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2巻
2-2
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ドルメールの姿が消えた後、アルマンと黒い炎の人影は、暫く無言のまま対峙していた。
『どうした、アルマンよ。そなたは我に忠誠を誓わぬのか? 神たるこの私に』
「……神だと? 笑わせる。貴様は本を正せば、ただのエルフではないか。神などではない」
黒い炎の人影は、それを聞いて高らかに笑う。
「お前はアファード王の懐刀とも呼ぶべき男。我らのことも、無論、知っておろうな」
アルマンの銀の瞳が、黒い炎を射抜いた。
「かつてこの場に集いし五人のハイエルフの一人、テネブラエ。千年前、貴様らがここで犯した罪を、私が知らぬとでも思っているのか」
アルマンのその言葉に、黒い炎が上下に揺れた。笑っているのだ。
『ふふ、ふははは! そうか、知っているのだな。貴様は、真実を。真実の塔、大図書館ヴェリタスか? やはりお前は、邪悪なことしか能がないあの男とは異なる人間らしい。どうだ、我が下僕となれば、貴様の望みは全て叶えてくれようぞ』
「黙れ! 偽りの神が!! 私は、あの方を奪った貴様を殺す為にここに来たのだ!」
恐るべき速さであった。その言葉を発するや否や、アルマンは問答無用で黒い炎の人影に向かって踏み込んでいた。両腕にはそれぞれ剣が握られている。
双剣の抜刀術。
大陸随一と呼ばれたアファード王の剣と真っ向から打ち合えたのは、バルダスを除けばアルマンだけだと言われている。それはまさに、神技と呼べる領域のものであろう。
「テネブラエ様!!」
エルフの女がそう叫んだ時、黒い炎は両断されていた。
だが、一瞬掻き消えた炎は何事もなかったかのように、ゆっくりとまた人影の姿となる。
『無駄だ、これは私の影に過ぎん。くくく、それに貴様は我に逆らうことは出来ん。そうであろう? アファード王よ』
テネブラエの予想外の言葉に、流石の銀髪の貴公子の顔にも動揺が走った。
「なに! 貴様……。何を言っている?」
アルマンは背後を振り返る。異様な気配を感じたのだ。
そして自らの視線の先にいる人物を見て、アルマンは全身から血の気が失せていくのを感じた。
「そ、そんな馬鹿な! このようなことがあるはずがない!! 私は見たのだ……。確かにあのお方が、亡くなられるところを」
見事な黄金の髪、そして堂々たる体躯。神々に愛されたことが一目で分かる美しい容貌。
それは、紛れもなく王者の中の王者と呼ばれた男である。
「アファード様……。い、一体これは!」
呆然と呟くアルマンを嘲笑うかのように、黒い炎がゆらゆらと不気味に揺れた。
『いずれ扉が開く。千年前の、あの日のようにな。アルマンよ、貴様が我に協力するというのなら……。その時、地上の王として君臨するのはアファード・レークス・ドラグリア。貴様が敬愛して止まぬ、この男になるであろう』
その声はいつまでも暗い地下の洞窟の奥に響き、やがてアルマンを嘲弄する戦慄すべき哄笑へと変わっていった。
◇
その頃、王都が見渡せる丘の上で一人の男がドラグリア王宮を眺めていた。
精悍な顔をした長身で黒髪の男である。
引き締まった体を包む鮮やかな紅の衣装に、濃い赤のマント、腰からは剣というよりは刀に似た得物を提げている。
その肩には白い動物が乗っていた。
誰かがその姿を見たのならば、有りえないと言うだろう。
愛らしく大きな瞳と白い体毛に覆われた翼、それはまだ余りにも小さな存在だったが、まぎれもなく遥か昔に絶滅したはずの竜という生き物であった。
その小さな白い生き物は男を見上げて口を開く。
「ねえ、リュオン。よかったの? あのアルマンっていう人に力を貸してあげなくても。アファード王は選ばれし者、再び守護者を倒せる者がいるとしたら、アファード王だってリュオンも言ってたじゃない?」
まるで鈴の音のような声でそう言った小さな白竜の頭を撫でると、リュオンと呼ばれた男は笑った。
「テアラ、気に入ったのか? あの男が」
小さな竜は頬を膨らませてリュオンを睨む。
「別に! リュオン以外の男なんてどうでもいいし! でも私達の話を聞いて、とても悲しい目をしてた。ヴェリタスでアルマンと会ったのも運命だとしたら、少しぐらい手を貸してあげてもいいんじゃないかって……」
テアラと呼ばれた小さな竜の言葉に、リュオンは遠く空を見上げて答えた。
「残念だが、俺の使命とは何の関わりもない。だがお前が言うように、もし運命だとしたらいずれまた会うことになるだろう。それだけの話だ」
そう言うとリュオンは踵を返して歩き始める。
夕闇が周りを包んでいく中、男の瞳は緋色に輝いていた。
第一話 アンファルの黒い狼
いい香りがする。
柔らかく、俺の鼻腔をくすぐる髪の感触。
俺は思わずその匂いの正体を抱き締めて、胸一杯にすうっと息を吸い込んだ。美しい花のような香り、すべすべとした滑らかな質感。少し女の汗の匂いも混ざっているだろうか。
「ハルヒコ様、駄目です……。そんなに匂いを嗅いだら……。恥ずかしいです」
困惑したような、それでいて甘えた声が、俺の腕の中から聞こえた。
(……ん?)
