、それとはまた別の問題だろう。
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