どうせリーアが、朝になって俺を起こしにでも来たのだろう。
「おいリーア、変な起こし方はやめろ。まるで俺があぶない趣味を持った変態野郎みたいじゃないか!」
だが俺の予想は外れた。美しく青い髪をベッドの上に広げながら、清楚な顔を真っ赤に染めた少女が俺の腕の中にいる。
そして、上目遣いでジットリと俺を見つめて呟いた。
「やっぱり、リーアさんの言ったとおりです」
「うぉ!!」
俺は叫んだ。
目の前にいるのは、アイリーネ女王じゃないか。
「なっ!! なんでこんな所にいるんだ!? アイリーネ、ここは俺の寝室だぞ!!」
思い出せ……。
まさか俺が夜這いをした、なんてことはないよな?
女王にそんな無礼を働けば、ルビアとアウロスに殺されかねない。
いや、アウロスの心配をする必要はないか。既成事実を突きつけられて、婚約させられるかもしれないが。
アイリーネも、明らかに困惑した顔で俺を見ている。
「あの、私も分からなくて。さっき目が覚めたらここに……。そしたら勇者様がギュッと私の頭を……」
誰だ、俺を罠にかけようとしている奴は。
俺は可愛らしい顔で俺を見つめる女王に向かって言った。正確に言えば、アイリーネの中にいる存在に向かってなのだが。
こんなことが出来る奴は一人しかいない。
「お前かファンリエラ! 娘に何をさせてるんだ!!」
目の前の少女の雰囲気が、がらりと変わる。
「ふふっ」と妖艶な笑みを浮かべ、からかうような瞳で俺に腕を絡めてくる。それは紛れもなくフェレト神殿の主にして大地の女神ファンリエラだった。
フェレト神殿の巫女ノルンリアナの娘であるアイリーネの体を一時的に支配していたのだろう。
アイリーネには母と同じように巫女の才能があると言っていたからな。
「よいではないか。いずれお前はアイリーネの夫になるのだ。わらわが決めたのだから、文句はあるまい?」
「ないわけないだろ! アイリーネは新生ドラグリア王国の女王なんだからな。こんなところを誰かに見られたら、大変なことになるぞ」
女神と呼ばれる上級精霊は俺の首に手をまわして、悪戯っぽく笑った。その視線は俺の背中の先を向いている。
「ふふっ、もうとっくに見られておるようじゃが、よいのか?」
俺は、殺気を感じて後ろを振り返った。
そこには、俺の部屋の扉を開けたまま呆然と立ち尽くしている二人の人影があった。
アルドリア王国の王女リーアと聖騎士団長ルビアである。
「お兄ちゃん……。何してるの……。死にたいの?」
最近のリーアは容赦がない。ベッドの上で抱き合う俺とアイリーネを目撃し、可愛らしい顔を引きつらせている。
「リーア様、いっそこいつを皆の前で焼き殺しましょう。処刑するべきです!!」
ルビアは、剣を鞘に収めたままこちらを睨んでいる。あっさりと殺すのでは、もはや気が済まないらしい。
上級精霊のミルファールが妖精の姿で俺の体から飛び出し、リーアの頭の上に止まった。
「リーアさん! ルビアさん! やめてください!! ハルヒコさんは、アイリーネさんの髪の匂いを嗅いでいただけです! わたしが見てましたから、間違いありません!!」
(ああ……。お前、絶対俺を殺す気だよな)
大体、俺にはそんな趣味はない、誤解にも程があるというものだ。
「リーア様……。やはりこの男、今すぐここで始末します。ご許可をください!!」
「おお、わらわは永遠の大地の女神麗しのファンリエラと呼ばれし者。死に瀕したるこの哀れな者を、わらわの力にて回復させん。ホーリーヒール!!」
(おい! 今、死に瀕したるって言わなかったか?)
相変わらず長い詠唱だが、俺を回復させたのはファンリエラである。
「まったく、わらわが止めねば本気で殺すつもりだったのか? アルドリアの薔薇よ」
リーアとルビアが固まっている。
それはそうだろう。女神と呼ばれる存在が、目の前で俺を治療しているのだから。
「お兄ちゃん……。この人って本物の女神様? でもアイリーネさんは?」
「ハルヒコ、お前! まさかアイリーネ様ではなく女神様にまで! このケダモノめ!!」
ルビアはまた剣を抜きかける。
「そんな訳があるか! 説明してくれ、ファンリエラ!!」
ファンリエラは肩をすくめる。
「わらわがこの男を気に入ったからじゃ、それでよかろう!」
「お前がよくても、俺が困るんだよ!!」
ファンリエラは不満そうに頬を膨らませつつ、しぶしぶと説明を始める。
全てを話し終えると、ミルファールがリーアの手のひらの上に乗った。
リーアは混乱したように俺を見つめる。
「えっと……、女神様が本当は精霊で、それで妖精さんの叔母様で……。えっとアイリーネさんのお母さんで、でもノルンリアナさんもお母さんで、それで今はアイリーネさんの中にいて……。えっと……」
「まあ、そういう訳じゃ。暫くはそなた達と同行させてもらおうぞ。訳あって戦いに手出しは出来ぬが、アイリーネの夫になる男に死なれでもしたら困る。それではアイリーネを頼むぞ、ハルヒコ」
言いたいことを言ってしまうと、ファンリエラはアイリーネの体の支配を解いた。
全身を覆うような妖艶な雰囲気が消え、瞳の色に清楚な色合いが戻る。アイリーネの中では、さっき俺としていた会話で記憶がストップしているはずだ。大きな瞳を震わせて、思いつめた表情を浮かべている。
(……嫌な予感がするな)
そして、アイリーネは言った。
「いいんです! 私は勇者様に少しぐらい変な趣味があっても……。私の髪でご満足いただけるなら! ど、どうぞ!!!」
アイリーネは顔を真っ赤にして、俺に可愛らしく頭を突き出した。
「どうぞって……。私のお兄ちゃんに何してるんですか? アイリーネさん!」
リーアがアイリーネを睨んでいる。
「え!? え!! ……なんでリーアさんが? ルビアさんも!!」
ファンリエラに体を支配されていた間の記憶がすっかり飛んでいるアイリーネは、今気づいたとばかりに驚きの声を上げた。
リーアが当然の権利だという顔で、極めて自然な動作で俺の膝の上に乗る。それからぷっくりと頬を膨らませながら俺に強く主張した。
「これからは、どうしてもお兄ちゃんがそうしたい時は、リーアに相談してください!」
(いや、リーア……。それが、一番駄目だろ)
アイリーネが新生ドラグリア王国の女王になって一週間。
俺達は今、フェレト神殿の東に位置する城塞都市ラハンに陣を構えていた。この辺りではフェレトに次ぐ拠点であり、周囲に張り巡らされた城壁が敵の侵入や攻撃を容易ならざるものとしている。
俺達は、戴冠式が終わるや否や行動を開始した。
まず、伝令を各地に走らせ、フェレト周辺の都市の制圧に奔走した。
この土地は、もともと大地の女神ファンリエラへの信仰心の厚い民が多く暮らしている。したがって、アファード王の娘であるアイリーネを支持する者も少なくなく、この地域をいかに早く手中に収めるかが、新生ドラグリア王国の足場を固める上で最も重要だった。
加えて俺がことさらに併合を急いだのには、もう一つ理由がある。
リーアとのある約束を守るためだ。
(リーアに、俺が出来ることはやると約束したからな。そろそろ向こうも動き出していいころだが)
「お兄ちゃん?」
「ハルヒコ! こら、どこに行く!? 本当に反省してるのか? まだ話が終わってないぞ!!」
リーアとルビアの説教から逃れる目的もあるが、俺はアンファルの王女であるヨアンとの約束の時刻を思い出し、自分の部屋のテラスからラハンの城壁を見渡した。
跳ね橋を上げた城門の辺りにいる兵士達の間で、何やら騒ぎが起こっているらしい。
俺は背後を振り返り、リーアの髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
「どうやら、来たみたいだな」
「え? お兄ちゃん、来たって誰が?」
俺の言葉に、リーアが不思議そうに首を傾げる。
丁度その時、衛兵が俺の部屋に駆け込んで来た。
「勇者様! 城門に女が現われ、小競り合いになっているようです。『ヨアンが来た!』と、リーア王女殿下か、勇者様に伝えてくれれば分かると言っているのですが――」
衛兵の言葉を聞いた瞬間に、リーアは駆け出していた。
「ヨアンさん!!」
「おい、待てよリーア。そんなに慌てなくたって、ヨアンは逃げやしないさ」
俺の言葉に足を止めてリーアは笑顔になる。
「だって! きゃっ!!」
ひどく慌てたからだろう。躓いて転びそうになるリーアを俺は後ろから抱きとめると、そのまま彼女の体を横に抱えて部屋を飛び出す。
また転びそうになって怪我でもされてはかなわない。
「お、お兄ちゃん!」
リーアが顔を真っ赤にして俺を見ている。
さすがに元の世界では経験できない、貴重なリアルお姫様だっこだ。
「ちょっと酷いじゃないですか。置いていかないでください! 大体リーアさんだけ、ずるいです!!」
アイリーネが非難の声を上げる。
ルビアが苦笑し、アイリーネの手を引いて後ろから追いかけて来た。
その姿を見て、リーアは可愛らしい顔で勝ち誇っている。
「当然です、アイリーネさん! お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんなんですから!」
ラハンに立ち並ぶ幾つもの建物の間を駆け抜けて城門に辿り着くと、騒ぎを聞きつけて集まって来た衛兵達がいた。跳ね橋は上げられ、堀の向こうにいる馬に乗った戦士達と睨み合いを続けている。
無理もないだろう。アルースの戦いの最中で仲間になったヨアンのことを知らない兵士も多い。
リーアは、その先頭にヨアンの姿を発見して衛兵に訴えた。
「ヨアンさんです! お願い、橋を下ろして!」
突然現れた王女の姿に、城門を守っていた衛兵達が驚いている。
俺が後押しするように頷くと、衛兵達が慌てて跳ね橋を下ろした。
その橋を渡って一人の女戦士が、こちらに馬で駆けて来る。
「リーア! ハルヒコ!!」
ヨアンは、俺達の前で馬から降りてリーアを抱き締める。
「おかえりなさい! ヨアンさん!!」
ヨアンは、まるで妹にするように優しく髪を撫ながら俺を見た。
「ハルヒコ。数日前、ドラグリア軍がアンファルから一斉に引いていった。あれは、お前が何かしたのだろう?」
俺は、軽く肩をすくめる。
「大したことはしていないさ。ただ、ここまで予定より早く進軍しただけだ。多少のリスクはあったが、リーアと約束をしていたからな」
新生ドラグリア軍がフェレト周辺を一気に制圧したとなれば、よほどの馬鹿でない限り、敵方はまず次の戦いに備えて戦力の集中に専念するだろう。
それと同時に、多くの都市で反ドルメール派が蜂起したという情報を流す。そうなれば一度、安全な場所まで兵を戻して守りを固めるといった策を取ってくるに違いない。
いつ誰が裏切るかもしれない場所に兵を分散するなど愚の骨頂だ。各個挟撃を受けて壊滅するだけである。
アルースであれほどの敗北をした以上、ドルメールが次に指名する指揮官は一人しかいない。
帝国随一を誇る軍略家、アルマン・エッテハイマン公爵だ。
アルドリアの地下書庫で調べた限りの情報では、愚かな自滅を選ぶ人物ではない。
「とにかく礼を言う、ハルヒコ」
それからヨアンは後ろを振り返り、戦士達の先頭に立つ壮年の男に声をかけた。
「父上! この男が私が申し上げた男です」
いかにも歴戦の武人といった男が俺の前に膝を突く。
「そなたがアルドリアの勇者、ハルヒコ殿か! 娘のヨアンを、そして我がアンファルを解放してくれたのは全てそなたの力と聞く。我らアンファルの民は皆、そなたとアイリーネ女王の為に命を捧げよう!」
男の後ろには、おそらく三千はいるであろう、アンファル独特の刀のような剣を装備した騎馬武者達が控えていた。彼らの姿は、どことなく日本の侍に似ている。騎馬武者達は皆、馬を降りて俺に敬意を表した。
……ただ一人を除いては。
「みんな騙されるな! 俺は信じない! こいつらだって同じだ! ドルメールを倒すために姉上を利用してるだけだ!!」
そう叫んだのは十六、七歳ぐらいの青年だった。顔立ちが少しヨアンに似ている。
ヨアンが、その青年に走り寄って肩を掴んだ。
「どういうつもりだシロウ! お前は姉の言うことが信じられぬのか!! この男は信頼できる男だ!!」
「嘘だ! だったら何故、また姉上を戦わせる! ドルメールと同じじゃないか!」
シロウと呼ばれた青年は、姉のヨアンの手を振り切って俺を睨みつける。それから側にいるアンファルの兵士の一人に剣を渡すように命じると、それを握り俺の目の前に突き出して凄んだ。
『どうした、アルマンよ。そなたは我に忠誠を誓わぬのか? 神たるこの私に』
「……神だと? 笑わせる。貴様は本を正せば、ただのエルフではないか。神などではない」
黒い炎の人影は、それを聞いて高らかに笑う。
「お前はアファード王の懐刀とも呼ぶべき男。我らのことも、無論、知っておろうな」
アルマンの銀の瞳が、黒い炎を射抜いた。
「かつてこの場に集いし五人のハイエルフの一人、テネブラエ。千年前、貴様らがここで犯した罪を、私が知らぬとでも思っているのか」
アルマンのその言葉に、黒い炎が上下に揺れた。笑っているのだ。
『ふふ、ふははは! そうか、知っているのだな。貴様は、真実を。真実の塔、大図書館ヴェリタスか? やはりお前は、邪悪なことしか能がないあの男とは異なる人間らしい。どうだ、我が下僕となれば、貴様の望みは全て叶えてくれようぞ』
「黙れ! 偽りの神が!! 私は、あの方を奪った貴様を殺す為にここに来たのだ!」
恐るべき速さであった。その言葉を発するや否や、アルマンは問答無用で黒い炎の人影に向かって踏み込んでいた。両腕にはそれぞれ剣が握られている。
双剣の抜刀術。
大陸随一と呼ばれたアファード王の剣と真っ向から打ち合えたのは、バルダスを除けばアルマンだけだと言われている。それはまさに、神技と呼べる領域のものであろう。
「テネブラエ様!!」
エルフの女がそう叫んだ時、黒い炎は両断されていた。
だが、一瞬掻き消えた炎は何事もなかったかのように、ゆっくりとまた人影の姿となる。
『無駄だ、これは私の影に過ぎん。くくく、それに貴様は我に逆らうことは出来ん。そうであろう? アファード王よ』
テネブラエの予想外の言葉に、流石の銀髪の貴公子の顔にも動揺が走った。
「なに! 貴様……。何を言っている?」
アルマンは背後を振り返る。異様な気配を感じたのだ。
そして自らの視線の先にいる人物を見て、アルマンは全身から血の気が失せていくのを感じた。
「そ、そんな馬鹿な! このようなことがあるはずがない!! 私は見たのだ……。確かにあのお方が、亡くなられるところを」
見事な黄金の髪、そして堂々たる体躯。神々に愛されたことが一目で分かる美しい容貌。
それは、紛れもなく王者の中の王者と呼ばれた男である。
「アファード様……。い、一体これは!」
呆然と呟くアルマンを嘲笑うかのように、黒い炎がゆらゆらと不気味に揺れた。
『いずれ扉が開く。千年前の、あの日のようにな。アルマンよ、貴様が我に協力するというのなら……。その時、地上の王として君臨するのはアファード・レークス・ドラグリア。貴様が敬愛して止まぬ、この男になるであろう』
その声はいつまでも暗い地下の洞窟の奥に響き、やがてアルマンを嘲弄する戦慄すべき哄笑へと変わっていった。
◇
その頃、王都が見渡せる丘の上で一人の男がドラグリア王宮を眺めていた。
精悍な顔をした長身で黒髪の男である。
引き締まった体を包む鮮やかな紅の衣装に、濃い赤のマント、腰からは剣というよりは刀に似た得物を提げている。
その肩には白い動物が乗っていた。
誰かがその姿を見たのならば、有りえないと言うだろう。
愛らしく大きな瞳と白い体毛に覆われた翼、それはまだ余りにも小さな存在だったが、まぎれもなく遥か昔に絶滅したはずの竜という生き物であった。
その小さな白い生き物は男を見上げて口を開く。
「ねえ、リュオン。よかったの? あのアルマンっていう人に力を貸してあげなくても。アファード王は選ばれし者、再び守護者を倒せる者がいるとしたら、アファード王だってリュオンも言ってたじゃない?」
まるで鈴の音のような声でそう言った小さな白竜の頭を撫でると、リュオンと呼ばれた男は笑った。
「テアラ、気に入ったのか? あの男が」
小さな竜は頬を膨らませてリュオンを睨む。
「別に! リュオン以外の男なんてどうでもいいし! でも私達の話を聞いて、とても悲しい目をしてた。ヴェリタスでアルマンと会ったのも運命だとしたら、少しぐらい手を貸してあげてもいいんじゃないかって……」
テアラと呼ばれた小さな竜の言葉に、リュオンは遠く空を見上げて答えた。
「残念だが、俺の使命とは何の関わりもない。だがお前が言うように、もし運命だとしたらいずれまた会うことになるだろう。それだけの話だ」
そう言うとリュオンは踵を返して歩き始める。
夕闇が周りを包んでいく中、男の瞳は緋色に輝いていた。
第一話 アンファルの黒い狼
いい香りがする。
柔らかく、俺の鼻腔をくすぐる髪の感触。
俺は思わずその匂いの正体を抱き締めて、胸一杯にすうっと息を吸い込んだ。美しい花のような香り、すべすべとした滑らかな質感。少し女の汗の匂いも混ざっているだろうか。
「ハルヒコ様、駄目です……。そんなに匂いを嗅いだら……。恥ずかしいです」
困惑したような、それでいて甘えた声が、俺の腕の中から聞こえた。
(……ん?)
どうせリーアが、朝になって俺を起こしにでも来たのだろう。
「おいリーア、変な起こし方はやめろ。まるで俺があぶない趣味を持った変態野郎みたいじゃないか!」
だが俺の予想は外れた。美しく青い髪をベッドの上に広げながら、清楚な顔を真っ赤に染めた少女が俺の腕の中にいる。
そして、上目遣いでジットリと俺を見つめて呟いた。
「やっぱり、リーアさんの言ったとおりです」
「うぉ!!」
俺は叫んだ。
目の前にいるのは、アイリーネ女王じゃないか。
「なっ!! なんでこんな所にいるんだ!? アイリーネ、ここは俺の寝室だぞ!!」
思い出せ……。
まさか俺が夜這いをした、なんてことはないよな?
女王にそんな無礼を働けば、ルビアとアウロスに殺されかねない。
いや、アウロスの心配をする必要はないか。既成事実を突きつけられて、婚約させられるかもしれないが。
アイリーネも、明らかに困惑した顔で俺を見ている。
「あの、私も分からなくて。さっき目が覚めたらここに……。そしたら勇者様がギュッと私の頭を……」
誰だ、俺を罠にかけようとしている奴は。
俺は可愛らしい顔で俺を見つめる女王に向かって言った。正確に言えば、アイリーネの中にいる存在に向かってなのだが。
こんなことが出来る奴は一人しかいない。
「お前かファンリエラ! 娘に何をさせてるんだ!!」
目の前の少女の雰囲気が、がらりと変わる。
「ふふっ」と妖艶な笑みを浮かべ、からかうような瞳で俺に腕を絡めてくる。それは紛れもなくフェレト神殿の主にして大地の女神ファンリエラだった。
フェレト神殿の巫女ノルンリアナの娘であるアイリーネの体を一時的に支配していたのだろう。
アイリーネには母と同じように巫女の才能があると言っていたからな。
「よいではないか。いずれお前はアイリーネの夫になるのだ。わらわが決めたのだから、文句はあるまい?」
「ないわけないだろ! アイリーネは新生ドラグリア王国の女王なんだからな。こんなところを誰かに見られたら、大変なことになるぞ」
女神と呼ばれる上級精霊は俺の首に手をまわして、悪戯っぽく笑った。その視線は俺の背中の先を向いている。
「ふふっ、もうとっくに見られておるようじゃが、よいのか?」
俺は、殺気を感じて後ろを振り返った。
そこには、俺の部屋の扉を開けたまま呆然と立ち尽くしている二人の人影があった。
アルドリア王国の王女リーアと聖騎士団長ルビアである。
「お兄ちゃん……。何してるの……。死にたいの?」
最近のリーアは容赦がない。ベッドの上で抱き合う俺とアイリーネを目撃し、可愛らしい顔を引きつらせている。
「リーア様、いっそこいつを皆の前で焼き殺しましょう。処刑するべきです!!」
ルビアは、剣を鞘に収めたままこちらを睨んでいる。あっさりと殺すのでは、もはや気が済まないらしい。
上級精霊のミルファールが妖精の姿で俺の体から飛び出し、リーアの頭の上に止まった。
「リーアさん! ルビアさん! やめてください!! ハルヒコさんは、アイリーネさんの髪の匂いを嗅いでいただけです! わたしが見てましたから、間違いありません!!」
(ああ……。お前、絶対俺を殺す気だよな)
大体、俺にはそんな趣味はない、誤解にも程があるというものだ。
「リーア様……。やはりこの男、今すぐここで始末します。ご許可をください!!」
「おお、わらわは永遠の大地の女神麗しのファンリエラと呼ばれし者。死に瀕したるこの哀れな者を、わらわの力にて回復させん。ホーリーヒール!!」
(おい! 今、死に瀕したるって言わなかったか?)
相変わらず長い詠唱だが、俺を回復させたのはファンリエラである。
「まったく、わらわが止めねば本気で殺すつもりだったのか? アルドリアの薔薇よ」
リーアとルビアが固まっている。
それはそうだろう。女神と呼ばれる存在が、目の前で俺を治療しているのだから。
「お兄ちゃん……。この人って本物の女神様? でもアイリーネさんは?」
「ハルヒコ、お前! まさかアイリーネ様ではなく女神様にまで! このケダモノめ!!」
ルビアはまた剣を抜きかける。
「そんな訳があるか! 説明してくれ、ファンリエラ!!」
ファンリエラは肩をすくめる。
「わらわがこの男を気に入ったからじゃ、それでよかろう!」
「お前がよくても、俺が困るんだよ!!」
ファンリエラは不満そうに頬を膨らませつつ、しぶしぶと説明を始める。
全てを話し終えると、ミルファールがリーアの手のひらの上に乗った。
リーアは混乱したように俺を見つめる。
「えっと……、女神様が本当は精霊で、それで妖精さんの叔母様で……。えっとアイリーネさんのお母さんで、でもノルンリアナさんもお母さんで、それで今はアイリーネさんの中にいて……。えっと……」
「まあ、そういう訳じゃ。暫くはそなた達と同行させてもらおうぞ。訳あって戦いに手出しは出来ぬが、アイリーネの夫になる男に死なれでもしたら困る。それではアイリーネを頼むぞ、ハルヒコ」
言いたいことを言ってしまうと、ファンリエラはアイリーネの体の支配を解いた。
全身を覆うような妖艶な雰囲気が消え、瞳の色に清楚な色合いが戻る。アイリーネの中では、さっき俺としていた会話で記憶がストップしているはずだ。大きな瞳を震わせて、思いつめた表情を浮かべている。
(……嫌な予感がするな)
そして、アイリーネは言った。
「いいんです! 私は勇者様に少しぐらい変な趣味があっても……。私の髪でご満足いただけるなら! ど、どうぞ!!!」
アイリーネは顔を真っ赤にして、俺に可愛らしく頭を突き出した。
「どうぞって……。私のお兄ちゃんに何してるんですか? アイリーネさん!」
リーアがアイリーネを睨んでいる。
「え!? え!! ……なんでリーアさんが? ルビアさんも!!」
ファンリエラに体を支配されていた間の記憶がすっかり飛んでいるアイリーネは、今気づいたとばかりに驚きの声を上げた。
リーアが当然の権利だという顔で、極めて自然な動作で俺の膝の上に乗る。それからぷっくりと頬を膨らませながら俺に強く主張した。
「これからは、どうしてもお兄ちゃんがそうしたい時は、リーアに相談してください!」
(いや、リーア……。それが、一番駄目だろ)
アイリーネが新生ドラグリア王国の女王になって一週間。
俺達は今、フェレト神殿の東に位置する城塞都市ラハンに陣を構えていた。この辺りではフェレトに次ぐ拠点であり、周囲に張り巡らされた城壁が敵の侵入や攻撃を容易ならざるものとしている。
俺達は、戴冠式が終わるや否や行動を開始した。
まず、伝令を各地に走らせ、フェレト周辺の都市の制圧に奔走した。
この土地は、もともと大地の女神ファンリエラへの信仰心の厚い民が多く暮らしている。したがって、アファード王の娘であるアイリーネを支持する者も少なくなく、この地域をいかに早く手中に収めるかが、新生ドラグリア王国の足場を固める上で最も重要だった。
加えて俺がことさらに併合を急いだのには、もう一つ理由がある。
リーアとのある約束を守るためだ。
(リーアに、俺が出来ることはやると約束したからな。そろそろ向こうも動き出していいころだが)
「お兄ちゃん?」
「ハルヒコ! こら、どこに行く!? 本当に反省してるのか? まだ話が終わってないぞ!!」
リーアとルビアの説教から逃れる目的もあるが、俺はアンファルの王女であるヨアンとの約束の時刻を思い出し、自分の部屋のテラスからラハンの城壁を見渡した。
跳ね橋を上げた城門の辺りにいる兵士達の間で、何やら騒ぎが起こっているらしい。
俺は背後を振り返り、リーアの髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。
「どうやら、来たみたいだな」
「え? お兄ちゃん、来たって誰が?」
俺の言葉に、リーアが不思議そうに首を傾げる。
丁度その時、衛兵が俺の部屋に駆け込んで来た。
「勇者様! 城門に女が現われ、小競り合いになっているようです。『ヨアンが来た!』と、リーア王女殿下か、勇者様に伝えてくれれば分かると言っているのですが――」
衛兵の言葉を聞いた瞬間に、リーアは駆け出していた。
「ヨアンさん!!」
「おい、待てよリーア。そんなに慌てなくたって、ヨアンは逃げやしないさ」
俺の言葉に足を止めてリーアは笑顔になる。
「だって! きゃっ!!」
ひどく慌てたからだろう。躓いて転びそうになるリーアを俺は後ろから抱きとめると、そのまま彼女の体を横に抱えて部屋を飛び出す。
また転びそうになって怪我でもされてはかなわない。
「お、お兄ちゃん!」
リーアが顔を真っ赤にして俺を見ている。
さすがに元の世界では経験できない、貴重なリアルお姫様だっこだ。
「ちょっと酷いじゃないですか。置いていかないでください! 大体リーアさんだけ、ずるいです!!」
アイリーネが非難の声を上げる。
ルビアが苦笑し、アイリーネの手を引いて後ろから追いかけて来た。
その姿を見て、リーアは可愛らしい顔で勝ち誇っている。
「当然です、アイリーネさん! お兄ちゃんは、私のお兄ちゃんなんですから!」
ラハンに立ち並ぶ幾つもの建物の間を駆け抜けて城門に辿り着くと、騒ぎを聞きつけて集まって来た衛兵達がいた。跳ね橋は上げられ、堀の向こうにいる馬に乗った戦士達と睨み合いを続けている。
無理もないだろう。アルースの戦いの最中で仲間になったヨアンのことを知らない兵士も多い。
リーアは、その先頭にヨアンの姿を発見して衛兵に訴えた。
「ヨアンさんです! お願い、橋を下ろして!」
突然現れた王女の姿に、城門を守っていた衛兵達が驚いている。
俺が後押しするように頷くと、衛兵達が慌てて跳ね橋を下ろした。
その橋を渡って一人の女戦士が、こちらに馬で駆けて来る。
「リーア! ハルヒコ!!」
ヨアンは、俺達の前で馬から降りてリーアを抱き締める。
「おかえりなさい! ヨアンさん!!」
ヨアンは、まるで妹にするように優しく髪を撫ながら俺を見た。
「ハルヒコ。数日前、ドラグリア軍がアンファルから一斉に引いていった。あれは、お前が何かしたのだろう?」
俺は、軽く肩をすくめる。
「大したことはしていないさ。ただ、ここまで予定より早く進軍しただけだ。多少のリスクはあったが、リーアと約束をしていたからな」
新生ドラグリア軍がフェレト周辺を一気に制圧したとなれば、よほどの馬鹿でない限り、敵方はまず次の戦いに備えて戦力の集中に専念するだろう。
それと同時に、多くの都市で反ドルメール派が蜂起したという情報を流す。そうなれば一度、安全な場所まで兵を戻して守りを固めるといった策を取ってくるに違いない。
いつ誰が裏切るかもしれない場所に兵を分散するなど愚の骨頂だ。各個挟撃を受けて壊滅するだけである。
アルースであれほどの敗北をした以上、ドルメールが次に指名する指揮官は一人しかいない。
帝国随一を誇る軍略家、アルマン・エッテハイマン公爵だ。
アルドリアの地下書庫で調べた限りの情報では、愚かな自滅を選ぶ人物ではない。
「とにかく礼を言う、ハルヒコ」
それからヨアンは後ろを振り返り、戦士達の先頭に立つ壮年の男に声をかけた。
「父上! この男が私が申し上げた男です」
いかにも歴戦の武人といった男が俺の前に膝を突く。
「そなたがアルドリアの勇者、ハルヒコ殿か! 娘のヨアンを、そして我がアンファルを解放してくれたのは全てそなたの力と聞く。我らアンファルの民は皆、そなたとアイリーネ女王の為に命を捧げよう!」
男の後ろには、おそらく三千はいるであろう、アンファル独特の刀のような剣を装備した騎馬武者達が控えていた。彼らの姿は、どことなく日本の侍に似ている。騎馬武者達は皆、馬を降りて俺に敬意を表した。
……ただ一人を除いては。
「みんな騙されるな! 俺は信じない! こいつらだって同じだ! ドルメールを倒すために姉上を利用してるだけだ!!」
そう叫んだのは十六、七歳ぐらいの青年だった。顔立ちが少しヨアンに似ている。
ヨアンが、その青年に走り寄って肩を掴んだ。
「どういうつもりだシロウ! お前は姉の言うことが信じられぬのか!! この男は信頼できる男だ!!」
「嘘だ! だったら何故、また姉上を戦わせる! ドルメールと同じじゃないか!」
シロウと呼ばれた青年は、姉のヨアンの手を振り切って俺を睨みつける。それから側にいるアンファルの兵士の一人に剣を渡すように命じると、それを握り俺の目の前に突き出して凄んだ。
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